勝手気儘なシネマの日記

2012年4月13日 (金)

助けてくれ、君が必要なんだ!/ヴィム・ヴェンダースの『リスボン物語』

Lisbon_story_3

落ちこむ、とまではいかないまでも、自分のなかで何かがうまくいってなくて、なんとな

く気分がローのとき、たまたま入った書店で何気なく手にとって開いた本のページに

まるで今の自分への神さまからの啓示なんじゃないかと思うような言葉を見つけると

きがある。つまり、それこそが直感力というものなのだろうけど、この映画を観ようと

思ったのもほんの気まぐれからだし、映画の3分の2あたりまでは、観終わった後に

こんな気持ちになろうとは予測もしていなかった。ヴィム・ベンダースの映画は映像の

美しさや構図の見事さ、音楽の使い方のうまさなんかで引きこまれるけれど、一方で

話の展開はやや冗長、というか退屈なところがあって、観るのに根気を要するところ

がある。この『リスボン物語』もそうで、実は途中までは退屈しかけていた。それを引

っぱり続けていたのはシーンにたびたび挿しこまれる重々しくて不穏なBGMが、この

先に何か恐ろしい展開があるんじゃないかと思わせる、妙に意味深でミステリアスな

効果をあげていたことと、それからひょうきんで冴えないルックスの主人公の魅力に

けっきょくのところ惹かれ始めていたのと、映画の中でカタカタと音を立てて回される

手回しカメラのフィルムから映し出されるリスボンの街が、主人公が今いる現実の街

以上に光り輝いて見えたことだ。そう、この映画は映画のための映画だ。


ある日、主人公の男フィリップ・ヴィンターが久しぶりに家に帰ると、うず高く積まれた

新聞やDMや郵便物のなかに、親友の映画監督からのポストカードを見つける。そこ

には、「撮影を続けられなくなった。君の録音機材を持ってすぐに来てくれ。SOS!」

と書いてあった。フィリップは映画の音響技師。ポストカードの消印の地はリスボン。

それからフィリップは片足を骨折している身をおしてすぐに旅支度をしてドイツ・フラン

クフルトからクルマを運転してヨーロッパの国境を越え、一路ポルトガルの首都リス

ボンに向かう。でもこの男、クルマのタイヤは途中でパンクしてしまうわ、タイヤ交換し

ようとして新しいタイヤのほうを川に落としてしまうわ、けっきょくクルマはバーストして

使いものにならなくなってしまうわで、とにかく、とことんドジでツイてなくて冴えない男

なのだ。唯一それを救っているのは彼のユーモアのセンスと簡単にはあきらめない

性格くらい?

そしてヒッチハイク同然でやっとリスボンの街に着いてみれば、フィリップをよんだ当

の親友のフリードリッヒはいない。いったい彼はどこに行ったのか? 仕方なく音を録

りに街を徘徊するフィリップのまわりに、幻影のようにちょこちょこ現れる謎の少年。

このあたり、まるでフリードリッヒが街でカメラを回していて何か重大な秘密に気づい

てしまい、深刻な事件に巻き込まれたかのように引っぱるわけです。

だけれどもさんざん引っぱった後で、意外にもあっさりとフリードリッヒはフィリップの

前に姿を現す。それではいったいフリードリッヒの身に何があったのか? というと

これがまたいかにもドイツ人らしいというか、深遠にして哲学的問題をはらんだ、実

に極端で、ある種シュールでクレイジーでさえある思わず笑っちゃうようなことなのだ

けれど、それで今まで真剣にフリードリッヒの身を案じて探し続けてきたフィリップが

呆れてドイツに帰ってしまうかと思えば、ここからが凄く良い!

つまり、もう映画監督である自分自身にも自分の撮るものにも徹底的に嫌気がさし

て絶望したフリードリッヒに対してフィリップは彼一流のユーモアセンスにあふれた

やり方で彼を叱咤激励するのです。それは私なんかがやったらともすると「おめー、

オレを馬鹿にしてるんじゃねえの?」といわれそうなやりかたなのだけれど、もちろ

んフリードリッヒとフィリップは気心の知れた無二の相棒。真意は見事に伝わって、

フリードリッヒのハートをぶち抜き、彼は息を吹き返す。そして、そこからの映像が

またハチャメチャに楽しくて素晴らしい!!!

そして私がこの映画から受けとったメッセージは、「自分を信じろ。自分の目を信じ

ろ。それさえできれば君にはまだじゅうぶんに魔法を生み出せる力があるんだ!」

ってこと。驚くべくはフィリップで、この非力そうなからだつきをした冴えないルックス

の男が最後はこんなにも魅力的に見えてしまうなんて。今まで観た映画でも初めて

のことかもしれない。彼のユーモアセンスは苦境をやりすごすには最高の知恵にも

思えるし、苦難を乗り越えて友のところに駈けつけたところなんぞは友情の厚さを感

じるし、簡単にあきらめない我慢強さのなかには人を理解しようとする気持ちと映画

に対する熱い情熱があればこそなのだった。つくづく人間、見た目じゃありません。

それこそちゃんと本質を見抜く目を持たなきゃですね。そして何より持つべきものは

SOSを出したらどんなときでも駆けつけてくれる素晴らしい友!


人間だれしも時に自分が無力に、空っぽに思えてむなしくなるときや、やる気が全然

起きないときなんかがあるけれど、そんなときに観たら何らかのメッセージをもらえて

元気になれそうな映画。とくに実際に映像を撮っている人ならなおさら。

『明るい太陽の下では、音さえも輝く』とは、真実にして、なんて素敵な言葉!

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2012年1月27日 (金)

