本の話

2009年8月13日 (木)

ぷわぷわ夢のような馬鹿話

Shibu_cafe_5

お盆休みです。

といって東京っ子の私は帰省する田舎があるわけでもなく、びんぼー暇無しなのでと

りたてて予定も入っていないんですが。先日、花火に行けなかった女友達が、前から

昭和レトロな都営住宅に住んでいると言っていたから、お見舞い方々見に行ってみよ

うかなぁ、と思っていたら、その彼女からこのお休み中にお茶でもしませんか?とメー

ルがきた。どこでもいいけど、しばらくどこにも行ってないので外に出たい、と言う。

メールの最後には『ぷわぷわ夢のような馬鹿話しようぜ』と書いてあった。

 ぷわぷわ夢のような馬鹿話 ・・・?

この言葉にピピっときました。

わかった、どこに行くか考えてまたメールする、と、とりあえず返事して、それからハタ

と考えてしまった。最近、仕事でもプライベートでも提案することが多い私。

たまには『君にどこどこの○○を見せたいんだ!!』とか、『あそこの○○を食べさせ

たいんだ!!』なんて熱いラブコールが恋しいこの頃だけど、最近とんとありません。

でもって私ときたらプライベートに至っては超、がつくほどワンパターンなのです。

あの街だったらあそこ、この街ならここ、と、まるで猫のように二十数年来行き慣れた

カフェに入って、すっかりなじんだ木のテーブルにすりすりしながら、うはー 落ちつくー

しわわせー heart なんてやるのがオチなところ。で、実際、それがいちばん落ち着くし、

間違いないのは確かなのだけれど。

だがしかし、今回は『ぷわぷわ夢のような』っていうのがついてるんだから、それじゃ

アカンでしょう。40も過ぎて、いささか現実的な重いものを抱え過ぎた私たち。

彼女のその言葉の裏にある心情がわかり過ぎるほどわかってしまうのであれば、な

おさらです。う~ん、困った・・・。

そして本屋に行って、めっずらしく買ったのがこの雑誌。

  歩の達人MOOK 渋カフェ 憩いの112軒

東京都内を中心に、眺めのいいカフェ、ひとりでこもるのに最適な隠れ屋風、夜更か

しできるカフェ、ミュージアム併設のアートなカフェなど、様々なタイプのしぶーいカフ

ェが網羅されている保存版的編集。それをまるで憧れの女の子とのデートが決まっ

て、どこに連れて行こうか悩んでるウブな男の子なみにいつになく熱心に妙に真剣に

隅から隅まで眺めてみたのだけれど、これがなかなか決まらないんですよね。こうい

う本って料理本なんかと同じで、本屋さんで立ち読みしているときにはすごくいいよう

に思えるんだけど、いざ家に帰ってじっくり見てみると、意外と帯に短し襷に長しだっ

たりして・・・。確かにとても良さそうなカフェはいっぱい載ってるんですけど。

・・・ そんなわけで、まだ悩んでる私です。


今日も青い空に真っ白な入道雲もくもくの夏空! 

とはいかなかったけれど、昨日に引き続いての真夏日。

ルイさんからもらったペルル・ド・ジャルダンが咲きました。

本来は黄色いバラがピンクに変容。

バラはいつでも夢の中 ・・・

09perle_de_jardins_01

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2009年7月16日 (木)

日本独自のクリーニング・ツール

Sith_02_3

ここに詳しく書くと心配した女友達からメールがきちゃったりするだろうから詳しくは書

かないけれど、ある晩私は何かの痛みでハッと目覚めた。その違和感は悪い予感と

なって瞬時に私を覚醒させ、頭の中は一気に最悪の事態にまで及んで眠れなくなり

そうになったけれど、夜中に深刻なことは考えない(良い方向にいくわけがないから)

の自身の教訓の通り、その日はそれ以上何も考えないようにして眠った。

翌朝起きてすぐにインターネットで必要な情報を見て、冷静に考えてちょっと落ち着き

それから「そうだ、あれがあった」と思いだした。柿の葉っぱ!

さっそく娘に「学校の果樹園に柿の木ってある?」と聞く。

「たぶん、あると思う」と言うので、「少しでいいから柿の葉っぱをもらってきてくれない

かな?」と頼むと、「じゃあ来週、果樹の時間があるから取ってくる」と言ってくれた。

そして、それから翌々日の火曜だったか、さっそくビニールいっぱいの柿の葉を持って

きてくれた。「お母さんに頼まれたので柿の葉っぱを少しとってもいいですか?」と娘が

担任の先生に聞くと、先生は「何に使うんだろうねえ」と言いながら取ってくれたのだ

そうだ。なんだかその話を聞いているだけでも、生徒と先生の自然な関係がうかがえ

て、いい感じですよね。

そして肝心の柿の葉っぱだけれど、何に必要だったのかというと、前に紹介したイハ

レアカラ・ヒューレン博士の『豊かに成功するホ・オポノポノ』という本の中に、日本独

自のクリーニング・ツールとして挙げられていたのでした。本を読んでない人には何の

こっちゃ、でしょうけれど、ヒューレン博士によれば、ホ・オポノポノには様々なクリーニ

ング・ツール(ネガティブで余分な情報を消去するためのツール)があって、持っている

だけで効果があるものや、イメージするだけで消去できるものがあるという。そして柿

の葉は生殖系機能の疾患や、婦人病などの全ての情報を消去してくれると書いてあ

るのです。(他にもいろいろあるので、興味のある方は本を参照してください。)

先生がとってくれた柿の葉っぱは、青々した強い香りがあり、なめした革のように独

特の光沢と柔らかさがある美しい葉。そのままにしていてはすぐに萎れてしまうので

枝からきれいな葉だけを選んで両面を拭き、和紙でサンドして分厚い大辞林の間に

挟み、梅酒の瓶を載せておくこと1週間。押し花を作りました。

そして、娘に柿の葉っぱをもらってきて、と言ったときから何を作るかのイメージはあっ

たのだけれど、できあがった押し花をパウチして、こんな風に栞を作ってみました。

Sith_05

たかが柿の葉っぱ1枚とって見ても、自然の作るものというのはなんて完璧で美しい

んでしょう! 作っているうちに、まるでこの葉っぱが本当に特別な力を持っているよ

うに感じました。裏には不安や心配が頭をよぎったらいつでもすぐに消去できるように

ホ・オポノポノの4つの言葉を入れて。

Sith_06

約60兆個の細胞から成り、きわめて精妙に流動的なところを日々バランスさせて生

きている生きものが人であるなら、誰だって、どんなにちゃんと生きていたって病気に

なることはあるでしょう。折しも自分の身近な人の病気をしばしば耳にするようになっ

た昨今。これが必要な人は自分以外にもいるかもしれないし、もしこのブログを見て

いる人で欲しいという方がいたら誰にでもさしあげようと、実は(心をこめて)たーくさん

作ったのだけれど、押し花を作るのなんて小学生以来だったので、乾燥がまだ足りな

かったのか、高温処理がまずかったのか、パウチしてから数日後に大半の葉っぱが

茶色く変色してしまったのでした。1番上の写真に写っているのは奇跡的にきれいな

グリーンが残った数枚。今回は気になる友人にさしあげるのみとなってしまったけれど

娘にはまたお願いしてもらってきてもらう予定。そしたらまた作ろうと思います。

(押し花をきれいに作る方法をご存知の方がいらっしゃったらぜひ教えてくださいね。)

そして下は昨日、鹿児島から届いたボトルパーム(トックリヤシ)のちび苗!

ボトルパームの木は経済や金銭にまつわる問題の情報をクリーニングして、お金まわ

りを良くしてくれるのだそうだ。実際、この木を手に入れた方によれば、その効果は確

かだということ。我が家には必須アイテムですね。

Bottle_palm

この木の成長はとても遅いらしいので、これくらい大きくなるにはいったいどれくらいの

年月がかかるのかわからないけれど、大きくなるとこんな風になります。

まさしくボトルのような形。

このボトルの部分に聖なるものの叡智(インスピレーション)が溜まるのだとか。

楽しみです(^-^)

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2009年6月30日 (火)

日記という形式/富士日記

Fuji_nikki

ふいに思い出して本棚から『富士日記』をとりだした。

作家、武田泰淳とその妻、百合子による日記。

この日記は二人が富士山麓に山小屋、今でいうところのセカンド・ハウスを持ったこと

に端を発して書かれるようになった。最初に書こうと言いだしたのは泰淳の方だが、泰

淳が書いたのはわずか数日分で、13年という長きにわたって日常の記録を細々と書

きとめ続けたのは百合子のほうだ。

いま、武田泰淳と聞いてすぐにぴんとくる人はたぶん私よりだいぶ世代が上の人か、

よっぽど文学好きの人くらいじゃないかと思う。こうしてこれを書いている私だって、武

田泰淳の代表作はなんだったっけかな、と考えて、すぐに思い出せない。百合子にい

たっては近年ブームになったこともあったようだけれど、それだって一部のファンの間

のことではなかったろうか。

これは、そういう二人(+娘の花)の山での暮らしが淡々と綴られた日記。

日記だから文体に凝ったところもなく、書かれているのは日付、その日の天気、食べ

たもの、買い物メモ、日常の出来事、夫や娘とのやりとり、雑感などというごく普通の

ことばかり。それが13年にも渡るとなれば、文庫本にしてそれなりの厚さで上・中・下

と3巻にもなる。いわゆる歴史に名を残す作家と妻の記録、というシチュエイションと

そこにある興味をぬかせば、きわめて地味で単調な作品だ。残念ながら私はまだ全

部を読破してはいない。子供の頃から母に西洋かぶれと呼ばれた私はそれほどたく

さんの日本文学に親しんできたわけではないから、自分では買わなかった本かもし

れない。この3冊の文庫本はライターのYが引っ越しをするのに荷物を処分している

ときにもらった。私は彼女の書棚から2冊の単行本を選んだが、それとは別にYがく

れたのだ。Yの物書き仲間からしてもこれを読みそうなのは私くらいしかいなかったの

かもしれない。Yはいつものくぐもった声で、「ただの日記だけど面白いよ」と言った。

マイナー好きのYらしい選択で、それまでYが大事にしていた本には違いなく、私は嬉

しかった。

13年もの記録ともなれば、そこにはとうぜん作りものじゃない時代背景や個人の様々

な変遷があり、3冊読み終える頃にはモノクロームの長編ドキュメンタリーを見た後の

ように心には映像が刻まれ、様々な思いが立ち上ってくることだろう。百合子の文章

はもちろん、それに足る趣と力を持っている。興味のある方はぜひ読んでください。

Fuji_nikki_002_2

そして、昔から書簡形式と並んで日記形式というのは個人の書きものの形としても作

家の作品の形としても好まれてきた。書簡形式も日記形式も人が文章を書くうえでリ

ラックスして心を開きやすいという点で書きやすい形と言えると思うけれど、書簡、手

紙が特定の個人に宛てたものであれ不特定多数の人に宛てたものであれ、あらかじ

め人に読まれる(読ませる)ことを前提として書かれているのと違って、日記はただの

記録であってもよい(つまりテクニックがなくても書ける)ことを考えれば、日記形式が

より易しい形であることは間違いないと思う。ブログがこれだけ世の中に普及したのも

日記、という誰にとっても日常的で親しみやすい、手軽な形だったからだろう。


思えばいま思い出したけれど、2006年に始めたこのブログも今日で4周年になって

しまった。最近はいつやめてもおかしくない、いつやめてもいいと思いながらやってい

るこのブログだけれど、時の早さを感じずにはいられない。いつも書いているように、

コンピュータにそれほど詳しくない私はこの中に入っている膨大なテキストのことを考

えると、やめるにしてもいったいどうしたものかと思い、それ以上に1年にたった1度だ

けコメントを書いてくださる貴重な方の存在や、どこかで見守ってくれているかもしれな

い誰か、ここから派生した人間関係のことを思うと、そうそう簡単にハイ・終わり。とも

いかないけれど、いずれ結論を出さなきゃならないだろう。

先日、仕事の打ち合わせに行った先で、相手から「ブログなんか実にくだらない」と言

われた。仕事でなければとうてい知りあうこともなかったであろう名のあるその方は、

「ブログなんてただの日記でしょ!」と言った。「どうしてそんなもの読まなきゃならない

のよ。こっちはそんなに暇じゃないのよ!」

彼女がどうしてそんなに語気荒くして言うのかわからなかったけれど、単純に言って彼

女はコンピューター、インターネット、メール、ブログ、携帯といったものが苦手で大嫌

いなのだった。私は心の中で、ええ、わかります。そういう方もいらっしゃるでしょうね、

と言った。もちろん彼女は私がブログをやっていることなど知らない。「大体において」

と彼女は続けた。「彼らは恥というものを知らないの? なんでもかんでも平気で書い

て恥知らずにもほどがある。まったく病気ね。ブログをやる人間なんてどこかおかしい

心が歪んだ人間なのよ。そういうクズみたいな人間がいるからこの日本が駄目になる

のよ!」 それから最近、太宰を読み直したが太宰は文章がすごく上手い(当然だ)、

だいいち言葉を選んでる、ブログなんて、読むに堪えないチャラチャラしたくだらない

日常をダラダラ書いてるだけでしょう、と言った。

私は物事には全て良い側面と悪い側面があると思っているが彼女はそうではないらし

い、それにブロガーの中にはちゃんと書き手の意識を持って書いている人間もたくさん

いると思うが、彼女はそのことを知らないし知る気もないのだ、と思いながら黙って聞

いていた。おいしいトマトを食べたこともなくて大嫌いだと言っている人間に「トマトには

リコピンが豊富に含まれていて・・・」などと話したところでナンセンスだから。

とはいえ、そこには心あるブロガーなら誰でも一度は(というか何度も)陥る、考えざる

を得ない問題も含まれていて、さて、どうしたもんかな、と思いながら帰ってきた。

でも恥知らず、ということなら、昔から私は書くということにおいては恥知らずだと言っ

てきたし、物書きなんて多かれ少なかれみんな恥知らずじゃないですか? 

