日常のなかの詩/詩のある日常

2016年10月10日 (月)

青葱を切る

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気温がいちだんと下がって大気がひんやりした朝、藤本さんから詩集が届いた。
藤本さんに初めて会ったとき感じた清冽で静かな印象そのままに、美しい本。

 青葱を切る

このタイトルを見たとき、日常的に料理をする実に藤本さんらしいタイトルだな、と思った。
すぐにもひらいて読みたかったけど、今日はでかける予定があったから、あとできちんとこの本だけの時間をつくって読もう、と思って机の上に置いてから、あ、待てよ、電車の中で読もう、と思ってB5の和紙のレターペーパーを何枚か貼り合わせてブックカバーを作ってくるんだ。持ち歩いても汚れないように。
電車の中で詩集なんか読むのか、と思うかもしれないけれど、昔からわたしはそこを『幻想の箱』と呼んでいた。フルタイムではたらく勤め人のわたしにはそれくらいしか時間がなかった、ともいえるけれど、街っ子の性か、雑多な人の中でむしろ独りぼんやりできる自分がいた。
あまりにも混んでて本も読めないとき、つり革につかまって車窓に流れる外の景色を見ていると、ふいに言葉が降りてきたりして、ああ、わたしはまだだいじょうぶ、と安心したりもした。といって、その言葉を追いつづけることもできないまますぐに降りる駅について、怒涛のように現実の時間に押し出され、微かな言葉の気配のようなものはあっという間に虚空に掻き消されてしまうのだけれど・・・・・・
でもそれが、そんなに混んでない午後の電車なら、それはまさしく幻想の箱だ。
詩集は一気に読むものじゃないから、書き手の息づかいのままに言葉を音にしては止まり、音にしては止まりして、ときどき膝の上に本をひらいたまま窓の外をぼんやり眺めて、水面に投じられた小石が静かに波紋を広げてゆくように、自分のなかに広がるイマジネーションに浸るのが好き。

そうして今日、休日なのに意外と混んだ電車に乗って、つり革につかまったまま詩集をパラパラっとやったらすぐにいくつかの言葉が目に飛びこんできて、それだけで、ああっ! 詩って恥ずかしいな、と思った。言葉って恥ずかしい。
それから席が空いて、電車のシートに座ってこんどは落ち着いて詩集をひらいた。
そして最初の詩を読んで、この人ってすごくリズム感のいい人だな、と思った。
息が合う、ということだと思うけど、どんなにすごい賞を獲った新進気鋭の詩人の詩でも、そこが自分とまったく合わないと、自分のなかに入ってこないし、チューンしないから。藤本さんはわたしより遥かに年下の方だから、もう自分なんかとはかけ離れた感覚の言葉を綴る人かと思いきや、そんなことは全然なくて、むしろそれは自分になじむものだった。

最初の詩は、瞬く間に過ぎてしまう『春』という、一見のどかで優しげな季節の、明るくて空虚な、誕生あるいは開花に向かって一気に充溢していく生命のエネルギーの中で主体が感じている落ち着かない、くるしい感じをよく描いていて、その前のめりな勢いがこの詩集のスタートにぴったりだと思った。この詩を最初にもってきたところがまず素晴らしい!
それから数編、春の詩がつづいて、そう、この詩集は春ではじまるんだな。
藤本さんのなかで激しくいろんことが動きはじめたのが春だったのかもしれない。
数年前の。

『ミチルの夏』まで読んで本を閉じた。
後半の、言葉の臨場感が凄かった。
女言葉で書かれた一見ライトヴァースのこの詩のなかには、母親の死に直面した若い女の子のリアルな感覚が見事に描かれていて、それは自分の経験したことともちょっと重なって、いったい藤本さんてなんなのかな、と思った。
つまり、近くにいたらぜんぶ見透かされそうな。
それから隣に座っていた娘に「藤本さんの詩、すごくいいよ」といった。
よかったね、と娘が笑顔でいった。

詩集に添えられた、本のタイトル文字そのままの細い字で書かれた手紙には、『月並みな言い方ですが、あとはひとりでも多くの方のところに届き、そのひとりひとりの方の中で詩が育っていって欲しいと思います』と書かれていた。
自分の書いた詩が他人の中で育つ、なんて自分では考えたこともなかったけれど、たしかにそういうこともあるかもしれないなと思う。
ときどき何かの風景を前にして、自分の言葉じゃない、自分がこよなく愛する詩人の言葉の断片がふいに頭に浮かぶことがあって、それは繰り返しその詩を読んだことでいつの間にかそれが自分の血となり肉となったからだと思っていたけど、それもまた詩が育った結果といえるなら。

藤本さんは中央線沿線に住む30代の詩人さんで、藤本さんのまわりには彼を支援するたくさんのご友人、たくさんのクリエイターたちがいるから、文字通りこの詩集はたくさんのひとたちの元へと運ばれるだろう。
そういう人の中には今回はじめて詩の本を手にした、という人もいるかもしれなくて、この詩集の中にあった『種』ではないけれど、人のこころを詩に導く最初の種となるかもしれない。

滅多に好きなものがない、お世辞は全然いえないわたしがいいと思った詩集です。
気になった方はぜひ手にとってみてください。

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藤本 徹 第一詩集 『青葱を切る』 

 装幀 清岡秀哉
 装画 西 淑
 印刷 繁栄舎印刷

 お取扱い店

 ●高円寺 Amleteron

 ●西荻窪 服と雑貨 イト

 ●吉祥寺 食堂・音楽室 アルマカン

お取扱店は徐々に増えていくんだろうなと思います。
11月には阿佐ヶ谷CONTEXT-s(ing企画)で出版記念展もされるそうです。

藤本さんのメールアドレス oldblindcat99@gmail.com に直接ご連絡すれば
送料込み1800円で送ってくださるそうです。

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2015年10月 7日 (水)

秋猫記

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 秋猫記


頭を下げ肩をゆすってゆっくり這い

立ち止まって繊細に尻をふる


ねらったとかげに跳びつき

ピンクの歯茎にくわえ髭をぴんと張って


得意げに座敷に上がり口から放して

片方の前肢でしつこくいたぶる


昼はひとみが細いから

なにしろこの世はめまぐるしい?


