父の認知症

2018年8月21日 (火)

微かな希望

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昨日夜遅くに携帯が鳴って、妹からで驚いた。
そんな時間にかけてくること自体、何かあったんだろうと身構えてしまうのに、妹の話がなかなか核心にたどりつかないので聞いているほうは忍耐が必要だった。その妹によれば、今朝5時半に父の声で起されて部屋に行ってみると、父はベッドから落ちて頭を打ったらしく、頭が痛いといってうずくまっていた。でも見たところケガもなく、とくに問題もなさそうだったのでそのまま寝かせて、出がけに「今日もデイサービスに行ってね」といっていつものように出勤して昼休みに帰ってみると、父はけっきょくデイには行かずに家で寝ていたらしい。相変わらず喉の奥がゼロゼロいっていてしきりに痰を出そうとしていて、熱を測ると8度7分もある。すぐに先生に来て診てもらったところ、すでに誤嚥性肺炎を起していて、脱水症状もある。このまま何も手を施さなかったら数日もたないよ。でも点滴をするにしても、もうあまりいい血管が残ってないから難しいかもしれない。それにあなたのお父さんは、おとなしくじっといられる人じゃないから、途中でまた自分で点滴を外してしまうようなことがあったら困ったことになるし、なんにもならない、どうしますか? 聞かれる局面があった。
でも先生にそういわれたからって自分は「じゃあ、もう何もしなくていいです」とはいえなかったから、とりあえずだめかもしれないけれど点滴をお願いして、少し前に終わって先生が帰ったところ。もっと早くに電話しようと思ったけれど、まさか今日こういうことになるとは思ってなかったから、という。
ついに父もこういうところまできてしまったか、と妹と話した。
父はもともとかなり食の細い人ではあったけれど、6月にごっそり歯が抜けてしまったのがはじまりだった。それが何かの合図であったかのように父は食べなくなり、まるで「歯がなくなったらもう食べられない」と自分の脳にインプットしてしまったかのようだった。歯が抜けた後の父の顔が一気におじいさんぽくなってしまったのにはわたしもびっくりしたくらいだから、さぞかし本人鏡で自分の顔を見てショックだったんだろう。足腰のことに次いで「こんなになっちゃって・・・」が父の口癖になった。そして食べられなくなって口を動かさないでいたら瞬く間に咀嚼に必要な筋肉が衰え、固形物ばかりではなく流動食さえ入らなくなり、さらに脳と末梢神経や筋肉とが連動する認知機能も衰えてしまったのか、しまいには水さえ、自分の唾液さえ飲みこむことができなくなってしまった。完全な嚥下障害。
何をもって人の寿命とするかは人それぞれ考えの分かれるところとしても、人も動物である以上、飲めない食べられないとなったら、それは自力ではもう生きていけないということだ。
母が肺がん末期になったときもほんとうにキツかったけれど、最期は病院だった。
それとくらべても違うキツさがあるね、と妹にいうと、でも最後に病院に入院するまでのあいだは、家で苦しむ母を看るのはやっぱりとても大変だった、と妹がいった。たしかに。そのときだって一緒に暮らしていた妹にはわたしには計り知れない苦労があっただろうと思う。
妹は昨夜は父の部屋で寝る、といっていた。朝になったら点滴のコックを変えないといけないからと。先生に教えられたとおりやるだけだけど、やったことないからこわいー、ともいっていた。家で看取ることを覚悟の上で妹が決断した在宅介護だけれど、ほんとうに大変。この先もどうなることか。

朝になってうちの子供ふたりに昨日の状況を話し、実家に向かった。
娘は何もいわなくてもついてきてくれた。
部屋の前まで来てドアノブを回すと鍵がしまっていてポストにもなかったから妹に電話すると、すぐに自転車で飛んできてくれた。
部屋に上がるなり強いビタミン剤の匂いがして、それはやっぱり点滴が外れてしまったからだという。朝気づいたら点滴が外れて布団がびしゃびしゃになっていて、でも抗生剤はほとんど全部、ビタミン剤も4分の3方入ったところだったからまだよかった、と妹はほっとしている。妹がすぐにクリニックにとんぼ返りしてしまった後は娘とふたりで留守番をした。
父はわたしが低い音で映画音楽のレコードをかけても、口の中にレスキューレメディーをたらしても静かに眠りつづけていた。
昼過ぎに近くのスーパー・マーケットにお昼の買いものに行った。
今日も外は灼熱で、薄暗い部屋の中とちがって外は夏のひかりであふれていて、蝉はみんみん鳴き、わたしはどんなに暑くてもやっぱり夏が好きだと思った。
それは父親譲りらしい。
昼休みに帰って来た妹と3人であわただしく簡単なお昼をすませたあと、先生と看護師さんがやってきた。点滴のおかげで父の血中酸素は想像以上に回復したらしい。あまりの回復ぶりに先生はびっくりし、妹は「これでちょっと希望が見えてきましたよ」と喜んだ。
先生が来たのに次いで、ケアマネージャーさんとオムツを持って来てくれたヘルパーさん二人、別のヘルパーさんが二人続々とやってきて、みなさんの居場所がないので娘とわたしはお先に失礼することにした。家を出てから、よく有名人が重病になったりすると医療チームが組まれて治療やケアにあたったりするけれど、87歳の認知症患者ひとりにあれだけたくさんの人が来てくれるなんて、やっぱり人はみんなに生かされてるのであって、自分ひとりで生きてるわけじゃないってことだよね、と娘と話した。それどころか、人の心臓が動いているのだって宇宙のサポートあってのもので、人は1人っぽっちに思えるようなときですらほんとうは1人ぽっちじゃない、常に何ものかによって生かされている。それはほんとうにありがたいこと。そして、いまの父の在宅医療のネットワークは妹がクリニック勤めでなかったらとうてい実現できなかったことじゃないかと思うから、妹にも感謝。