太宰なんて恥知らずの代表格みたいな文学じゃないか。

と、太宰好きの私は思うけれど。

ともあれ4年。さすがに今年はそれを記念するような気持ちにはなれないけれど、私の

中でこれほど続いたことはそんなにはない。読む人もない手書きの日記なら、こうはい

かなかったろうと思う。『富士日記』ということで思い出すと、かつて私も何度か日記を

つけようとしたことがあった。百合子のように几帳面ではなく、日付はいつも飛び飛び

で、すぐに続かなくなってしまったけれど。そのノートは再び目にする時の自分の心の

揺れを思って廃棄してしまい、いまは無いけれど、気まぐれにワープロでタイプしたの

がひとつふたつコンピューターの中に残っている。今それを読み返すと自分で言うの

もなんだけれど、詩的で、経済的にも精神的にも逼迫したなか子育てに追われて疲れ

ていたのに、自分がこんなにもちゃんと文章を書こうとしていたんだと思って、なんだか

心がしんとしてしまう。もうすっかりキーボードを打って文章を書くこと、その便利さ早さ

に慣れてしまった私だけれど、ここらでそんなことにもいったんキリをつけて、ふたたび

愛用のぺんてるペンを握って手書きで何か書き始めるのもいいかもしれない。

・・・ と、今年はなんだか神妙な4周年になりましたが、これまでおつきあいくださった

方々には心からありがとうを言わせていただき、ここから生まれ、この先も続いていく

であろう友人たちのことはブログの有り無しに関係なくこれからも大事にしてゆきたい

と思います。どうもありがとう!

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2009年6月18日 (木)

シンプルにして強力なメソッド/ホ・オポノポノ

Sith

私を知る人の多くは実際の私より私が理路整然とはっきりしていて、サバサバと明る

い性格だと思っているようだ。それはごくわずかな人を除いて友人でも同じで、そんな

友人が私によく言うのが「そうきちさんがアレをまだ捨てずに持っていたなんて、そっち

のほうが驚き!」だ。そう、いつだって人は見かけほど単純じゃない。

確かに私は明るい性格だし、頭の回転が速くて男っぽいところはあるし、ネガティブな

感情に長くとどまることが苦手だったりはするけれど、かといって私は人が思うほど合

理的でもサバサバしているわけでもない。私には長いことどうしても捨てられないもの

があって、それはたびたび私をひどく苦しめた。

最も酷かったときにはそれはきまって食事をしようとした瞬間にやってきて、私は食事

が喉を通らなくなり、バスルームでシャンプーしているときに不意に襲ってきては息が

できなくなりそうになり、夜中のバスルームで独りパニックに陥りそうになった。それは

私にとってはともすると経済的危機と同じように(あるいはそれ以上に)恐怖だった。

それから逃れるために、それをどうにかして手放すために、私はありとあらゆることを

やった。夢見がちな頭を捨てて現実的になること。ストイックに仕事に没頭すること。

電車の窓から通り過ぎていく景色をただ眺めるように、自分の感情に無機質になるこ

と。それから音楽で頭をいっぱいに満たすこと。成功法則を学ぶこと。脳のしくみを知

ること。恋愛すること。泳ぐこと。ブログを書くこと etc; ・・・

書くことはいつしか捨てることと同意語になって、それはうまくいくかに見えたけれど、

結局いくら書いたところで捨てることなんかにはならないのだと気づいた2年前。

以降は物理的に不要なものを捨てること・手放すことと掃除に没頭した。天袋に入った

まま、引っ越してから一度も開けたことのない段ボールのなかみ、清水の舞台から飛

び降りるようにして始めたビジネスの残骸、長いこと着てない服や思い出の品々、自

分の書いたものの紙片やノート、古い本やCD。そして私が最も捨てられない人の言

葉、大量の手紙や葉書きなど・・・

それまでどうしても捨てられなかったものを捨てることの効果は絶大で、捨てるほど手

放すほどに私の心は軽くなり、自由になった。

捨てることでできた空きスペースに、新たに入ってくる新鮮な気!

私が風水を生活に取り入れているというと意外と思う人も多いけれど、風水って端的

に言って気の科学なのだ。人の気が滞るのも家の気が滞るのも同じこと。どちらもひ

どくなれば病気になる。そして物理的なことの後には浄化がやってきた。

目に見える物理的な掃除と、見えないものの浄化。

たとえば家じゅうを掃除した後に焚く1本のお香は、家の中の気を清々しくきれいなエ

ネルギーで満たしてくれる。そこに流す音の聴こえ方だって変わってくる。私は場が浄

まるととてもホッとして、健やかな気持ちでキッチンに立つ。それはけして気休めなん

かではなく、太古の昔から世界中の人々がやってきた手法だ。京都のお寺の中に入

って妙に気持が落ち着いたことなど思い出してもらえばわかること。

そして、いつしか浄化がテーマの2年が過ぎて、今年になってある女性に出会った。

ある石が欲しくて探していたとき、たまたま見つけたサイトのオーナーだった。

彼女の本職はカウンセラーで、私は生れて初めて、いつか彼女のところに行くことにな

るかもしれないな、と思った。そう、つまり私は今年になっても苦しみから完全には解

放されていなかったのだった。

私がどうしても解放されたいと思ったその苦しみとは、記憶、だ。

別に悪い記憶や悲しい記憶ばかりじゃない。美しい記憶、キラキラした記憶、切ない

記憶、もう取り返しがつかないだけに、どうすることもできない様々な記憶 ・・・

その彼女がいつか、サイトの中だったかメールマガジンの中だったかに書いていた。

『私の知る限り、効率的に知識を取り入れるのに良いのはフォト・リーディングです。

反対に、消去するために良いのはホ・オポノポノです』というようなことを。

そこで引っかかったのだった。

ホ・オポノポノってなんだ???

この本、『みんなが幸せになるホ・オポノポノ』の著者であるイハレアカラ・ヒューレン博

士が、あるひとりの風変りな女性から、ハワイに古くから伝わる問題解決法である

『ホ・オポノポノ』の技法を伝授されたのは(本には詳しくは書いてないけれど)妻と離

婚し、それまで普通に存在していた帰るべき暖かい家も家庭も失くし失業までしてい

た、言ってみれば人生のどん底のようなときであったようだ。

ヒューレン博士は何かに導かれるようにしてその女性のセミナーに行き、何度か途中

で拒絶反応を起こしながらも何故か大枚はたいて3度もセミナーに通い、自分でもわ

けがわからないままにその女性と一緒に仕事をすることになった。

その結果、何が起きたか?

それについては私が書くまでもなく『世界一風変りなセラピスト』に詳細に書いてあ

るので、興味のある方はそちらを読んで欲しいと思うが、ホ・オポノポノはまず自分の

身のまわりで起こるできごとは全て自分の責任である、と認識することから始まり、自

分の潜在意識に溜めこまれた膨大な記憶をクリーニングすることで心の平安を得ら

れるばかりか、問題解決にまで至れる、というものなのだ。

しかも、その記憶をデリート(消去)するために必要なのは、『ごめんなさい』『どうか

私を許してください』『ありがとう』『あなたを愛しています』という、ありふれたたっ

た4つの言葉であるという。


さて。

ホ・オポノポノに関するもっと詳しいことについては、あなたが知りたいと思う欲求に応

じて本を読むなりネットを検索するなりしていただくことにして、ここで私の感想というか

意見を言わせていただくなら、この本は誰にでもお勧めできる。もし私と同じように心

になんらかの重荷や心配事を抱えている人はもちろん、心身を患っている人、身の回

りに問題を抱えた人がいて、それをどうにかしたい(してあげたい)と思っている人なら

誰にでもお勧めしたい。

なぜなら、この本に書いてあることを読んで実践するだけなら、誰にでも、今すぐにで

もできて、お金も全然かからないからだ。テクニックもいらない。そしてもし、そのチャン

スに恵まれて、ヒューレン博士のセミナーを受けられることになったとしたら、それはそ

れで対価を支払うだけの価値は大いにあると思う。あなたが参加することになった時

点であなたの記憶が博士によってクリーニングがされること、その一点だけを考えても

(セミナーを受ける)前と後では、あなたの人生は劇的に(あるいは画期的に)変わっ

てしまうと思うからだ。

ただ、先ほど『この本は誰にでも勧められる』と書いたけれど、同時にこれを読んで誰

もがすぐに実践するわけではないだろうな、とも思う。いつも友人とも話すのだけれど、

成功法則本も含めてこういう本を書いてベストセラーになる人というのは、切実に何か

を追及した末にたどりついた方法を書いているから人に響くのであって、またこういう

本に出会う人も、さんざんいろいろやってあがいた末にたどりついたからこそピンとくる

のではないかと思うからだ。自分の人生を振り返って、もし、とりたてて大した問題も

なく疑問に思うこともなく安泰にやってきた、という人ならあまりピンとこないかもしれな

いし、読んだだけで何もやらないかもしれない。それどころか、ここに書いてあることを

ひどく荒唐無稽なことだと思うかもしれない。

けれどはっきり言えることは、この本が今までの、いわゆるアメリカ型の成功法則本と

大きく違うのは、従来の成功法則が限りなく自己の欲望(あるいは願望)強化・追求

型であったのに対し、こちらはそういった執着も含め、全てを手放すことに主眼が置か

れていること。そして、それは従来の成功法則よりずっと(少なくとも日本人のメンタリ

ティーには)フィットするのではないかと思う。

ホ・オポノポノでは、自分が何かをすることによって結果を期待することなく、(思念に

よって)結果を操作することもしない。ただ4つの言葉を繰り返し自分の中で静かに唱

えることで、物事がうまくいかない理由であるネガティブな記憶を消去し、ゼロの状態

に至ること。そしてゼロの状態に至ることで、今まで遮られていた大いなる源からの光

が充分に降り注ぐようになり、問題解決のためのインスピレーションが降りてくる ・・・

ここに書いてあることは、実際に目で見えるもの、手にとれるもの、科学的な根拠や

データや数値しか信じないという唯物論者には、とうてい信じ難いことなのではないだ

ろうか。私的に言うなら、これはジョン・レノンの歌う『イマジン』と同じなのだ。あの歌

はジョンにとっては切実なメッセージだったわけだけれど、ジョンと同じようにあの歌詞

の世界をイメージできる人がどれだけいるだろうか?

・・・ そして、それを切実にイメージできる人だけが平和に一歩近づける。

そして更に言うなら、このホ・オポノポノに関しては、たとえ信じていない人でも実践さ

えすれば効果が出る、というものなのだ。ヒューレン博士がただのドリーマーでないこ

とは、『世界一風変りなセラピスト』ですでに実証済みだ。

・・・ そんなわけで、私はもうすでにホ・オポノポノを実践している。

今はこれで様々なことを好転できると思っているから、もう例の女性カウンセラーのとこ

ろに行くこともないだろう。人の手を借りなくても自分で解決できというなら、私にとって

そんなに良いことはないからだ。

この本のどこかに書いてあった言葉、消して消して消して、あなたのシャングリラ

たどりつきなさいとは、なんて素敵な言葉だろう!


 ☆ みんなが幸せになるホ・オポノポノ

 ☆ 豊かに成功するホ・ポノポノ (ヒューレン博士の動画あり)

 ☆ セルフアイデンティティ・ホ・オポノポノ公式サイト 

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2008年6月27日 (金)

