no music,no life!

2020年4月26日 (日)

変わりなく見える日曜の朝の

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グリーンレタスとルッコラとパプリカとプチトマト、蒸したミックスビーンズのサラダ。
ドレッシングはその都度つくる。
ドクターケイシーのリーディングではドレッシングに酢は使っちゃいけないらしい。
酢が胃に入ってしまうと胃酸の出が悪くなり消化スピードが遅くなる、もしくは消化にエネルギーを使いすぎる、からだそうです。
『クエン酸サイクル』といって酢はいいものとばかり思っていたけど、「何かと一緒に食すときには」酢はとらないほうがいい、ということらしい。飲むお酢を単体ですこし飲む分にはいいんじゃないかとわたしは勝手に解釈した。
それで、だからというわけじゃないけど、ずいぶん前からうちはドレッシングに酢を使ってない。
去年、森さんに沖縄土産といってペットボトルに入ったシークヮーサージュースを3本もらって、それが薄めて飲むにも酸っぱすぎるので、酢のかわりに使ってる。レモン果汁みたいでちょうどいい。小さなボウルにオリーブオイル、ヒマラヤブレンドソルト、ブラックペッパー、それにシークヮーサージュースを入れてティースプーンでぐるぐる掻きまわしてしっかり乳化させて。
先日ドクターケイシーのコロナ対策のオンラインセミナーを見てからは、ここに粉末のコラーゲン(ゼラチン)も入れている。人間の身体のあちこちにはコラーゲン(ゼラチン質)があって、つなぎの役目を果たしているから、毎日ゼラチンをとるのはいいことなんだと思う。それで白髪が黒くなったという報告もあるしね。
とはいえ、わたしのつくるサラダはドクター・ケイシーの奨めるサラダでは全然ない。
ドクター・ケイシーではトマトは食べちゃいけないし、野菜と穀類を一緒に食べてもいけないんだ!
食養法って究めるのは実に難しい。
もともとわたしは究める気なんてはさらさらないし、ある意味適当でいいと思ってる。
それより心のありようのほうがずっと大切だ。(わたしにとっては、という話。)
バックで流れているのは先週はミルトンだったけど、今日はカルロス・アギーレの『オリジャニア』。
先日、J-Waveを聴いているときに流れて衝動買いした。
うつくしいアルバム。
ときどき大洋レコードで試聴してCDを買ったりするからアルゼンチンの音楽もけっこう聴いてきたけど、わたしは「カルロス・アギーレ」って知らなかった。
ブラジルとアルゼンチンって近いのに、かけた瞬間から雰囲気が全然ちがう。
声もちがう。
楽器の使い方もちがう。
でもバックコーラスはブラジル音楽っぽい。
このイントロはまるでロックだよ! という笑えるユニークな曲もあって、昔『クロスオーバーミュージック』ってのが流行ったけど、まさにそれだな。ジャズとロックとポップスとアフロアフリカン、それに南米のいろんなのが混ざった音楽。このごちゃごちゃいろんなのが混ざった音楽が大好きだ。そんなことをいろいろ思いながら聴く。
世の中ではコロナ自粛の閉塞感からイライラしてる人が多いそうだけど、音楽を聴いてればイライラなんかしない。
みんなもっと音楽を聴けばいい。
音に没念できる、いい音楽を。

昔、といえば、昔いまよりもっと何もかもギリギリで生きていてたとき、時給800円で働く百貨店のガーデニングショップの店長だった人に「わたしが唯一いま自分に許してる贅沢は音楽だけだ」といったら、「Nさんは音楽がないと生きられないっていうけど、この先CDも買えなくなったらどうする?」って訊かれて、やなこという人だな、、、と心底がっかりしたことがあった。
しようと思えばいくらでも悪い想定なんかできたなかで、そんなこと頭に思い浮かべることもなく生きていたから。
それはいまも変わらない。
ただ14年ものサラリーマン生活でいささか薄れかけてたその『ギリギリの感覚』ってやつを、最近またリアルによく思い出すようになった。ハロー、暗闇よ、ぼくの古い友達・・・。
でも暗闇に目をこらすのは悪いことじゃない。
いまは誰もがそうすべき時なんだと思うから。

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カルロス・アギーレの『オリジャニア』。
いま見たらそれぞれの曲に、まるで短編小説のような素敵なタイトルがついていた。
これについてはあらためて書きたい。

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2020年1月18日 (土)

雪の朝の登校風景

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窓の外は雪・・・・・・。
気温がそれほど低くないから積もることはなさそうだけど、がんがん降ってる。
娘に「今日はプールはやめたほうがいいかもね」といわれて、今日はプールを休んでしまった。
前はこれくらいの雪だったらふつうに行ってたのに、年かなあ・・・・・・。
一昨年の大雪の翌日に顔から派手に転んで、左半身を強打した後遺症は2年経ってようやく回復してきた感じだし、あれ以来アスファルトのガリガリした道を見ると避けて歩くようになってしまったくらいの大きな出来事ではあった。
わたしはあれで、『転ぶ』ってことが人の身体にどれだけのダメージをもたらすか、全身のあちこちがいろんなかたちでズレてしまうのをつくづく思い知ったのだった。
50代のわたしにしてこれだから、70代、80代の方々はほんとうに気をつけてほしいと思う。誰かと暮らしているならまだしも、1人暮らしで転んだりしたらどうにもならなくなる。どうしてもその日じゃなきゃならないことをぬかして、買い物や散歩は晴れた日の明るいうちにすることにして、雨の日や雪の日や強風の日や、とにかく極端な天候のときは静かに家にいることをおすすめしたい。