ともあれ父は生き延びた。
生き延びたということはきっとまだやれていないテーマがあるってことだろう。
体験して学ぶこと。
でも体験して学ぶといったって、もう五感が鈍って体験もしっかり体感できなければ、学びどころじゃない父にとって、そのテーマとはもしかしたら、むしろ父のまわりの人間、妹やわたしや、わたしの子供に向けられた学びなのかもしれない。
たぶんきっとそうだね、といいながら帰った。
帰りの電車の中から息子に「ありがたいことにおじいちゃんは順調に回復してるそうです!」とメールしたら、息子からは「とりあえず爺さんの件よかったです! いくつになってももう生きなくていいよという年齢は存在しないと思うので!」と返ってきて、そうか、そうだよなあと、しみじみ思う。
とりあえずハハとしてはそういうふうに思える息子を持ってよかったデス。

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2018年8月17日 (金)

レスキューレメディー

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今朝起きたら大気が爽やかでびっくりした。
クーラーのタイマーが切れてもそのまま汗かかずに眠っていられた。
開け放った窓から入ってくる風が心地よく、でも陽射しは夏で、青空と木々のコントラストは今日もくっきりしてる。
美しい夏空。
みんみん蝉の鳴く桜並木の下、鮮やかに木漏れ日がさざめく舗道の上を、真夏の青い海のような、くっきりした夏空のような青いTシャツを着て出かけた。
今日、4回めの整体。
わたしの右肩の痛みはほとんどなくなった。
左手で珈琲のハンドドリップをするのはすっかり慣れたけれど、もう右手でできるかもしれない。エプロンの紐も後ろ手で結べるようになった。相変わらず重たいものは持たないようにしてるけど、ほとんど家事も仕事もふつうにできるようになった。ただうっかり根を詰めてキーボードを叩いているとやっぱり右手がおかしくなってくるし、ずっとクーラーをかけて寝ているせいで冷えるのか、朝起きると右肩から腕が固まっていて動かしずらい。壁に手を突くと左手は直角にまっすぐ腕を伸ばせるけれど、右手はまだ全然そうできない。鏡で見ると肩の位置はまだ左右対称ではなく、合掌すると肘の位置も前後している。
それに対してのゴッドハンズの答えは、このあいだ激痛だったときに肩関節がまた石灰沈着を起こしていたんだろう、と。1回固まってしまったものはそうそう動くようにはならないけれど、ここからは稼働領域を広げていかなくてはならない。現状を変えるには刺激を与える必要があって、いきなり過激なことはしないけど、その刺激によっても身体は反応するし、それは正しい姿勢になろうとする力と長年培ってきた元の身体に戻ろうとするコンサバティブな力の拮抗するところだから、とうぜんなんらかの不具合が出てくるだろうし、かならず壁に突き当たることがでてくると思います。てなことだった。それはこのあいだも聞いた。でもやると決めたからにはやらねばならない。5年後、十年後の自分の身体を考えたとき、いまちゃんとやっておいたほうがいいと思えるからだ。父を見てても思うけれど、いまのままいったら間違いなく、いつかまともな姿勢で歩けなくなるときがきそうだから。近所でも街なかでも、老若男女関係なく、おかしな歩きかたをしている人をいっぱい見る。そうならないように。
身体に不具合が出てきてからはプールで泳いだ後もそうだけれど、整体に行った後は必ずどこかに痛みや反応が出る。それは正しい反応なんだと思う、きっと。
今日はゴッドハンズ推奨の足指捻り体操を教わった。
これを毎日やりつづけたら必ず足は変わる、とのこと。
理想的には2週間後、といわれたところを3週間後に予約した。
月末にかけていくつか予定が入っていたし、父がどうなるかわからなかったから。