ミルクを手まえ巻きの舌で飲み

ゆっくり戻って死体をたしかめる


夏の庭に動くものすべてが

おまえの敵だった花ござ下のミイラ


不安な夕ぐれから隠れたつもりだろうが

ふようの葉のしたに耳が見えてるぞ


じきに虫たちがおまえの犠牲になろうが

冷えたこまかい雨だって降ってくる


用心しろよ濡れたおまえはみじめだ

遠出から帰って明るい電灯の下で


ていねいにからだを舐めまわしたって

なかなか暖かくならないんだミャオと低く鳴いたって・・・


マフラーみたいに丸くなって目をだるそうにひらくと

大きな黒いひとみになっていて


また閉じて咽喉であるじに慄えるごあいさつか

猫満つどき一度起きて大あくび


からだを伸ばし足を突っぱり

畳で爪をといで少し考えこみ


雨戸をあけてやると顎を闇へ・・・

thy fearful symmetry  は不定で一定だな


(思潮社 現代詩文庫61 北村太郎詩集 未刊詩篇より『秋猫記』

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私が毎日その道を通らなくなってしまったということもあるかもしれないけれど

最近パンダに会うことが少なくなった。前はいついかなるときでも(たとえ夜遅

くであっても)どこからか私をみつけてはニャーといいながら勢いよく飛んでき

たのに。あんまり長いこと見かけないから、このあいだなんかはついにパンダ

も人の飼い猫になったか、とも思ったけれど、どうやらそういうわけでもないら

しい。それにパンダに限らず、かつては路上にも近くの公園にもあれほどたく

さんいた猫をぱったり見なくなったということは、人の手が入ったということだろ

うか。私の住んでいる市はとってもプアで猫どころか人間にさえ手厚くないから

『地域猫』なんてしゃれたものがあるわけもなく、手が入ったはイコール追い払

われたか保健所に連れて行かれたかを意味する。あるいはこのあいだあたり

長いことかけて夏のあいだに生い茂った草の刈りこみと樹木の伐採をしていた

から、もしかすると猫が嫌がるものを地面に撒いた可能性もある。いずれにし

ても猫がいなくなったのにはなんらかの理由があるだろう。すっかり草が刈られ

て、もう猫が隠れるところもなくなって、猫のほうからどこかに行ったのだろうか。

それに直近でパンダに会ったのは2回とも昼間だった。

昼より夜のほうが人目につかず安全にエサにありつけることをよく知っているの

は猫のほうで、エサをねだって出てくるのはたいてい夜で、昼間はどちらかとい

うと余裕で遊び半分で声をかけてくることが多かったのに、そのパンダを涼しく

なりはじめたころから夜に見かけなくなった。

もしかしたら昼間は自由に出入りさせてもらって、気温が下がる夜は暖かい家

の中にいるのだろうか、なんて、こちらの希望的観測で考えてみたるするけど

実際のところはパンダも年をとってきて、吹きっさらしのところにいるのがツラク

なったからどこか風の当たらないところにでも隠れているのかもしれない。

ここ数日で一気に気温が下がり大気が冷えてきたので気になって、買いものに

出たついでに植え込みの中を覗きながら歩いていたら、白いものが見えニャ、

と小さな声が聞こえた。前だったらすぐ出てくるところがなかなか出てこない。

やっと出てきたと思ったら以前のように愛嬌をふりまくわけでも、くるっと回って

みせるでもなく、なんだかうらめしそうな顔をしている。

春の頃はまだふっくらしていて元気で、好奇心旺盛なところを見せていたけど

前より毛艶も悪くなって、痩せて、妙にさめた表情をしていて、なんだか急激

に年をとったように見える。年老いた人間がひと夏ひと冬越すのが年々大変

なように、のら猫にとっても夏を越すのは大変だったのだろう。特に今年は異

常気象で雨ばかり降って湿度が高かったから。

昼間はカリカリをポケットに入れてないので話をしながらカメラを向けていたら

なんだまたそんなことか、といわんばかりにそっぽを向かれてしまった。

夜出てきてもまた会えないのだろうしと家まで戻ってカリカリをやると、のその

そやってきて食べていたけど、あとで見たら残していた。最近、食も細くなった

ようだし、いったいどうしたものかなあ ・・・・・・

詩人の北村太郎は大の猫好きで、飼い猫のほかに準飼い猫もいろいろいた

らしく、猫のことを書いた詩も多い。それらを読むとじっつによく猫を観察して

いて、よっぽど猫が好きだったんだなあ、と思うのと同時に季節の情趣もよく

でていて、いつもぼんやりしてしまう。つまり北村太郎がのら猫に自分の行く

末を投影していたのは間違いなく、でもそれって自分もおなじか、と思う。

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2015年7月16日 (木)

小さなあまりにも小さな

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小さなあまりにも小さな


小さなあまりにも小さな

ことにかまけて

昆虫針でとめられた一羽の蝶のように

僕は身動きひとつできない

僕のまわりを

すべては無声映画のように流れてゆく


両国の川開き

徳球北京に死す

砂川の強制測量開始

台風二二号北進

すべては

無言で流れ去るばかりだ


自己嫌悪と無力感を

さりげなく微笑でつつみ

けさも小さなユリの手を引いて

僕は家を出る

冬も間近い木漏れ日の道

その道のうえを


初夏には紋白蝶がとんでいたっけ

「オトーチャマ イヌよ」

「あの犬可愛いね」

歩いているうちに

歩いていることだけが僕のすべてになる

小さなユリと手をつないで


(黒田三郎 詩集『小さなユリと』より、『小さなあまりにも小さな』 )

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昨日も夕方までコンピュータの前で汗をかきながら仕事して、夕方シャワーを