そして今日みたいな雪の日に家にいて聴くのにぴったりなのがこの1枚だ。
元旦にも載せたビル・エヴァンスの、『From Left to Right』。
奏者の向かって左にスタインウェイがあり、右にエレクトリックピアノがある。
ビル・エヴァンスはピアノに向かった身体をちょっとねじるようなかたちで、くわえ煙草で左手でキーボードを弾いている。CDをプレーヤーにに入れて音が流れ出した瞬間、ビル・エヴァンスを聴きなれた人なら「あれ?」と思うかもしれない。
ここで聴けるのは『究極のリリシズム』といわれるようないつもの張り詰めた音ではない。
もっとリラックスしたあたたかい音だ。
そう、このアルバムではビル・エヴァンスがびっくりするくらいリラックスしてるんだ。
まるで演奏しながら、他人のことをいっさい忘れて自、らの追想にどっぷり浸っているような・・・・・・。
紡がれるのは一編の短編映画のような世界だ。
ノスタルジー。
しあわせな愛の記憶。
懐かしいあのひとのうつくしい横顔。
子供時代のきらきらした思い出。
9番めの曲のせいかな、ちょっとトリュフォーの映画っぽくもある。
絶妙にマッチしたオーケストレーションのせいでフランス映画のような、実に優雅なサウンドで、頭の中に去来する映像はたぶん、過ぎ去って今は何ひとつ残っていないただの記憶なのに、そのすべてがあたたかく、しあわせなんだ。
そのしあわせな感じが、いつものビル・エヴァンスとは違うところかな。
さっき書いた9番めの曲は『Children's Play Song』ってタイトルで、冒頭にこどものかわいい声が入ってて、タイトルを知らずに聴いても冬の朝のこどもの登校風景が頭に浮かんでくるような曲なんです。まだ降りはじめの雪がちらちら舞ってはこどもの着たウールのコートに、透き通るようなきれいな頬に、背中のランドセルに、落ちては消え、瞬くように光っては消えて、こどもたちははしゃぎだす。雪だ! 雪だよ! って・・・・・・。

暮れも押し迫った、そうじゃなくても忙しいときにわたしは鵠沼海岸近くの映画館でビル・エヴァンスの映画のラスト上映があるのを知って行きたくてたまらず、けっきょくは行けなかったんだけど、映画の内容は知らずともだいたい予想がつく、というもので、、、、、、。だからなおさらあのビル・エヴァンスにも、こんなにもリラックスした、あたたかくしあわせな音を紡ぎ出せる心境のときがあったんだ、というのは、なんだかとても感慨深かったです。くわえて1曲めの『What Are You Doing the Rest of Your Life?』と、3曲めの『Why Did I Choose You?』ってタイトルは、いまのわたしにはなんだかとても・・・・・・。

この音はきっと冬の花屋にもあうと思うよ。
間違いなくね。

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2019年8月 4日 (日)

『好き』の核、『歌』の核。

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それは春ごろ、そう、ちょうど啓蟄前くらいのこと。
小野リサのCDで知って前から好きだったジョアン・ドナートの『ケン・エ・エン』というCDを手に入れて聴いたらめっちゃよくて、のっけからサイコーに気持ちいいグルーヴィーなキーボードにやられた。CDを聴きながら食事中にお行儀悪くテーブルをたたいて一緒に歌いだしたり、仕事中にコンピュータのキーボードをたたくついでに机をたたいて頭を振ったりして、大いに楽しんだけれど、同時にかなしくもなった。
1年前に亡くなったJoseさんのことを思い出して。
彼もまたラテン・フレイヴァーの左手を持つキーボーダリストだったから。
そしてこんなふうに朴訥とした歌を歌う人だったから。
彼がやっていたのはブラジル音楽じゃなくてキューバ音楽、サルサバンドのキーボーダリストだったけど、音楽についてはなんでも詳しかった。そして何より、いい音楽をみつけたとき、心底共有できる相手がいなくなってしまったのはさびしかったし、かなしかった。自分の好きなものをわかりあえる人って、そうはいない。自分の好みがニッチすぎるってこともあるんだろうけど。

そして『ケン・エ・ケン』に話を戻すと、エレキ・ピアノはめっちゃグルーヴィーでカッコイイんだけど、歌ってるドナートの声がしょぼいの。歌がうまいとかどうのとかそういうことじゃなくて、声に元気がない。ときどき歌いながら心底しんどそうに「はぁ・・・」ってため息ついたりして。それは何故なんだろうと思ってライナー・ノーツを読んだら、判明しました。このアルバムをレコーディングしたとき、ドナートは離婚したばかりで深い喪失感のなかにあったんだということ。最後のリズミカルな、一見楽しい曲は、別れた妻が連れて行ってしまった5歳の愛娘ジョデルに思いをはせた曲なんだってこと。それで、あらためて曲の歌詞を読みながらCDを聴いたら、もう俄然ドナートの歌が、声も歌い方もぴったりで、、、泣けましたね。ほんとに泣けた。
これはいろんな意味でよくできたトータルアルバムだと思う。
それで思ってしまうのは、『いい歌ってなんだ?』ってことだ。
それはもしかしたら声がいいこととも歌がうまい(歌唱力がある)こととも違うんじゃないかって。
伝わる、ってことが最もいい歌なんじゃないかって。
もちろん、カエターノ・ヴェローゾのように天性の美しい声で、歌唱力があって伝わる歌を歌えたらそれがいちばんいいには違いないけど、でも仮にそういう素養がなくても歌は歌えるし音楽はできるっていうことだ。たぶん!