帰りに父のところに寄った。
実家には妹に頼まれたことがあって日曜日も来たから6日ぶり。
そのときも父はわたしが来たことには無反応で、わたしはただ父の顔だけ見て用事をすませて帰ったのだけれど、今日来たら父の様子はさらにひどく、さらに別ものになっていた。
ベッドで寝ていてもしょっちゅう喉の奥をガラガラいわせて、痰でもあがってくるのかサイドテーブルにあるティッシュペーパーを取ろうともがき、ティッシュを取ると口の中に入れては舌を拭っている。それでも足りないときは言葉にならない声で妹に助けを求め、妹は濡れたガーゼで拭ってやるのだけれど、拭っても拭っても、すぐにまた父はおなじことを訴える。その光景はかつて病院で見たことがあるような気がして、わたしはこれってもう自宅で介護できるレベルじゃないんじゃないか、病院に入院させたほうがいいんじゃないかと思うのだけれど、妹は今日は一日こういう感じなんだよね、でも取ってみると痰という感じでもないし、と悠長なことをいう。医者にすぐに見せられたらいいけれど、あいにくかかりつけ医は今週末までお盆休みで、だから(そこに勤める)妹は今日、家にいるのだった。
ずっと一緒に暮らしている人間の感覚とたまにしか会わない人間の感覚にギャップがあるのは当然としても、わたしは父のあまりにつらそうな様子にショックをうけてしまって、父がやっと落ち着いて横になってからもしばらく茫然と見ているしかなかった。そしてようやく父がいつものようにぽかんと口をあけて寝息を立てはじめたのを見ると、わたしはそっと近づいていって家から持ってきたレスキューレメディーを開いている口の中に4滴たらした。その瞬間、父の瞼がうっすら開いたからてっきりアルコールの刺激でも感じて何かいいだすかと思ったら、父はちょっと口をもぐもぐしてから眠ってしまった。レスキューレメディーのせいかどうかはわからないけれど、そこからは安らかな眠りだった。
家に帰ってから気づいたことには、これまでわたしが買ったフラワーエッセンスは全部アルコールベースだったのに、今回父のために選んで買った4本は期せずして全部グリセリンベースだった。試しにその中の1本を自分の舌にたらしてみたらとっても甘くて、それで(甘いもの好きの)父は違和感を感じなかったか、とわかった。
父が静かに眠りはじめたあとで妹に、とにかく休日明けにすぐに先生に診てもらうとして、父のいまの状態だとここ数日でどうにかなってしまう可能性もあるから覚悟したほうがいいかもしれない、といった。だいじょうぶ? と聞くと妹は、わたしだいじょうぶだよ、とはっきりいった。それで最後にわたしはフラワーエッセンスについて簡単に説明して、レスキューレメディーだけでも朝晩かならず、それ以外いつでもタイミングのいいときに1日4回以上、父にあげてくれないかと頼んだ。これは薬じゃないから薬との飲みあわせの問題もないし副作用もない、舌の上に4滴たらすだけだから嚥下にも関係ない、そしてかならず効く、といって。一緒に暮らしてないわたしにはもう食べない飲まなくなった父にしてあげられることはほとんどないし、それが最期の頼みの綱だった。
今日も帰りに八幡様に寄った。
ここでは来週末、毎年恒例の収穫祭が行われる。
小・中学生だったころは夏休み最後のイベントで、長い休みのあいだに会えなかった友達たちの顔が見られるのが楽しみだった。また学校がはじまる、という思いと、ついにこれで夏休みも終っちゃうんだ、というさみしさと。
下町育ちの父が好きだった射的、輪投げ、金魚すくい。
帰りに母の好きな綿あめを買って帰るのが常だった。
今年、父が自分の足で歩いてここに来られることはないだろうけど、お祭りのお囃子は介護ベッドで眠る父の遠くなった耳にもとどくだろうか。

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2018年8月10日 (金)