浴びて夕飯の買いものに行った。途中、ネットのニュースで安保法案の強行

採決を知ったけれど息子も私もどちらも口をひらかずにいた。夜半過ぎから

降りだした雨はどんどんひどくなり、窓をたたく激しい雨音を聞きながら今夜

Yも国会前のデモに行っただろうか、夜遅く雨に降りこめられてなければいい

けれど、と思った。Yにももう長く会ってないから彼女がいま何をしてるかもわ

からない。思いだすのはもう何年も前のこと。まだ小泉政権だったころだ。

久しぶりに会った彼女は難民問題を扱うマイナーだけどけっこうラディカルな

雑誌に署名原稿を書いていて、小泉政権下でこの国がいかに右傾化してい

るかを説き、自分もこんなことしてたらいつか捕まるかもしれない、というので

私は「まさか。戦時中でもあるまいし」といったのだけれど、それがまさかとば

かりもいえない時代になってきたぞ、と思ったのだった。

なかなか眠れず悩ましくも激しい雨は一晩中つづき、大雨・洪水の警戒警報

を知らせる携帯のアラートは朝まで何度も鳴りつづけた。雨は朝になっても

やむことなく、視界がけぶって見えるほどだった。3.11以降、よほどじゃない

くらい昼間は電気をつけないダイニングルームは真っ暗。太陽が出てないぶ

ん、気温は下がったのだろうが湿度がものすごくて蒸し暑い。昨日の今日で

当然のことながらどこもかしこも賑わしく、情報があぶくのように出つづけてい

る。昔は人の頭の中は世に出て発言しているわずかの人についてしかわから

なかった。いまだってインターネットに出てこない人の頭の中はわからない。

インターネットによって新たな表現のチャンネルができ、誰でも自分の考えを

いえるようになったのはいいことだけれど、でも一方で嫌なのは、3.11以降

常にどこかで誰かがつまらない小競り合いをしていること。つながる人・つな

がらない人、何かをいう人・いわない人、デモに行く人・行かない人、etc,etc。

そこでいつも誰かの動向を見ながら他人を攻撃している人や、自分に劣等感

やうしろめたさを感じている人がいること。今回も右とか左とかいいあってる

けど、安倍首相のやっていることはほんとうの意味での右じゃないんだから

それに反対したところで左ってことにもならないじゃん、と私は思う。領海を侵

犯してサンゴを盗み、海の生態系にダメージ負わせる他国船はなんとかした

い、敗戦国として耐え難きを耐えてきたところもいっぱいある、でもだからとい

って今回の自衛隊の海外派兵を伏線とした安保法案には賛成できない。

安倍さんが何をどういおうといま世界では、日本が戦後70年たって『戦争し

ない(できない)国』から『戦争をする国』になったと報じられているのだから。

パワー・ポリティクスというのだそうだけれど、それを最大限に使って国益を

上げることだけが果たしてほんとうに国や国民のためになることなのか、と

思うし、現実には右を向いても左を見ても、この国をまっとうな方向に牽引で

きる強いリーダーはいないしで、現実には右にも左にもなれない、というのが

ほんとうのところなんじゃないだろうか。

そんななか、たとえアメリカとの最初の安全保障条約からの流れをまったく

知らない若い人であっても、ごくシンプルに「戦争はぜったい嫌だ!」「表現

の自由を奪われたくない!」という気持ちだけで国会前に駆けつけた人が

多くいたのは価値あることだと思う。たとえそれで何かがどうなるけでなくて

も、また次回の選挙の投票率向上につながるのなら、なおさら。

ここ数日来いろんな人の考えを読んでいろんなことを考えれば考えるほど

いま何をするのが最も有効なことなのかわからなくなって頭がぐるぐるした。

今日も夕方、買いものに出ようとしたら息子が突然「なんだか今日も苦しい

一日だったね」というから、それが今日の湿度90%の天候をさすのかメンタ

ルをさすのかわからなかったけど、まあ、どっちもなんだろうなと思った。

それでつい「ネトウヨというのはいつごろからいるんだろう?」と聞いてしま

い、それがもとでまたしても喧々諤々の議論になった。最終的にはちゃん

と話し合えてわかりあうことができ、お互い同じようなところにいたんだとい

うのがわかったからよかったけれど、こと政治の話はたいへん疲れる。

面と向かって家族とでさえこれだから、顔の見えないインターネット上で他

人とキーボードを連打しあって議論、なんてものをする気はまったくない。

ぐるぐるする頭を開放しに外に出ると、上がったかと思った雨はまだ時折り

ぱらぱら降ってきて、相変わらず風が凄かった。

風の強い日、木陰のベンチに座って目をつぶっているとまるで海にいるみ

たいな気がするそこは昔、息子がまだ赤ちゃんだったころによく行った場

所で、風で荒れ狂う樹木を見ていたら、このまえ読んだばかりのこの詩の

ことを思いだした。

この詩と昨日にはいくつか共通するキーワードがある。

とりあえず昨日、2015年7月15日のことは記憶に刻んでおこうと思った。

夜、この詩についてのいい文章をみつけた。

自分がこの詩を読んで思うこととはすこし違うところもあるけれど、奇しくも

今日、蟹座の新月にはふさわしい詩ではないかと思う。


 黒田三郎詩集 現代詩文庫を読む


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2015年6月30日 (火)

ぽえむぱろうるに行ってきた。

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6月もついに最後ということで、今日も仕事が終わるなり家を出て、娘と一緒

に池袋リブロに行ってきた。閉店だからということなのか、夕暮れ時の書店は

中も外も人でいっぱい。なかには閉店を告げる看板の前でiPhoneかざして写

真を撮る人や、書店の中で一眼レフでフラッシュ焚いて写真撮りまくる人やら

で終わり感が漂ってる。

でも2階の特設コーナーの『ぽえむぱろうる』はそうでもなかった。

JAZZと同様(って一緒にしていいかわからないけど)、詩のニーズは少ない

からだと思う。(潜在的ニーズは別として。)

壁には詩人の写真や直筆原稿が飾ってあったり、本の大きさも違えば様々に

意匠の異なる非日常の本が静かに並んでいて、ああ、こんなだったっけ、と思

った。そこはもちろん、昔の(本物の)『ぽえむぱろうる』とはちがうし即席感はあ

ったけど、でもこの空間はやっぱりすごく懐かしいものだった。マスにもアドにも

興味が薄い人間にとって、これほど居心地のいい場所ってない。それほど広く

はない静かな、閉ざされた空間に、非日常の色彩豊かで濃密な言葉がぎゅっ

と詰まっている感じ。そういう雰囲気、空気感。

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近くに椅子でもあってもっとくつろげたら、こりゃ、いつまででもいられるな、と