そして、ライナー・ノーツにはこのアルバムに入っている『ア・ハン(カエル)』という曲のことからジョアン・ジルベルトの『エン・メヒコ』(ここでは同じ曲が『オ・サポ』という曲名で入ってる)についても書いてあって、たしかそのCD持ってたはずだけど『エン・メヒコ』ってタイトルじゃなかったような、、、と思ってCDラックをガチャガチャやって出てきたのは、たしかにカエルの曲が入ってたけど、『Ela E' Carioca (彼女はカリオカ)』ってタイトルだった。ライナーも付いてない、薄っぺらい紙ジャケットが1枚入っただけの、アメリカ盤の安いやつ。それだけじゃ音以外、内容については何も知りようがないからさらに検索して調べてみたら、なんと『エン・メヒコ』という、曲のタイトルそのままの記事が出てきた。吉上恭太さんという、ギタリストで翻訳家の『昨日のつづき』というブログの中の記事。
その記事を読んで驚いた。
ジョアン・ジルベルトの『エン・メヒコ』についても詳しく書いてあったのだけれど、そこに『伊勢昌之』さんの名前があったからだ。
『伊勢昌之』さんといえば、清水翠のファーストアルバムのライナーの中に『伊勢昌之氏に捧げる』と書いてあるのだ。
つながったね! と思った。
しかも吉上恭太さんは古書ほうろう、という本屋さんでときどき『サウダージな夜』というコンサートをやっているらしい。
どこまでおあつらえ向きなんだ、ブラジル好きの誰かさんに。
それで、これはもう行くしかない! と思って先日移転したばかりの古書ほうろうさんに伺ったんでした。
滅多にないことだけど、好きなものがこんなふうにどこまでもつながっていくことがある。いっぽうで、自分と合わないものはどうやってもつながらない。どう努力したところで無理で、むしろそれは無理に努力するようなことでは全然なくて、自然に淘汰されるにまかせるのがいいんだろうと思う。
吉上恭太さんの文章を読んでさらにびっくりしたのは、アメリカ盤の『エン・メヒコ』の録音の位相が逆になっている、ということ。実はジョアンのCDを買った当時、これを聴いているとただ単に音質がよくないというだけじゃなくて、何かがおかしくて気持ち悪くなってくるから、これって位相がおかしいんじゃないかなあ、と息子に話していたのだ。何度聴いても気持ち悪いからそのうち聴かなくなってしまった。
だから、やっぱあたしの耳っていいんだ! みたいな ww 
(ここはただのアホと思ってスルーしてくださってよろしい。)
それで吉上さんの記事を読んだら久しぶりにジョアン・ジルベルトの『エン・メヒコ』が聴きたくなって、あらためてAmazonで買った。
届いたのは日本盤の『Ela E' Carioca』で吉上さんが言ってるオリジナル盤とは違うんだけど、聴いたらこれがやっぱりすごくいいんです。
ジョアン節、絶好調!
まるでレコーディング当時の空気感まで伝わってくるような、目の前でジョアンがギター弾いて歌ってるのを聴いてるようなリアルな録音。
そしてジョアン・ジルベルトとジョアン・ドナートが違うのは、『カエル』という同じ曲をとってもブラックなリズムに乗ったグラウンディング感の強いドナートと違って、ジョアンのはサンバの匂い香り立つ、駆け抜けるサマーブリーズのような爽快さがあるってこと。どっちも好きだし、どっちも素晴らしい!
ただ驚くべきは、見るからに(聴くからに?)憔悴しているドナートと違って、ジョアンのこの無疵感。
というのも、ライナーノーツによればこのアルバムの録音時、ジョアンもまたアストラッド・ジルベルトとの離婚、くわえて指の不調やボサノヴァ・ブームの終焉などで人生最悪の不遇時代にあって、メキシコにひとり流れ住んで(まるでホームレスみたいに)変わり果てたやつれた姿になっていたときだというからだ。そんなときにどうしてこんなにピュアで透明で欲のない、いい意味で浮世離れした歌が歌えるのか、音楽がつくれるのか、ほんとうに不思議。そこにこそジョアン・ジルベルトの歌とギターに賭ける、ある種常軌を逸した魂みたいなものがあるのじゃないかと思うけれど、同時にこのあたりにも(つまり追い詰められた状況あっての人の表現の中にも)歌うことの核、音楽の核があるのではないかと思えてならない。