ついに寝たきり。

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今日は右手が使えなくなってからずっと行けなかった父のところへ行った。
ますます食べなくなったという父に何を持って行こうかさんざん考えた末、このあいだひさしぶりにウニを食べたらすごくおいしかったことを思いだして、やわらかく炊いたおかゆにウニを持って。
最近はデイサービスに行かない日もあって、家にいるときは寝てばかりいるという父。それ以上に気になるのは、もともと食が細くて一日一食か二食しか食べなかったのに、最近は一日一食さえ食べなくなってきたということ。すでにすっかり痩せ細って骨と皮ばかりなのに、それじゃもう身体がもたないだろうと思う。しばらく見ないあいだにいったい父がどんなことになっているのか、ひさしぶりなこともあって少々こわごわでかけた。
実家に着いて部屋に入ると、父の部屋は相変わらずカーテンが閉められ、クーラーが音もなく作動していて薄暗く、静かだった。外は今日も35度もあって灼熱だったけれど、ここにいるぶんにはそんなことは全然わからない。コンピュータ制御のエアマット付きのベッドはさぞかし快適なんだろう。介護ベッドの上で父はいつものように口をぽかんとあけて眠っていて、近づいても気がつかないほど熟睡していた。そうしていると落ち着くのか、胸の上で手を組んでいて、その骨ばった両腕はまるでビーチに打ち上げられた流木のようだった。
ベッドの脇にはあらたにポータブル・レコードプレイヤーが設置されていて、ターンテーブルには父が40年以上も前に買った映画音楽のLPが載っていた。このあいだ妹が天袋を片づけたときに出てきた、赤いヴェルベット調の豪華なボックスに入った12枚組の『魅惑の映画音集。』それを買った頃が父がいちばん元気で、豊かに暮らしていた頃だったんじゃないかと思う。どんな曲が入ってたんだっけな、と思いながらそのレコードを手に取って眺めていたら、父がうっすら目をあけてこちらを見た。ようやく起きるのかなあ・・・・・・、と思ったその瞬間、父がいきなり不機嫌な顔をして、「なに人の顔じーっと見てるんだよ!」と怒鳴った。そして子供が癇癪を起したときみたいに両手を宙に振り回して、「もう、おとうさんは90にもなろうとしてるんだよ! 寝てるしかないんだよ!」といって、そっぽを向いてしまった。
いきなりだったからちょっと面食らったけど、特にショックでもびっくりでもなかった。
ただ静かに、ついに父は認知症の人格崩壊がはじまったか、と思った。
その父に、「懐かしいね、昔おとうさんが買った映画音楽のレコード。たまには聴くの?」と聞くと、父は向こうを向いたまま、「そんなもの聴かない。なんならあんた持って帰れ!」と吐き捨てるようにいった。
やれやれ、またこれか、とわたしは思った。
これまでにも父の誕生日とか敬老の日に良かれと思って少々無理してプレゼントしたものを、こんなものいらないから持って帰れといわれたことが何度もある。いくら認知症とはいえ、父のこのものの言いかたたるや、なんなんだろう。
「せっかく I ちゃんが少しでもおとうさんが楽しめるようにと思ってレコード聴けるようにしてくれたんでしょ。わたしは持って帰らないよ。でもまだ眠いんだったら、どうぞごゆっくり。わたしは邪魔しないから」といって襖を半分閉め、隣の部屋で携帯で妹にメールを打ちはじめた。おかゆとウニを持って来たけど、父は機嫌が悪くて食べさせるのは無理そう、と。
すると、眠るのかと思った父が何やらガサガサやっている。
近寄って「どうしたの?」と聞くと、「トイレだ」といって、明らかに狼狽した表情をしている。まずい! と思って「間に合わないの?!」と聞くと、さらに切迫した顔になる。起きれない、という父の両手をとって、うー、と唸っている父の身体をなんとか起き上がらせて足をベッドの横にだしてあげて、やっとの思いで父はベッドから降りてトイレに行った。ほんとに自分でトイレに行けてることのほうが、もはや不思議なくらいだった。
手を洗って戻ってきた父にいまがチャンスだとばかりに、「ウニがあるんだけどおかゆちょっと食べない? ウニ、おとうさん好きでしょ?」といってみると、「ウニ?」と眠そうな細い目がちょっとひらいて反応して、一瞬食べるかと期待したけどまたすぐ細い目になって、「食べない。もう90にもなるとそんなに食べられないんだ。無理なんだよ。それにいまトイレに行ったばかりで寒くて寒くて・・・・・・」といってまたベッドに倒れこんでしまった。「ああ、寒い寒い」という父に布団を掛けてあげると、父は「もう12月といったら1年で最も寒い季節だ。年寄りには寝てるしかない季節だよ。」ともっともらしい顔でいった。
「12月?! いまは8月だよ。真夏!」
わたしがそういうと父は「8月?」といって、まるで奇妙なものでも見るようにわたしの顔を見つめた。「そう8月。ここを見て。8月10日って書いてあるでしょ?」とさっき、父にこれでも見てろといわんばかりに渡された今日の新聞の日付を見せると、父は驚いたような顔をしたまま、「8月か。それなら真夏だ。」とつぶやいた。そして「ここにいるとそんなこと全然わからない。それにもうそういう身体になっちゃったんだよ。もう寝る。ほっといてくれ。」といった。
それでわたしは妹にメールを送信し、妹が帰ってきたらウニを食べてね、といって、電気を消して家を出た。
けっきょく父は今日も飲まず食わずだった。
それに数週間見てないあいだに父はすっかり別物になってしまったな、と思った。
夜道を歩きながら、このあいだ駅前の花屋にいわれたことを思いだした。
母を早くに亡くし、父は90近くまで生きたという、地元に古くからあって自分は三代目だという花屋のおじさんがいうことには、80も90も生きる人は業がとても強いんだよ、と。
業?
業といったら、これまで母のほうが業が強いと思っていた。
父が業が強いなんて一度も思ったことなかったけれど、でも考えたら母は生まれつきそんなに身体が強かったわけでもなく、繊細な感受性の持ち主で、どこか儚げなところのあるひとだった。毎日自分を怒ってばかりいる母がいつか突然死んでしまうんじゃないかというのが幼いわたしが抱える怖れだった。
それにくらべて父は一見、身体が小さくて弱そうでいて、人一倍負けん気が強くて自分のやり方にこだわりがあり、人に指示されるのも命令されるのも大嫌いだった。これまでだっていまだって、誰かのいうことを素直に聞いたためしがない。認知症の影響が大きいにしろ、在宅医療でわざわざ家に訪問してくれる医師の診察の手を痛いだの冷たいだのいって振り払うほどだ。
わたしが小さな子供だったころから大人になるまで、父はずっと穏やかでやさしい人だったけれど、その裏にはきっと多大な忍耐と我慢があったのではないか。あの始終小言ばっかりいっている母親の影で、人知れず傷つき、悩んだこともあったのかもしれない。
父は肝臓がんで、肝臓といったら怒りの臓器だ。
煙草吸いの父が肺がんではなく肝臓がんになったのは長年、肝臓に怒りや我慢を溜めこみずぎた結果なのではなかったろうか。
3人の子供を遺して早くに逝った妻の代わりに祖父が子連れの女性と再婚したことで、長男なのに家を出るしかなく、15歳から80近くまで働きつづけた父は、娘のわたしたちがいくらもう十分働いたからもういいんだよといっても仕事がないことを悔やみ、車を失ったことを悔やみつづけた。いまだって1銭も収入が無く、娘に頼るしかない生活に忸怩たる思いを抱きつづけ、事あるごとにいつまでもそれをしつこく口にする。そして87になり、すっかり身体の機能が落ちたいまですら父は人の助けの手を拒み、眠いときただ眠ること、疲れた時に休むことを自分に許すことができずにいる。それが逆に今日みたいな乱暴な態度、言葉になって表れているんだろう。
老いてまで自分を苛みつづける父の葛藤。
この期に及んでもまだ父は安らかならざる境地にいるようだった。
それが父の業で、カルマだった。
父は『寝たきり』のことを『寝っきり』といい、先月までは自分がそうなることをとても怖れているようだった。それに対して激しく抗っているようにも見えた。
でも、その父もついに寝たきりか。
それどころか、食べない飲まないではもう刻々と死に向かっているとしかいいようがない。こうなってはたして自分に何ができるだろう?
最近は父のところに来た帰りは、かならず八幡様にお参りして帰る。
今日もお参りをして、ふと気づくとこのあいだも、今日も、後ろで待つ人の姿があって、いまって、神さまに祈りたい人が多いんだな、と思う。