猫本なんか買ってしまった/一期一猫 街角の記憶

Ichigoichineko_2

私は猫は飼ってないけれど、ついうっかり買ってしまうもののひとつ

に猫の写真集がある。世の中に猫の写真集ほどいっぱい出版され

ているものもないと思うけれど、もちろん猫ならなんでもいいというわ

けではない。猫を飼っていない私でも、つい買ってしまうほど魅力的

な写真集でなければいけない。

春頃、リブロに行ったらたまたま洋書フェアがやっていて、閲覧用の

見本をさんざん眺めた末に買ったのは、素晴らしく色彩豊かな、まる

で絵画のようなギリシャの景色のなかで優雅に遊ぶ美しい猫たち。

本屋さんでさんざん眺めて買って来た後は、ビニールパックされたま

まの状態で、一度も開いていない。私がつい猫本を買ってしまうのは

実は猫のことばかりじゃなくて、私のまわりにいる猫好きの友人のこ

とを思い出してしまうからで、このギリシャの猫写真集は、Hさんの誕

生日に送ってもいいと思って買ったのだ。

そして昨日届いたこの本。『一期一猫(いちごいちねこ)街角の記憶』

は、先日たまたまTVを見ていて知った。このブログにもリンクしてい

る、妙齢のとても素敵な女性フォトグラファー、酒井久美子さんが世

界中を旅して撮った猫の写真集。ロンドン、パリ、ウィーン、ベネツィ

ア、ハワイ、リオ・デ・ジャネイロ、エトセトラ。それぞれの国のそれぞ

れの景色の中で、猫はその猫独自の、でもとても普遍的な猫時間を

生きているようだ。そこへ、偶然通りかかったエトランゼのフォトグラ

ファーの時間がシンクロする。その一瞬をカメラは捉えている。

Ichigoichineko_01

猫を飼ってない私がこんなことを言うのもなんだけれど、たぶん猫好

きは、猫と1人:1人の関係が築けるところがいいんじゃないかと思

う。(1人:1匹じゃなくて、あくまで1人:1人。)犬のような明確な主

従関係もなく、両者の間での力関係はしばしば逆転する。(私の友

人のライターなんか、夜遅く帰ると猫のお母さんがお小言を言うから

帰る、なんて言うのだ。)その一方的に自分が相手を庇護してるんじ

ゃないという感じ、対等な距離感が心地良いのじゃないかと。

酒井久美子さんの写真を見ていると、猫と確実に頼りなく心細い存

在である1人と1人として出会っていて、その瞬間に通じた柔らかい

ものが写真に溶けているように感じる。

Ichigoichineko_02

やっぱりプロは上手いな、と思うのは、自分の視角に猫が現れて消

えるまでほんの一瞬、というときだってままあったろうに、ちゃんと背

景まで計算されてフレーミングされていることだ。そして、こういう写

真集を書うと必ずちょっとピンボケみたいな写真も載っているのは、

よくできた幕の内弁当みたいに100パーセントぎっちり完璧な写真

が1から10まで並んでいるより、むしろこの方が見ている側の意識

に風穴が開いて、アーティスティックでいいのかなってこと。それにボ

ケた写真ってのは意外に人間の記憶に近いかもしれない。

写真集に付いていた帯の裏にこんな風にあった。

「もう会えないかもしれないけど、またね」

異国の名もなき街角で、旅に疲れた雑踏の中で、

ふいに迷い込んだ不思議な路地で・・・・・・

ふと目があった瞬間の喜びは、一瞬にして別れの切なさへ変わ

る。だいじょうぶ、今日もあの猫(こ)は、

世界のどこかで、きっと気ままに暮らしてる。

今でも鮮明に憶えているけれど、子供の頃、母方の叔父達と日光へ

キャンプに行って、草むらの中のストレート・ロードを先頭切って歩い

ていた私は、道が二股に分かれているところで立ち止まった。叔父に

「どっちに行くの?」と聞いたら「Sの好きなほう!」と言われてチョイ

スして歩き始めたのだけれど、しばらく選ばなかったほうの道が気に

なって仕方なかった。いま選ばなかった方はもう2度と行かない道な

んだと思うと、妙に後ろ髪ひかれた。そして子供ながらに、きっとずっ

と後になっても、今日の行かなかった道のことを思い出すんだろうな

あ、と思ったときの妙な感覚。旅にはそんな感覚がつきものだ。でも

本当は人生そのものがそういう旅なんだ。行かなかった道と、もう会

えない人ばかりで彩られた。それこそ一期一会。

切なさに負けそうだけれど、1人:1人で出会った人間が猫に、

「もう会えないかもしれないけど、元気でね」 と言う。

すると猫も首だけ振り返った顔でこちらをじっと視つめて、

「あんたもね」 と言う。

「ここの水はあんたにはあわないから、飲んじゃ駄目だよ」

「うん。ありがとう」

そして前を向いたらこう思う。

だいじょぶ、あのこはこれからもきっとここで元気にやっていける。

私も行方知れずの猫について思いを馳せるとき、次からはこんな風

に楽天的に考えようと思うのだ。毎日を笑って暮らすために。

ちなみにこの本はMちゃんのところに行くだろう。今年まだ誕生日プ

レゼントをあげてなかったし。それに最初のページの猫の写真が、

彼女の猫にそっくりなんだもの。

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2008年4月13日 (日)

知ってるつもりの猫の気持ち

Hanta

さて、ここにご紹介するのがすっかり遅くなってしまったけれど、ブロ

ガー仲間で、いまや友人でもあるハンタさんこと、もんま・さなえさん

の本がついに出ました!

『知ってるつもりのネコの気持ち』 もんま さなえ PHP研究所

そう、この人こそ執念なんてものからは程遠く、『好きというパワー』

で生きている人もいないと思う。帯に書いてある通り、ネコ歴48年。

こう書くとまるでこれまで彼女がネコだったみたいだけれど、そうじゃ

なくて、その人生のほとんどをネコと暮らしてきたという人なのだ。

世の中にネコ好きは多かれど、ネコもイヌも飼ってない私から見ると

???と思う人も多い。つまりペットマニアだったり、ペットフリークだ

ったり、過度のペット依存症だったり。ペットが可愛いのはわかるけど

私は暑い時にペットにブランド服着せて連れまわしたり、幼児言葉で

ベタベタ接したり、ペットが死んだら私も死ぬ、なんてのはもう駄目な

んです。勘弁してくれよ、と思う。

この本を読んでくださったらきっとわかってもらえると思うけれど、ハン

タさんの最も良いところはネコの人格(ニャン格?)を最大限に尊重し

た上で、ネコと共生しているところ。ベタベタ甘やかしたりせずに躾け

はちゃんとするけれど、かといって無闇に怒ったりもしなければ無理

強いもしない。日々、繰り広げられるネコとの攻防を、かなり気長に

楽しんでいる。(としか、私には見えない。)子ネコから大人のネコそ

れぞれの、持って生まれた固有の性格と生い立ちからなるものを汲

んで、それぞれに合ったつきあい方をしている。この本の中でハンタ

さんはこんな風に言っている。

ネコと暮らすということは、互いを尊敬しあい互いの心を尊重す

ること。ネコは何もできない、何もわからない、私がしてあげなく

ちゃ・・・。これほどネコを馬鹿にした育て方はない。愛情をかけ

ることは相手を信頼すること。ネコと暮らすための基本である。

ネコは自分の思い通りに扱うのではなく、私たち飼い主の大き

心の中で泳がせるつもりで飼えばよい。「何をしてもあなたが

大好き」。これが子どもを育てる時、ネコと暮らすときの基本姿

勢だ。親(飼い主)の気持ちは必ず子ども(ネコ)に反映される。

ネコはどんな時でも飼い主の心を理解し、それに応えてくれる。

これができたらネコのみならず人ともうまくやっていけるだろう。

ネコであれ人であれ、ちゃんとつきあえば、それは学びになる。他者

から学べることはいっぱいある。そして相手を理解すればするほど、

相手も自分を理解し、愛情をかければかけるほど、それは自分に返

ってくる。私がハンタさんのこの本から感じるのは、ネコに向けられた

深い洞察と優しい視点だ。それは私が知る彼女の性格そのままなの

であって、読んでいる間じゅう、私はまるで彼女の優しさに見守られ

ているような安らぎを感じた。

ネコを飼っている、またいつかネコを飼おうと思っている全ての人、そ

れからいま小さな子どもの育児に疲れているような人に読んでもらい

たい本です。きっとホッとして、ちょっとゆっくりいこうと思うでしょう。

ちなみに挿絵と4コマ漫画は、ハンタさんの息子で漫画家の門馬剛

さんによるもの。これがまた笑える! 

ページ左端に描かれたぱらぱらマンガもかわいい。

ああ! 私もますますネコが飼いたくなったにゃあ!cat

****************************************************

ネコ好きさんは、

★ハンタさんの手作りネコまんまのレシピなども載っている

  ブログ『ネコに学ぶ21世紀を生き抜く法』  

★猫セラピストとしてカウンセリングやセミナーも行っている

  HP『ネコの悩み事相談所・ハッピーキャッツ

も、合わせてご覧ください♪

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2008年4月 8日 (火)

雨の考察

Aoki_uminari_4   

ひどい雨だ。

昨夜はまるで蛇口からベランダに水を出しっぱなしにしているような

バシャバシャという水の音で、なかなか寝付けなかった。それが全

部バラの鉢に注がれているんじゃないかと思って。お陰で今朝は目

覚ましが鳴っても時間に起きれなかった。それに風。

今日は風が唸りをあげている。

これがもう6年も干ばつが続いているオーストラリアだったらみんな喜

んで思わず外に出て雨のなか踊りだすだろう。自然はなんてうまくい

かないんだ。うまくいかなくしたのは誰でもない、人間なんだけど。

このあいだすごく風の強かった日に、安否確認もあってボスに電話し

た。だいたい八丈島が東京都だというのがおかしいと思うけど、同じ

東京で、そよと風が吹くと八丈では大荒れに荒れる、というのを前に

聞いていたから。それと、休日に子供と遅いお昼を食べてたら突然

浮かんだ小説のアイディアを、面白おかしく子供に話したらけっこう

ウケたので、「こんなんいかがでしょう」と言うためだ。

半分ジョークで電話したのに、ボスがあんなに乗ってくるとは思わな

かった。もう人にあげちゃったネタなのでここに書くわけにはいかな

いが、60過ぎの男と10代の女の子の言葉のギャップをめぐるコミカ

ル(にして深遠な?)なラブストーリー。ボスは「俺には無い視点だし

小説のタイトルが気に入った。ちょっとカタイけど」と言った。(最後の

一言がよけいだけど、まかせて。そういうのは得意なの。)

電話を切った後、テーマについてしげしげと考えたら、けっこう難しい

テーマだけど、ちゃんと書けたらかなり悪くないんじゃないかと思っ

た。ただし、ちゃんと書けたら。これに必要なのはたぶんセンス。

ボスが30代から独り立ちしてやっていた小さな編集プロダクションを

たたんで、これからは好きなものを書く、と言って東京を捨てて島に

渡って早7年。私はときどき、嵐のたびに倒壊の危機にさらされる海

辺のあばら家と、そこで古色蒼然たる原稿用紙に埋もれて老いさら

ばえてゆくボスのことを考えると、くらくらと眩暈がしてくる。そんな自

分の幻想さえ、ひどく文学的に過ぎると思いながら。

もう6、7作は書いたそうだ。文学賞の応募要項に合わせて、枚数は

1作につき400字詰めの原稿用紙に250から700枚くらい。今回

の電話でも、インターネット上に最終選考を発表しているらしいから

見てくれないかと言われて受話器を持ったまま検索して見たのだけ

れど、私なんかは2次で残った作品の数の多さ(とすれば応募総数

は推して知るべし)と、タイトルとペンネームを見ただけで、げんなり

してしまった。およそ読む気もおこらない。

残念ながら(というか予想通り)、ボスのペンネームとタイトルは無か

った。どう考えてもこれは若手新人作家の登竜門と思はれる。と言う

と、もちろんそんなことボスは承知の助で、出版業界の仕組みも熟知

していて、メゲる風もない。じゃあ、次、という感じ。信じられぬ。

朝から晩まで、いったい1日何時間書くのか。長年、文机の前に正座

し続けた職業病で、数年前に椎間板ヘルニアになって歩けなくなり、

手術。その後、首も同じ状態になって手術した。かなり難しい大手術

だったらしく、脳に近い部分だけに、そのときばかりは死をも覚悟した

という。今もその後遺症で苦しんでいるのに、よくその状態で書き続

けられると思う。その書くことへの意欲と、執念にも似た持久力、精

神力と体力には頭が下る。

このあいだ、『造顔マッサージ』でカリスマになった田中宥久子の『美

の法則』という本を手に取ったら、帯に『美は執念』とあって、『思いさ

えあれば、今どんなに醜くても、何歳でも、必ず美しくなれる』とあり、

最強の腰巻だな、これだけ書かれたら女性は買わずにいられないだ

ろうな、なんて思った。執念という言葉はおどろおどろしくて私はあま

り好きじゃないけれど、美に限らず音楽でも文学でもスポーツでも、

何かになろうと思ったら、何かを成し遂げようと思ったら、この執念と

いうのが必要不可欠なんだろう。才能だけでやれることには限りがあ

るから。そして私に最も欠けているのが、その執念というヤツなの

だ。きっと。どうもそのあたりが私には希薄すぎて・・・・

たとえば、長い年月をかけて岩をも侵食してゆく雨粒の如し。

けれど雨は執念ではないところが美しい。

上の詩集は、いつかブログにも書いたけれど、私が怒りにまかせて

夜中に4階の子供部屋の窓から外に放り投げたボスのサイン本。

詩集というのは紙質からフォントから装丁に至るまで凝っていてお金

がかかっている。これは中の紙がワトソン紙みたいな質感で、袋綴

じになっているのを1枚1枚読みながらペーパーナイフで切ってゆく

という凝りよう。装丁となった素敵な海の絵は、ボスの友人だという

舞台美術家の朝倉摂さんによるもので、この色がなかなか印刷では

出ずにずいぶん苦労したらしい。ボスは詩人としては一流で、この詩

集には私の好きな詩もいくつかあるから、ブログをやめる前に一度こ

こに載せるのもいいかもしれない。

しかし、私のぶん投げた詩集が、誰かに拾われて今もどこかの本棚

にあるかと思うと、不思議。拾った人に会ってみたい気もする。

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2008年3月 6日 (木)