今日なぜこんなことを書き出したかというと、仕事仲間に貸していたジョアン・ドナートのCDが返ってきて、朝から聴いていたからだ。
昨日の夜はわたしが事務局を務めるPowerVoiceセミナーの打ち合わせで西武コミュニティカレッジに行った。
わたしが約束の時間より30分早く着くと、セミナーで講師をしてもらっている小林貴子さんが、もう20年以上も講師を務めているというゴスペル教室のレッスンを行っている最中で、わたしは入り口の隅に立って終わりまで見学させてもらった。それは去年のちょうど今頃にもあった光景で、まるでデジャヴュみたいだったけど、目の前にいる生徒さんの人数もコーラスの厚みも去年とは格段に違っていた。
そして、わたしが見ていた、たった30分の間にも、生徒さんの歌声はビフォア・アフターのごとくはっきり変わるのがわかった。
それはまるで普通のプリンタで印刷した平面のりんごと3Dプリンタから出てきた立体のりんごくらいに違っていた。
貴子さんの指導は、まるで袋から出したばかりの硬い粘土を柔らかくもみほぐして本来が望む自然なかたちを引きだすようだった。
ごくたまにだけどそういうシーンを目撃しているわたしは、『ニュアンスもセンスもあって雰囲気とってもいいんだけど、声が平たくて英語の発音が平面的で惜しい!』なんてヴォーカリストに会っちゃうと、貴子さんのとこに行けばいいのになー、なんて思っちゃうのです。
ちょっとネタバレになるけど、実をいうとわたしは次回のPowerVoiceセミナーのなかで参加者に実際に声を出して歌ってもらうシーンで、このドナートのカエルの曲のスキャットを超スローでやるのはどうかと提案していたのだけれど、あえなくボツになりました。歌をやってない方も来るなかで、これをやるのはちょっと難しいんじゃないかってことで。そこはただの音楽好きのわたしより、教えるプロの考えを優先するのはとうぜんのことです。
というわけで、仕事の話(特に宣伝)はここでは滅多に書かないのだけれど、今年のPowerVoiceセミナーは10月です。
ことによったらわたしが事務局を務めるのはこれが最後かもしれないので、気になった方はぜひ8月15日以降、PowerVoiceサイトをチェックしてみてください。
下の写真は、PowerVoiceセミナーの講師2人。左から小林貴子さんと松永敦さん。
貴子さんは掘りの深いラテンなお顔立ちのせいもあるけど、1時間半におよぶ渾身のレッスンの後で目の下にクマができています。
ほんとに素晴らしい先生!

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2019年4月16日 (火)

清水翠×田中信正@ドルフィー

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昨日のライブ写真。
JAZZバーの中は暗いし、暗いとわたしの相棒のAF速度は一気に遅くなるし、またみどりちゃんはよく動くしで、撮った写真のほとんどはブレてて、これはもう相棒のスペックを上げるしかなさそうだけど、その中でかろうじて写ってた数枚から。
ドルフィーに行くのは去年、みどりちゃんが乗木(奏一)さんとやったライブ以来で、それがまだ記憶にあたらしかったから昨日はおなじピアノでも鳴らす人によってこんなに音が違うんだ、というのを体感した日でもあった。ピアノに気負いなく向かうと、自然に美しい映像が浮かび上がり流れだす乗木さんのピアノと、あふれる創意がドラマティックに変幻してゆく万華鏡のような信正さんのピアノと。まったくちがうけどどちらも素晴らしいピアノ。そして演る相手によって様々なストーリーを引きだして魅せて聴かせてくれるみどりちゃん。
ごく個人的な覚書として、わかるかぎりで昨日のセットリストを書き出してみると、、、


1st
 1.四月になれば彼女は
 2.Moon Over Bourbon Street
 3.What A Little Moonlight Can Do
 4.So In Love
 5.Hyper Ballad
 6.Nearness Of You
 7.Waltz For Debby
 8.夢のつづきをしないかい?

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2nd
 1.エスターテ
 2.Always And Forever
 3.Morning
 4.All The Things You Are
 5.オブリヴィオン
 6.マーシー・ストリート
 7.The First Time Ever I Saw Your Face
 8.Come Together
 アンコール:悲しき口笛

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・・・とこんな感じで、いろんなジャンル、いろんなタイプの曲があるなかで、ひとつ言えることはみどりちゃんは「こわいほど美しい」とか「狂おしいほど愛しい」とか「幸福のさなかに消えてなくなりたい」とか、そういうちょっとオーバードーズ的な曲に惹かれる傾向があって、昨日はビョークの『ハイパー・バラード』なんかがそれにあたるんじゃないかと思うけど、そういう曲が彼女の持ってる資質にぴたっとハマると見事なできになる。かくいうわたしも若いころは多分にその傾向があったからそういう嗜好もわからないじゃないけど、いまはシンプルに「しあわせになりたい」と思うわたしです。
昨日はめずらしく日本語の曲が2曲入っていて、ファーストのラストにやった『夢のつづきをしないかい?』はなんと、みどりちゃんが若かりしころに書いたオリジナルだそうです。ちょっとびっくり。これは男の人が自分の恋人(あるいは婚約者)にあてて贈ったラブソングになっていて、外国語ならともかく、日本語で大真面目にこんな歌を歌われるとわたしなんかちょっと気恥ずかしくなってしまう、というか、ツンデレつっぱりのみどりちゃんにもこんな素直で健全な時代があったんだなあ~と、感慨深くなりました。ボコッ!( 👊 ← 殴られた音。)

昨日、個人的によかったのはアストル・ピアソラの『オブリヴィオン』とロバータ・フラッグの『The First Time Ever I Saw Your Face』、それからアンコールでやった美空ひばりの『悲しき口笛』がすごくよかった。
もちろんメロディーはそらで歌えるくらいなんだけど、ああ、この歌の歌詞ってこんなだったかと、しみじみ。
母国語の歌っていうのはほんとうにココロに沁みるんだけど、その分しんみり、さみしくなっちゃいましたねえ・・・
それで夜、横浜にライブを聴きに行って残念なのは、さみしくなっても誰かと話す時間もなく余韻に浸る暇もなく、即帰ってこなくちゃならないところで、昨夜もわたしはライブが終わるなりとっととJAZZバーを後にしたのでした。
ドルフィーを出てすぐの橋の上から見た桜木町の灯り。
ときどきね、もういっそのこと横浜方面に引っ越そうかと思うこともあるんだけど、どうもここはわたしの居場所じゃないみたいなんだよなあ・・・