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2018年6月20日 (水)

風前の灯

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昨日、娘を連れて夕方実家に行くと、明るいうちから父は布団に入って寝ていた。
めずらしく妹がもう仕事から帰って来ていて、いまお姉さんたちが来るから起きてたらといったのに布団に入っちゃって、、、という。
父は曜日によってちがうデイサービスを利用しているのだけれど、今日はデイサービスから帰ったあと、何を勘違いしたのか別の曜日のデイサービスの車が迎えに来ないと(あの歩けない足で)、また外に出て表通りまで歩いて行ったところを、運よくちょうどそのデイサービスのクルマが通りかかって、「今日は違うよ」と声をかけてくれて家に戻って来たらしい。今日はちょうどデイの人が気づいて声をかけてくれたからよかったようなものだけど、そうじゃなかったらどこまで行ってたんだろうと思う。こういうことは昨日に限ったことじゃなくてこの先もあるだろうから、それを思うと気が気じゃない。
父は最近、ますます過去と現在、実際にあったこととテレビや人から見聞きしたこととが頭の中でがごっちゃになっていて妄想はなはだしく、その自分で勝手に作りあげた妄想に怒りの感情をのせてたりするから、ほんとうにまいる。こういうのもアニカでは潜在意識の中にある親や先祖などの他人の感情、過去生の記憶だというのかもしれないけれど。
父は痩せこけて体重が30キロ台しかなく、痩せこけて筋力も体力も無くなり、ここ数週間のうちに瞬く間に歯が抜けてしまったせいでさらにますます食べられなくなって自力で体温を上げることができずに、外が30度近くある日でも寒い、寒いという。布団から起き上がってトイレに行くのも食卓に着くのも大仕事。
「もう、生きてるのがやっとだ」というのが最近、父がいいはじめた言葉だけれど、それに昨日は、「生きてるのが不思議なくらい」というのが加わった。「もう、明日死んでもおかしくないくらい」というから、そんなだと気が楽だね、としかたなく言ったけど、それは本人よりまわりの家族にとって、かもしれない。ほんの半年前までは、「オリンピックまで生きたい」「最初のオリンピックは働いてばかりで見られなかったから、こんどは家でちゃんと見るんだ」といっていた父だけど、もうさっぱりそんなこともいわなくなった。
夏好きの父は「暖かいのは大好き。暖かくなりさえすれば」というけれど、ここまで体力がなくなって食べない、水も飲まない人に夏の猛暑はどうだろうか。
いまは雨の季節で梅雨寒だけど、予報では7月になったとたんいきなり平年並み以上に暑い日がやってくるといわれている。それは健康な人にだってキツイのに。
父にとっては今年の夏を無事に越せるかどうかが最初の山場かな、と思う。