イヌが教えるお金持ちになるための智恵

Money

確定申告に行ってきました。

私は会社員だから、そういうことはふつう会社が年末調整という形で

やってくれるのだと思うけれど、友人が興したベンチャー会社はまだ

いろいろなことが完備されていない状態で、私も人より多少面倒な事

情を抱えているので、先日会計事務所の人と話して、しばらくは自分

でやることにしたのでした。同じオフィスで働く者として日常的に顔を

合わせていれば、自然と言外にわかることなどもあってお互いに配

慮が行き届くだろうけど、大阪と東京という離れた環境にあっては雑

務に追われれば忘れてしまうこともあるだろうし、意識のズレが生じ

るのも仕方がない。自分でやれば全てがクリアーだし、少なくとも2

年も年末調整されないまま放っておかれるよりはずっといい。第一

人の手を煩わせなくてもすむというのは私にとっては気が楽です。

今年の初めだったか、会計士の友人に、給与支給額から所得を割

り出すための『簡易給与所得表』なるものをFAXで送ってもらってと

ても便利だと思ったけれど、もっと便利なものを見つけた。きっと知

っている人はもうとっくの昔に知ってるんだろうなあ。

 ☆ 確定申告書作成コーナー 

   https://www.keisan.nta.go.jp/h19/ta_top.htm

順番に従って必要事項を埋めていけば、自動的に計算されて申告書

ができあがる優れもの。これがあれば『簡易給与所得表』もいらな

い。所要時間わずか5分ほど。なーんて簡単なんだろう。過去の申告

書もここで作成できる。(5年までさかのぼって申告できるそうです)。

そして当然と言えば当然のことながら、できあがった申告書はネット

で送信できる。私は『ご利用前の準備』というところを読み始めたらな

んだか面倒になったので、できあがった申告書をプリントアウトして、

今日実際に税務署に行って、その通りに書き写して提出してきまし

た。還付金は期待に反してごくごく微々たるものだった。2年分合わ

せても家族でちょっとリッチな外食が1回できるくらい。申告してもた

いした意味はないけれど、全然返ってこないよりはまだマシ、くらい

の額。帰りに自転車をこぎながら、そういえばビートルズの歌に源泉

徴収票がなんとかって歌詞の歌があったよな、と思ったけれど、思い

出せなかったので『Can't Buy Me Love』を歌いながら帰った。

 そうさ。愛はお金じゃ買えないぜ。

この『イヌが教えるお金持ちになるための智恵』という本は、成功法

則について学んでいるときに読んだ。もう7年ほど前。この本はとって

も素敵な本で、いつもお金が無いことで喧嘩ばかりしている両親に心

を痛めている11歳の少女キーラが、マネーという犬からお金との付

き合い方を教わり、しだいに富の法則を身に付けたキーラがそれを

使って自分の夢を実現するばかりか、貧しい両親を経済的ピンチか

ら救い出してしまう、というストーリー。もともとは子供向けに書かれ

た本だったのを、それを読んだ大人たちからの反響がすごかったた

めに書き直したものらしい。

さて、ここにはお金に対して少なからずコンシャスに生きてきた、とい

う方には特別新しいことは何も書いてないかもしれない。けれど、正

直言ってこれを読んだとき私は目からウロコだった。子供だった頃に

こういうことを私に教えてくれる大人がいたら、今の私はいなかったろ

うと思うとショックだった。その思いから、私は自分の2人の子供にも

この本を読ませた。それがいつか役に立つかどうかはわからないけ

れど、少なくともこの世にはお金の法則というものがあるんだというこ

とはわかっただろう。私の本にしてはこれはめずらしく傷んでいるけ

れど、それは若い友人の間を回ったからだ。かつての私がそうだった

ように、成功法則本を読んだことのない人の中には、そういう類のも

のを自分には無関係な、どこか嫌らしいものだと思ってる人がいるか

もしれないが、あながちそうでもない。そしてこの本について言えば

全然そうではない。訳者はあとがきでこんな風に書いている。

そもそもほんとうにお金を愛し、ヒトとモノの価値を大切にしていた

ら、今日のように金融破綻と人心の荒廃がこれほどはびこることは

なかったでしょう。本書ではマネーという名の犬がお金の心を伝え

(彼はきっとお金の化身なのでしょう)、キーラという少女がお金の気

持ちを素直にくみとってこれに命を通わせます。この本が持つとても

不思議な魅力は、大人が読んでも子供が読んでも、つまりどんな社

会のどんな立場の人が読んでも、今すぐその状況から自分のお金

に対する意識と、人生に対する姿勢を考え直して実行に移すことが

できることにあります。そしてまごころあふれる健康な富にむかって

無理なく自分なりの自分らしいやり方で進んでいけるのです。

ただし、どんなに良い成功本でも、ただ知識のみにとどめて何も行動

しないなら、その価値は無に等しい。世の中には72時間ルールとい

うのがあって、何かを思い立ったら72時間以内に実行しなければ、

それは一生実行できないと言われているのだ。

今年に入って物価が高騰していると実感している人は国民のなんと

80%以上だそうだ。もちろん、私もその1人。たぶん値上げの嵐はこ

のまま延々と続くだろう。私も再びこの本を読み直して、いま自分に

できることから始めよう。いや、始める。72時間以内に。

 イヌが教えるお金持ちになるための智恵

 著者/ボード・シェーファー  訳/瀬野文教  草思社

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2008年2月22日 (金)

222で今日は猫の日

Nekobiyori_3

こないだ、何かを検索しててこの本にぶつかった。

猫本らしいんだけれど、中身がちょっとだけ紹介してあって、趣のある

文人と猫のモノクロ写真に惹かれた。翠ちゃんの好きな大佛(おさら

ぎ)次郎に始まって、漱石や幸田文や武田泰淳らの猫との写真と、

猫にまつわるエピソード。で、さっそく近所の本屋に行くことにする。

本屋に行く必要があるときは、私はいつも例のおじいさんが1人でや

っている本屋に行く。売り上げにちょっとでも貢献って気持ちもあるけ

れど、おじいさんの安否確認も含めて。だからこの本屋にはいつでも

行けるわけではなくて、気持ちと時間の余裕がなければならない。

こんちわ、と言いながら店に入って、新書の雑誌の棚をひととおり見

回す。他の棚も見る。でも目当ての本はない。

私:「出たばかりの『猫びより』って雑誌が欲しいんだけど、ないね」

店主:「猫びよりか、ありゃあ、○○だから、本屋には置いてないよ」

店主、即答。いつもながらの記憶力に感心する。○○っていうのは

本屋の業界用語らしいいんだけれど、なんだか忘れた。

私:「○○って何?」

店主:「本屋では売らない本のことだよ。直接、出版社に申し込んで

    年間購読料払わないと読めない本のこと」

私:「げ。そうなの? じゃあ、ここでは買えないってこと? 話になら

   ないな。いったい出版社はそんなんでやっていけるのかしらね」

ぶつくさ言う私に、店主は「猫びよりは確かそうだと思ったよ」と言っ

て何かを確認しながら、「返って受注したぶん作ればいいんだからい

いんじゃないか」と言っている。

そして下を見たまま、「猫が好きなのかい?」と訊いた。

私:「猫も好きだけど『文人が愛した猫たち』って特集をやっていてね

   私はむしろそっちが好きなんだと思う。昔の文人が。文人がな

   ぜそんなに猫が好きなのかも興味がある」

文人のほうかい、ふふふ、なんて笑っている店主に「ごめん!おじさ

ん無いなら駄目だ。また来るね!」と言って店を出た。おじいさんは、

ああ、そうだね、と鷹揚に言って、ゆっくりもといたレジの前に座った。

そう、私はいつだって動物より人間のほうに興味があるのだ。時に煩

わしく厄介に思いつつも避けて通れない。だから、そうきち歩けば人

にぶつかる、なのだ。私がこの本屋に行くのだって、単におじいさん

に情をかけているわけではない。このおじいさん、お顔こそ長老のニ

ホンザルのようだけど、年上なのに私の父よりずっと矍鑠としていて

晩年のヘルマン・ヘッセのように聡明なのだ。何より本が好きで、本

をたくさん読んだ人のようなのが見てとれるし、どこで生まれたかは

知らないけれど、共通の東京っ子気質みたいなものを感じて、私は

ラクに話せる。この話せるってのが何より大事。

それで今日2月22日は、にゃんにゃんにゃんで猫の日だって。

さて、猫好きさん、本日のご予定は?

あたしは、今日もピーカンだけど、とりあえず、これから、長らく電池

も入ってなかったCONTAX T2持ってカメラ屋に行く。

私が昔愛用してたイルフォードのフィルムは今でも売ってるかな?

ええい! 雨よっ! 降れっ!!!rain

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2007年10月19日 (金)

愛するって、手を放すタイミングもわかるってこと

Man_and_boy

誰かに恋して、その人を好きになったら、その人のことをもっともっと

知りたいと思う。それってごく当たり前のことだと思うけれど、そういう

情熱も歳とともに衰えていくものなんだろうか。

19のときに出会ったその人は「君のことをもっと知りたいんだ。君が

今まで読んできた本も全部読みたい」と言った。私は生まれてこの方

人からそんなことを言われたのは初めてだったから、きょとんとしなが

らも同時に「でも、この人は絶対読まないだろうな」と思った。なぜっ

て彼は私と正反対の理数系を得意とする人間で、映画館でトリュフォ

ーの『突然炎のごとく』を私が夢中で見ている間も、ずっと横で寝てい

た人なのだ。でもそれでも、そのときの彼の情熱は充分に伝わった。

人の情熱ってヤツにとても弱い私。

そして例えばすごく良い映画を見たり、面白い本を読んだり、いい音

楽を聴いたり、おいしいものを食べたり、素敵な場所をみつけたりし

たら、それを好きな人にも見せたいし読ませたいし聴かせたいし食

べさせたいし連れて行きたいって思うのも、私は実に自然な気持ち

の流れだと思うのだけれど、そう思いませんか? 

私はどうやら人一倍それが強い人間で、ときどき人からうるさがられ

る。私の心を打った感動は、まるでゴミのようにポイ捨てされる。

自分のとは別にわざわざ新しく買ったこの本をKに渡したのは、彼が

いつもより長めの出張に行くときだった。いつも数冊まとめて持ってゆ

く文庫本をあっという間に読んでしまって、読むものが無くなって困る

と言ったからだ。私がこれを渡すと、彼は受け取るなり「厚いね」と言

った。「それに君の読む本は難しいからな」「そんなことないよ。厚い

けどほとんど会話文だし、すごく面白くて読みやすい本だからすぐに

読めちゃうと思うな」と私は言い、彼は「わかった」と言った。

後にKには同様にロバート・キヨサキの本も渡したけれど、結局どち

らも読まなかったようだ。ロバート・キヨサキの本は3000円もする本

だったし、それに限っては「あなたが必要なくても他に必要な人がい

るかもしれないから、いらないなら返して」と言っておいた。そして実

際コンピュータのソフトを貸して返してもらうときに箱の中に入れてく

れたと言っていた本は、ロバート・キヨサキの本だとばかり思ってい

たのだ。ところが最近になってそのソフトを再インストールする必要

があって箱を開けたら、中から出てきたのはこの本だった。それで

私はいつかこの本を彼に渡したときの自分の心情などをふいに思

い出して、しばらくぼんやりしてしまったのだった。

私がこの『ビューティフル・ボーイ』をみつけたのは、まだ駅前に書楽

があった頃だ。その書店はなかなか品揃えも良くて、いつもホルショ

フスキのピアノがBGMに流れていて、私がボーっとするには最適の

場所だった。久しく長編小説なんかを読まなくなった私がこの本を手

に取ったのは、その本の帯に書いてあった『愛するって、手を放すタ

イミングもわかるっていうこと』という言葉が目に入ったからだった。

つまりそのとき私は、手放したほうがいいだろうと思いながら、なか

なか手放せないでいるものを抱えていたというわけなのだった。

この小説はこんな風に始まる。

 人生の一大イベント、「これでオレも立派な大人」の三十歳の誕生

 日を迎えるに当たって、してはいけないこと。

 職場の同僚と一夜をともにすること。

 身にあまる贅沢品を衝動買いすること。

 妻に出て行かれること。 

 失業すること。

 突然シングル・ファザーになること。

 三十ともなれば何をしたって構わないが、今挙げたことだけはして

 はいけない。残りの人生が台無しになる。

つまり主人公のハリーは、これを全てやってしまったのである。

それからハリーの生活がどうなってゆくかは子供を育てた母親なら、

あるいは実際にシングル・ファザーを経験したことがおありの方なら

想像できるかもしれない。4歳のイタズラ盛りの息子パットを抱えて、

今までやったこともない家事と育児に悪戦苦闘の毎日、おまけにな

かなかうまくいかない就職活動、父親の死、子供の親権と離婚問

題。そんな人生最悪の時を通して、この1人の男が本物の父親(父

性を越えて母性さえ感じるほど)の愛情に目覚めていく姿を、今から

さほど昔ではないリアルタイムな時代背景のなかに時にユーモラス

に、時に真摯に、時に泣けるタッチできめ細やかに書かれているの

がこの『ビューティフル・ボーイ』なのだ。この帯に書かれている言葉

はかなり後半になってハリーの母親の口から出る言葉なのだけれど

とても感動的なシーンなので、それはぜひ実際に読んでいただけた

らと思う。私がKにこの本を読んでもらいたかったのは多分、その頃

の私にとって理想的な父親だと思えた(あくまで思えた、だ。もはや

過去形)Kならきっと共感できる本だと思ったのと、これで少しはシ

ングル・マザーの気持ちも理解してもらえるかもと期待したのと、私

なりの幾つかのコードを読み解いて欲しかったからなのだと思う。

見事に失敗に終ったけれど。

この小説で感心するのは、本当に子供のことをよく見ていて、まるで

母親のようにきめ細やかな愛情の機微を描いているところで、私はこ

れを読み終わった後、もしもう一度結婚するならこういう人と結婚した

いと思ったくらいだ。この小説は全部が実話ではないけれど、限りな

く著者トニー・パーソンズの経験をもとに書かれたものらしい。彼は実

際に浮気をして妻に子供を置いて出て行かれた後、1人で息子を育

てながら音楽ジャーナリストとして活躍し、不動のライターの位置を獲

得した。そしてこの小説を書いた後で再婚し、日本人の妻としあわせ

な家庭を築いているそうだ。これほどセンシティブでナイーブな彼が

日本女性を妻に迎えたのは正しい選択だと思う。私の仕事のパート

ナーも言っている。「僕は昔はチャーリーズ・エンジェルみたいなのが

好きで実際にブロンドの女の子ともつきあったけれど、いろいろ経験

した今となっては、やっぱり日本の女の人が1番ですね」「つまりホス

ピタリティの点においてでしょ?」「そうです!」 やれやれ・・・

最初から最後まで入れると427ページもある本だけれど、軽妙洒脱

なタッチで読みやすく、まるで映画を見ているみたいにあっという間に

読めてしまう。日本語訳も素晴らしい。手放したいものを持ちながら

なかなか手放せない、そんなこの秋の切ないあなたにお勧めです。

下の写真は著者、トニー・パーソンズ。

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 『ビューティフル・ボーイ』

 河出書房新社 

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2007年9月21日 (金)

心のエネルギーレベル

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時々、わけもなく急に何もかもがつまらなく思えてしまうことがある。