もう一度、『歌の力』を信じるために。

Love_we_make

インターFMを聴いていた友達がとっさにチケット・プレゼントに応募して、見事に当選

してくれたおかげでついに見ることができました。

ポール・マッカートニーの『THE LOVE WE MAKE』。

友達はあいにく行けなかったのだけれど、娘と行ってきました。

映画のサブタイトルに『もう一度、「歌の力」を信じるために』とあるように、のっけから

『I'm Down』を歌うポールのグルーヴにやられましたね。往年にひけをとらないすごい

シャウト。すごい迫力。いきなり火を点けられた感じ。ルックスこそさすがに老けたけど

これが当時59歳のグルーヴ、シャウトとは。シンガーの底力。さすがとしか言いようが

ない。『LET IT BE』を歌い出したらもう涙、涙 ・・・・・・ そしてそれを皮切りに、全編通

して文字通り、『歌の力』を思い知らされる93分間となった。

サイモン&ガーファンクルの『アメリカ』を切々と歌い、老いてなお異次元の美しさを見

せたデヴィッド・ボウイ。そしていまや老賢者のようなルックスになってしまったビリー・

ジョエルが歌う突き刺すような『New York State Of Mind』もエルトン・ジョンの『Your

Song』もザ・フーの迫力のパフォーマンスも、こちらのハートにストレートに伝わってくる

歌のパワーに泣けた泣けた ・・・・・・

そんな風に泣けたのは私が年をとったからなのか。いや、そうではないと思う。

私が思わず泣いてしまったのは、かつて若いころに聴いた歌へのノスタルジーとかそ

んな甘ったるいものではなくて、彼らの歌にそれが作られたときと同じようなリアルな

情熱が凄みさえ感じさせるほどあって、年とってなお聴き手に強くはたらきかける力を

持っているからなのだと思う。それは私自身についていえば一部のミュージシャンを除

いては最近の音楽にはもうあまり感じなくなってしまったものでもある。

そして何よりすごいのは、これだけのコンサートが9.11からたったひと月後に行われ

たということだ。

そのとき、ポールはたまたまニューヨーク空港にいて、アメリカからイギリスに帰る飛

行機の中だった。目の前にツインタワーが見えて、最初の飛行機が突っ込んで煙が

上がったときはてっきり事故だと思った。しかし2機めが突っ込んだときにはテロだと

わかり、ペンタゴンが襲撃されたことを聞いてアメリカがとんでもないダメージを受けた

と認識した。そして、そのときとっさにポールの頭に浮かんだのは、「自分に何ができ

る?」という問いだったという。そのあと、プロデューサーからこの『The Concert For

New York City』の話を持ちかけられた。ポールは最初、「金儲けをする気なのか?」

と思ったといっている。リアルな話だ。

私の友達にもいろいろなタイプの人がいて(たとえば私はハーゲンダッツのアイスが

大好きだけれどユダヤ資本だから私は食べないという友達とか)、その置かれた立

場や思想や思考の寄って立つところによって9.11に対する見方も考えもそれぞれ

違うけれど、これ(このコンサート)に関するポールの考え方はもっとシンプルでごくご

く人間的なことだ。目の前で自分の大切な人を一瞬のうちに失って、誰だって平気で

いられるはずがない。自分は平気でいられなかった。だから自分は自分にできること

をする。という、きわめて情動に由来した行動。ロジカルな思想ではなく、感情、情動。

そして、こうもいっている。

「あるとき頭痛がして街にでたんだ。でも友達の家に行ってエルヴィスを聴いたらいつ

のまにか治っていた。音楽には間違いなくそういう力がある」、と ・・・・・・

それは私も何度も経験があるので大いに賛同するところだ。

そして、かつて世界中のミュージシャンがアメリカに憧れた(古き佳き)時代があった。

エルヴィスに憧れていたビートルズ。シナトラに憧れていたトム・ジョビン。

ビートルズ時代にアメリカに来るのは本当に夢だった、とポール・マッカートニーはい

った。その自分たちを歓迎してくれたアメリカが大変なことになっているのだ、なんとか

しなきゃ、というのはポールにとってはきわめて自然なことだったのかもしれない。

私自身についていえば今のアメリカが好きかといわれたらそんなことはないし、このド

キュメンタリー映画のなかでも招待されたファイヤーマンの代表がオサマ・ビン・ラディ

ンに向けて発したメッセージなんて日本人から見たらきわめてアメリカ的でまったく好

きになれないのだけれど、かくいう私だって子どものころはアメリカのアニメーションと

ディズニー映画とルーシー・カーマイケル・ショーで育ち、ニューヨーク・パパに憧れた。

『雨に濡れても』のフレッド・アステアにも、『上流社会』のビング・クロスビーとフランク・

シナトラにも魅了され、何より豊かな国アメリカそのものに魅了されていた。

ポールがいま(というか2001年当時)『自由の国アメリカ』といういささか陳腐にも聞

こえるスローガンを掲げて歌いたかった気持ちもわかるってものだ。

なんたって9.11からたったひとつき、まだ街には煙が上がり続け、死の匂いがたち

こめていた真っ只中に行われたコンサートなのだから。

今なおずっと現役であり、かつてキラ星のようなスターであった往年のミュージシャン

たちの音楽の底力を思い知らされる93分!

音楽をやっている人はもちろん、全ての音楽好きに見てほしい映画。

観終わったあと、そのパワーが自分にも着火したのを感じるでしょう。

Sちゃん、どうもありがとう! 感謝!!!

12uplink

渋谷アップリンク。

ここ、2階は椅子も前列2列目まではリラックスチェアが置いてあったりしてラクチンで

暖房もしっかり効いていて暖かいのだけれど、1階は長く座ってるとお尻が痛くなるよ

うな椅子で、何より寒い!! 1階と2階とでは雲泥の差!

これ、もうちょっとなんとかならないのかね。

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2011年12月26日 (月)

THE LOVE WE MAKE

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ついに見そびれました!weep

アップリンク配給、東京では六本木ヒルズTOHOシネマズだけで23日までしかやって

なかったこの映画、THE LOVE WE MAKE(クリックするとすぐに音が出るので注意)

タイトルとなった『THE LOVE WE MAKE』は、ビートルズのスタジオ録音としては通算

7枚めのアルバム『アビイ・ロード』収録の『ジ・エンド』の歌詞に出てくる"the love you

make"(きみがその手で生み出す愛)という一節からとったものだそうです。

見たかったなあーーーー!

もしふたたび上映されるような情報を知った方はぜひ私までお知らせくださいませ。

そしてもしこの映画がBSかWOWWOWでやったら録って!

お願い!!!!!

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2011年12月11日 (日)

『観察映画』から見えてくる今の日本の現実

Peace_2 

数年前の夏の盛りのこと。

私はめずらしく夏風邪なんかひいていて、寒いくらいに冷房のきいた電車に乗ってふと

この世の中って全て健常者の視点でできているんだ、と思った。その日はふだん何気

なくしていること(できていること)の何をしてもしんどくて、東京の街のどこにいてもそ

れを痛感するばかりだった。たかが夏風邪くらいでそれだから、もし私が骨折でもして

松葉杖をついたり車椅子のお世話になったりする身にでもなれば、この世界はもっと

もっと不便で不自由になるだろう。

全てが『健康』という、不安定で危うい前提の上に成り立った社会。


先日、久しぶりに会う友人と話していて、ともするといい歳をした私の妹なんかより自

分の子どものほうがよっぽど物事を受けとめるキャパシティが大きいと感じることがあ

る、と言ったら、「それはやっぱりマイノリティの立場を経験したところによるところが大

きいと思うよ」と言われた。それはこの場合、私の子どもは母子家庭の子どもで、彼

女の子どもは混血児だということを意味する。そこで久しぶりに『マイノリティ』という言

葉を聞いたのだけれど、今まで私はその言葉を意識して生きてきたことはなかった。

いつもそれは他人によって強力に意識させられるものだった。

マイノリティってそういうものだ。


この映画にも様々なマイノリティが出てくる。

様々な障害を持った障害者たち。末期がんで生活保護と在宅ホスピスを受けながら

暮らす一人暮らしの老人。それから野良猫たち ・・・・・・

想田和弘監督いうところの『観察映画』であるこの『Peace』は、そんなマイノリティたち

と、それをほとんど無償でケアする老夫婦のドキュメンタリー。


岡山で暮らす柏木夫妻は、夫婦で福祉有償運送サービスの仕事をしている。

自分では遠くまで移動することのできない障害者や老人などをクルマで目的地まで連

れて行ったり、散歩をさせたり、買い物につきあったり、一緒にごはんを食べたり、定

期的に病人の自宅を訪問して家事のヘルパーをしたり、その仕事は実に多岐にわた

る、時間と手間のかかる仕事。何より忍耐を必要とする。

そして、私がこのドキュメンタリーを見ながらずっと感じていたのも忍耐だった。

なんたってこれは柏木夫妻の日常生活の観察映画なのだから、彼らの毎日の仕事

ぶりが延々と続くだけなのだ。そこには人間の感情に作用する美しい音楽もなけれ

ば場を説明するナレーションもない。ドキュメンタリーだから決まった台本も演出もな

ければ、起承転結のあるストーリーもない。ただ目の前で淡々と繰り広げられる彼ら

の日常を見せられるだけ。テレビじゃないから日常の雑音は音が大きくてうるさいし

あまり見たくもない人の顔をこれでもかというくらいアップで見せられる。活絶の悪い

聞きとりにくい会話を大きな音で聞かされる。どれも私にとってはかなり忍耐がいる

ことだった。(これはもちろん監督の意図あってのことだろう。監督の仕事も忍耐以外

の何物でもない。)