思った。思潮社がプロデュースしているコーナーながら、思潮社以外の本や

怪しげな(?)リトルプレス、希少な手製の私家版まで置いてある懐の深さ。

これぞ、ぽえむぱろうる。

前日まではそれほど興味もなかったらしく、「私は行かない」といいながらも

けっきょくついてきた娘は、リトルプレスが置いてある場所でさっそく1冊の

本を手にとって、まるで部数限定でつくられたお手製本のような本をぱらぱ

らっとやるなり値段も見ずに即座に「うわ! これいい! 私これ買う!」と

いったので、いつもはさんざん迷ってやめる人がめっずらしいな、と思った。

それからどれくらいそこにいただろう。

気づくと娘はいつのまにかアート本のコーナーに行ってしまっていたけど、

2人して何冊も本をまとめ買いして、重い荷物を持って雨の降りそうな空の

下を帰ってきたのでした。

そして家に帰ってから娘が即買いした本を見せてもらったらこれがもうほん

とうに素敵で、まいりました。

 中山直子(なちお)絵本『トラネコボンボン』 CAT 

まず猫のシッポ(リボン)で本を巻く仕様が手作り感があってかわいらしい。

これは生地を切って作ったものだから1冊1冊みんな違う。

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モノクロームのドローイングにわずかに使われた赤。

コラージュの技法がすごく素敵で、そこに添えられた短い言葉もとてもいい。

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最後のページまで読んでいったら、そこに私がいつもばらに感じていることと

おなじことが書いてあって共感するとともに、じわじわと感動 ・・・・・・

これはもう猫好きへの最高のプレゼントだ! と思って私も買うことに。

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それで、初めてこの本の出版元である書肆サイコロさんというのを知ったのだ

けれど、デザイン事務所併設のショップが高円寺にあるようで、西荻にしても

高円寺にしても、中央線ってなかなか奥深いです。

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娘が買ったこのブルーノ・ムナーリの本も装幀がすごくきれい。

アートの人だけにやっぱり装幀のうつくしさに惹かれるらしい。

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私はといえば、詩壇に彗星のごとく現れた天才少女と名高い文月悠光や最

果タヒの詩集も手にとってみたものの、ぜんぜん入ってこなくて、けっきょく

どこかの庫から出てきたような見慣れた『新選現代詩文庫』数冊に、以前

『珈琲とエクレア』の静かな飾り気のない文章に好感を持った橋口幸子の

『いちべついらい  田村和子さんのこと』と、黒田三郎の復刻版・詩集『小さ

なユリと』の夏葉社の本を2冊買って、けっきょく荒地周辺の詩人の本ばか

り買って帰ってきた。

でも、夏葉社さんのこの2冊の本はとてもよさそうです。 

 いちべついらい  田村和子さんのこと 橋口 幸子

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 詩集 小さなユリと 黒田三郎

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ただ家に帰って自分の本棚を見てうっかりしたなと思ったのは、持ってる本

を買っちゃったこと。新選現代詩文庫の新選鮎川信夫詩集。庫出し半額だ

ったからいいようなものの、もし欲しい人がいたら(メールでコンタクトしてく

だされば)さしあげます。今日び鮎川信夫の詩集を読む人がこのブログの

読者にいるのかどうかわからないけど。

そして、うっかりしたといえば、今日で閉店かと思っていたリブロは正しくは

7月20日が閉店日で、よって『ぽえむぱろうる』も20日までやってます。

28日には谷川俊太郎のゲリラ朗読なんてのもあったみたいだし、閉店まで

にもう1回くらいそんなことがないかなと思ったり。私もこんどは休日にひと

りでのーんびり行ってこようかなあ、なんて思っています。

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2015年6月25日 (木)

FALL

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FALL


落ちる

水の音 木の葉

葉は土に 土の色に

やがては帰って行くだろう 鰯雲の

旅人はコートのえりをたてて

ぼくらの戸口を通りすぎる


「時が過ぎるのではない

人が過ぎるのだ」


ぼくらの人生では

日は夜に

ぼくらの魂もまた夕焼けにふるえながら

地平線に落ちて行くべきなのに


落ちる 人と鳥と小動物たちは

眠りの世界に


( 青土社刊 田村隆一詩集『新年の手紙』より、『FALL』)

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昨日、FALLさんで詩集をみつけたのはこれが最初だった。

陶器などが置かれた棚にこのページを開いたかたちで立てかけてあって、

思わず手に取って奥にいた店主に「あのう、店の名前はここからとったん

ですか?」と訊いたのだった。店主は即座に「違います」といった。「それは

友達が教えてくれて、有名な詩人さんみたいなんですけど」というので、私

は田村隆一を知らないなんて、きっと若いんだな、と思いながら「田村隆一

は超有名ですよ。教科書にも載ってる」といった。実際、私が田村隆一の詩

を読んだのは小学校の教科書だったと思う。『見えない木』という詩だ。

衝撃だった。いちめんの銀世界に見た小動物たちの見えないリズムの詩。

たたみかけるような最後の8行がいまでも印象的な詩。

つづけて店主が、もう何十回となく人に聞かれてるんですけど、といったの

で、私も「なぜFALLってつけたんですか?」と聞くと、「秋が好きなんです」と

彼は静かにこたえた。なるほど。あなたにぴったりです、と私は思った。

それで「この本は買ってもいいんでしょうか」と聞いたら「はい、開き癖がつい

てますけど」というので、「ぜんぜん問題ありません」といって買ってきた。

いまこうやってあらためて『FALL』という詩を打ってみると別段どうってことの

ない詩だし、どこかしら北村太郎と似たところもあって私にはちょっとそれが

引っかかるのだけれど、昔の詩集のよさは装幀にもあって、最初のページを

開くとタイトルからのイメージなんだろう、こんなふうにクラシカルな封筒が張

り付けてあって、こんなところも洒落ている。

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例によって奥付を見ると、装丁はなんとかの池田満寿夫。

なんとも贅沢ですね。

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本文の紙の質と文字の大きさのバランス、フォントの感じもいい。

本からは独特な古い本の、でも香を焚いたようないい匂いがする。

昭和48年発行だから詩人50歳のときで、酒好き女好きでダンディーで知ら

れた詩人がまだまだ血気盛んだったころじゃないかと思はれる。これはまた

ゆっくり時間のある夜にでも読んでみたいと思う。

そして昨日、FALLさんの『港の人ショーケース』で手に取って買ってきたのは

詩集ではなくて歌集だった。

 やがて秋茄子へと到る  堂園昌彦

こちらはまだ若い、20代の新鋭の第一歌集。

そして、この本の装幀がまたとびきりうつくしい。

第48回造本装幀コンクール日本印刷産業連合会会長賞受賞だそうです。

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ショーケースには港の人選りすぐりの35冊が並べられていて、それを紹介

