数年前の夏の盛りのこと。
私はめずらしく夏風邪なんかひいていて、寒いくらいに冷房のきいた電車に乗ってふと
この世の中って全て健常者の視点でできているんだ、と思った。その日はふだん何気
なくしていること(できていること)の何をしてもしんどくて、東京の街のどこにいてもそ
れを痛感するばかりだった。たかが夏風邪くらいでそれだから、もし私が骨折でもして
松葉杖をついたり車椅子のお世話になったりする身にでもなれば、この世界はもっと
もっと不便で不自由になるだろう。
全てが『健康』という、不安定で危うい前提の上に成り立った社会。
先日、久しぶりに会う友人と話していて、ともするといい歳をした私の妹なんかより自
分の子どものほうがよっぽど物事を受けとめるキャパシティが大きいと感じることがあ
る、と言ったら、「それはやっぱりマイノリティの立場を経験したところによるところが大
きいと思うよ」と言われた。それはこの場合、私の子どもは母子家庭の子どもで、彼
女の子どもは混血児だということを意味する。そこで久しぶりに『マイノリティ』という言
葉を聞いたのだけれど、今まで私はその言葉を意識して生きてきたことはなかった。
いつもそれは他人によって強力に意識させられるものだった。
マイノリティってそういうものだ。
この映画にも様々なマイノリティが出てくる。
様々な障害を持った障害者たち。末期がんで生活保護と在宅ホスピスを受けながら
暮らす一人暮らしの老人。それから野良猫たち ・・・・・・
想田和弘監督いうところの『観察映画』であるこの『Peace』は、そんなマイノリティたち
と、それをほとんど無償でケアする老夫婦のドキュメンタリー。
岡山で暮らす柏木夫妻は、夫婦で福祉有償運送サービスの仕事をしている。
自分では遠くまで移動することのできない障害者や老人などをクルマで目的地まで連
れて行ったり、散歩をさせたり、買い物につきあったり、一緒にごはんを食べたり、定
期的に病人の自宅を訪問して家事のヘルパーをしたり、その仕事は実に多岐にわた
る、時間と手間のかかる仕事。何より忍耐を必要とする。
そして、私がこのドキュメンタリーを見ながらずっと感じていたのも忍耐だった。
なんたってこれは柏木夫妻の日常生活の観察映画なのだから、彼らの毎日の仕事
ぶりが延々と続くだけなのだ。そこには人間の感情に作用する美しい音楽もなけれ
ば場を説明するナレーションもない。ドキュメンタリーだから決まった台本も演出もな
ければ、起承転結のあるストーリーもない。ただ目の前で淡々と繰り広げられる彼ら
の日常を見せられるだけ。テレビじゃないから日常の雑音は音が大きくてうるさいし
あまり見たくもない人の顔をこれでもかというくらいアップで見せられる。活絶の悪い
聞きとりにくい会話を大きな音で聞かされる。どれも私にとってはかなり忍耐がいる
ことだった。(これはもちろん監督の意図あってのことだろう。監督の仕事も忍耐以外
の何物でもない。)
そして、このドキュメンタリーのなかで柏木夫妻はその忍耐のいる仕事を実に忍耐強
く、よくやっている。その行動や言動は親切を超えてとても優しい。これは感心する、
とかいうレベルを遥かに超えて、頭が下がる。
しかもこの福祉有償運送サービスの仕事は、『有償』、『仕事』とはいってもそこには
国の厳しい規定があって、支払われる報酬(というのか手当というのか)はごくわずか
そこからクルマのガソリン代や修理費などといった経費を差し引いたら手元には何に
も残らないというのだ。もちろん、給料なんてものは出ない。つまり実質ボランティア。
彼らが毎日していることはお金ではとても換算できないほど大変なことなのに、それを
無償でやっているとは。まずそこに驚かされてしまう。
でもある日、そんな福祉有償運送サービスの説明会にたくさんの人が訪れる。
なかには若い人もいて、最初は柏木寿夫さんの説明を受けながら車椅子に乗ってク
ルマの中へ運んでもらう人や運ぶ人を実習したりして和気あいあいとした雰囲気が流
れる。けれどもそれは部屋に入って寿夫さんがこの仕事によって得られる報酬につい
ての説明を始めた途端に一転、参加者の白けきった顔に変わる。寿夫さんはそこで
「確かに報酬は少ないが、この仕事にはお金には代えられないものがある」と熱弁を
ふるうが、参加者の顔は冷たくふてくされきったままである。つまり彼らは言ってみれ
ばていのいいアルバイトを探しにきたにすぎないのだ。そんな風だから柏木さんたち
のいる事務所には年寄りばかりだったのだ。つまり60をとうに過ぎて身体のきつくな
ってきた彼らの代わりに働いてくれる若い働き手はいないってことだ。
だからといって私には参加者たちのことは責められない。たぶん誰にも責められな
い。よっぽど働いて収入を得る必要のない人ででもなければ誰だって働いて生活を
立てていく糧が必要だ。むしろ自腹切ってまでこの仕事をやり続けている柏木夫婦
のほうが不思議なくらいだ。そういう信じられないくらい優しくて仕事のできるいい人
たちの好意にただただ依存しなければ成り立たないこの国の制度はおかしい。
そういったこと、そういう見ていてあまり面白くないことを想田監督は実に我慢強く、
ただ見続け、聞き続け、撮り続け、私たちに見せ続けているのだ。
そして私がここで書いたようなことを考え続けなければならなかったように、この映画
のなかで無言の問いかけを無数にしているのだと思う。
そんな日本の今の現実とも言うべきこの映画の中で、唯一ホッとさせてくれるのが寿
夫さんが世話している野良猫たちの存在。
寿夫さんにとってもひたすらボランティアに明け暮れる日常の中で猫と触れ合ってい
るときが一番安らぐようだ。猫といるときが一番いい顔をしている。でも、最初は一匹
だった野良猫も今はすっかり増えてしまい、寿夫さんが野良猫にしていることは近所
から苦情もきているようだし、こと猫に関しては同じ仕事をしている奥さんの廣子さん
とのあいだにもちょっとした冷たい戦争(これ、生前の母がよく使ってた言葉)がある。
ほんに人の世は難しい。
野良猫ってのもの自体がまぁ、マイノリティみたいなものだけれど、そのなかにもさら
にマイノリティの猫ちゃんがいる。お腹にかわいいハート柄を持っているのにクルマに
轢かれたのか一本の脚を引きずっている子。それから寿夫さんがかわいがる野良猫
たちのエサを横から掠め取っていく目つきの悪い見るからにこ汚い泥棒猫。
寿夫さんはその猫を泥棒猫と呼び、「迷惑しとるんじゃけど・・・」と言いながらも、その
猫にもちゃんとエサを与える。それでも泥棒猫はとても用心深くて、やさしい寿夫さん
にだってぜんぜん懐かないし近寄ってもこないけれど、エサの時間ともなるとどこから
か忍び寄ってきてはオス猫のパワーで徐々に図々しくのさばるようになってきた。最
初はあからさまに怒って「シャー!!」と背中の毛を立てて威嚇していたメス猫たちも
しだいに脇に追いやられ、隅のほうでエサを食べるようになってしまう。さあ、これから
どうなるのか、と思うけれど、あれだけお互いに嫌がってた者同士が、最後のほうに
なるといつの間にか一緒にいるではないか!