そして、このドキュメンタリーのなかで柏木夫妻はその忍耐のいる仕事を実に忍耐強

く、よくやっている。その行動や言動は親切を超えてとても優しい。これは感心する、

とかいうレベルを遥かに超えて、頭が下がる。

しかもこの福祉有償運送サービスの仕事は、『有償』、『仕事』とはいってもそこには

国の厳しい規定があって、支払われる報酬(というのか手当というのか)はごくわずか

そこからクルマのガソリン代や修理費などといった経費を差し引いたら手元には何に

も残らないというのだ。もちろん、給料なんてものは出ない。つまり実質ボランティア。

彼らが毎日していることはお金ではとても換算できないほど大変なことなのに、それを

無償でやっているとは。まずそこに驚かされてしまう。

でもある日、そんな福祉有償運送サービスの説明会にたくさんの人が訪れる。

なかには若い人もいて、最初は柏木寿夫さんの説明を受けながら車椅子に乗ってク

ルマの中へ運んでもらう人や運ぶ人を実習したりして和気あいあいとした雰囲気が流

れる。けれどもそれは部屋に入って寿夫さんがこの仕事によって得られる報酬につい

ての説明を始めた途端に一転、参加者の白けきった顔に変わる。寿夫さんはそこで

「確かに報酬は少ないが、この仕事にはお金には代えられないものがある」と熱弁を

ふるうが、参加者の顔は冷たくふてくされきったままである。つまり彼らは言ってみれ

ばていのいいアルバイトを探しにきたにすぎないのだ。そんな風だから柏木さんたち

のいる事務所には年寄りばかりだったのだ。つまり60をとうに過ぎて身体のきつくな

ってきた彼らの代わりに働いてくれる若い働き手はいないってことだ。

だからといって私には参加者たちのことは責められない。たぶん誰にも責められな

い。よっぽど働いて収入を得る必要のない人ででもなければ誰だって働いて生活を

立てていく糧が必要だ。むしろ自腹切ってまでこの仕事をやり続けている柏木夫婦

のほうが不思議なくらいだ。そういう信じられないくらい優しくて仕事のできるいい人

たちの好意にただただ依存しなければ成り立たないこの国の制度はおかしい。

そういったこと、そういう見ていてあまり面白くないことを想田監督は実に我慢強く、

ただ見続け、聞き続け、撮り続け、私たちに見せ続けているのだ。

そして私がここで書いたようなことを考え続けなければならなかったように、この映画

のなかで無言の問いかけを無数にしているのだと思う。

そんな日本の今の現実とも言うべきこの映画の中で、唯一ホッとさせてくれるのが寿

夫さんが世話している野良猫たちの存在。

寿夫さんにとってもひたすらボランティアに明け暮れる日常の中で猫と触れ合ってい

るときが一番安らぐようだ。猫といるときが一番いい顔をしている。でも、最初は一匹

だった野良猫も今はすっかり増えてしまい、寿夫さんが野良猫にしていることは近所

から苦情もきているようだし、こと猫に関しては同じ仕事をしている奥さんの廣子さん

とのあいだにもちょっとした冷たい戦争(これ、生前の母がよく使ってた言葉)がある。

ほんに人の世は難しい。

野良猫ってのもの自体がまぁ、マイノリティみたいなものだけれど、そのなかにもさら

にマイノリティの猫ちゃんがいる。お腹にかわいいハート柄を持っているのにクルマに

轢かれたのか一本の脚を引きずっている子。それから寿夫さんがかわいがる野良猫

たちのエサを横から掠め取っていく目つきの悪い見るからにこ汚い泥棒猫。

寿夫さんはその猫を泥棒猫と呼び、「迷惑しとるんじゃけど・・・」と言いながらも、その

猫にもちゃんとエサを与える。それでも泥棒猫はとても用心深くて、やさしい寿夫さん

にだってぜんぜん懐かないし近寄ってもこないけれど、エサの時間ともなるとどこから

か忍び寄ってきてはオス猫のパワーで徐々に図々しくのさばるようになってきた。最

初はあからさまに怒って「シャー!!」と背中の毛を立てて威嚇していたメス猫たちも

しだいに脇に追いやられ、隅のほうでエサを食べるようになってしまう。さあ、これから

どうなるのか、と思うけれど、あれだけお互いに嫌がってた者同士が、最後のほうに

なるといつの間にか一緒にいるではないか!

何食わぬ顔で寿夫さんの猫たちに混じって毛づくろいをしている泥棒猫。

寿夫さんは淡々と、「みんなのほうがあいつのことを許したんじゃろ」と言う。

こころなしか泥棒猫の人相(ニャン相)が良くなっている。

このあたりは人間と同じで可笑しい。

寿夫さんはもう20年以上も猫を飼っているけれど、どうしてもわからないことがある

そうだ。それはどんなにかわいがってエサをやり続けて懐いた猫でも、年数が経つと

いつの間にかいなくなってしまうこと。いつの間にか一匹ずつ姿を消したかと思うと、

また知らぬ間に新顔が入ってくるのだそうだ。それはまるで年寄りが若いもんに場を

譲っているようなのだとか。さて、ここらへんに上のフライヤーの吹き出しの中の言葉

の意味がありそうだけれど、正直なところ私としてはこの映画にそれほどのものは感

じなかった。全体的にいろいろなことが散漫で、フォーカスされていないように感じた。

それは私が社会の勝者ではなくマイノリティで、この映画のなかで描かれているよう

なことも非日常ではなく日常的に見ていることであり、それなりに忍耐しながら暮らし

ているからかもしれない。映画の中でまで私はこれはいいや、というのがあった。

この映画は80歳の父と見る予定だったのだけれど、天気が悪くて寒かったので父は

行かないことになった。結果的には行かないことになってよかったと思う。

初めて渋谷のアップリンクで映画を見たときは2階の部屋がすごく暖かくて椅子もリラ

ックスチェアで楽ちんだったのが、この日は1階で寒くてお尻が痛くなった。同じ猫と戦

争が出てくるドキュメンタリー映画なら、私は父には『ミリキタニの猫』を見せたい。

現実、という意味では父はもうじゅうぶん見てきたと思うから。

そして最後に、これは皮肉に聞こえたら困っちゃうのだけれど、映画の興行において

予告とフライヤーがどれだけ大事かわかった。前回、アップリンクでグレン・グールド

の映画を見たときに流れていたのがこの『Peace』の予告で、それがすごくよかったの

だ。なんていうか、淡々としたなかにも観終わった後にふつふつと生きる力が湧いて

くるような映画なんじゃないかと勝手に思ってしまった。(それで80歳の老人だ。)

このフライヤーだってとてもよくできている。もしこの映画のタイトルが、『岡山で福祉

有償運送サービスをしている老夫婦の観察映画』だったら、少なくとも私は父を連れ

て行こうとは思わなかったと思う。

ちなみに、この日もアップリンクの会場内はガラガラだった。

来るときに一緒になった、ちょうどこの映画の廣子さんくらいのオバサマ軍団と1人で

来た初老の男と、それから若い人が少し。退屈したのかやりきれないのか、時折フー

ッと長い溜め息が聞こえていたりしたけれど、みんなはこの映画をどう見たのだろう。

下は映画を見た後に併設のカフェレストランTabela で食べたクスクス。

11tabela

たくさん具材を使ってるし素材にもこだわっているみたいなのに、なんでこんな味にし

かならんかなって味。まるで一度ピタッと味が決まったところに人数分足りなくなった

からお湯を足しちゃった、っていうような。とにかくお腹もすいていたし身体が冷え切

っていたので冷めたらますます不味くなると思ってばくばく食べたけど。

そして食後の珈琲。

最近は機械でぷしゅーと抽出しているところが多いからどこで飲んでも大体同じクオリ

ティなのだけれど、ここはふつうのコーヒーメーカーで作っているのか、サーバーに落と

してそのまま保温していたとっておき珈琲が出てきた。つまり珈琲もだめ。

雰囲気は悪くないし、アップリンクがプロデュースしているっていうからもうちょっといい

かと思ったのになー!