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『桜木町』というだけあって川沿いは桜並木がずっとつづいていて、まだ散らずに残っている桜がちらほら。
ちょっと前まではきっと桜満開の見事な景色だったんでしょう。
前回、Mr.ハイブリッジさんに教えてもらったように、昨日もこの大岡川沿いを馬車道まで歩いて帰った。
この次ドルフィーに行くときは行きも馬車道からにしよう。
最近、深夜の往復4時間が疲れるようになってきたわたしです。
基本つかうのは階段、エスカレーターもじっと乗ってることなくスイスイ上ってくわたしなんだけど、やっぱ年ですかね。

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2019年4月15日 (月)

本日ライブにつき♪

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何かを見ると誰かのことを思い出すって、そういうものがあるって、いいことだなって思う。BossはスヌーピーのTシャツ、おばあちゃんはビワ、母は黄色いフリージア。
わたしだったらなんだろうな?
先日キッチン・ガーデンから送られてきたメルマガを見るなり「あ、これいい!」と思わずポチっとしちゃったこれ、このキティちゃんを見てすぐにあるミュージシャンの名前が思い浮かんだ人は、かなりのJAZZ通です。
そう、知る人ぞ知るキティちゃんマニアの孤高の天才ピアニスト、田中信正さん。
本日、我らがみどり姫とデュオ・ライブです。@ドルフィー。
一日遅れのバースデーだってさー

それで横浜へは、いつもは渋谷経由か所沢経由で行くんだけど、今日は花屋に寄って中央線で神田経由で行くことにした。
神田経由?
殺人ラッシュでもみくちゃにされないといいけど。

で、今日の空!
いま目に映るこの青い空と白い雲はこの瞬間にしか存在しなくて、1秒後にはもう変わってる。
それとおなじように、今日聴ける音は今日だけのもの。
いつだって一期一会です。

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2019年4月14日 (日)

4.14はみどりちゃんの誕生日

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ケーキっていつも食べたいってわけじゃないんだけど、たまーに食べたくなる。
今日がそれで、息子がこのあいだわたしのとっておきのチョコを食べちゃったかわりに、ねえねえとお金を出させて息子のゴチで買ってきた.
ムッシュMの苺のミルフィーユと、この週末限定スペシャルの、苺のエクレア。
この苺のミルフィーユがね、もういつ食べてもめちゃめちゃおいしいんです。
こんがり焼けたパイと生クリームとフレッシュな苺のコラボレーションが絶妙。

それで今日はみどりちゃん(清水翠)の誕生日なので、みんなで勝手にお祝いして食べました。
本人が近所にでも住んでれば「お茶でもしようぜ」ってなところなのだけれど(だが酒になる可能性大)、遠くに住んでちゃしょうがない。
で、みどりちゃんがいくつになるのかはあたくしも知りません。
正確な年齢も知らなければ住所も知らない。
だからバースデーカードも送れないけど、そんなものいらない、ってひとなのだからそれもしょうがない。

でもせっかくのお祝いだから、初めてこのカップを使うことにした。
新譜リリースのお祝いに贈った、大倉陶園のブルーローズ。
アルバム・タイトルを聞いた瞬間、これしか頭に浮かばなかったのです。
自分にも記念にひとつ買ってしまった。

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大倉陶園のカップ買うなんて20年ぶりかなあ。
わたしにとって人生ふたつめの大倉陶園。
詩人が詩集を自費出版するのとおなじように、JAZZミュージシャンが新譜をリリースすることもそうそうあることじゃないから特別です。
このブルーローズはラッピングもとても素敵で、自分の好きなものを贈ったからといって喜ばれるとはかぎらないけど、わたしはきっとおばあさんになっても忘れないでしょう。

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いつぞやどこかのメーカーが「青いばらをつくるのに成功した!」と発表して騒がれたときがあったけど、公表された写真を見たら、それはとっても美しいと思えるようなばらじゃなかった。まるで青ざめた貴婦人みたいで。
昔から青いばらをつくるのに成功したら億万長者になれる、といわれているように、『青いばら』は幻。そして、その意味するところは『奇跡』。だから、みどりちゃんが自分の新譜のタイトルを『Blue Rose』にしたのも、長年念願だった馬場さんとのこのデュオ・アルバムが完成したこと自体、まさに奇跡、だったからなのかもしれない。(なーんてね。どうでしょう? 本人に訊いたわけじゃないからわからない。)
でも、音にはめちゃめちゃこだわりがあって、何から何まで自分でやらないと気がすまないみどりちゃんです。
そんな『Blue Rose』、各所で好評みたいです。

・・・というわけでいまさらながら、(こうゆう写真を載せるとどっちを宣伝してるかわからないけど)清水翠のニューアルバム『Blue Rose』、絶賛発売ちう!
(Amazonでも買えます!)

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2019年4月 4日 (木)

朝のジョアン

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元号があたらしく変わったね。
「令和」だって。
なんだかあんまりピンとこないな。
LとかR、もとい、ラ行の発音で思いつく言葉って外来語ばかりで、日本人にはあまり馴染みがないんじゃないかって気がする。
わたしなんて「レイワ」と聞いたとたん、すぐ頭に思い浮かんだのはエリック・クラプトンの「レイラ」だ。
ジャリラリラリラーン! ではじまる、あれね。
で、そんなことを思いながらおとといの朝Yahoo! をひらいたら、石原慎太郎さんの記事が目に入って、やっぱり「ピンとこない」と言ってた。
石原慎太郎というと、氏が都知事になったとき、「あいつが都知事になるなんて東京ももう終わりだな! とことん嫌になったから俺は東京を捨てる!」といって、とっとと八丈島に隠遁してしまったボス(*詩人・若かりし頃のわたしの上司)のことを、これまたすぐに思い出すけど、その記事に書いてあった石原慎太郎の言葉がすごくよかった。