何食わぬ顔で寿夫さんの猫たちに混じって毛づくろいをしている泥棒猫。
寿夫さんは淡々と、「みんなのほうがあいつのことを許したんじゃろ」と言う。
こころなしか泥棒猫の人相(ニャン相)が良くなっている。
このあたりは人間と同じで可笑しい。
寿夫さんはもう20年以上も猫を飼っているけれど、どうしてもわからないことがある
そうだ。それはどんなにかわいがってエサをやり続けて懐いた猫でも、年数が経つと
いつの間にかいなくなってしまうこと。いつの間にか一匹ずつ姿を消したかと思うと、
また知らぬ間に新顔が入ってくるのだそうだ。それはまるで年寄りが若いもんに場を
譲っているようなのだとか。さて、ここらへんに上のフライヤーの吹き出しの中の言葉
の意味がありそうだけれど、正直なところ私としてはこの映画にそれほどのものは感
じなかった。全体的にいろいろなことが散漫で、フォーカスされていないように感じた。
それは私が社会の勝者ではなくマイノリティで、この映画のなかで描かれているよう
なことも非日常ではなく日常的に見ていることであり、それなりに忍耐しながら暮らし
ているからかもしれない。映画の中でまで私はこれはいいや、というのがあった。
この映画は80歳の父と見る予定だったのだけれど、天気が悪くて寒かったので父は
行かないことになった。結果的には行かないことになってよかったと思う。
初めて渋谷のアップリンクで映画を見たときは2階の部屋がすごく暖かくて椅子もリラ
ックスチェアで楽ちんだったのが、この日は1階で寒くてお尻が痛くなった。同じ猫と戦
争が出てくるドキュメンタリー映画なら、私は父には『ミリキタニの猫』を見せたい。
現実、という意味では父はもうじゅうぶん見てきたと思うから。
そして最後に、これは皮肉に聞こえたら困っちゃうのだけれど、映画の興行において
予告とフライヤーがどれだけ大事かわかった。前回、アップリンクでグレン・グールド
の映画を見たときに流れていたのがこの『Peace』の予告で、それがすごくよかったの
だ。なんていうか、淡々としたなかにも観終わった後にふつふつと生きる力が湧いて
くるような映画なんじゃないかと勝手に思ってしまった。(それで80歳の老人だ。)
このフライヤーだってとてもよくできている。もしこの映画のタイトルが、『岡山で福祉
有償運送サービスをしている老夫婦の観察映画』だったら、少なくとも私は父を連れ
て行こうとは思わなかったと思う。
ちなみに、この日もアップリンクの会場内はガラガラだった。
来るときに一緒になった、ちょうどこの映画の廣子さんくらいのオバサマ軍団と1人で
来た初老の男と、それから若い人が少し。退屈したのかやりきれないのか、時折フー
ッと長い溜め息が聞こえていたりしたけれど、みんなはこの映画をどう見たのだろう。
下は映画を見た後に併設のカフェレストランTabela で食べたクスクス。
たくさん具材を使ってるし素材にもこだわっているみたいなのに、なんでこんな味にし
かならんかなって味。まるで一度ピタッと味が決まったところに人数分足りなくなった
からお湯を足しちゃった、っていうような。とにかくお腹もすいていたし身体が冷え切
っていたので冷めたらますます不味くなると思ってばくばく食べたけど。
そして食後の珈琲。
最近は機械でぷしゅーと抽出しているところが多いからどこで飲んでも大体同じクオリ
ティなのだけれど、ここはふつうのコーヒーメーカーで作っているのか、サーバーに落と
してそのまま保温していたとっておき珈琲が出てきた。つまり珈琲もだめ。
雰囲気は悪くないし、アップリンクがプロデュースしているっていうからもうちょっといい
かと思ったのになー!
いいことはサラダがおかわりできるらしいことと映画を見ると食事の150円引き券が
付いてくることくらい。たまに外で食事をすると、いかにふだん自分の作ってるごはん
がおいしいかってことを痛感するのです。やれやれ!
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