いいことはサラダがおかわりできるらしいことと映画を見ると食事の150円引き券が

付いてくることくらい。たまに外で食事をすると、いかにふだん自分の作ってるごはん

がおいしいかってことを痛感するのです。やれやれ!

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2011年11月18日 (金)

黄昏にもし間にあったら

Himiko

ある雨の日、町の小さな塗装会社で働く地味な女子事務員・沙織のところに突然、美

しい男が訪ねてくる。彼は今までにも何度も会社に電話をかけてきたが、沙織は電話

に出ることもいっさい拒否してきた。ろくろく用件も聞かずに追い返そうとする沙織に、

その若い男・岸本晴彦は、「君のお父さんは末期ガンで、もう長くは生きられない。君

には高給を払うから、彼が運営するメゾン・ド・ヒミコで雑用をやってほしい」と頼む。

メゾン・ド・ヒミコは、銀座で名を馳せたゲイバーの名店『卑弥呼』の2代目として成功

した沙織の父・吉田照男が、店を引退した後に海辺のホテルだった建物を買い取っ

て作ったゲイのための養老院。卑弥呼(照男)が病で倒れてからは実質そこの運営を

任されてきた岸本晴彦は、卑弥呼、つまり沙織の父の恋人だった。

自分がまだ幼いときに自分と母をボロ雑巾のように捨てて家を出て行った、と今まで

ずっと父を憎んできた沙織は、そんな汚いオカマがどこでいつ死のうが関係ない! 

とばかりに激しく断るが、晴彦は借金があって金策が必要な沙織の心を巧みに利用

して、破格の日給と卑弥呼の遺産をエサに、なんとか彼女にその話を承諾させる。

そして、週に1回、日曜日にメゾン・ド・ヒミコに通うことになった沙織だったが ・・・


犬童一心監督による作品。

岸本晴彦にオダギリジョー、吉田沙織に柴咲コウ、ゲイの卑弥呼に舞踊家の田中泯

という異色のキャスティング。

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この映画を見るきっかけになったのは、最近仲良くしているコトリさんがことあるごと