昨日は小豆をやわらかく煮てココナツミルクを入れたのに、ゆでてもどしたタピオカ、バナナを持って行って、父と娘と3人で温かい小豆のチェーを食べた。タピオカはグルテンフリーのうえに、ごはんよりカロリーがあるっていうから介護食にもいいかと思って。
少しでも体温が上がるように生姜をたっぷり入れて作ったけれど、父は小さな器に半分食べるのがやっとだった。孫とは会ってないといってもお正月以来、たった5ヶ月ぶりなのに、おじいちゃんは最初わたしの顔を見たとき誰だかわからなかったみたいだ、とあとで娘がいっていた。
せっかく孫が来たというのに、父は早々に眠ってしまった。
ちょっと風邪っぽかったみたいだし、デイサービスに行った後また歩いたりして疲れたのかもしれない。それでも、ひさしぶりに孫の顔見てうれしかったんだと思うし、わたしも子どもの頃に病気したとき覚えがあるけど、誰もいない部屋でひとりぽっちで寝ているより、適度に家族が出す生活音の中で寝ているほうが人って安心して眠れるものだと思う。
帰りは娘のリクエストで、駅近くの八幡神社をお参りして、おみくじを引いて帰った。
娘もわたしも『小吉』。
あんまり良くなかった、という娘と、すぐに凶に転じやすい大吉なんかより、じわじわよくなってく小吉くらいのほうがいいんだ、というハハのわたし。

下は本日の娘の手作り弁当。
自分で作った大豆入りひじきの煮ものと、このあいだ残った餃子の皮にマッシュしたポテトと溶けるチーズを入れて焼いたのがなかなかのアイディア。これはサモサみたいな味だったそう。

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2018年6月15日 (金)

静かで、やさしい時間

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昨日、仕事をしてたらなんだか無性に気になったから、急きょ思い立って夕方実家に父の様子を見に行った。いつものようにカギのかかっていない玄関のドアをあけると中は真っ暗で、でもテレビの音が大きな音で鳴っていたからきっと自分の部屋で横になってテレビでも見てるんだろうと部屋にあがって電気をつけ、襖をあけると、父はテレビをつけっぱなしにしたまま眠っていた。よくこんな大音量の中で眠れると思う。しばらく布団の横に座ってその顔を眺めた。父はすっかりおじいさんになってしまって、こんな暗いところでひとりで眠っている姿はなんだかとても哀れに見えた。テレビ台の上に載っているリモコンを取ってテレビをそっと消したら、その気配に気づいたのか父が目をあけた。顔の前でゆっくりと「こんばんは。今日はね、ごはんを作りに来たんじゃないよ。昨日転んだっていうから心配になって顔見に来た」とわたしがいうと、父はため息をつくように大きく息をついて、「そうか。ありがと」といった。「痛いところあるの?」と訊くと、「あるけど、そんなにたいしたことない。だいじょぶだ」という。横を向いたら後頭部のでっぱったところに小さな絆創膏が貼ってあるのが見えた。