出典の万葉集自体はすばらしいが、いまどきそんな古典を誰も読まない。読みもせずに若い人をはじめ多くの人がいま漢字の意味や万葉集についてネットで検索している最中だろうが、そんなことで得られるものは限られてるし、そんなものは教養にはならない。ほんとうの意味を知りたければ本を読んでほしい。「今」というのは歴史の続きにあるのだから、歴史を知らないと先見性が持てない。「平成」はその名の意味するところと違って動乱も多く、日本が災害列島だということを思い知らされた時代だった。東日本大震災で東北があれだけの被害に遭い、未曽有の危機にあったこの国が一体感を失わなかったのは、天皇陛下がクタクタになりながらも何度も何度も東北に行ったからだ。いろんな記者が美智子さまのことを「世界で一番素晴らしく、一番優雅な皇后だ」と言っている。皇后さまの努力で今の陛下があった。現在、皇室は週刊誌やテレビダネになって卑近なものにされつつある。このままでは天皇を核とした一体感は薄れていくだろう。元号が変わったから日本も変わるなんて幻想を持ってはいけない。歴史を背景に今の時代を考えないといけないのに、皆が歴史を知らない。これからの日本には大きな「選択」と「覚悟」が求められる。そこには先見性がないといけない。政治家は自分で考えなきゃいけない。政治家も人も個性が大事で、個性を育てるのは、感性。そのためには趣味を持ってほしい。趣味を持てば、うまくなろうと工夫をし、頭が刺激されるから発想力が出てくる。何かに夢中に、耽溺することで考える力がついてくる。皆がそうなれば、これからの日本も変わることができるかもしれない。いまの日本に必要なのはそこじゃないかな。云々・・・。

ここにあることの中にも最近わたしが読んだこととシンクロすることがいくつかあるのだけれど、日本というのはやっぱり天皇を核として成り立っている国らしい。つまり、波動的にも。だから当然のことながら天皇が変わればこの日本の波動も変わってしまう。それを古来からある方法で読み解いて流れを知り、その流れにうまく乗れるように準備しようとしている人たちもいるんだなと知った。
そして石原さんの言葉で最もいいと思ったのは最後の数行。
わたしもいつもそう思ってきたし、いまもそう思ってる。
趣味に耽溺する人はいつだってそういう自分をちっぽけで取るに足りないと思っちゃうんだけどね。
たしかに石原さんは政治家としてはどうかと思うけど、ひとりの人間として見たときにはすごくユニークで面白い。少なくとも退屈な優等生なんかとは全然ちがう。(相変わらず舌鋒鋭くて、これで86だよ。すげーぜ!)
うちなんかTVがあったころ、MXテレビでやってた対談番組を面白がってよく見てたものでした。

最初の「令和」に話を戻すと、若い人には思いのほかウケがいいみたいだ。
うちの息子も「かなり気に入ってる」って。
辞書を編纂する言語学者によると、「ラ行」の元号はこれまでなかったし、サウンド的にとても新鮮、とあって、サウンド的に新鮮というのは、それはいいよね、とわたしも思った。音って、とてもエモーショナルなものであるのと同時に、直観的で本質的なものだから。

そして今朝、わたしの古い相棒(BOSEくん)が昨日どうやってもかけれくれずにイジェクトしてもくれなくなったCDを起きてすぐにかけたら、シャワーを浴びてバスルームから出てきた息子が「朝のジョアンはいいよね」と言ったから、わたしは「へえ、そうか」と思った。わたしゃてっきり、「休日でもないのに朝から気が抜けるぜ」とか言われるかと思ってたんだけどさ。
で、「このジョアン・ドナートの曲。やっぱ名曲だよ!」と言ったのでした。
このアルバム、『彼女はカリオカ』におけるジョアン・ジルベルトの『O SAPO』(カエル)は、風のように吹き抜けてゆく、軽くて速いリズム。でも、ジョアン・ドナートのはマサイが裸足で大地を踏みしめるようなグラウンディング感があって、裏のリズムも打っててもうちょっと複雑で、味わい深い。
どっちもいいんだけど、ジョアン・ドナートのほうは、土で焼いた小さなカップを手に、「これは温かいのみものを入れるとほのかに土のにおいがしてとてもおいしいんです」と言ったメキシコ人の感覚にも似てるような気がする。その感覚、わたしは備前が好きだからよくわかるのだけど、「土のにおいがしていい」なんていうのは白人の感性にはないものなんじゃないかな? ・・・・・・わかんないけど。
どうでしょう?

でも・・・・・・、まあね。
晴れて暖かそうに見えるけど実際は寒くて日が翳りやすい、物憂い春のいまの時期には、「自分」ってものがありすぎるほどあるのに繊細で傷つきやすい人たちのこんな音楽が、とても似合います。

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2019年2月10日 (日)