にこの映画のことを口に出すからで、私もそのたびに頭に絵が浮かぶので見たよう

な気でいたのだけれど、実際のところは見ていなかった。見たような気がしたのは以

前、陶芸オフ会にも参加させてもらった陶芸家でブロガーのハシバミさんのブログ

の中で何度もメゾン・ド・ヒミコの舞台(ロケ地)となった建物の写真を見ていたからだ

った。コトリさんいわく、この映画ははっきりと好き・嫌いが分かれる映画だという。

そして、それは彼女のなかで何かをはかる尺度になっているようだった。


ここにあるのは様々な人間の現実だ。

父親に捨てられ、女手ひとつで育ててくれた母親をガンで亡くし、入院費という借金だ

けが残された娘の現実。この世で唯一、自分を孤独から救ってくれた愛するひとを今

にも失いそうになって震えている若い男の現実。ただでさえ、人は年をとるだけでも徐

々に若さも美しさも失ってたそがれてゆくのに、そこにゲイと病という二重苦を抱えた

初老の男の現実。そして卑弥呼を慕ってメゾンで暮らす、見た目はどうやっても男、

でも中身は女、の彼らがそれぞれ抱える現実。

そして、沙織の側にあるのはもっとどこにでもあるような現実だ。

父親の塗装会社で2代目として専務におさまり、妻と子に恵まれ何不自由ない生活を

しながら会社では年中みさかいなく女子事務員に手をつけている男のつまらない現

実。さらに、その専務に食い物にされている頭の悪そうな事務員のこれまたつまらな

い現実 ・・・・・・

映画の中でそのどうしようもない現実をどこか非現実的に幻想的に、ある種おとぎ話

のように見せているのがメゾン・ド・ヒミコという存在だ。

その外国のリゾートホテルのような建物の明るい外観。海辺というロケーション。ヨー

ロッパ・アンティーク家具で彩られた、シンプルだけれど優雅な卑弥呼の部屋。それ

からガウン姿の卑弥呼の毅然とした態度と、どこか芝居がかったような上品で無機質

な女言葉。メゾンで暮らすゲイたちの、猥雑さとクラシカルが入り混じった、ある種、無

邪気なまでの愛にあふれた暮らしぶり。

そして、若く、美しい男。

そう、美しいってことはいつもそれだけで非凡で非現実的になりうる。

美しさ、優雅さ、花、海の見える部屋、日曜日のおかしなブランチ、アート、音楽、ドレ

スアップ、ゆっくり過ぎてゆく時間。損得勘定抜きでただ掛け値なしに人を愛すること、

愛すること ・・・・・・

どれも現実とは対照的に人を非現実に誘うものだ。

それらは少々奇妙でも沙織が住んでいる日常よりはずっとファンタジックに見えた。

そしてこの映画を観終わった後で、これについてなんて書こう、と思ったときに、ふい

に頭に浮かんだのが、記事のタイトルにした『黄昏にもし間にあったら』だった。

なぜ、そんな言葉が浮かんだんだろう。

私は子供の頃から『間にあわない』って感覚がすごく苦手なのだと思う。

間にあわない。取り返しがつかない。手遅れになる。そういうのが。

とくに自分の人生でどうしようもなく間に合わなかった経験を持つ身としてはなおさら、

だ。人のこころっていうのはいつでも本当に複雑で、過剰すぎれば鬱陶しいし、かとい

って満たされなければ物足りなくてさみしい。そのあたりのさじ加減が絶妙な映画だと

思う。そして上のポスターでデッキテラスにいる3人、卑弥呼と晴彦と沙織は、そういう

意味では間にあった人たちだ。

沙織は晴彦に嫌々ながらも従ってここへ来たことで、それまで知らなかった異種の人

たちとも心を通わせることができると知った。そして結果的には知らない間に天涯孤

独の身になることなく、父の死に間に合い、長年鬱積した感情をぶつけることで自分

の捨てられた人生に蹴りをつけることができた。彼女を見てて思ったのは、こんなに

ステレオタイプに人を憎んだり、あからさまに感情をむき出しにしたり、口汚く罵倒した

りできたら返って楽だろうな、ということ。人は誰かに酷いことをされたら当然ながら傷

つくし、相手を憎むことだってあるだろう。でも、それとは裏腹に、相手への憎み切れ

ない感情でもって人は揺さぶられ、よけいに苦しむものだと思うから。少なくとも私や、

私の子どもはそうだった。もちろん、この沙織にそういう部分が全然なかったとは言え

ないにしても。

父の卑弥呼にしたって、一度はあきらめて捨てた人生の子とはいえ、大人になった

一人娘と邂逅し、最後は不器用ながらも思いを伝えて今生を後にすることができた。

それってすごく安らかな気持ちだったんじゃなかろうか。人のすることは善悪だけじゃ

推し量れない、たとえ生前どんなことをしたとしても最後は許されてあるべきだろうと

私は思うから。そして卑弥呼を失い、また一人ぼっちの奈落に落ちそうだった晴彦は

沙織と出会ったことで虚無から生の方向へ向くことができた。沙織の中にある現実の

パワーで。もしかしたらこの2人は愛するDNAでもって新たな可能性が開けるのかも

しれない。ラストはほのかに、ハッピー・エンドといえそうな終わり方。

それでいて、どこかに切なさの余韻が残る映画だと思う。

黄昏に海を見ていて、もうちょっとこの瞬間、この光のなかにとどまっていたい、と感じ

させるような、そんな気持ちになる作品。

結果的に、私がこの映画を好きだったかというと、かなり好きな映画だったと思う。

まず、このメゾン・ド・ヒミコのロケーションは私にとっては最高だし(部屋から海も見え

るしテラスにプールもある!)、会社で事務員をつまみ食いするような現実の男より、

私は夢みるオカマのほうが好きだから。来月からここで住み込みで働いて、と言われ

たら、すぐにOKするかも。

この映画がけして明るい内容ではないのにサラッとしているのはドライな台詞まわし

によるところが大きいと思うけれど、驚くべきはこの脚本を書いた渡辺あやで、島根

なんていうところに住んでいてどうしてこれほど都会的な乾いた台詞が書けるのか。

彼女は脚本家になった経緯もユニークで、脚本家になる前の彼女は島根でふつうに

働く主婦だったそうだ。それが妊娠・出産を通して1人で家にいるようになってからは

もうとにかくさみしくてさみしくて、さみしさまぎれに頭の中でいろいろ妄想していたら、

いつしか妄想のなかの人々がそれぞれ勝手に変な動きをし始めたので、それをメモ

しているうちにいつの間にかストーリーができあがっていたのだという。すごい。こうな

ると妄想もあながち意味のないものでもない、と思える。

ただ、この映画が好きじゃないという人が、どういうところが好きじゃないのかというの

も、なんとなくわかる。そういうあなたは節度があってまっとうだ。

さて。あなたはどちらでしょう。

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2011年8月 7日 (日)

なんにもない、があるところ/めがね

Megane_2   

昨日プールから帰ってきたらツタヤディスカスからDVDが2枚届いていて、息子からは

「しばらくこの人の映画は見たくない」と言われていたのだけれど、この『めがね』から

見ることにした。プールで泳いだ後は単純に身体が疲れていて、頭を使わなきゃなら

ないようなのとか神経にこたえるようなのはできれば見たくないからだ。

さて、この『めがね』。

最初は試されてるのかと思った。今の自分のこころのありようを。

というのも荻上直子監督のこの映画、いつものことながら(というより、いつも以上に)

まったく説明がない、台詞が少ない、間がありすぎる、いっこうにストーリーが展開しな

い、起伏がない。ないない尽くし。もしかして映画館で見てたら寝てたかもしれない。

そして、それはそのまま主人公タエコ(小林聡美)の置かれた状況そのままだ。

少しでもこちらにせかせかしたところがあったらこの間は耐えられない。気持ちの余裕

が無いときには見られない映画かもしれない。いや、そういうときにこそ見るべきなの

か ・・・・・・

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ざっとあらすじを書くと、舞台はとある小さな南の島。

そこに住む若い高校教師ハルナとビーチ近くで民宿を営む中年男ユージの頭に、あ

る日、天啓のごとき予感が降りてくる。「来た!!」 そして、申し合わせたかのように

ビーチでいそいそと海小屋の設営を始める2人。そこへやって来たのはメガネをかけ

た初老の女サクラ(もたいまさこ)で、彼女はまっすぐに彼らの前まで歩いて来ると、ま

るで何かの始まりの儀式のように深々と一礼する。そのころやはりプロペラ機のタラッ

プを降りやってきたのは、いかにも都会からやって来たらしい黒ぶちのメガネをかけ

た1人の女、タエコ。南の島に来たという割にはタエコの服装はきちっとし過ぎていて

黒い服は暑苦しく、およそリゾートという感じじゃない。それもそのはず、季節はシーズ

ンオフの春なのだ。地図を頼りに大きなスーツケースを引きずり白いビーチを横切っ

てやっと着いた先は、一見ただの民家のようにも見えるユージがやっている民宿ハマ

ダ。どうやら宿の人間はこの男1人だけらしい。部屋を案内してもらって食堂で一息つ

くタエコの前でユージは何やらご馳走を重箱に詰め始め、当然それがこれから自分に

供されるのだろうと思って見ていると、「今日は大切な人が来たからこれから外で食事

です。あなたも一緒にどうぞ」と言い、それを断ると「じゃあ、冷蔵庫の中の物を勝手に

食べてください」と言って重箱を風呂敷に包んでさっさと出かけて行ってしまう。冷蔵庫

を開けると生の魚が皿の上に一匹ゴロリ。

このあたりからタエコの頭のなかは『は?』の連続になってゆくのだけれど、ユージ、

ハルナ、サクラが同時に『は?』となったのは、タエコが「観光をしたいので、このあた

りの名所を教えてください」と言ったときだ。は? ここで観光?!

彼ら3人が言うには、ここには観光するようなところは何もないという。

そう、つまり、ここでは『たそがれる』くらいしかすることがないのだ。

た、たそがれるって ・・・・・・ な ・・・ なに?! (タエコの頭の中)

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たぶん東京で、いつも自分に何かを課して(あるいは強いて)一生懸命生きているタエ

コのこころはブロックだらけだ。見知らぬ他人へのブロック、習慣へのブロック、食への

ブロック、肩書きへのブロック、言葉へのブロック、素直さへのブロック ・・・・・・

タエコは自分ひとりでいるとき以外はリラックスできない女。

そんなタエコの、自分に都合のいい便利な幻想はここではことごとく裏切られる。

ここは欲しいものがすぐ手に入る便利な東京ではないのだ。

この映画のタイトルになっている『めがね』には大した意味はないということだけれど、

いつも潜在意識のどこかで生真面目に頑張らなきゃならないと思っている、それも心

底そう思っているならまだしも、ほんとはやる気なんか全然ないのに世間の空気読ん

でここは頑張ったほうがいいとか、つい良い人をやってしまいがちな日本人を表す象

徴が、イコールめがねなんじゃないかって気がする。

郷に入れば郷に従え、という言葉があるように、何かをあきらめたり手放したりして初

めて見えてくるものがある。便利なものが詰まった重い荷物を手放したら、不便だけ

れど身軽になって今よりもっと自由を感じられるかもしれない。人がすすめる今まで苦

手だったものを素直に食べてみたら、意外や意外、これがすごくおいしかったりして。

タエコが重いスーツケースを捨ててそんな気持ちの変遷をたどったように、見ている側

のこちらもこの映画に映画的起伏を求めるのをあきらめて気長に見ていたら、無性に

このビーチに行きたくなってきた。だってどこにも行くところがない、何もすることがない

ってことは、逆に言えばここで何をしてもいいってことで、それってふだんの日常から

考えたらまさしくパラダイスではないか!