それからいつものように「おとうさんはずいぶん長生きしたなあ・・・。こんなになっちゃうなんてな。おとうさんの友達はみんな死んじゃった。もう誰もいない」といいはじめたので、「だれもいなくなっちゃってさびしい?」と訊くと、父は意外にも「そんなことは思わない。自然なことだから」といった。ふうん、そうなのか。でも年じゅうおなじことばかりいってるのは、さびしいからなんじゃないのかな。わたしはそう思いながら、「ねえ、前におかあさんはおとうさんの夢に一度も出てこないっていってたけど、いまでもそうなの?」と訊いたら、父は「そんなことはない」といった。そして唐突に「おかあさんとはお見合いで結婚したんだ」と話しはじめた。「おかあさんは背の高い人でね。自分は首のところまでしかなかった。でも仲人さんが、二人はお似合いだといったんだ。それで結婚した。」
はじめて聞く話だった。
ごくたまに父はいつものループじゃない話をする。
それで、そういうときはいつもより多少、頭が明晰な気がする。
転ぶ前の火曜日に来たときより、むしろ今日のほうが父の頭ははっきりしているように感じた。
でも、それも自分のこころのありようなのかもしれない、と思う。
自分のこころの映し鏡としての。
「おとうさん、ハンサムだったもんね」といったら、父はそれにはあまり興味なさそうに、「そうか」とだけ呟いた。「そうだよ。いい顔してたじゃない」とわたしはいった。
「カステラと胡桃まんじゅうと栗まんじゅう買ってきたから食べない? おとうさん、甘いの好きでしょ」といったら、「もうそんなに食べられない。もう87だし、歯もなくなっちゃったから」と、まるで後じさりでもするようにいうので(いまや父にとって「食べる」ということはちょっとした負担なのだ)、「カステラだから歯がなくても食べられるよ。カステラ、好きでしょ」といったら、「カステラか。懐かしいなあ・・・。カステラは大好き」といって、やっと起き上がる仕草をした。痩せてもう骨と皮ばかりになっているから布団の上で起き上がるのも立ち上がるのも一苦労で、腕を下から支えてあげようとしたら「イタタタタ・・・ッ!」と声をあげたのでこっちのほうがびっくりしたけど、袖をまくって見せてくれた腕がものすごい色になっていた。昨日の打撲痕。転んで肘のとんがってることころを思いきりぶつけたからすごく痛いんだ、という。ああ、もう、やれやれ・・・・・・、とわたしは痛々しくて見ていられない。

やっとのことで起きてきた父にカステラとレスキューレメディー入りのお番茶をだし、ふたりで食べた。いつものように息子のことを訊かれ娘のことを訊かれ仕事のことを訊かれ、「あなたはいまいくつになった?」と訊くので答えると、「もうそんな年になったのかあ!」といって驚き、「まだ40くらいかと思った。顔見ればそれくらいにしか見えないけど」といって笑った。そうだろうか。こないだまでは「あんたはもう60?」とか「70?」とか、わけのわからないことをいってたじゃないか。そう思うわたしに「でもあんたは元気そうな顔してるからいいな。まだまだ人生あるんだからいっぱい食べなさい」という。最近の父の口癖は「あなたはまだまだ人生あるんだからあなたが食べなさい」というのと、「あのひとはとうとう結婚もしないで!」というのがお対。87になった父の、それがいまの感慨。
父はたったひときれのカステラをやっとのことで食べ、湯呑のお茶を飲み、「もう、お腹いっぱい」といった。それから父がトイレに行き、歯を磨き、布団に入って寝たのを見届けて、「じゃあ、また来るね」といって部屋の電気をそっと消して家を出た。
そして外に出てから、今日は思い立って来てよかった、と思った。
それは時たまやってくる、静かで、やさしい時間だった。

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2018年3月13日 (火)