たとえばこんな風にブログを書くことも、お洒落をしてどこかに出かけ

て行くことも、誰かに会うことも、料理をすることも。世の中にあふれ

ている会話という会話がくだらなく思え、全てのメディアがつまらなく

なり、いつもはすぐにできるメールの返信ができなくなり、約束してい

た友人と会うこともどこか億劫で、楽しみにしていたミュージシャンの

ライブに行くのさえ気が乗らなくなってくる。

さっき、わけもなく、と書いたけれど、もちろん心の深いところではきっ

と理由や原因や引き金になるものがあって、私のように常に現実的

な問題を幾つも抱えて生きていれば特にめずらしいことでもないのか

もしれないけれど、きっとこんなときは心のエネルギーレベルがすっ

かり落ちてしまっているんだと思う。一時的に。丹田に気が充実して

なくて、腰くだけな感じ。おまけに今日は漠然と自分にエネルギーが

無いと感じていたのが、夕方ポストを見たら入っていた役所からの現

実的な幾つかの書類で、更にそれは決定的になってしまった。

でも、こんなときは無理に自分を鼓舞したりするより、いつもよりゆっ

くりお風呂に入ったり、早く寝たりしたほうがいいんだと思う。

綱渡り生活の極意は、けして下を見ないこと。夜更けにシリアスなこ

とを考えたり、お給料日前の貧乏なときに将来の展望を考えたりしな

いことだ。そういえば、前に電車の中で読むために買った光野桃の

『ソウルコレクション』という本があった。たぶんこの本を買ったときも

私は少し元気がなくて、サブタイトルに惹かれて買ったのだと思う。

これは自分にとってのスペシャルな物との出会いが、心にエネルギ

ー(活力)を与えてくれることを書いた本だ。スペシャルというのはもち

ろん、高価ということを意味するのではない。ちょっと長くなるけれど

前書きも素敵なので引用してみようと思う。

『ある日、ひとつの物に巡り合う。これが好きだと思い、連れて帰りた

いと願う。喜びに満ちた瞬間だ。物から発された何かが、自分の深い

ところに真っ直ぐに届く。何か、とはなんだろうか。なぜ、好きだと感じ

欲しいと思うのだろう。そのことを深く考えなければならない。

世の中にはたくさんの物が溢れているけれど、必要な物はそう多くな

い。それは実用という意味ではなく、魂(ソウル)が欲しているものか

どうか、ということだ。魅力的な人は、いいオーラを湛えている。物も

同じだ。値段でもブランドでもない。本当に正しい物には、やはりいい

「気」が流れている。その「気」に敏感になること。そのためには直感

力を磨いておく必要がある。<中略>自分を見つめるのは苦痛を伴

う。そんな時間なんてない、とあなたは言うかもしれない。整理がつ

かないし、不安がいっぱいで、一歩を踏み出すのが怖い。この先どう

なってしまうのか、自信もないし、方法も見つからない・・・。そんなと

き、物の力を借りてみる。物との関わりから始めてみる。直感に従っ

て、心の声に耳を澄まして物を見つめる。選ぶ。愛でる。すると思わ

ぬ発見がある。<中略>物は人の手に触れられたとき、ただの物か

ら想いを宿す手鏡に変わる。直感が呼び寄せた物、心が喜ぶ物に、

数少なく囲まれている人の姿は美しい。<中略>庭木を刈り込むよ

うに、ツンツン飛び出た不必要な葉や育ち過ぎてしまった枝を整えて

暮らしを自分らしい形にする時がきている。そういう日々のなかで、

魂の自由が育ってゆく。』

映画なんかを見ていてもよく思うけれど、人の暮らしというのは思い

のほか単調なものだと思う。特に女性は日々の主婦業の明け暮れ

で、あるいは仕事の明け暮れで、心にエネルギーが足りなくなったら

この本を手に取ってみるといいかもしれない。ちょっと心の贅沢が味

わえて、共感すること間違いなしだから。そして値段の多寡によらな

い自分だけのスペシャルに出会いたくなるだろう。私は近々、娘を連

れて銀座の月光荘画材店に行くことに決めた。前から一度行ってみ

たかったのだけれど、あそこの虹色のスケッチブックが見たくて。

それから、それを見た娘の輝く顔が見たくて。

私がモチベートできないのは伸び放題のこの重い髪にも原因がある

のだ。今朝ついに発作的に自分で少しハサミを入れてしまった。

こうなるといよいよで、今日はついに美容院に予約を入れた。

上の写真はアンティーク・コルダナ。人は緑に触れると、緑からもエネ

ルギーをもらえるのだそうだ。大いに触れてください。

Mitsuno_momo_2 光野 桃(みつの・もも)

ソウルコレクション

心にエネルギーを補給する

40の物語

集英社文庫

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2007年9月16日 (日)

夏の終わりと『RUBBER SOUL』、センチメンタルなビートルズ

Rubber_soul

もう夏はとうにバイバイと手を振って行ってしまったのに、またもや夏

日だ。もしこれで本当にまた夏が帰って来てくれたというのなら、私

は快く「おかえり」と言ってドアを開けてあげるところなんだけれど。

「冷たい麦茶でもいかが?」

でも、どんなに暑くてもこれがフェイクだと知っているから言わない。

昨日、ブロガー友達のブログを開いたらビートルズのアルバムがピッ

クアップされていて、ちょうど私もその日ビートルズのある曲を思い出

したところだったから、いま持っている数少ないビートルズのCDの中

から『RUBBER SOUL』を選んでかけた。そして最初の曲『DRIVE MY

CAR』が流れ出すと、私の頭の中で封印されていたものが一気に解

かれ始めた。それで昨日は、私はすっかりセンチメンタルな気分にな

ってしまった。それについては、村上春樹はこんな風に言っている。

『ある日、何かが僕たちの心を捉える。なんでもいい、些細なことだ。

バラの蕾、失くした帽子、子供の頃に気に入っていたセーター、古い

ジーン・ピットニーのレコード・・・、もはやどこにも行き場所のないささ

やかなものたちの羅列だ。二日か三日ばかり、その何かは僕たちの

心を彷徨い、そしてもとの場所に戻っていく。・・・暗闇。僕たちの心に

は幾つもの井戸が掘られている。そしてその井戸の上を鳥がよぎる』

うまい言い方だなと思う。

『その秋の夕暮れ時に僕の心を捉えたのは実にピンボールだった。』

そして、昨日の夕暮れ時に私の心を捉えたのは、ラバー・ソウルだっ

たのだ。昔から、これは夏の終わりになるときまって聴きたくなるレコ

ードだった。考えたら私が最も好きな、あるいは最も繰り返し聴いて

いるビートルズのアルバムは、このラバー・ソウルかもしれない。この

アルバムは村上春樹の小説『1973年のピンボール』と密接な関わ

りがあり、また自身の1981年頃の思い出とも密接に関わっている。

一晩中、『MICHELLE』を歌いながら私が頼んだ複葉機のプラモデル

を作ったというS.そのイメージは当時の彼の笑顔とも重なって、困っ

たことに今でも私を苦しめる。

なぜ夏の終わりにラバー・ソウルが聴きたくなるかというと、この小説

が1973年の9月に始まるからだ。このストーリーはまだ夏の名残を

残す9月に始まり、秋も深まる11月の朝に終る。読んだことのない

人は別サイトでストーリーを参照されたしと思うが、物語は主人公の

僕と、主人公の大学時代の友人で『鼠』と呼ばれる男の話がパラレ

ルで進行する。キーワードは死んだ恋人、ジェイズ・バー、井戸、双子

の女の子、ピンボール・マシーン、夕暮れのゴルフ・コース、霊園、古

いスタン・ゲッツとラバー・ソウル。そんなところだ。物語全体を通奏低

音のように流れているのは喪失感。

村上春樹という作家については好き嫌いがはっきり分かれるところだ

ろうと思うが、私自身は多少の年齢の差こそあれ、同時代を生きる作

家としてデビュー作からずっと読んできた。私が村上春樹に惹かれる

のは、その情景描写、とりわけ夏という季節の描き方の素晴らしさで

それはきわめて映像的であり、また音楽の使い方の上手さもあって

そこにともなう心理描写とともにひとたび感情移入して読んでしまった

なら、それは自身の思い出と見紛うばかりに脳みそにインプットされ

る。そして昨日のように、まるで自分の記憶同様に何かの折にふっと

蘇ってくるのだ。そのあたりが多くの人をして何度も同じ小説を読ま

せてしまう村上春樹マジックだろうと思う。そして音楽の力に至って

は、今さら言うに及ばないだろう。音楽は自分がそれを聞いていた時

代の空気をともなって、一瞬にして人をここではないどこかへ連れ去

ってしまうものだから。

『1973年のピンボール』はこんな風に終る。

「またどこかで会おう」と僕は言った。

「またどこかで」と一人が言った。

「またどこかでね」ともう一人が言った。

それはまるでこだまのように僕の心でしばらくのあいだ響いていた。

バスのドアがパタンと閉まり、双子が窓から手を振った。何もかもが

繰り返される・・・。僕は一人同じ道を戻り、秋の光が溢れる部屋の

中で双子の残していった「ラバー・ソウル」を聴き、コーヒーを入れた。

そして一日、窓の外を通り過ぎていく十一月の日曜日を眺めた。何も

かもが透き通ってしまいそうなほどの、十一月の静かな日曜だった。

Murakami_haruki_001

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2007年7月25日 (水)

かわいい布ぞうりの本ができました!

Nunozouribon_2   

すっかり我が家の定番になった布ぞうり。夏は家では布ぞうり、外で

は下駄サンダル。この気持ちよさ、一度知ったらやみつきです。

夏は裸足に限る!

さて、そんな布ぞうりの可愛い手作り本が、ココログ仲間で仲良くして

いるコットンビーズさん監修でできあがりました!

なんでも出版のきっかけは、コットンビーズさんがやっている布ぞうり

講習会に参加して、実際に作って履いた本の編集さんが、そのあま

りの履き心地の良さに感激して、「本を出しませんか?」と電話をか

けてきたのが始まりだそう。それというのも最近は関西にまで出張し

て、地道に講習会を行ってきたスタッフの皆さんの努力の賜物でしょ

う。その受講者の数なんと6000人! それは今も日々更新されて

いるのでしょうけれど、こんな風に自分のやってきたことが本になって

集大成された感激はひとしおだと思うし、50代になってからの起業

で、いままでいろいろ苦労されてきた甲斐があったというものです

ね。素晴らしい!

私もさっそく、本と布ぞうりの手作りキットがセットになった出版記念

限定セット(残念ながらすでに完売)をオーダーしたら、おととい届き

ました。可愛い表紙を開くと、中には小学生でも編める基礎の編み

方から、私が知りたかった裏にロープが出ない中級の編み方まで載

っていて、それ以外にも着なくなった愛着の古着をリサイクルして作

る方法や、様々な布によって違う仕上がり具合をお洒落な写真で見

せていて、さすが「私たちのこだわりを、この本にいーっぱい詰めまし

た!」と代表の富本さんが言うだけあります。見ているうちに私も作り

たくなってきたので、(鼻緒は細いのだけれど)私もさっそく中級の編

み方で作ってみました。それが、これ ↓

Nunozouri07

今回もバラ柄の鼻緒が入っていたのだ。

グリーンとピンクにベージュがちょこっと入って、どこか洋風な布ぞう

り。名付けて『イングリッシュ・ガーデン』。

Nunozouri0701

久しぶりに編んだのと、慣れない初めての編み方で、片方編むのに

だいぶ時間がかかってしまった。裏にヒモの切れ端が出ないように

集中していたせいで出来はイマイチだけど、裏もこんなにきれいで

す。ロープも出ていません。このニットのヒモはとてもよく伸びるので、

ロープを隠すにしてもほんとに扱いやすい。

Nunozouri0702

今までは、出来上がってから裏に出ているヒモを鉤針編みの編み針

で土台の編み地の中に隠す、という仕上げ作業をやっていたのだけ

れど、最初はちょっと大変でも、慣れてしまえば仕上げをしなくていい

分、こっちの編み方の方がラクチンそうです。

さて、このバラの布ぞうりは夏生まれのあの方に、と思ったのだけれ

ど、23センチよりちと大きくなってしまった。

小柄な彼女にはちょっと大きいかなあ ・・・

この本と、出来上がっている布ぞうりと手作り布ぞうりのキットは、コ

ットンビーズさんのサイトで売っています。とっても可愛いので、ぜひ

ご覧ください。→  コットンビーズ

雑貨屋さんなんかで売っている布ぞうりとは、履き心地のふんわり感

が全然違います。土台の布と鼻緒の組み合わせを考えて、自分で編

むのも楽しい♪ (店長、本の完成おめでとう!&お疲れさまあ~)

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2007年7月10日 (火)

猫たちよ!/浅井愼平

My_dear_cats_1

私のまわりには、何故かわからないけれど昔から猫好きが多い。

結婚した相手の両親なんか、かなり重度の猫好きで、息子が高校生

だった頃、暮れに飼い猫のチビが死んでしまったからといって喪中の

葉書を出したくらいだ。慌てた知人が「チビというのは、お宅の末の息

子さんのことですか。あんなに元気だったのに ・・・」と言ったところ、

父は平気な様子で「いやいや、チビというのは可愛がってた飼い猫

のことでして。紛らわしいことをして、あいすみません」としゃらっと言

ったとか言わないとか。まったく人騒がせな、落語みたいなほんとの

話だ。そのチビと間違われた末弟にいたっては、いついかなるときに

も猫目線で右手の指を差し出して、チッチッと呼べばかならず猫が寄

って来るというマジック・ハンドの持ち主だった。あれは不思議だった

な。私がいくら同じようにやっても、猫はちっとも来ないのに。

いまも私のまわりは何故か猫好きだらけ。猫がいないと暮らせないと

いう人がいっぱいいる。当の私はというと、北村太郎が言っていたの

と同様、私は猫派でも犬派でもない。どちらも好きだけれど飼ったこと

はないし、強いて言えば私は小鳥派かな。生まれたときから小鳥は

いつも身近にいたし、ずいぶん長いこと私は小鳥の飼育係だった。

だから今でも平気で鳥を捕まえられるし、扱いには慣れていると思

う。小鳥というのはとてもポエティックな生きものだから、自分に合っ

ているとも思う。それに今は2人の子供をまっとうに育てることだけで

いっぱいいっぱいの私には、もうこれ以上、哺乳類はたくさんだ。

猫でも犬でも私には荷が重過ぎるし、その大きさからいってもせいぜ

い小鳥くらいが妥当じゃないかと思う。だいいち私がこれで猫なんか

飼ったりしたら、また妹からクレームがきそうだしね。

海岸美術館に行った後、浅井愼平のことをいろいろ調べていたら、こ

んな猫写真集を見つけた。浅井愼平も猫が大好きな人だったんだ。

だからミュージアム・ショップにあんなこだわりの猫の置物が置いて

あったというわけか。本を開くと浅井愼平が旅の途中、世界の街角

で出逢った猫たちが、時にシニカルに時にコミカルな姿を見せてくれ

る。そこに添えられた言葉も実に気が利いていて、思わずくすっとさ

せられる。猫は人に様々なイマジネーションを与えてくれる生きもの

らしい。写真が見開きに渡ってなくて、私の好きなページをちょっとだ

けお見せするとこんな風です。↓(クリックすると活字も大きくなります)

My_dear_cats_02_2_1 My_dear_cats_01_1

My_dear_cats_03 My_dear_cats_04

ね、なかなかでしょう?