日常を離れたこんな南の島で、それこそ何もしないでただ海を見ながらたそがれたり

家族や友達と夕暮れに焚き火をしながら時間を忘れてまったりしたり、朝のビーチを

コージ(犬)と一緒に散歩できたら、どんなにいいだろうなぁ ・・・・・・

そして、萩上監督にとってこの人は映画のミューズなんじゃないかと思うサクラ役のも

たいまさこは、ここでも魔法使い的扱いでキーマンである。さらに監督の今までの映画

同様、この映画にもおいしいものを食べるシーンが満載だ。ハマダで毎日ユージさん

が作る朝食とか、サクラがビーチの海小屋で出してくれる氷あずきとか、夜の庭でする

バーベキューとか、ゆで立てのでっかいロブスターにみんなでかぶりつくシーンとか。

そんなのを見ていたら、3月11日の震災後の今では特にだけれど、目の前にきれい

な海があって、心底おいしいごはんがあって、それを一緒においしく食べられる相手が

いるだけでしあわせだー という気持ちになる。 いや、ほんとになりました。

でもやっぱり私はこの映画は映画館では見ないね!

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というわけで、いろいろ書いたけれど荻上監督のいいところはひとつひとつの絵がきれ

いでポップなところ。どこか懐かしい大人のおとぎ話みたい。

そんな中でもこのけったいなメルシー体操は大いに気に入りました。

これ、プールの準備体操でやったら全身ほぐれていいかも!

 YouTube  →  メルシー体操 

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2011年6月26日 (日)

『トイレット』な休日

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昨夜はJR湘南新宿ラインが27分も遅れて、あわや終電に乗り遅れて帰れなくなりそ

うなところを新宿駅で友人と走って走ってなんとかぎりぎりセーフで西武線に乗り込み

ホッとするもののドッと疲れが襲ってきた12時過ぎ。1時前にやっと家に帰りついて鏡

を見れば、そこには梅雨時どうにもならないバアバアの髪をしたやつれた自分がいて

やっぱり週末の横浜ライブはちょっと無理かなあ、と思う。それから盛りだくさんな1日

を振り返りつつ、ぼーっとしながらお風呂に入ること1時間。2時半過ぎに髪を乾かし

やっと寝て、今朝は11時近くまで眠り、昨日友人にもらった”まったりした休日にぴっ

たり”だという『トイレット』のサウンドトラック・アルバムを聴いている。今日はひんやり

と湿ったミスティな曇り空で、その適度な湿度が音の響き方をヴィヴィッドにしてくれて

いるようだ。空間を感じさせるやわらかなピアノの響きがなんとも心地よく、瑞々しい。

『トイレット』

震災後1ヶ月余りのブランクを経て、それから何本の映画を見たのかパッと思いだせ

ないけれど、これもその中のひとつ。公開当時、友人がすごく絶賛していた映画で、

『かもめ食堂』の荻上直子監督の最新作。

そして『かもめ食堂』同様、今回も登場人物の”これまで”についてはほとんど語られる

ことなく、物語は”今”このときから始まる。

 ”今日、ママが死んだ。

 そう大きくない家と、猫のセンセーと、日本から来たばーちゃんを残して”

こんな風に。

残されたのはパニック障害を患って5年前から引きこもっている長男モーリーと、就職

して唯一この家を出て自立していたプラモデルおたくの次男レイと、生意気で我儘な

大学生の長女リサの子ども3人。そして、もうひとり ・・・・・・。

たぶん自分の死期を悟ってのことだろうと思うけれど、生前、母がプロにお金を払って

まで探し出した小さい頃に生き別れになったという母の母、つまり子どもたちにとって

は祖母にあたる人、ばーちゃん。このばーちゃん、突然、異国の地に引っ張り出された

というのに病気の母を最期まで献身的に看病し、母が逝ってしまってからはショックで

猫のセンセーと一緒に自室にこもったままなのだ。彼女が2階の部屋を出てくるのは

朝、トイレに行くときだけ。そして、みんなが困るほど長い長いトイレの後で、必ず出て

きたドアの前で深いため息をつく。それをいぶかしく思ったレイはいろいろ考えてみる

のだけれど、さっぱり理由がわからない。なぜなら、ばーちゃんは全く英語ができず、

一言も発することなく無表情で、そして日本人の母を持つ3人の子どもは全く日本語

ができないからだ。これはそんな、言葉の通じない、文化的ベースのまったく違う、

そして血のつながりさえあやふやな”家族”がひとつ屋根の下で暮らし、どうコミュニケ

ートしてゆくかという物語。

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この映画の中でもばーちゃんこと、もたいまさこの発する違和感と存在感は圧倒的で

ほんとにこの人は昔から不思議な女優さんだなあ、と思う。勝手な推測をすれば萩上

監督はこの人を使うことで映画の中で日本人のスピリチュアリティやメンタリティを表

現しているんじゃなかろうか。「言わなくてもわかる」「言葉がわからなくても通じる」

「気配から察する」「あるがままを静かにうけとめる」というような日本人の特性を。

そう、それは何でも言わなければ通じない欧米にとってはじゅうぶんな特性だろう。

そして3人の子どもの中では最も繊細なモーリーが誰よりも早くそのばーちゃんの特

性に気づいて心のドアを開いてゆく。彼はそれまで捉われていた恥の概念から解放

されて自分の内から欲するままに生きることに歓びを見出す。そして、それは誰よりも

ばーちゃんによって最初に肯定される。世の中の大半の人が変だと思うようなことを

まっすぐに肯定してくれる人がいるって、なんて素敵なんだろう!

あるがままを受け入れられる、肯定してもらえるって、イコールそのまま愛、だから。

そして、それは徐々にほかの2人の心にも伝わってゆく ・・・・・・

私は国内外の多くのスピリチュアリストたちが言うように、これからの世界を牽引して

ゆくのは日本のスピリットだと思ってる。ネガティブなことばかりに目を投じてたってしょ

うがない。今こそ大いにその日本人の特性を生かそうじゃないの!

星の瞬きほどに短い一生、されど人の一生、好きに生きなきゃね。

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映画を見てない人にも薄々わかったかもしれないけれど、なぜタイトルが『トイレット』と

いうかは、見てからのお楽しみ。

個人的には私は引きこもりのモーリーがとっても気に入りました。

こんな子だったら私はスカートはいててもいいや! ってほどに。

モーリーのスカート姿とばーちゃんの煙草の吸い方はほんとにクールでしたねえ・・・

この雰囲気のある男の子は映画の中ではピアニストだったけれど実際には絵描きさ

んだとか。そして、音楽好きの私からするとそのモーリーがリストのエチュードを弾くシ

ーンが圧巻で、鳥肌ものの一音聴くなり、「こりゃ、本物だ!」と思いました。

それで映画を観終わった後すぐにサウンドトラックを探すにいたって今回これを友人

からもらえることになったのだけれど、ライナーノーツによればその圧巻のピアノを弾

いていたのはカナダ生まれのデイヴィッド・ルイというピアニストで、華々しいキャリア

を持つ本物のピアニストでした。彼は現在、トロント王立音楽院のグレン・グールド学

校で教鞭をとっているとか。いつかそのデヴィッド・ルイのアルバムも聴いてみたい。

そして最後に母として発すれば、うちの2人の子どもたちも大いに好きにやってもらい

たいなあ!!!(コーテーションマーク3つ!)

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 * 映画「トイレット」オリジナルサウンドトラック

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2011年6月23日 (木)

いのちの子ども

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昨日コトリさんからもらった、酒井駒子さんの手になるフライヤー。

7月16日からヒューマントラストシネマ有楽町で公開される映画、『いのちの子ども』。

震災後のこんな時期だから、娘を連れて見に行こうかな、と思う。

 命の子ども 公式サイト  →  http://www.inochinokodomo.com/

 ( * クリックするといきなり音が出るので気をつけて!)