する、ひとつひとつ手製の丁寧なつくりのリーフレットと、詩の一行が印刷さ

れた栞まで作って置かれていて、この出版社の真摯な姿勢を感じさせるも

のだった。できることなら私はこんな会社で働きたい。由比ガ浜に引っ越す

のもいいかも、とここで勝手なことをつぶやいてもしかたがないけれど、でも

FALLの店主に、好きな一行が書かれた栞を持って行っていいですよ、とい

われてよくよく眺めてみたものの、詩の言葉はちっとも入ってこなかったんだ

よなあ。これってなんなんだろう ・・・・・・

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歌集のほうはまだパラパラっとやっただけだけど、フレッシュでハッとする言

葉が詰まってる。俳句とか短歌って潔くよく短いのがいい。切り取られた果実

の断片みたいで。

こちらもふとしたときに空で暗唱してしまうくらい読みたい。

どちらにしても昨日のFALLさんはいい出会いでした。

夏時間のいいところは仕事が終わったあと出かけても明るいうちに着ける

とこです。私がこよなく愛するのは夏の光です。

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2015年6月19日 (金)

今朝のあさイチとか谷川俊太郎とかリブロの閉店とか

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昨夜は久しぶりになかなか寝つけず、どこからか聞こえてくる時計の秒針の

ように正確な雨だれのピッチにあわせて眠ろうかと思ったけれど、そんなこと

したらますます眠れず、ますます雨はひどくなり、けっきょく目覚ましが鳴った

のより大幅に過ぎてから目覚めた。それから起きてコンピュータを立ち上げ

今日の友達の動向を知ろうとTwitterをひらいたら、右の『トレンド』の上から

4番めに『谷川俊太郎』の名前があって、なんでだろう、と追ってみたら、どう

やら今朝のNHKの『あさイチ』に谷川俊太郎が出て、そこで話したのが話題

になっているらしかった。家では今年の3月20日にデジアナ変換サービスが

終了してからまったくテレビを見ない生活をしているから、世間の人が朝から

こんなにテレビを見ているというのが驚きだったし、AKBとか誰がどうしたと

か、日頃どうでもいいようなくだらない情報が溢れかえっているなか80過ぎ

の老詩人の言動にこれほどみんなの注目が集まるというのも意外だった。

さらにTwitterで見た半袖Tシャツの谷川俊太郎が若くて驚いた。大体におい

てTシャツというはデブじゃ似合わないし、かといって年とって痩せ細った身

体にも似合わない。(私はますます痩せて最近、Tシャツが似合わなくなって

きた。)谷川さんはとても小柄な人という印象があるけれど、Tシャツを着た

上半身は背筋がシャンとして、胸板に張りがあって、まるでテニスでもして

いるような立派な身体だった。とても83とは思えない。人間の身体性や老

いと死についての関心が強く、著書も多い詩人だけに、間違いなく自分の

肉体に対してもコンシャスに生きてきたのだな、と感心した。

テレビについては昨日ちょうど「テレビが見れなくなっても誰からも文句が出

ることなく、こんなにあっさりテレビのない生活に移行できるとは思わなかっ

たよ」と話したばかりで、私は基本、テレビがなくてもいいのだけれど、でも

斉田さんの天気予報と『美の巨人たち』と、時たまやるNHKのいい番組は

見たい、といったばかりだった。家ではテレビがあっても朝から見ることは

ないけれど、今朝の谷川俊太郎のプレミアムトークは見たかったな、と思う。

そして谷川俊太郎といえば、今月6月いっぱいで池袋のリブロが閉店する

というので驚いている。いまでこそ(たぶん自分が歳をとったせいで)新宿・

渋谷・池袋はもっとも行きたくない街になってしまったけれど、かつては学校

もアルバイトも池袋だったからほぼ毎日のように通った街だった。西武デパ

ートに糸井重里のコピーの垂れ幕が威勢よく下がり、贅沢な文化の甘い匂

いをまき散らして大いに人々の購買欲をそそっていたころ。まさしく西武が

全盛だったころ。

高校生のとき桜台に住んでた友達と待ち合わせるのはたいてい池袋パルコ

の世界堂の前だったし、いつも待ち合わせ時間に遅れてくる彼女を待つの

は『ぱるこぱろうる』の中だった。そこで私が初めて買った詩集が当時出た

ばかりの北村太郎の『あかつき闇』で、家に帰って母に「あかつきやみなん

て病気みたいで嫌ね」といわれて、ふん、と思ったことまで憶えている。

リブロ、アール・ヴィヴァン、ぽえむぱろうる、大好きだった。

残念ながら私はそんな光景に遭遇したことはないけれど、昔は『ぽえむぱろ

うる』で谷川俊太郎が書きおろしたばかりの詩を朗読、なんてこともあったよ

うだ。なんにしても、いまとは全然ちがう空気を持った時代だった。

西武ハビタで、結婚するよりも前に買ったお鍋がとうとう駄目になりそうなの

を見ても、それなりの歳月が過ぎ去ったんだな、と思う。

ちなみに写真の本は私がリブロで買った最後の、というか、最新の本。

谷川俊太郎の『ぼくはこうやって詩を書いてきた

たまたま友達と待ち合わせた池袋でリブロを覗いたら、この本のサイン本

がずらっと並んでいて、お金がなかったにもかかわらず思わず買ってしま

ったのだった。奥付を見ると2010年となっているから、すでにもう5年前。

なのにまだこの分厚い本を読み終えてないというんだから、やれやれだ。

Twitterではリブロの閉店にあわせて『ぽえむぱろうる』が期間限定で復活

しているというのも話題になっているけれど、私も絶対行かなきゃと思って

いる。6月も終盤になって行きたいところがたくさん出てきて、何かと落ち着

かないこのごろ。

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2015年3月11日 (水)