私の記憶違いじゃなけりゃ今日は大の猫好きのhanta さんの誕生日

で、だから今頃この本はhantaさんのもとに向かっているはずです。

この写真集は新刊じゃないから、古書ショップで見つけたものなのだ

けれど、彼女はそんなことは気にせずに、きっと楽しんでくれるでしょ

う。そしてもし私が彼女の誕生日を数日記憶間違いしていたとしても

鷹揚に許してくれることでしょう。ちなみに私がいつか猫を飼うとした

ら、その猫の名前はヴァンサンです。なぜか昔からそう決めている。

彼はとても聡明で美しく、ウイットに富んだ猫です。だから彼とならた

まにはディナーを一緒にしてもいいかもしれない。その頃には私もワ

インくらいは嗜めるようになっていたいです。

****************************************************

追伸:右にリンクしてあるJAZZヴォーカリストの清水翠のHPを開い

て、『naruto senkichi home』というところをクリックすると、彼女の飼

っている猫が見られます。清水翠という人もまた詩的感覚を持った人

で、彼女の観察による猫の描写もまた面白い。猫好き必見(?)。  

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2007年6月11日 (月)

はじめてのバラ

Barabon_2 

私が初めて買ったバラのバイブルとも言える本は、通称Mr.バラと呼

ばれる鈴木省三さんの本でした。そして初めて買ったバラの苗はハ

イブリッドティーの『ホワイトクリスマス』。当時は今ほどバラのことは

知らなかったけれど、白バラの代名詞とも呼ばれるバラで、アイボリ

ーの美しく整った花形と香りが素晴らしいバラでした。まだイングリッ

シュローズが誕生したての頃で、オールドローズもなかなか手に入り

にくかった頃。その後、空前のガーデニング・ブームがやってきて、

『私の部屋ビズ』というガーデニング雑誌が創刊され、そこから出た

ムック本の『バラの園を夢見て』は私を虜にし、いったいどれだけ眺

めたことか。眺めすぎて今では綴りが取れてページがパラパラ落ち

てくるほど。それは今から約12年前のことでした。熱しやすく冷めや

すい日本人のこと、当時はきっとこのガーデニング・ブーム、バラ熱

も一過性に終るのだろうと思っていたのだけれど、どうやらバラはす

っかり日本人の庭に定着したように思えます。いまやイングリッシュ

ローズもオールドローズも近所のホームセンターでいつでも買えるほ

ど身近になりました。次々に新しい品種が売り出されるなか、今年は

フレンチローズなるバラが初めて日本に上陸しました。

この『はじめてのバラ』は、そのフレンチローズの総代理店であるロー

ズ・オブ・ローゼス社の専務取締役、巷では『バラの貴公子』と呼ば

れている大野耕生さん監修の本です。コンセプトは『はじめてさんの

ためのローズバイブル』。私はもういささか初心者とは言えないのだ

けれど、バラのプロが初めてバラを育てる人にどんなことを言ってい

るのか知りたくて、それとお目当てのフレンチローズの写真が見たく

て買いました。バラ栽培についてはもう私にはそれほど真新しいこと

は何もなかったのだけれど、バラの庭造りのアイディアが満載で、コ

ーナーと仕立て方別に、それに適したお勧めのバラなどがピックアッ

プされていて、これから少しずつバラを増やしていこうと思っている方

には良い本だと思います。栽培についても、『本当に必要な12ヶ月

栽培管理』として初心者にも安心で必要なことだけをわかりやすく書

いてあるので、文字通り初めてバラを育てる方がバイブルにするには

いいかも。自分にとってのバイブルといえる本を1冊手に入れておくと

迷ったときにはいつでも確認できるので便利です。バラを始めて最初

の数年は神経質にならない程度になるべくセオリー通りにやって、そ

うしているうちに自分の経験でアレンジが利くようになってきます。

お恥ずかしいことに私が今よりもっとバラにハマっていた頃は、いつ

か自分のバラ本を出すのが夢でした。私がバラ本を作ったら、やっぱ

りあんまり実用書にはならないかなあ・・・

ガーデニングショップで働いていた頃によく店頭でお客さんに熱く語

っていたのは、たとえ小さな庭でも、ベランダでも、たったひと鉢バラ

を有することで生まれる生活の愉しみについてでした。まるで『星の

王子様』の愛したたった1本の我儘なバラのように。映画『レオン』の

中で孤独な殺し屋がマチルダに出会う前まで、唯一大事にしていた

観葉植物みたいに。そんな私のドリーミーな話に共感してバラを始め

てしまう奇特なお客さまもいたのでした。その思いは今でも私の胸に

あって、いつか今のようにこんなにバラを持つことができなくなったと

しても、たったひと鉢のバラを大事に大事に育てるのもいいな、なん

て思います。

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2007年1月21日 (日)

方言の温もり/きんこん土佐日記

Tosanikki_2 

去年の暮れにブロガー友達のリサ・ママさんから本が届きました。

「あなたに土佐弁を満喫していただこうと」、という手紙とともに届い

たのは、『きんこん土佐日記』というコミックと、『簡易土佐弁辞典』

の小冊子。

この『きんこん土佐日記』、共働きの両親が仕事から帰って来るま

で父方の祖父母の家で過ごしている幼稚園に通う5歳の孫のたくみ

と、おじいちゃん、おばあちゃんを中心に、たくみの両親、そして近

所の人と、土佐に暮らす人々が繰り広げる他愛なくもほんわか可笑

しい日常を描いた4コマ・マンガで、当地の新聞、高知新聞にも連載

されて人気らしい。ちなみに中身はこんな風。・・・ 笑えます。

Tosanikki_001_1

方言というと、東京生まれ・東京育ちで東京のほか故郷を持たない

私にとってはちょっとした憧れなのです。

いつか友人と一緒に彼女の田舎に行ったとき、可笑しかったのは彼

女が新幹線に乗った途端にすっかりリラックスして田舎モードになっ

てしまったこと。東京にいるときにはいつもトレンドのファッションでキ

メてる人なのに、新幹線の中でコンタクトをはずしてメガネに替えたら

すっかり気の抜けた顔になっていた。それくらい彼女にとって東京と

田舎って違うんだなあと思った。いつもはふつうに標準語を話す彼女

が、駅に着いて実家に電話をするなり自然に関西弁になっている。

私は京都駅の改札で切符を渡したとき返ってきた「おおきに」という

言葉で、自分が関西に来たんだなあーと実感しました。

方言はその土地の人々の連帯感、新密度を感じさせて、お風呂の

ようにあったかい。聞いていると関節の一個一個が緩むような感じ。

私はいかにも今風のかっこいい若い男の子が、無頓着に地元の言

葉で話すのも好きだ。暮れに終った『のだめカンタービレ』の中にも、

主人公のだめが福岡の実家に帰って福岡弁で話すシーンがあった

けれど、なんというか朴訥として、実にかわいかったなあ ・・・

よく関西の人は関西弁の『アホ』と標準語の『バカ』を較べるけれど、

同じ言葉でも自分の生まれ育った土地の言葉と標準語で言われる

のとでは、全然違って聞こえるんだろうと思う。

標準語以外方言を持たない私は、ときおり友人の使う言葉に笑わさ

れたり、和んだりするくらいしかできないのだけれど。


 リサ・ママさま、

 土佐弁ちゅうのは、げにまっこと、おもしろかものやねえ。

 暮れはお互い言葉がなかなか通じんやったきに、まっことなんぎな

 ことやったけど、あてはしょうまっことはちきんやき、ゆるいてや。

 リサ・ママさんも、もうちくと鷹揚にたのみます。

 あてはもうかまんがって、また、よろしゅうに。

 ほいたら、また! (俄かヘボ土佐弁にてご容赦のほど。)

Tosaben_1

* 高知新聞ホームページで、『web版きんこん土佐日記』が見られ

 ます。     →   高知新聞ホームページ

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2007年1月12日 (金)

母の恋文 / 谷川俊太郎

Haha_no_koibumi_1

のちに高名な哲学者として世に知られることになる詩人・谷川俊太郎

の父、谷川徹三は、学生時代に(俊太郎の母)多喜子と出会う。

谷川徹三は京都帝大哲学科の見目麗しき京大生。お相手の多喜子

は裕福な家庭に生まれ何不自由なく育った女学校に通うお嬢さん。

時は大正。自由な時代の風が吹き、浪漫が息づいていた時代。

ふたりが初めて会ったのは、大正10年6月3日のある音楽界の夜。

京大の学友・林達夫から紹介された多喜子は、林の妹の友人だった

という、まるで夏目漱石の小説『それから』を髣髴とさせるような出会

い。それから間もなく、ふたりは急速に恋に落ちる。

この『母の恋文』は、ふたりが出逢った大正10年6月から12年7月

までにかわされた537通もの手紙から編集された書簡集である。

父母の死後、残された遺品を整理していて押入れの奥から出てきた

ダンボールのなかに大量の手紙を発見した谷川俊太郎は、あとがき

でこんな風に書いている。『手紙をざっと読んでみると、息子の目から

見てもこれがなかなか面白い。ふたりの感情の移り変わりはもちろ

んのこと、当時の京都に住む二十代のインテリたちが、何を考え、何

に悩み、どんな暮らしをし、どんな映画や展覧会を見、どんな音楽会

や芝居に行っていたかというようなことがよくわかる』。その言葉の通

り註が打たれた余白には、当時を偲ばせる文化や芸術、また当時彼

らがつきあっていた人間関係のなかには有島武郎や志賀直哉といっ

た著名な文人に代表される多彩な名前も見てとれる。本の表紙と中

に載せられた写真を一見しても、徹三は当時の京大生のなかでも群

をぬいた美男子であったろうと思うし、多喜子が徹三に一目惚れであ

ったことは容易に推察できるけれど、一方つきあうようになる以前か

ら学友の間でも噂があったという多喜子に徹三が惹かれたのは、そ

の容貌からというよりは、自由な気風の家庭で育った男勝りで才気

煥発な気質や、直裁で屈託無い物言いのほうではなかったかと思わ

れる。大正の頃はまだ女子が小学校の高学年まで行かせてもらえる

ほうが僅かだったという時代だから、当時女学校に行けるというのが

いかに財と才がなければ無理だったかということだが、時折り英語混

じり、それどころかドイツ語やフランス語混じり、そして自作の詩まで

挟まれて書かれたふたりの手紙は、現代から見ると少々キザで、と

てもロマンティックなものだ。そしてその手紙を読むと、『生来快活』で

『性格に男性的一面』があり、『女性的センチメンタリズムから脱却』

していると徹三が後に半ば責めるように言う多喜子の性格は私自身

にも少々かぶるところがあり身につまされたが、それにしても多喜子

の手紙は面白い。

ちなみに冒頭のふたりの手紙からごく一部を抜粋するとこんな風だ。

『しかし昨日はほんたうに愉快な半日でした。はじめての御家で、あ

んなにくつろげたのは、私にとって稀有なことです。私はちっとも窮屈

な感じがしませんでした。それだけ、知らずに失礼をしてるかも知れ

ません。いゝ気になってよそのお家で、しかも ladies の前で肌を脱ぐ

なんてのは実際礼節を知らぬ行為ですね。』(徹三)

『一昨日お出でくだすって有りがたうございました。あなた方にはつま

らないとお思ひになる事でも私には案外うれしかったり面白かったり

するのです。<中略>今日父の用事で浜寺へ参りました。一寸海を

見ましたがあゝざらに人間がゐては、いやになります。殊に丸髷に結

ったりしたデブデブした女が泳いだりしてゐるんですもの。こいつは助

からねえと思ひました。』(多喜子)

多喜子さん、江戸前べらんめえのあなたはいったい本当に京都人な

のかと言いたくなる。ふたりの手紙はこんな風にして学生同士の友

人然として始まり、しだいに恋の熱を帯びて切なく苦しいものになっ

ていく。本物の書簡集というのは作り物でないだけリアルで、まるで

自分に語りかけられているような、同時に他人の手紙を盗み読みし

ているような、独特の愉しみがある。しかしよくも書いたり。約2年の

間に537通とは。思うに十代後半から二十代前半というのは(自分

のその頃を顧みても)最も手紙を書く年頃ではないだろうか。いま会

って駅で別れてきた人に、家に着くなりまた手紙を書くとか、私もよく

していたなあ・・・。この家のどこかにもあるはずだ。ふたりほどでは

ないにしろ、リボンのかかった分厚い手紙の束が。それは大量の写

真とともに、この12年開けてみることのなかった、今となっては私に

はパンドラの壷のようなものだけれど。

そしてこの本には、その二十代の頃から三十年経った後に多喜子か

ら徹三に宛てて書かれた一通の手紙が添付してある。それには大恋

愛の末に結婚して一児をもうけたふたりが、結婚、出産という人生の

節目と環境の変化を経てしだいに心が離れ、いまでは徹三に愛人が

いることなどへの苦悩が綴られている。三十年たった今でも私はあな

たが恋しい、と書き、繰り返し『うそだけはつかないでください』と訴え

る多喜子の手紙には、かつて理知的すぎて他人に対するシンパシィ

に欠けるとまで徹三に言われた男性的な快活さはなく、いじらしくも

痛々しいばかりだ。けれど、これを読んだ当時は谷川俊太郎の詩の

印象もあって結婚の残酷さばかりを感じた私だが、今回この手紙を

読み直してそうではないことがわかった。多喜子という人は自分の心

に正直で嘘がつけない、そして偽りの人生に蓋をして生きてゆけない

性質のゆえにこの手紙を書き、そして救われた。この手紙の後すぐに

徹三から愛人がいなくなったわけではないようだけれど、ふたりは和

解し、晩年はしあわせに暮らしたようだ。巻末近くに晩年のふたりが

寄り添うモノクロームの写真が載っているが、とても良い写真であ

る。これもひとつの純愛の形だろうと思う。

そして両親の血、多分に母親の血を色濃く受け継いだ谷川俊太郎も

また、三度目の結婚にして、五十代も後半にして純愛にたどり着い

た稀有な詩人ではないかと私は思う。

****************************************************

これを書くのに私はひどく苦労して必要以上に時間がかかってしまっ

たので、この週末はブログの更新はやめてスイミング以外、仕事に

専念することにします。いつもながら、長々とした私の文章におつき

あいくださいまして、感謝いたします。

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2006年10月22日 (日)

恋はいつも未知なもの/村上 龍

Murakami_ryu_3

You don't know what love is.