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2011年5月11日 (水)

反原発派も推進派も等しく考えなければならない問題

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震災から2ヶ月。

あの日、東北地方はひどい天気だったけれど、今日の東京もひどい雨だ。
いつもならこんな日は仕事でもない限り、よっぽどのことがなければ出かけることもないけれど、いまの私には家にいても1人になれる空間はどこにもないから、かえってこんな雨の日に家にいるのは気詰まりだ。早くこの状況をなんとかしたいものだけれど、私ひとりでなんとかできるものでもなし。仕事を早く切り上げて、ザーザー降りの雨のなか、吉祥寺にでかけた。
吉祥寺バウスシアター3。『100,000万年後の安全』を見るために。
混雑を予想して次の回のチケット受け付け少し前に行くと、エントランスあたりには数人たむろす人がいるだけで、整理券が配られている様子はない。受け付けの女の子に聞くと今回は整理券を配る必要があるほどの混み状況では全然ないので、上映時間直前に来てじゅうぶんに間に合うという。なんのことはない。とりあえずチケットだけ買って、それから1時間半近くも時間を潰すはめになった。でもそれがよかった。久しぶりに1人で珈琲を飲みながらぼぉっとする時間ができたから。
そして、時間になって入場した映画館の中はガラガラだった。
先月は上映数時間前から行列ができて整理券が配られ、なかなか見られない人もいたというのに? ・・・・・・ これも喉元過ぎれば熱さ忘れるってことか。よくないね。
さて、忘れないうちに書いてしまおう。

この映画は原子力発電所そのものではなく、原子力発電所から出る放射性廃棄物に焦点を当てて描かれている。監督したのは上の写真の人、マイケル・マドセン。
現在、世界30ヶ国で稼働している原子炉は435基。そのうち54基が日本のもので、それはアメリカ、フランスに次いで世界第3位だという。3月の福島原発の事故でもわかったとおり、原発を稼働している限り、そこからは常に使用済みの放射性のゴミともいうべき放射性廃棄物が出続ける。それは現在、最低見積もっただけでも世界に軽く25万トンはあるという。そして驚くべきことに、ゴミがすでに25万トンもあるのにそのゴミ処理場はまだ無いのだ、世界にひとつも! おかしな話じゃないか? 
しかも、それはゴミといってもただのゴミじゃない。ひとつ扱いを間違えば世界を終わりに導くほどの力があって、現在のところそれを無害化する技術は理論上はあっても現実的にはまだ無い、というゾッとするような代物だ。
これは、フィンランドにおけるそんな放射性廃棄物の世界初となる最終処分場『オンカロ』(フィンランド語で『隠れた場所、の意)』の建設をめぐってのドキュメンタリー。
監督自らすでに建設途中の施設内に潜入して撮影を行い、オンカロ・プロジェクトの実行を決定した専門家たちに直接インタヴューを敢行している。
ここで、なぜ世界初の放射性廃棄物の建設をするのが原発大国のアメリカでもフランスでも日本でもなく小国フィンランドなのかということを先に書いてしまうと、フィンランドはいままでに旧ソ連に国土を占領されたり略奪されたりとずいぶん苦しめらた過去があり、いまだ『ロシアの恐怖』が潜在的にあるという。そして、いまでも電力や天然ガスをロシアに依存していることから、ひとたび政情がおかしくなってロシアがパイプラインを断ち切るようなことでもしたら、フィンランド人は凍死してしまう。そこでロシアから解放されて、自国でエネルギー源を確保することはフィンランド人にとっては最大の安全保障だというのだ。いっときチェルノブイリの事故で反原発の気運が高まったものの、この安全保障という観点から現在では原子力発電に積極的で、いま5基めを建設中という。国民が原子力発電を容認している大きな要因は徹底的な情報公開で、国は国で、原発を推進するからには避けて通れない放射性廃棄物の問題に真っ向から取り組もう、ということになったようだ。将来起こりそうな色々な問題を予見して事前に処理する、そのほうが何かが起きてしまった後に対処するより遥かに安いコストで済む、というのがフィンランド人が物事に取り組む基本的な姿勢なのだと、スウェーデン社会研究所所長の須永昌博氏は言う。このあたり、数百年に1度起きるか起きないかわからない巨大津波に巨費を投じて備えられるか、と言った日本政府や東電とは大違いですね。

そして、もうひとつ。
オンカロをフィンランド国内に作ることになったのには地理上の理由もあった。原子力発電の専門家や科学者たちによるプロジェクトチームの人間はまじめに考えたのだ。環境や生物にとって危険極まりないそのゴミをどこに捨てたらいいのかを。
ロケットに載せて太陽に向けてぶっ飛ばせばいいという説、海底深く埋めたらいいという説などが出るなかで、堅固な地盤を持つ地底深く埋蔵するのが1番安全だということになった。そして、それに最適な土地があったのだ。それはフィンランドの首都ヘルシンキから西に240キロ離れた島、オルキルトという場所。その地下はなんと17億年前とまったく同じ固い岩盤に覆われた安定した地層だという。この先もまだ、戦争や飢饉やテロが起こりかねない地上とくらべてそこは極めて安全だ。そしてチームはその固い岩盤をこれから100年かけて(!)3段階にわたって地下500メートルまで掘り下げ、そこに巨大地下都市ともいえるような想像を絶するほど広大な放射性廃棄物の埋蔵場所、言ってみれば放射性物質の墓場を作ることに決定した。
彼らは言う。
今の原子力発電所とは違い、そこは電気でプールの冷却機能を保持しそれを人間が管理しなければいけない有人のシステムではなく、まったく人も電気も必要としない自己完結型のシステムでなければならない。さらにオンカロが高レベルの放射性廃棄物でいっぱいになって密封された後は、永久に、少なくとも10万年間は誰にも開けられてはならないのだ。いや、その存在さえ忘れ去られねばならぬ。それが現在の人類と未来の子孫の生命を放射性物質から守る唯一の方法なのだと。

この映画の問いかけはきわめてシンプルだ。
たしかにすでにオンカロ・プロジェクトは着々と進んでいる。
でも、いったい今まで人類が作った建造物で10万年ももちこたえたものがあっただろうか? そういうものを今の人類が作り出せるのだろうか? そしてオンカロは本当に誰にも封印を解かれることはないのだろうか? 万が一、間違って未来の人類がオンカロを掘り当ててしまったとしたら、彼らにここが宗教施設でも宝の埋蔵場所でもなく生命に危険な場所だとわからせる方法はあるのか? どうやって?
問いはシンプルだが誰もその問いに答えることはできない。
誰にも10万年後のことなんてわからないからだ。
そしてその問いはもっと根源的な問いを我々に投げかけているようだ。
最初に書いたとおり、このドキュメンタリー映画は原子力発電所そのものを取り上げているのではなく、今すでにある稼働中の原子力発電所から出る高レベルの放射性廃棄物のことを取り上げている。つまり、反原発派であるか否かに関係なく、いま原子力エネルギーからなる電気の恩恵を享受している人であれば誰でも等しく考えねばならない問題がそこにあるということだ。そしてそれを考えていけば福島だけに限らず、核燃料再利用施設のある六ヶ所村にも考えが及ぼうと思うし、最終的なひとつの考えに行きつくと思う。