ククルクク・パロマ

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Posada del Solのランチタイムのラストオーダーは2時半で、いつもわたしが行くのがたいてい2時過ぎだからかな。お客が来なければもうそろそろ閉めようかという時間だからか、店に入ると音楽がかかってないことが多い。昨日も無音で、食事をはじめてしばらくしたらシェフが思い出したようにオーディオのスイッチを入れて、一瞬にぎやかな音楽が流れたと思ったら、何を思ったのかいったん止めて、でも次に流れてきたのもやっぱり大勢の男女が広場で踊っているようなにぎやかな音楽だった。それを聞いてたら聞き覚えのあるメロディーで、思わず「ククルクク・パロマだ!」といったら、シェフがキッチンの窓からこちらを覗いて、「知ってる?」と訊くから、「カエターノ・ヴェローゾが歌ってるので知ってる」と答えた。それがあまりにカエタノの歌うククルクク・パロマと違って明るくにぎやかなのに可笑しくなった。息子がここで『べサメ・ムーチョ』のフュージョン・アレンジみたいな変なのを聞いて、それが頭から離れなくなったと言っていたけど、これか。でも、ククルクル・パロマはもともとメキシコの民族舞踏曲だというから、昨日聞いたのが本家本元らしい。それは明るくにぎやかなサンバが意外にもシリアスで悲しい歌詞を明るく歌ってるのと似た感じかもしれない。
それで今朝の遅い朝ごはんの時間はこれが聴きたくなってかけた。
カエターノ・ヴェローゾの、『シネマ・カエターノ』。
息子はわたしが持ってるカエタノのCDの中でもこれが1番好きだという。
だからこのCDも死ぬほど聴いた。
そして13曲めの『ククルクク・パロマ』になって、「泣ける・・・」といったらそのとたん、ほんとに涙があふれてきて泣いてしまったのには自分でもびっくりした。(涙を拭き拭きホットサンドを食べた。)
悲恋の果てに死んで一羽の鳩になってしまった哀れな男の物語。
カエタノが「ククルクク」と歌うと、それはほんとに死んだ男の鳩の鳴き声みたいで、悲しく、切ない。わたしはこれをウォン・カーウァイの映画『ブエノスアイレス』の中で初めて聴いた。
ウォン・カーウァイの映画っていうのも、まるで自分の個人的な体験みたいにいつまでも自分の中のほの暗い場所に残っていて、ときどきまたそこに行ってみたいような、もう2度と行きたくないような複雑な気持ちにさせられるのがすごいけど、このアルバムはタイトルが示す通り、カエターノ・ヴェローゾの作った曲、またいつもライブで歌っているレパートリーの曲の中から、とくにシネマ、映画に通ずるものや映画に縁の深い曲にスポットを当てて選曲されている。日本人のセレクトによるオリジナル・アルバムで、ミルトン・ナシメントのベスト・アルバムもそうだけれどこれもほんとうにセンスが良くて、日本人の感覚ってやっぱりすごくいいんだと思うし、それに日本人はブラジル音楽がほんとうに好きなんだと思う。何より歌詞カードと訳詞のついたライナーが入っているのも曲を理解するうえでありがたい。
このアルバムにおけるカエタノは、闘うレジスタンスであり、両性具有の天使(あるいは悪魔)みたいでもあるし、真冬の夜空に浮かぶ鋭いナイフのような三日月みたいでもあるし、包容力を持った美しい女神のようでも、また頼りない思春期の少年のようでもあって、光のあたる角度によって色を変えるプリズムのように、すべての要素を持っている。そしてそれはいまではほかの誰にも感じられなくなったデモーニッシュな魅力でもある。
わたしが知る限り、ブラジルで最も美しい声をしていて、なおかつ最も歌がうまいのはカエターノ・ヴェローゾだと思う。
アルバム16曲中、11曲までがカエタノのオリジナルで、12曲めからアンリ・サルヴァドール、トマス・メンデス、シモン・ディアス、アストル・ピアソラとカバー曲がつづき、ラスト『イタプアン』でカエタノの曲に戻ってくるだのけれど、この最後のイタプアンがまた春を思わせる長閑で素敵な曲なのだ。高校生のとき古典の時間に杜甫の『絶句』を読んで、老後は漢詩の研究をしようと決めたわたし。そのなかにあった『今春みすみすまた過ぐ』という言葉はいまくらいの時期になるとかならず頭にのぼってくるほど、春はわたしが一年で最もむなしさを感じる季節で、暖かいんだか寒いんだかわからない、晴れてるんだか曇ってるんだかわからないどっちつかずのところも最も苦手な季節ではあるのだけれど、この歌にはそんな春のもっともきれいなところが集約されているように思う。
カエタノの歌声はまるで春のお花畑の上をふわふわと飛ぶ蝶のよう。
『そしてふたりは結婚してしあわせに暮らしました。でもそのしあわせは長くはつづきませんでした』みたいな、淡く儚い空気も含んで。
カエタノの歌うどの曲も限りなく映像的で、聴いているうちに様々な映像が浮かんでくるけど、それこそがこの『シネマ・カエターノ』のもくろむところ。
突き放した男前の訳詞がめちゃめちゃかっこよく、深くてロマンティックで、やっぱり国安真奈さんです。わたしはこのひとに惚れてしまいそう。

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2019年1月22日 (火)