すてきな人生

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すてきな人生


みんな、のんきな顔をしているけれど

カラオケでうたったり、ウィンクなんかしていたりするけれど

いずれ地球は、ひびだらけになり

ヒトは消えてしまうのを、とっくに心得ているのだ

滅びない星なんて、ないことを


ヒトの、ぼくたちの

尊厳の根幹を震撼する、いろんなインフォメーションは

朝のあいさつみたいに、さわやかに

肉いろの夜なかにさえ、交わされつづけていて

でも、それが〈意味〉にしかすぎないのは

氷った水のしたの影のように、たしかなのだ


モノをほしがる物欲、のほかに

ココロをほしがる心欲、まで持っているから

ヒトは怪物、なのだ

こうなったら、もう有るにちがいないのは

むなしい無と観念して、矛盾の紫の道を踏み迷うしかない


ほろびるのは、わかっていても

しかし、無でいるわけにはいかないから

難問の野原で懊悩し、もだえ歎き

でも、にっこりしてカードを切ったり

コロッケを、口いっぱい頬ばったりしている


世界の終わりは、きっとくる

そんなこと、大昔からみんな知っているのだ

だが、〈意味〉として知っていたってなんの意味もないかもしれない

或る日、青空の顎が開いて

とつぜん命令形の、かみなりみたいな声が轟いても

ヒトはシラケてしまうだけで、彼はひとりでも

団欒していることができる、へんな生きものなのだ

字引きをつかんだり、シイタケをいためたりして


狩猟、農耕はもちろん

ヒトのすることは、二本の足で立ち始めてから

すべて環境破壊であり、ものごとを考えること自体

ひどく反自然なのだが、だからこそ

ヒトは生きて、怪物にならないわけにはいかない


科学のおかげで、たくさんのヒトが長生きし

たくさんのヒトが死んで、その差し引きをどう考えるか

この土地では、毎年一万人が自動車で死ぬ

十年で十万人、三十年で三十万人

だが、だれも自動車をなくせとはいわず

犬をつれて、夕方の住宅街を散歩したりしている


たくさん殺そう、たくさん生かそうと

反自然の怪物は、はげんできた

どちらか片方、というわけにはいかないようにできているのがおもしろい

そこがきちんとわかっているから、もう気晴らしをして生きるしかない

〈意味〉なんて初めからないのだ、とあきらめて


物欲、心欲はなくなるはずがなく

ヒトの、ぼくたちの怪物性は

いよいよ彩りゆたかになり、矛盾の垣根の

無限につづく道ばたで、あいそよく頭を下げあう

そして、みんななんでも知っていて

たいそう有り難く、静かに息を吐きつづけるのだ


( 北村太郎『すてきな人生』思潮社1993年より、『すてきな人生』 )


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朝、リハビリに行く支度をしていると仕事仲間から電話がきて、短い会話を

したあとキッチンに立っていると思考がぐるぐるして、全身の筋肉にきゅ、と

負荷がかかるのがわかった。家に帰ってからメールに『to be or not to be』

と書いた。息子は息子で、これまで時間をかけてやってきたことが根幹から

揺るがされるようなインフォメーションが朝1で流れてきたとかで、「ネットの

中は阿鼻叫喚だ」、「どっちも正念場だね」なんていう。

阿鼻叫喚、なんて言葉、久しぶりに聞いた。

今日も寒かったけど空は穏やかにすっきりと晴れて、私はますます空しい。

あれから4年、か。

私はやっぱり春は苦手だなあ・・・・・・


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2015年3月 1日 (日)

冬を追う雨

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冬を追う雨

雨のあくる日カワヤナギの穂が

土に一つのこらず落ちていた

はじめは踏んだら血(青い?)出る毛虫かと思った

かたまって死んでる闇の精

ヤナギは不吉な植物なんていうけれど

たしかに茂ったおおきなシダレヤナギは

髪ふり乱して薄きみわるい

カワヤナギは穂をつけて


冬のあいだは暖かそうでかわいい

春になると黄色い細かな花で穂がおおわれ

近くに寄って観察すると

その一つ一つは大層かれんだが

少し離れて見るとややわいせつで

この変形は自然の悪い冗談みたいだ

ゆうべの雨はひどい音だった。

冬を追っぱらうひびきを枕にきいた

そしてけさふとカワヤナギの毛虫を見てもう桜が近いと思った


( 北村太郎 詩集『冬を追う雨』より『冬を追う雨』 思潮社1987年 )

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もう三月。

三月は静かな雨ではじまった。

窓をあけると外の大気は冷たいけれど、もう冬とはちがう。

この雨は冬を追う雨だな、と思って、そういうタイトルの詩集があったことを思

いだし、本棚から探して手にとった。銅版画の抽象画のような装画がほどこ

された外函は経年によりすっかり黄ばんでいるものの、凝ったつくりの立派な

大型本で、中は深緑の布張り。函の裏を見ると2000円とあって、昔はこんな

立派な本が2000円で買えたんだ、と思う。それでも高校生の私にとっては高

い買いものには違いなかった。タイトルとなった『冬を追う雨』という詩は、季節

の一片を描いたなんてことない詩だけれど、なんてことのないことを描いて独

特な色のある余韻を残すのが北村太郎の詩の味わい、といえなくもない。

面白かったのは詩集をぱらぱらやっていたら最後のページに何か挟まってい

て、見たら当時愛用していた緑の原稿用紙に書かれた自分の下手な詩と、

3月19日、日本武道館で行われたチープ・トリックのS席のチケットだった。

なんでそんなものを詩集にはさんでいたのかいまとなってはわからないけど、

おかげでこの詩集を読んでいたころの時間軸がリアルに思い出された。

挟まっていた自分の詩はといえば、北村太郎へのオマージュどころかスタイ

ルをそのまま模倣したみたいな文体の詩で、話にならないので迷わず破って

ゴミ箱に捨てた。

思わぬ変な発見があった今朝だけれど、もう三月。

じきに桜だ。

いつも桜の時期は落ち着かない私だけれど、自身のことについていえば去年

の秋あたりからか、やらなきゃいけないこととやりたいこと、思いと行動、時間

とタイミング、気分や体調それに気力体力なんかがどうにも思うように噛み合

ってなくて、そのせいで多方にご無礼、ご無沙汰しているような感じだけれど、

じきになんとか立て直して、いただいたきりそのままになってる手紙やメール

の返信、お送りしようと思っているものなど送らせていただこうと思います。

願わくは北村太郎の詩のように、ニュートラルな落ち着いた心で。

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2014年11月22日 (土)