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ガラガラの映画館の中には、なんでこんな土砂降りの日にわざわざこの映画を見に来たのかわからないノーテンキな年配のオバサン2人連れがいて、会場が暗くなってもまだ喋り続ける彼女たちのヒソヒソ声とクスクス笑いが少々耳触りだったのだけれど彼女たちはタイトルロールが終わって明るくなるや否やまたお喋りに花を咲かせ始めた。いわく、『10万年後の安全って言うけどいったいどこが安全なのよねーえ。タイトルを10万年後への伝言、に変えたほうがいいんじゃないの。アハハハ・・・』 だった。
たしかに映画の中で監督は10万年後の誰かに常に語りかけていた。でも、それは私には10万年後の人類に語りかけるようなふりをして、実はジョン・レノンが『イマジン』を歌ったように、目先の便利さや豊かさに、人類の進歩という大義名分に、GDPの拡大に、お金や利権や欲望に囚われがちな我々現代人に、10万年後という途方もない未来のイメージを少しでも喚起させるためだったのではないかと思う。

さて、あなたは自分とせいぜい自分の子どもが生きてる間に原発が問題を起こさなければこのまま使い続けるほうを選ぶ? それとも?

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 100,000万年後の安全 公式サイト

 上映時間75分。 
 映画館によっては明日まで、ほか期間限定で上映中。

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2011年3月28日 (月)

人生は前にしか進まない

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朝ネットを開くなり被災地の悲惨なニュースが立て続けに目に入って息が詰まった。 

それから今日は震災後2週間ぶりに仕事で地下鉄に乗った。

駅のホームはどこも節電で暗く、ホームにいる人の顔もどこか寒々しく、エレベーター

は止められていて、地下から外までの長い階段をいくつも上るのに息が切れ、節電

生活、アナログライフに慣れるには、こりゃ体力が必要だ、もっと筋肉つけなければ

と思う。渋谷の駅前交差点の大画面はもちろんまっ黒で何も映っていないし、いつも

は大音量で流れている音楽もない。喫茶店に入っても照明、BGMともに控えめだ。

私が乗る私鉄は行きは電車の中の電気も暖房もついてなかったけれど、帰りは各駅

しか走ってなかったから帰宅にずいぶんと時間がかかった。スーパーに入れば相変

わらず空っぽの棚が目立つし、照明ばかりか暖房もしてないので寒い。これじゃ、ここ

で働く人も大変だ。今年はなんだかさみしい春だなぁ、と思いながら帰った。

帰宅して夕飯を食べた後、震災前に借りたまま、まだ観ていなかった映画を観た。

アキ・カウリスマキの『過去のない男』。

映画は列車の中で煙草を喫う、さえない中年男の姿から始まる。暗い夜の車窓。

ヘルシンキの駅に降り立った男は、所在なく公園のベンチで朝を待っているうち眠って

しまい、日本で言うとタチの悪いチーマーみたいな若い男3人組に襲われていきなり

バットで頭を殴られ、ボコボコにされてしまう。瀕死の重傷を負い、血まみれで運ばれ

た病院でいったんは心肺停止するものの、奇跡的に意識を取り戻した男はそのまま

病院を抜け出し、次に助けてくれた一家のコンテナの中で目覚めたときには、すっかり

記憶を失っていた。財布も身分証もなく、自分の名前すらわからない状態。

けれど好運にも彼を助けてくれたコンテナ生活者の一家は男を追いだすことなく受け

入れてくれ、何もわからないままに着の身着のまま男の新しい生活が始まってゆく。

そしてある日、コンテナの主人の男が『ディナー』と称する金曜日の救世軍の焚きだし

に誘われるまま行って、そこで救世軍で働く1人の女性と出会う。


さて、この映画。

見た目だけで言えば美しいヒロインも、カッコイイ男の1人も出てこない。

それどころか出てくるのは、日本人から見たら妙に固い表情の、こわい顔をしたつっ

けんどんで無愛想な人ばかり。

主人公は記憶を失った中年男と、それまで全く男に縁のなかった中年女だ。

そして場面の大半を占めるのは、ホームレスが住む、住居というにはあまりにも寒々

しくみすぼらしいボロっちいコンテナと、ゴミ溜めのような貧民エリア。いわゆる社会の

底辺の底辺の人たちの暮らしを描いた映画。カメラはどこまでもリアリスティックで写

実的。女性の皺まで美化することなくしっかり映してしまう。それでいて映像がどこか

ポエティックで美しいのはなぜなんだろう?

ふつうに考えたら、暴漢に襲われて半死半生の状態で金品・所持品はおろか記憶ま

でいっさい失くし、助けてくれたのは貧民のコンテナ生活者、なんて言ったらそれこそ

不幸の極み、絶望的な状況だろうと思うのに、主人公の男ははとりたてて我が身の

不幸を嘆くこともなく淡々と今日を生きてゆく。コンテナ一家に世話になりながらも、

かといって彼らにへつらうことなく必要のないことは必要ないとはっきり言い、お金が

なくてもないなりに楽しみ(彼の場合は煙草と音楽)を捨てず、それを身近な人にも分

け合い、できるかぎり身辺を整え、どこの誰かもわからない身でありながら、人を恋す

ることもあきらめない。つまり、過去を失っても明日がどうなるかわからなくても、今日

生きることをあきらめない。

そして一見ぶっきらぼうで冷たく見えた人たちも、関わってみれば実はとても優しい。

その優しさは日本人が思うよりずっとあっさりしていてクールに見えるほどかもしれな

いけれど。

そして、この実に淡々とした映画に花を添えているのが食人鬼ハンニバルと名付けら

れたかわいい犬。弱者を不当に扱う権力はどこの国も共通なれど、人の情と、良い人

を見分ける犬の嗅覚もまた万国共通。

アキ・カウリスマキが彼らに向ける眼差しはリアリスティックでありながらとても優しく、

どんな人間にも尊厳があり、どんな過酷な状況にも生きる術があることを教えてくれ

る。まさに震災後のいま観るにふさわしい映画ではないかと思う。

もちろん、これは映画だ。きわめて映画的な映画と言える。現実じゃない。

でも、映画中の台詞のひとつでありキャッチコピーともなっている『人生は前にしか進

まない』は、しごくシンプルにして真理だと思う。

暗いテーマなのに少しも暗く感じないのは、全編通して散りばめられているユーモアと

音楽センス! とにかく音楽がいいです。ミスマッチ感も含めてキッチュでレトロ。

救世軍バンドでヴォーカルを務める救世軍の女上司の歌なんか、キューバのオマー

ラみたいに哀愁があって味がある。ラストに流れる『ステイ』という曲の字幕スーパー

を眺めていたら、『音楽だけがこの世を楽園にする』という歌詞があって、ここにカウリ

スマキのマインドを見たのでした。

以下、書きとめた歌詞。

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ステイ  (マルコ・ハーヴィスト&ポウタハウカ)


行かないで どこか遠くへ

時は過ぎ去るけれど まだやり直せる

心配しないで 

僕らはだいじょうぶ

物語を終わらせれば

すべてはうまくゆく

聞こえるかい

あの鐘の音

行く手に輝くのは 希望の光だけ

僕のそばにいて

お願いだ

君がいれば うまくいく


逃げないで どこか遠くへ

逃げるのは たやすいこと

多くの人が さまよってる

君が消した愛を ハイウェイに見て

音楽だけがこの世を 楽園にする

仮面のような メロディと歌詞

僕のそばにいて

お願いだ

君がいれば うまくいく

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