2日前から降り始めた雨が昨夜から激しくなり、朝になっても激しく
降っていた今朝、今日もこのまま3日降り続けるのかと思ったら、
やっと昼前にはやんで、さっきから空が少し明るくなってきた。
ここ数日の雨で、桜はいっそう葉桜に近づいたことだろう。
濡れた歩道にはたくさんの花びらが落ちているだろう。
この春、たくさんの桜を見た。天候によって時間帯によって、また自
分の心の有り様によってもその印象は驚くほど違うのだが、穏やか
に晴れた日の午後に満開の桜の木の下にいて感じるのは、いつも
桜の優しさと情愛の深さだったように思う。優しさと深い情愛と潔さ。
それは日本人が古来から持つ特質じゃないだろうか。
激しい花吹雪の下にいたら砂まんだらを思い出した。
まんだらとは仏さまの世界を描いたもので、宇宙の理法の全てが含
まれている絵図であり、仏の悟りの世界(宇宙)を表現したものだと
言われている。砂まんだらは土壇の上に5色の砂で様々な幾何学文
様や神像を描き、天上の神々を招き、供養して祈願する聖なる儀式
で、チベット仏教では現在でも様々な修法や儀礼として行われてい
る。私は実物の砂まんだらを目黒の寺の中にある美術館の中でガラ
ス越しに見たことがあるが、本来はそのように常設するものではなく
儀式が終れば壊されて川に流されるものである。
いつかその儀式の一切を養老猛の脳の話の特集番組の中で見た。
その儀式に参加できるのは僧のなかでも何年も瞑想の修行を積み
習得した高僧だけで、そのときは世界平和を祈願して行われたが、
僧たちは祈りながら細い筒の中に入れた色砂をものすごい集中力
でわずかずつ落としながら細密な絵を描いてゆく。そうして7日間に
渡って描かれた完璧な砂まんだらは、それはもう美しく圧巻である。
完成後は僧全員で祈りの儀式が行われ、問題はその後だ。
7日間、丹精こめて描かれた砂まんだらは1人の高僧によっていきな
り、まるでピザにカッターを入れるように放射状に線が切られてゆく。
このとき取材に行っていたタレントは、突然の出来事にカメラが回って
いることも忘れて口を開けてあっけにとられていた。そして、すっかり
崩されたまんだらは、最後はまたただの色の入り混じった砂になって
掻き集められ、僧たちによって全て川に流される。TVの画面を見て
いた私も、思わず一緒に見ていた下の子に、「なんて美しいんだ。こ
れって人間が創造し得る最も美しい造形物じゃないか?」と言った。
そのとき私の頭にひらめいたのは『執着』という言葉だ。
執着というのは仏教においては業のひとつである。
『もののあはれ』、は朝に咲いていた花が夕には散っていることなど
に表現され、無常観は日本人のメンタリティーの根幹をなしているも
のだと思うけれど、この世の全てのものは移ろい、ひとときたりとも
ここに止まってはいないのに、人は執着を持つために苦しむことにな
る。長い時間を費やして作った美しいものを一瞬にして無に帰してし
まう砂まんだらは、執着を捨て、執着から開放されることで、人が楽
になれるということを教えてくれているようだ。そして更に言うと人は
何にでも慣れてしまう生きもので、慣れ親しんだものには安楽を覚え
変化に対しては苦痛を感じる。けれど人が成長するためには変化と
いうのは不可欠で、変化と苦痛を受け入れてそれを乗り越えてこそ、
精神的な成長があるということらしい。
毎年どんな受難に見舞われても、ひとたび明るい陽が射し始めれば
恨みがましいところなど微塵もなく、何事もなかったように美しく咲く
桜には理由なく人は癒されるし、いっせいに咲いたかと思ったら散り
際も鮮やかな桜に、日本人はそのメンタリティーを投影して魅せられ
る。そしていかに人が執着心を捨てられようとも、生きている限り永
遠に記憶に刻まれる美しい思い出というものがあって、それこそが
人にとっては見えない宝物じゃないだろうか。
桜の下でそんなことを考えた。
* 砂まんだらについて知りたい人は → ここを。
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