満月のイヴァン

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ずーっとまったく音楽を聴きたくなかったんだ。なぜだかわかんない。
でも昨日の夜、珈琲をいれようとしてふいにイヴァン・リンスが聴きたくなった。
「デーシャ、デーシャ」って叫んでる、彼がまだとても若かったころの、古いやつ。
それで手を止めてCDラックをガサガサやって『モード・リーヴリ』を引っぱりだしてかけた。海に浮かんだ青ざめたイヴァンの顔が、なんだかキリスト様みたいなジャケットの。そして久しぶりに聴いたらこれがめちゃくちゃいいんだ。
昨日は夕暮れにウォーキングをするために外に出たら、通りの向こう、空の低いところに建物に挟まっちゃったみたいな感じでまるい、オレンジ色の大きな月が見えて、娘が「こんな大きな月みたことない!」って言ったほどだったんだけど、そんな満月の夜にドハマり。
まだイヴァンの声が若く青臭く吠えてて暑苦しいくらいワイルドで、でもすごく繊細でナイーブで、透き通るようなフレーズのひとつひとつが震えるほど切なく、うつくしくて、、、綺羅星のような名曲ぞろい。特に『エッサ・マレー』はメロディーがすごくキャッチーでキラー・チューンだと思ったな。わたしの好きなサンバ。(と思ったら、好きで数枚アルバムも持ってるアルトゥール・ヴェロカイのアレンジだった。)
若いっていいよなあ。若いってそれだけですげーよ。でも自分が若かったころはどれだけ大人にそういわれてもピンとこなかったんだけど。なんて思った。
イヴァンの持つ豊かな和声、情熱、ロマンティシズム、優しさとデリケートさ、それにタフさ、激しい自由への希求、サンバのスピリット、どこまでも愛にあふれたしあわせな音楽。いつかマリコが「イヴァンの音楽にはそうちゃんのほしいものがぜんぶ詰まってるね」といっていたけどほんとにそう。
そして例によって「ああ、ブラジルに行きたい!」と声に出してつぶやいた。
いつかサムタイムで会った旅の天使にもしもう一度会うチャンスがあったなら、そのときは迷わずいうんだ。わたしと一緒にブラジルに行かないかって。旅費はなんとか貯める。そのときまでにポルトガル語もちょっとはなんとかする。好きな歌のひとつくらいは鼻歌で歌えるくらいになっておくって。
彼はきっと相当な歳だから、もうそんなに猶予はないかもしれない。それにまた出逢えるとも限らない。でも彼の外見から彼が旅の天使だってわかる人はそうはいないだろう。彼はわずかな荷物でパリでもニューヨークでもどこへでも1人で行ってしまう。旅の女神がしばしば悪戯心をおこして彼の行く手に罠をしかけても、彼は困惑しつつも臆することなく、なんとか困難を脱して生き延びてきた。旅慣れないわたしにとって彼はまさに旅の天使みたいなもの。またいつか会えるといいな。それまでにわたしももうすこしタフになっておく。
そぉーんなことをひっさびさに思って血が熱くなるイヴァンの音楽!
このCD、ケース開けたらめずらしく国内盤だったんだけど、いつものことながら国安真奈さんの歌詞の対訳も素晴らしい。
(Amazonの回し者じゃないけどね、ただいま廉価で販売中!)

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2018年9月10日 (月)

死と浄化、メタモルフォーゼン、4つの最後の歌

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朝食を食べながら、おとといの父の最期の様子があまりに物凄かったことから、ふと思いだして急にこれが聴きたくなってCDラックの奥から引っぱりだした。
リヒャルト・シュトラウスの『死と浄化/メタモルフォーゼン/4つの最後の歌』。
死期の迫った老人が、ひとり孤独のうちに死と対峙し、死と抗って必死に闘った末についに死神に負け、諦めて死をうけいれ、自らをゆだねてゆく過程が静かに、激しく、うつくしく描かれた交響詩。
死神との手に汗握るような激しい闘いの後にやってくる安らかさと透明な光は、カラヤン率いるベルリンフィルの艶やかで美しい弦の響きあいまって官能的ですらある。199 ・・・・・・ 、何年だろう、もう忘れてしまった、夏の夜に、わたしはこれを毎晩大音量でかけながら、夜遅くひとりで夕飯を食べた。百貨店のインショップで働いていたころ。ふだんはまだ子供が小さいことを理由に朝番しか入れなかったわたしは夏休みに実家に子供ふたりを預けると、夜遅くまでいつも以上に働いた。一緒に働くスタッフのためでもあったし、少しでも多く給料をとるためだった。くたくたになって夜遅く帰ってひとりでとる夕飯はどうでもよく、たいていは蕎麦をゆでて食べた。ざる蕎麦とシュトラウス。ぜんぜん合わない。
でも、それがその年の夏のわたしのリアルだった。
シュトラウスのこの交響詩に美を見いだしていたからといって、わたしが死の幻想に引きずられていたというわけではなかった。むしろ、死に自分を預けてゆく安らぎを傍観しながら、精一杯『生きているって感じ』をわたしは味わっていたんだと思う。
そういう、いまの自分を愛すること。イコール、肯定すること。
誰に何をいわれたって負けずにいまを生きること。
なぜ大音量で聴くかといったら、この曲がピアニシモからフォルテシモまで、実にダイナミックレンジが大きすぎるくらい大きいせいで、どんな小さな音も聴き洩らさないようにボリュームを上げて聴いていると、フォルテになった瞬間、飛び上がりそうになるくらいデカイ音になる。よくまあ、一軒家に住んでいて近所の住民から文句がこなかったと思う。
そして、わたしがどうしてもBOSEのウェストボローを欲しかった理由も実はそこにあって、それはクラシック音楽のどんな小さな音から大きな音までも再現できる、という謳い文句にあった。最近じゃこの相棒も死にかけで、1日に1枚、CDをかけてくれるかくれないかだけど、およそ離れる気がしない。
だから今日ももちろん大音量で聴いた。
十数年ぶりに聴いたカラヤンのシュトラウスはやっぱり凄かった。
素晴らしかった。
聴きだしたら否も応もなく堰を切ったように涙があふれてきて泣いた。
そうしたらCDを聴き終るころ息子も泣いた顔して部屋から出てきて、いったい血のつながりってどこまで・・・・・・、と思うけれど、そういう自分とよく似た人間がこの世にいるってことこそがしあわせなのかもしれない。
今日このCDを聴いたらあの夜の父の様子とあまりに酷似していて、弱冠25歳の若さでこの『死と浄化』を書いたという、シュトラウスの老成ぶりにあらためて驚かされた。

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