直訳すると「あなたは恋が何か知らない」だ。

実際にそれで曲目リストに載っていたジャズのCDがあったはずだと

いまちょっとCDラックの中を探してみたが見つからなかった。意訳し

て、「恋はいつも未知なもの」。でも私はむしろ前者のほうがいい。

だって恋によらず人生は全て Tomrrow never knows なんだから。

そして、これは前にも少し書いたことだけれど、私が人生で最も傷心

だったある年の冬のこと、見かねた友人から、彼女の実家である滋

賀に一緒に行かないかと誘われた。母親から厳しく躾けられ、ごく普

通の常識人でもある私には、もちろん暮れ・正月というのが家族にと

って最もプライヴェートで、家族水入らずで過ごしたい時間であること

はわかっていたけれど、それをしても私にとってはあまりにありがた

い申し出だったので、私はそれを素直に受けることにした。子供を連

れて旅行に行くのなんてとても久しぶりのことだった。まだ2歳半の

下の子なんて、旅行に行ったことすらなかったと思う。

ある日、旅の支度をするために、子供のものを買ったりしたついでに

私は何気なく自分の好きなショップに立ち寄った。買うつもりもなくコ

ートのラックを見ていて、とてもオーソドックスなダークネイビーのPコ

ートを見つけた。私が見ているとさっそく店員が寄って来て、「はおる

だけでもはおってご覧になりませんか?」と言った。私は直感的にや

めたほうがいいだろうなと思ったけれど、彼女はもうPコートを私に向

けて広げていたので、私は腕を通した。はたしてそのPコートは私の

予想通り、羽のように軽かった。イタリア製の上質な生地を使ってい

るのだ。そしてそれは ・・・・・・ 私に似合った。

「すっごく軽くて、あたたかい」

私がそう言うと店員は「そうでしょう」と言わんばかりににっこりした。

結局、私はそのPコートを取り置きしてもらうことにした。その日、持ち

合わせがなかったのと、クレジットカードを使いたくなかったのと、即

決するには、そのときの私にはそのPコートは高すぎたからだ。

「お取り置きは1週間以内です。キャンセルの時はお電話ください」

彼女はそう言って控えを私にくれた。

そしてこれを人に明かすのは初めてのことになるけれど、私はその

とき自分にひとつの賭けをした。具体的には書かないが、賭けに勝

ったら私はそのPコートは買わずに、クロゼットの中の古いコートで

間に合わせて滋賀に行く。負けたら ・・・・・・ 。

負けたら私はそのコートを買うことにする。

そして結局、私は賭けに負け、パートタイムで働いた微々たるお給料

の全部を持ってそのショップに行った。そんな高価なものを現金で支

払うのは初めてだった。店員がお札を数えている間、私は自分の好

きなブランドの新しいコートが手に入るのに、苦い思いでいっぱいだ

った。ショップの店員は機嫌よく出口まで見送りに出てきて、丁寧に

おじぎをした。渡されたブランドのロゴの入ったショップバッグを肩に

かけて、暮れの寒々しい街に出ると私は思った。仕方が無いわ。私

にはこの冬、暖かいコートが必要だったのよ、と。

そのPコートを着て子供を連れて友人と新幹線に乗った。彼女は新し

いコートが私にとても似合うと褒めてくれた。京都に着いて改札で切

符を渡すと、「おおきに」という言葉が返ってきて、私はそれだけで和

んだ。そして滋賀では友人の両親が、暮れに他人の家に親子で押し

かけるという私たちの非常識さをもろともせずに、とても温かく迎えて

くれた。

「遠いとこよう来はったなあ。大変やったなあ」と友人の母は言った。

私はそこで世話になるかわりに食事の支度をしたり、家族分の洗濯

をしたりした。友人の母は私が父の洗濯物まですることに慌てていた

けれど、私には父親の洗濯物だけ別によけてする習慣がなかったの

だ。友人の両親は温かく接してくれたけれど、他人に過剰に干渉す

る人たちではなかったので、私も居心地は悪くなかった。

ただその頃かなりの活字中毒だった私は、そこで読むものが無いこ

とにすぐに渇望してしまった。それで、私以上に活字中毒と思われる

後から1人でやって来た友人の夫を誘って街に出ることにした。Nは

すぐに快く承諾した。私達は寒いなかマフラーを巻いて、駅の後ろが

すぐ琵琶湖という湖西線に乗り、2駅か3駅先まで行った。うろ覚え

のNの記憶にしたがって、駅からずいぶんと歩いて、やっと品揃えの

悪いコンビニみたいな書店にたどり着いた。そして2人して別々に本

屋の棚を見てまわったが、お互いとりたてて読みたい本を見つけるこ

とはできなかった。

でもせっかく電車に乗ってここまで来たんだし、何か1冊買おうと思っ

て単行本の棚を見ているときに、村上龍のこの本を見つけた。手に

取ってぱらぱらっとやったところ、ライトバースだけど悪くなかった。

つまり旅先で読むのに、Nが好きなウンベルト・エーコみたいな長編

で難解なものを読む気にはなれないし、かといって雑誌の記事みた

いのでも困る。

「これにする」。私はNに言ってレジで会計をした。店を出ると、なんと

外は吹雪いていた。吹雪のなかをNと「さみー」と言いながら歩いた。

おはぎの実演をやっていた丹波屋で、できたてのおはぎをお土産に

買って帰ると、何を食べさせても「うまいわあ」と言ってくれる素晴らし

い友人の父は、「丹波屋のおはぎや! こら、うまいわ」とたいそう喜

んでくれた。

結局、村上龍のその本は、帰りの新幹線の中で読んだ。どんな内容

かというと、心に何かしら痛みを持った中年男の前にだけ、あるタイミ

ングで忽然と現れる幻のジャズ・バーがある。そこではピアノ・トリオ

をバックに女性ジャズヴォーカリストが歌う甘く切ないスタンダード・ナ

ンバーが麻薬のように流れていて、そこで傷ついた男は安らぎ、救い

を見出すことができるのだ。けれどもう一度行きたいと思っても、それ

は幻のバーであって本当の所在すら定かではなく、再び行くことはで

きない。そのジャズ・バーを軸に、39曲のスタンダード・ナンバーに寄

せて展開される、39のストーリー。

ジャズが好きな人なら、ジャズという音楽が醸し出す、独特なインテ

ィメートな雰囲気と空間を想像することができると思う。

思うに女性はどちらかというと村上龍より春樹のほうに共感する人が

多いんじゃないかと思うけれど、私はときどき龍も読む。うまく言えな

いけれど、龍のほうが春樹よりフィジカルで、つまり男っぽく、男の論

理で一応合理的に書きながら、そこにどうしようもない切なさがあって

色っぽい。春樹の文体には色っぽさは感じないが、龍にはもう少し体

温がある。私は時々、自分の頭をフィジカルに男っぽく合理的にした

くて、それから(見たいような見たくないような、だけれど)男のリアル

な本音が見たくて、村上龍を読むのかも知れない。

彼はジャズについてこう書いている。「ジャズは、優しい。しばらく、放

っておいても、いつも、憶えていてくれて、付き合ってくれる女のよう

に、優しい」。まあ、実に勝手なものだ。ここには、そういう身勝手な

男がほぼ39人出てくる。硬派な女だったら、読みながら男の身勝手

さに腹が立ってくるかも知れない。けれど私の中には、そういう駄目

な男に多少共感してしまう駄目な部分があって、それなりに楽しんで

この本を読んだ。そして何より、ここに出てくる幻のジャズ・バーに行

ってみたいと思った。その頃、私はすでに中年の域に入りかけていた

し、充分過ぎるほど傷ついていて、私にもそこに行くだけの資格はあ

ったはずだ。ただひとつ、私が男ではないという決定的な理由を除い

ては ・・・

清水翠はジャズのスタンダード・ナンバーを歌う前に、ちょこっとその

曲にかわいい注釈を入れてくれる。私はそれがとても好きだ。

私は翠ちゃんに『Bluesette』でも歌ってもらおう。

以下、長くなったついでに、参考までに目次を。

Murakami_ryu_01

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2006年9月12日 (火)

土の中の彼女の小さな犬

Murakami_haruki_2 

外は今日も煙るような霧雨だ。

雨も3日目ともなると、いささかうんざりしてしまう。

いま、自分のことを書こうとしてやめた。どう考えても時間がかかって

しまいそうだから。それでタイトルも変えた。代わりに私の頭に浮かん

だのは村上春樹の短編小説だ。『土の中の彼女の小さな犬』。

この小説の初出は1986年だから、ちょうど20年前のことになる。

20年前! たいした時間じゃないか。書き出しはこんなである。

『窓の外では雨が降っていた。雨はもう3日も降り続いていた。単調

で無個性で我慢強い雨だった』。3日も降り続く雨。私はなんて勘が

いいんだろう! ただしこの雨は6月の雨だ。

物語は冒頭の雨の描写から、物書きの主人公が毎年シーズン・オフ

に訪れるクラシカルなリゾート・ホテルで朝食をとるところから始まる。

彼は2週間前に仕事とデートをかねてこの海辺のホテルを5日間予

約した。けれどここに来る3日前、いろいろと不運が重なった日(実際

そういう日ってあるものだ。どこかボタンをかけ違ったまま進んでしま

うって日が)に些細なことでガール・フレンドと喧嘩をして、連絡がつ

かなくなったまま1人で家を出てきたのだ。そしてもう3日も雨に降り

込められているのだった。彼は仕事にもまったく手がつかないまま、

退屈しのぎにホテルの古色蒼然たる図書室に行き、本を読んでいる

ときに朝、食堂で見かけた一人旅の若い女から煙草を1本ねだられ

る。彼は読みたい本を見つけられずに退屈している女に自分が持っ

てきた文庫本をあげることにして、そのあと2人でラウンジで雨を眺め

ながら珈琲を飲むことになるのだけれど、弾まない会話に彼は早々

にこの場を切り上げるのが妥当と思いながらも、何かが引っかかって

(こういうこともある)その場にとどまる。そして退屈しのぎに、ちょっと

したゲームのつもりで女の素性を当て始めるのだが、彼の物書きとし

ての観察眼はなかなかのもので、おおかたそれは当たってしまう。

そして、そろそろ本当に切り上げようと席を立ったところで、彼は最初

に気にかかったことに思い当たって、迷った末にそれを口にする。

女にはある特徴的な癖があったのだ。

「どうしてあなたはいつも右手を眺めるんですか?」

それは女にとっては決定的とも言える質問で、彼女が少女の頃から

自分の胸だけに隠し持っていた秘密に直結するものだった。

・・・・・・・・・・・・

ストーリーの全容を明かしてしまうとつまらないのでこれ以上は書か

ないが、これを読んだ当時は、読み終わった後になんとも言えない

後味が残った。それはなんとなく小説のタイトルからも想像がつくか

も知れないが、犬も猫も飼ったことがない私より、実際に飼っている

人ならもっとリアルに何かを感じるかも知れない。それはそんなに良

い後味とは言えないものだが、今回読み返して思うのは、この小説

の良いところは、女が旅先で偶然話すことになったこの男に少女時

代から独りで抱き続けていた(彼女の癖になるほど彼女に染み付い

ていた)秘密を明かすことで、初めてやっとそれを手放して楽になれ

たことと、男もまたこの女と話すことで心に変化が起きて、いくら電話

をしても出ないガール・フレンドに、(それでもかまわないから)電話を

かけ続けようと思えるようになったことだと思う。出ない電話の前に彼

女がいるとはっきり確信するラストは、その後に彼がガールフレンドと

和解できるであろうことを示唆している。

人の心のしくみは複雑にして繊細だ。何がどこでどんな風に作用す

るかなんてわからない。でも、だから救いもある。

誰かにメールをしたら返事が返ってくる、誰かに電話をしたら声が聴

ける。それは当たり前のことではなくて、とってもスペシャルな素敵な

ことなんだってこと。

私は村上春樹のどこが好きかと言うと、人の心理描写もさることなが

ら、その自然の描写によるところが大きい。この小説では雨。

それはまるで自身で体験したことのように胸の引き出しにしまわれて

ある日突然出てくる。ごちゃごちゃの引き出しの中から突然むかしの

宝物が出てくるみたいに。良い文章とはそういうものだ。

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2006年6月28日 (水)