林檎

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林檎


喉が渇き目を覚ますと、気配がする。軽く流れるのではなく、内へ内へ重

い蜜を溜める、厚みのある香り。旅の人は、気づく。昨夜部屋に戻るとす

ぐに、ベッド脇のテーブルに林檎を置いて寝てしまったのだと。枕元の明

かりで引き寄せると、したたかな重みをかけて、手のひらの丸みにすっと

収まる。重みをこのままくちに移すこともできるが、夏の朝日に丹念に研

磨された木肌を思わせる安らかな硬さと艶は、食べものである前にうつく

しさとして響く。

 この単調だが澄み切った時間の球体を、ひとりで綺麗に食べきれるぶ

んだけ籠に入れ、朝市から朝市を旅するように生きられたら。もぎたての

曲線の呼吸を包むためだけに手のひらは使われ、真ん中の窪みに一日

の糧となる新しい水や木漏れ日があふれるのなら。いちどは彼も、そう

願っていた。

 しかし、鏡面の若さとはうらはらに、林檎の内側は、つねにひどく疲れ

やすい。ひとたび空気に触れれば、白肌はすばやく変色し、取り返しの

つかない傷痕まで一気に駆け下りてゆく。ときには、完熟の時までに果

糖になり切れなかった不用な蜜が全身に漏れだし、そうした生の過剰さ

が激しい腐敗を招くこともある。

 移動を重ね、ようやく帰路につこうとしている旅人は、空気をはじく光沢

より、そんな内面のもろさがほしい、と思う。車窓を横切っていった人や

町の残像は、移ろう果肉の弱さでしか包めないのだから。

 こうして手で支えている間にも、果肉の奥で飽和した香りは夜に滴り、

熟れきった芯の周りは密にまみれながらほろびようとしている。いっそ、

皮にまだ輝きがあるうちに、さく、と目覚めの音を立て、すべてをかじり

つくすのはたやすいだろう。けれど、彼は、かすかな渇きを感じながらも、

手のひらで包み続ける。夜明けへ向かう、完璧な老いのうつくしさを。


( 峰澤 典子 詩集『ひかりの途上で』 七月堂 )

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昨日、りんごのことを書いたら、今日スイミングクラブでHさんにりんごを

もらった。毎年買うところが決ってるらしくて「いつもはこんなじゃないん

だけど、今年はなんだかすごく小さくて、人にさしあげるには恥ずかしい

ようなんだけど」というから、「とんでもない。りんごは大好き。ありがとう

ございます」といってもらってきた。

家に帰って袋から出してみると、たしかに小さくていびつだけれど、濃厚

な香り。皮を剥いてふたつに割ったら蜜が入っていて、おいしいりんごだ

った。これはますますりんごを注文しなくちゃならない。

詩は先日『七月堂』でいただいてきた峰澤典子さんの詩集の中の一編。

一緒に行った詩人のY氏から、今年のH氏賞を受賞した作品だと聞かさ

れていた。まったく無名の詩人がこんな小さな出版社から出した詩集が

H氏賞をとるというのは、きわめて異例なことだと思いますよ、とY氏はい

った。思潮社から詩集を出されているY氏の言葉だけに、詩人の力量だ

けでとられた賞ならそれは価値がある、見たい、と思った。(けれどもい

日本現代詩人会のホームーページでプロフィールを見ると「ユリイカ

の新人に選ばれる」とあるから、知る人ぞ知る詩人さんなのではないか

と思われますが。)

本をいただいた帰り、井の頭線の電車のシートに座って適当に本をひ

らくと、そのページには『労働として』という詩のタイトルがあって、それ

を数行読んだら、いま子を産んだばかりの若い女の姿が現れ、それが

いま会ってきたばかりの女性の姿と重なり、自分と重なって、息が苦し

くなって思わず本を閉じた。つまりそこにはまごうかたなき詩の言葉が

あったわけで、その数行で私はこの詩集が良い詩集だとわかった。

とりたてて難しい言葉はどこにも書いてない、きわめて平易でわかりや

すい言葉で書かれていながら、強いイメージ喚起力がある。その文体

からは生きることの鮮やかな一瞬の滴りを丁寧に受けとめようとする

真摯なまなざしと、女流にありがちなあけすけさとは無縁な品のよさを

感じた。

いつも思うのだけれど、詩でしか書けない、伝わらない、言葉がある。

詩でしか届かない、満たされない内面がある。

久しぶりに詩の言葉とちゃんと向き合ってみようと思った。

そう思わせてくれた作品。

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ひかりの途上で 峰澤 典子 


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2014年7月28日 (月)

死の死 ****

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こどものころ高熱を出して呼吸が荒くなり

死ぬのではないかと恐れたことが何回もあった

おとなになり歯が痛くて頬がはれ

敗血症かと思ったことが何十回もあった

しかし熱や痛みが峠を越したなと直感する時がきて

まもなく多量の盗汗をかきあるいは

ふくれた顎が固まり(石のようになると痛くないのだ)

希望が取替えたシーツのように新鮮になるのだった

これからはこうはいくまい

はしゃぎすぎて人生を過ごしてきた罰だから

熱や痛みの

いっそうの苦しみを覚悟する

そこへの道に峠はなく

見上げるような断崖を下から上へ

一瞬に落ちゆく恐怖が続くのだ

外なる人は日々くずれてゆくという

内なる人は日々新たという

それも慰めにならぬ時がやがて来るのだ

葬いに列席する友の誄だってしらじらしいのだ

だれにもさよならをいわず

手を上げたり目で合図することもなく

たぶんグロテスクな物体がしばし遺るのだ


( 北村太郎 詩集『おわりの雪』から、『死の死 **** 』 )

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週末は夏風邪に苦しんだ。

ほんとうにあんなに苦しんだのは久しぶりだった。

土曜の朝目覚めると、まるで頭が有刺鉄線が絡みあってできてでもいるように

激しい頭痛がして、立ち上がるとこんどは左のみぞおちが痛んでまっすぐに立

てない。全身じっとり汗をかいていて、着ているものがどうしようもないほど湿っ

ていて気持ちが悪い。とりあえずキッチンにいって水を飲もうとするのだけれど

飲めない。これだけ暑くて汗をかいているのだから下手したら脱水症になると思

うのに水が喉を通っていかないのだ。風邪をひいてもいつも食べられないなん

てことはなかったし、まして水が飲めないなんてことは経験したことがなかった

からびっくりした。昨日のうちにメールで知らせてはいたけれど、夜のミーティン

グのことで電話してきた仕事仲間は私の声を聞くなり「ひどい声してるな。やっぱ

り今日は無理そうだね」といってすぐに切った。私も謝るのが精いっぱいだった。

声もでなかった。声ってつくづく健康のバロメーターだと思う。

ここまでひどいことになると困るのはふだん何もしない人たちと暮らしているとい

うことで、とにかくこの頭痛をなんとかするには少しでも食べて早く鎮痛剤を飲ま

なければと、小さな鍋に少量の洗った米を入れ多めの水を入れおかゆを作ろう

とするのだけれど、つらくてそれを立って見ていることができない。娘に鍋を見て

くれるようにいい、自分の部屋のじゅうたんの上で倒れていたら、なんだかしらな

いけれどニルヴァーナがやってきた。まだ鎮痛剤も飲んでないのに頭痛がほわっ

と消え、開け放した窓のカーテンを揺らして入ってくる風が爽やかで、まるでそれ

は小学生のころ、夏休みに学校のプールに行って泳いで帰って来た後に、畳の

上で大の字になって昼寝をする心地よさだった。まだクーラーなんてものがなか

ったころの、暑い夏の記憶 ・・・・・・ 。あまりの心地よさにうとうとしながら、このま

ましばらく眠ってしまいたいな思っていたら、息子に「寝るんだったらちゃんと布団

の上で寝たほうがいいよ」といって起こされた。もっともだ。でも立ち上がるとすぐ

に頭がガンガンして、鍋はとうに噴きこぼれていた。それを見るなり、ああ、後片

付けが大変だ、と力なく思う。具合が悪いときって何もかも面倒だ。それどころか

ふだん自分が毎日ふつうにやっている家事のことを思うだけでも果てしない砂漠

のまんなかにいるみたいにクラクラする ・・・・・・・・

そして、どうやらうちの子供たちは小さいころの質を持ったまま大きくなったようで

娘はひどく困惑すると顔がこわばって怒ったような顔になってしまい、私の心配性

を受け継いだ息子は猜疑心でいっぱいの(つまり、この人はすごく悪い病気にで

もかかっているんじゃないかというような)目でこちらを見ている。これがまたしん

どい。

それでも小さな茶碗に半分くらいのおかゆと梅干しをやっとの思いで食べはじめ

ると、彼らは彼らで猫エサみたいなシリアルにミルクをかけて食べていた。おかゆ

を食べながら「水も飲めないってどういうことか初めてわかった」といったら、息子

に「でも、わかったからって飲まなきゃ駄目でしょう」といわれた。もっともだった。

それから水のかわりに有機三年番茶を飲んで鎮痛剤を飲んだ。汗で湿った服を

洗濯機に放り込み、シャワーを浴びたら少しはましになった。そしてふたたび布

団にもぐりこんだのだけれど面倒なのは人の頭で、そんなときすら勝手にいろん

なことを考える。ぐるぐる巻きの有刺鉄線の頭の中で『ねむることによって毎日

死を経験しているのに』という北村太郎の詩の一節や、少し前に友人が夏風邪

をひいたというのを知って「この蒸し暑いときにかわいそうに」と思ったことや、

数年前の夏、夏風邪でしばらく「桃しか食べられなかった」といった友人の声や

家にいてさえこんなに大変なのだから病気になったホームレスはどんなにつら

いだろう、ということの連想からいつか近所で見た地面に腹這いになって道路

の側溝の汚泥からコインを選り分けているリア王みたいな風体のホームレスの

映像やらがごちゃごちゃに錯綜して浮かんだ。

そして子供に買いものに行ってもらおうと思えばそれは文字通りガキの使いに

しかならないのだけれど、それでもこんなとき買いものに行ってくれる人がいる

だけでもありがたい。いったい独り暮らしの男や女はこんなときどうしているん

だろうと思う。私がふだん独り暮らしの人に優しいのは間違いなくこのあたりに

由来している。ときに重たい荷物を背負ってるように感じられることはあるにし

ても、私には家族がいる。夕方、やっとお腹が空いてきて、娘が買ってきた桃を

食べたらすごくおいしかった。まさに生き返るとはこのことだった。娘にそういっ

たら(私にいわれたように)「ちゃんとよく見て買ってきたもん」といわれた。

外は死ぬほど暑かったから部屋の中は終日クーラーをつけていて、私は身体

を冷やさないように(この暑いのに)寝ているときも起きているときも星の王子さ

まみたいに首にストールを巻き、ソックスを履いて、汗をかきながら日に何度も

黒砂糖入りの生姜紅茶を飲んだ。そうやって起きているとき以外はおかしな時

間に眠りながら、意識のどこかで家族が立てるやさしい生活音を聞いていた。

それもまた子どもだったとき、病気のときに聞いたものだ。

人間というのは朝起きた直後がたぶん一日のうちでもっとも不調で、そして日中

いったん下がった熱は夕方になるとまた上がってくる。とにかく寝ていても起きて

いても暑かったけれど、熱が出ているのは免疫力がはたらいて免疫力アップして

いるのだと思って歓迎することにした。ずっと風邪をひかなかったあいだは身体

は楽だったけれどいっぽうで、「風邪は心身の大掃除。にんげん、風邪もひけな

くなるとガンのような大病をするようになる」という医者の友人の言葉も気になっ

ていたのだ。夏風邪で熱が出てデトックスできたのはよかったのかもしれない。

そうやってつらい2日間が過ぎて今朝、目覚まし時計が鳴る前に(う~ん・・・)と

伸びをしている自分がいて、「あ、もうだいじょうぶだ」と思った。目覚まし時計が

鳴った後もまだ少し眠ってしまったけれど、起き上がってみるともう頭も痛くなか

ったし喉の痛みもなかった。驚いたのはベランダに出たら涼しかったことだ。爽や

かな夏のあさ。子どものころの夏の朝みたいだった。それから病気のシーツと枕

カバーとパジャマを洗濯機に放りこんで洗った。娘が「また痩せちゃったね」とい

うから、「痩せた。でも取り返す!」といった。午後には無理しない程度に家じゅう

の掃除をして病気の気を一掃した。朝、灰色の雲だらけだった空もいつのまにか

青空に変わった。夕方、自転車に乗って市役所まで税金を納めに行くと、半袖T

シャツの腕に夏の光と風がやさしかった。帰りにそら屋さんの夏のセールに行っ

て、養蜂家がクルマに蜂の巣箱を乗せて、日本全国の花畑を移動しながら採密

したという夢のような純粋国産菩提樹のはちみつと、有機熟成三年番茶とヨギの

レモン・ジンジャーティー、お醤油に梅干しの黒焼きを買った。水も飲めなかった

とき、有機三年番茶があってほんとに助かった。おかゆと梅干しと番茶でどれだけ

人心地ついたことだろう。

昔の日本人の知恵はえらい。

夏風邪は暑いというだけで冬の風邪以上に体力を消耗する。

身体に堪える日本の夏の暑さはまだまだこれから。皆さまもどうかご自愛ください。

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