東京奇譚集/村上春樹

Tokyo_kitan_1

人が生きているなかで最もリアルな感覚は痛みだと思う。

痛みは人の理性のコントロールなどはるかに及ばないところで人に

襲いかかり、人はそれに抗うことはできない。

そして痛みだけがいつも人を覚醒し、意識的にする。

その痛みがフィジカルなものであれ、メンタルなものであれ同じであ

る。身体に傷を負って激しく血を流すような痛みと同じような心の痛み

があるとして、もしあなたがそれを知らないというなら、あなたはしあ

わせな人だと思う。

ここに集められた5つの物語は、奇妙な偶然をモチーフにしながら、

心に大なり小なり痛みを抱えた人たちの話である。

ゲイであることをカミングアウトしたがゆえに家族と絶縁状態になった

ピアノの調律師、離婚後女手ひとつで育てた19歳の1人息子をハナ

レイ・ベイで鮫に食われて亡くした母親、マンションの24階と26階の

間で忽然と消えた夫の行方を捜す依頼人の女、『男が一生に出会う

中で、本当に意味を持つ女は3人しかいない』という父親の言葉がト

ラウマになって本当に人を愛せなくなった小説家、日常的に自分の

名前を忘れることに不安を感じた専業主婦が、カウンセラーを通じて

たどり着く自分の心の闇。最後の『品川猿』という話だけが、そのタイ

トル通り現実にはありえない非現実的なストーリーになっているが、

それ以外はどれも日常に実際に起こり得そうな話である。

村上春樹は昔から、人が些細なことで出会って関わり合い、些細な

ことでまた離れてゆくのを描くのがうまい。彼の小説の主人公は皆、

理知的で、感覚的ではあるが感情的ではなく、感情は抑制されすぎ

るくらいに抑制されている。その抑制された枠がわずかに崩れ、感情

が噴出する瞬間を描くのもまたうまいが、それは、ギリギリまで張力

を保った波が崩れる瞬間のようで、長くは続かない。そしてそれはい

つもたいてい独りのときに訪れる。噴出した感情は誰とも共有されな

い。これはきわめて現代的、都会的と言えるのかもしれない。

個人的には『ハナレイ・ベイ』という小説の中で、息子を失った主人公

のサチが、それを自分で認めるまでにはずいぶん時間がかかったの

だが、として、『正直なことを言えば、サチは自分の息子を人間として

はあまり好きになれなかった。もちろん愛してはいた。世の中のほか

の誰より大事に思ってはいた。しかし人間的にはどうしても好意が持

てなかった』と回想するシーンがいちばんこたえた。自分もティーン・

エイジャーの息子を持つ母親として、そうであればそれがどういう気

持ちかはっきり想像できたからだ。これってなんて痛いんだろう。

ただ村上春樹の主人公たちが昔とはっきり違うのは、どういう状況で

あれ、自分の人生の難しい局面にまっすぐに向き合い、人をしっかり

抱きしめたり、喪失感に思うさま苦しんだり、全部はっきり見た上で

現実を受けとめようとしていることだ。そこにははっきりと生きる意志

が感じられる。村上春樹も確かに昔とは変わったのだ。

リアルな痛みだけが人の心の襞を深くさせ、人を成長させる。

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2006年3月26日 (日)

博士の愛した数式②

hakase_005

本当は続けてアップするつもりですっかり間が空いてしまったが、映

画を観た帰りに紀伊国屋書店に寄った。

『博士の愛した数式』の原作となった小説を買うためだが、さすがに

もう新刊本のコーナーにはなかったので、探すとその書店では男性

作家と女性作家で棚を分けていた。本を探しやすくするためなのだろ

うが、私は作家名であいうえお順に並んでいる方がいい。女性作家

のコーナーは見るからに装丁からして華やかで、女性作家特有の匂

いがした。内容も現実に即したリアルなものが多くて、その次に多い

のが恋愛小説だった。ひとつひとつ手にとって見たわけじゃないし、

もちろん中には良い本もあるのだと思うが、きわどいタイトルのものも

多くて、変な言い方かもしれないけれど、あまり清潔な感じがしなか

った。私は昔から女流という言葉が大嫌いで、女っぽいのが苦手だ

が(だから男みたいなニックネームをつけられてもそのままにしてきた

のだと思うが)、その理由をあらためて思い出した気がした。

そして、私の探す本はあった。華やかな女流文学の本の中で、映画

の宣伝の帯こそつけられていたが、地味なくらい簡素な装丁もタイト

ルの文字も、私にはひときわ清潔に見えた。最初の頁を開くと、その

印象と同じく簡潔で清潔な文章が目に入った。一瞬で、これは頭の

中がきちんと整理された、頭の良い人の文体だと思った。

少し読み進めれば、あの映画が一部のストーリーの違いを除けば、

きわめて原作に忠実に、つまり原作を限りなくリスペクトして作られた

ものだとわかるが、小説の方は映画よりずっとシビアでリアルである

たとえば、主人公の家政婦の人生は映画では数学の教師となった

息子によってさらっと語られるだけでよくわからないが、小説では母

子家庭でありながら負けず嫌いの母によって精一杯の夢を託されて

育った娘が、高校3年で妊娠し、あっけなく恋人の大学生には捨てら

れ、母の激しい怒りにあって妊娠22週で家から出奔。以来、母と音

信不通となった娘はたった独りで子供を産み、産院からそのまま母

子成育住宅に入所して、保育園の抽選に当たったのを機に、赤ちゃ

んを預け、家政婦として10年、働き続けてきたと書いてある。

これだけでも私にとっては想像するに余りある話だが、かといって映

画同様、小説のほうも余分な感情移入はせずに淡々と事実として書

かれていて重いところはない。なぜならこれはそういう小説ではなく、

あくまで博士と、博士の愛した数式のための小説だからだ。全ては

読み手の洞察力と共感力に委ねられていると言っていい。けれど小

説によってそういう背景を知ると、あまり人に抱擁されることなく育っ

たという息子ルートが、博士にしっかり抱擁されたときに彼女が抱い

た心情がどんなものだったかなど、よりリアルに慮ることができると

思う。博士にしてもしかり。映画の中でも小説でも、家政婦が博士の

書棚を整理していて、クッキーの空き缶の中に大事に保管された博

士の野球カードを見つけるシーンがあり、映画では博士が子供の頃

から野球をやってきた設定になっているが、小説では博士は野球を

やったことがあるどころか、TVで野球中継を見たこともなければラジ

オで聞いたこすらない。もっと言えば彼には野球を一緒にするような

友達すら1人もいなかったのである。彼にとっての野球とは、新聞記

事と野球カード、そこに載った様々な数字から想像する世界でしかな

かった。これを知ると、このシーンはなかなかに切ない。

たいていの天才と呼ばれる人間が、たったひとつのことだけに人生

のあらかた全てを犠牲にしてしまうのと同じように、博士もまた数学

に魅せられたがゆえに、少年が少年として普通に経験するようなこ

とは何ひとつ経験せずに生きてきたのだった。

そういったわけで、小説の方は随所で映画よりもっと厳しい現実が

あり、映画の方が多少ロマンティックに美しく描かれているところは

あるものの、これだけ原作の雰囲気を忠実に再現する映画を作って

もらえたなら、作家も冥利に尽きると思う。映画には映画にしかでき

ないことがあるし、小説には小説にしかできないことがあるのだ。

前回、『全体的にこの映画の清潔で温かい雰囲気と幸福感は全て

はこの博士と家政婦の人柄、子供の子供らしさ、自然環境の素晴

らしさ、そして数字と日本語の美しさにあると思う』と書いたが、それ

はそのまま小説の持ち味であった。まずこの主要登場人物3人が

稀有なのである。

どう稀有かというと、博士は数学という学問だけに全てを捧げてきた

ような浮世離れした人間でありながら、およそ現代人が忘れてしまっ

たような良識と常識、それにか弱きものへの圧倒的な愛情を兼ね備

えた人物である。それに数式の美しさ同様、美しい日本語を話す人

でもある。家政婦の彼女は母子家庭という環境で、幼い頃から家事

全般を自分でやり、高校さえろくに出ていず、男性不振に陥ってもお

かしくないような経験しかしてきていないのに、卑屈になったり俗に

落ちたりするどころか、自分のできることに誇りを持ち、自分の人生

を肯定するだけの力がある。苦労はしていても生活の垢など一切つ

けることなく、彼女の瞳はいつも物事をクリアーに歪みなく映す。

そして彼女が最も優れているのは、たとえ埃にまみれたすすけた石

からも、その輝きを見出す点にある。実際、小説の中の博士は、映画

で寺尾聡演じた博士よりずっと風采の上がらない不清潔な老人であ

る。世間の人は誰も彼に近寄らない。けれど、彼女は博士のなかに

若かりし日の美男子の片鱗と才能の輝きを見出したばかりじゃなく、

大の苦手の数学にさえ、限りないロマンと心躍るような冒険を見出す

のである。つまり博士の夢を共有し得るだけの聡明さを持った女性

だったということだ。家事に万能で、豊かな感受性と共感力を持ち、

母性的で、ホスピタリティがあって、なおかつ子供みたいなところが

あって聡明ときたら、それだけでもう充分じゃないか。

そして、子供。この子供がまたいいのである。赤ちゃんのときから人

に預けられっぱなしで育ってきたというのに、この子にもそんなところ

が全然ない。天真爛漫で、物怖じせずなんでも言えるし、かといって

子供らしいだけじゃなく、言ってはいけないこと、大人の励まし方もよ

く知っている。母親譲りの偏見の無さと学習能力の高さ、まっとうな

頑固さも持ち合わせている。

私がこの『博士の愛した数式』から教えられたのは、私たち親と呼ば

れるものは、つい自分の子供をできるだけ万端に調えられた場に置

きたいと思ってしまうものだが、子供は無いところ、足りないところか

らも学び、自分より弱い者、満足じゃない者と対することで、自分の

優しさや力を発揮するものだということ。外見だけで世間の大人たち

から疎んじられていた博士から、この子供が学んだことははかり知れ

ない。

そして最も素晴らしいのは、私は最初、彼女が博士の言う無矛盾の

数学に惹かれたのは、感情という割り切れないもの(矛盾)を抱いて

るがゆえだろうと思っていたのだが、そうではなく、数学の世界にお

いてもまた、人の心にしか存在しない数もまたあるということを博士

が教えてくれたことだった。それは私の数学に対するイメージを根底

から変えてしまった。これについては説明を加えることなく、ご一読を

お勧めする。このような冴えないアタマで書いたまとまりのない長い

文章を、最後までお読みいただいたことに心から感謝します。

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2005年9月19日 (月)

京都 VS 東京

kyoto

昨夜は結局、月の美しさに誘われて、夜な夜な出かけて行った私。

ちょうど投稿を完了させようとしていたときに電話が鳴ったのです。

鬱蒼たる木々の下を抜けて、月が見える水道道路脇のベンチで

すごすこと1時間あまり。昨日は寒くもなく暑くもなく、お月見には

ちょうどよい頃合い。そこで帰り際に友人にもらった本がこれ。

『京都のこころA to Z』。表紙を開くと小さな文字で、”常連さんも

一見さんも、はじめて出会う『京都案内』。AからZまで、京都の

見どころとお土産を紹介します。”とある。内容はまさしくその

とおり。私が子供の頃から好きな和三盆の干菓子や、喫茶店

『ソワレ』、南禅寺などが素敵な写真で載っている。私は一時、

(名前を出せば誰でも知ってる)京都老舗の器屋のショップで

働いていたことがあるので、その頃はいつでも京都の雰囲気だ

けには触れていました。季節ごとに京都四条の本店から送られ

てくるPOPや小物、季節の室礼。(花を活けに来るのは江戸前

べらんめえの花屋でしたけど。)

前にもブログに書いたけれど(私が他をあまり知らないというの

もあるけれど)、JR東海のCMのように『そうだ。京都いこう』と

思い立ってすぐに行けたらいいなと思うのは、1年中、海に行き

たいことを除いては京都しかないと思う。特別、贅沢は言わない

けれど、いつかそんな優雅な身分になりたいものです。

そして、この本をぱらぱらやっていて思い当たって自分の本棚

から取り出したのがこれ。

tokyo

かつては『盆栽ヲタク』で鳴らした沼田元気氏による東京案内。

サブタイトル(というには、いささか長いが)も気が利いていて、


 もう若くはないが/老人になるには少し間がある/まだ一寸

 欲望も残っており/幸いそれをコントロールする力もある/

 人生で一番長く、そして楽しい/中年という時間の/伯父さん

 的生き方入門書


とある。また小サブに『だれにも迷惑かけずに わがままに生

きるには』とあって、これなんかいい歳になった大人なら誰しも

望むところなんじゃないの、と思う。

こちらは、『京都AtoZ』がすごぉくスタイリッシュなのにくらべると

ずっとキッチュ(これもいまや死語か?)で敷居が低い。その癖

こだわりにおいては一級で、昭和を感じさせるレトロな写真満載

のところは、フクロウさん あたりはすごく気に入ってくれるかも。

京都と東京の違いを荒っぽいけれど一言で言うなら、この敷居

の高さじゃないかと思う。京都が排他的で一見さんにクールなの

にくらべて、東京は至極自然体で屈託がない。ぞんざいな物言い

に愛がある。(と、東京人の私は思うのだが。)

私が子供の頃など、玄関で、「ちょいと、ごめんください」と大きな

声がしたと思ったら、もう家族が食卓を囲む居間(なんちゅう、

いいものでもございませんが)まで上がりこんでいた、なんてこと

はしょっちゅうでした。喫茶店で独りでリラックスして本を読んでい

たら、「ここ、座っていいですか?」と訊かれて、(他にも席いっぱ

い空いてるのになあ)と思いながら「どうぞ」と言うと、相手がゆっ

くり自分のことを話し始めたりして、ひとしきり話した後、お互い

に名前を聞くでもなく電話番号を教えるわけでもなく、じゃあ、と

言って別れてゆく。そんなことが男でも女でもありました。

きわめて東京的、の一例。まさしく袖振り合うも他生の縁、だけど、

それで終わる縁もあれば、10代に始まって今でも続く縁もある。

確かに私が若い頃には、喫茶店で始まる人間関係っていうのが

あって、それは私の少数精鋭(笑うなかれ)の友人の一部を占め

ている。ここに書いても誰もわからないと思うけど、様変わりした

けど実家近くに今もある『中野』、当時としては超ハイテックだった

桜台駅前の『QuarterFake』、新宿のJAZZ喫茶『DUG』、小説家

志望で骨董マニアでケーキ職人でもあったオーナーがやっていた

阿佐ヶ谷の『BananaFish』、原宿のウッディーな喫茶店『ドンキー』、

きりがない・・・・・・

と、2冊の本にかまけて今日は朝から長々と書いてしまいました。

実に休日の朝。これを書き終わったらPCの電源落として、身体動

かすことをしよう。

スタイルのある本屋とおいしいパン屋、それにいい花屋と喫茶店

があるのが大まかに言って私にとっての文化のある町なのだけ

れど、残念ながら私がいま住んでいるここはそうではないのだ。

あー、京都、行きたい。

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