介護食

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先月から父の週1夕飯ヘルパーを月曜から火曜にしたのだけれど、1週間は瞬く間に過ぎて、すぐ次の火曜日が来てしまう。要するに、わたし自身がぜんぜん余裕のない暮らしをしているせいもあるんだと思う。まったくもっていつも時間に追われているよう。
先週も仕事をしながら頭の隅で今日は何を作ろうかと考えていたところに妹からメールがきて、父は最近トイレに間にあわないことが多くて下着からズボン下までいくら洗濯しても洗い替えを買っても間に合わない状況、それも小だけではなく大にまでなってきて洗濯と掃除に追われていることが逐一事細かに書かれていて、最後に、今日来てくれたときにびっくりする状況かもしれないので一応連絡した、とあり、ふー! ついに父もそういうところまできちゃったかあ、、、と、ため息をついた。
メールには紙オムツで対策しようと思うも近所にSサイズのオムツを売っているところがなくてまだ買えてない、とあったので、それから食材の買い出しに行くついでに近所のドラッグストアに見に行った。大人の紙オムツなんて買うの初めてだったからどれがいいのかわからなかったけど、よくよく見くらべて考えてるような暇もなく、前後どちらから履いてもOKというオムツパンツのSサイズをみつけて取り急ぎ2袋買って宅配で送ってもらった。けっこう高かったけどそれも考えてる場合じゃないし、姉のわたしの仕事は早い。
これまで結婚して離婚して女一人で子供を育てているのと、結婚しないで年老いた親と暮らしているのと、どちらもそれぞれ大変だけど、でもどちらも別のテーマを背負って現世を生きているだけだからしかたがないと思ってきたけど、こうなってくるとそうとばかりもいってられない。ただいえるのはこれがあと何十年もつづくわけじゃないってことだけだ。
父は去年あたりからだんだん食が細いというのをこえてどんどん食べられなくなり、食べものが食べられない、というのは生きものとしての終わりが近いということでもあって、妹の勤めるクリニックの先生からは「来年の春くらいでしょうか」といわれたという。
そして、いま春。
週に一度実家に行くと父は顔色こそ悪くないものの以前のようには笑わなくなり、身体のあちこちに小さな不調を抱えていて、またそれを家族に隠してるようなところもあって、あまり元気とはいえない。ごはんが食べられないという人に無理に食べさせてもしょうがないけど、先日ふるいお雛さまを南三陸町に送るのを手伝いに行ったとき、妹が『おいしくてカンタンに作れるお年寄りの好きな料理』みたいな本を出してきて、これを見て作った料理は自分ではおいしそうには見えなかったけど父はおいしいおいしいといって食べた、というので、このあいだからわたしもそういう料理をインターネットで検索して作るようになった。
先週見つけたお年寄りの好きな料理№1は、揚げ出し豆腐の野菜あんかけ。
いわゆる甘酢あんかけで、入れる野菜を変えてアレンジして作ってみたけど自分としては料理にあんまり砂糖を使いたくないのと、ちょっと甘いかなという感じだったけれど、父はやっぱりおいしいといって食べた。といっても小鉢に少し盛ったのをかろうじて完食した程度。それでも箸を一度か二度つけて終わりのことも多いからまだ食べたほうかと思う。
決め手はやっぱりソフト食といわれる素材のやわらかさなのかな。それと、あんかけをかけることで具材がまとまりやすくなって食べやすくなる。刻み食とは違う、適度な素材の大きさで、歯ごたえも残したソフト食。どれだけ工夫したところで少ししか食べないことには違いないのだけれど・・・・・・
そして瞬く間に1週間経った今日は、さらにこのあいだのアレンジで、揚げ出し豆腐の中華あんかけ。まあ1週間経ってるし、きっとこっちのほうがおいしいんじゃないかってことで。白菜、しいたけ、タケノコ、海老とうずらの玉子で八宝菜を作ったところに揚げ出し豆腐を入れて絡めた。大変なのは自分の家の分も同時に作るから、水切りして小さめのダイスに切った二丁の豆腐をキツネ色に揚げるのにけっこう時間がかかることくらいか。自分で食べてもおいしかったし家族にも好評、今日のも父はおいしいといって食べた。やっとこさだけど。
父に勝手に喋らせとくと、だいたい5つくらいしかない話題を順繰りに延々喋りつづけるだけだから今日は父に質問をしてみたのだけれど、父にはもうなんの楽しみもないし、食べたいものもないし、友達はみんな死んじゃったから会いたい人もいないし、いまはただ病気しないように生きるだけ、だそうだ。なんとも寂しい限り。
それでも「暖かくなったら浅草の観音様にお参りに行かないと」と繰り返しいいつづけるあたり、それがいまの父にとっていちばん行きたいところということか。
うんうん、もっと暖かくなったらね、といって帰って来た。
世の中では『8050問題』が深刻な社会問題となっているらしい。
引きこもり生活を続けるなどして働いた経験もなく安定した収入も持たないまま50歳近くになった子供と、80歳近くなった親。
身体に少々問題があってもそこそこ健康で働ける50代が80過ぎの認知症の親の面倒をみるのだって大変なのに、引きこもりの50歳の面倒をみつづける80過ぎの親の苦労はいかばかりか・・・・・・。そして、ざっと見渡しても、もうそれに突入した知人や予備軍の人たちが頭に浮かぶという、この現実。
世界最高の長寿国といわれる影に、超々高齢化社会の日本の歪んだ姿が見える。
いったいこれからこの国はどうなっていくんだろうな。
いろいろ考えて暗くなってもしかたないから、この先も生きていかねばならない人間としてはいまできることを一心にやるしかないのだけれど。

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2016年3月26日 (土)

困ったもんだなぁ・・・。

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昨日めずらしく夜に家の電話が鳴って、出ると妹だった。
「あの、先日はお世話になりました」とあらたまって他人行儀にいうから何かと思えば、「実は今日、父が転んでケガをしてしまったんだ」というので、「ええっ?!!」とびっくりしてしまった。
担当医はもうお風呂に入ってもかまわないといってたから、てっきり昨日はいつもどおりデイサービスに行ってるものと思っていたけど、どうやらそうじゃなかったらしい。
退院した後に熱が出る場合もあるから、という医師の言葉を受けて、大事をとってデイサービスは来週からにしたのだそうだ。退院してからのここ数日も寒の戻りで寒かったから、まさか父が外に出かけるとは妹も思ってなかったんだろう。

ところが、昨日みたいな寒い日に、よりにもよって父は家から父の足だとゆうに片道20分はかかりそうなスーパーマーケットに買いものに行き、いっぱいに買いものをして両手荷物で家の近くまで戻ってきたところで、疲れて足がもつれたんだか何かに躓いたんだかわからないけど、転んでしまったのだという。下はコンクリートで、両手がふさがっていたから顔から転んであちこち切って血まみれになって倒れているところに若い男女が通りかかって、「だいじょうぶですか」と声をかけているところに近所に住む昔からの母の友達が自転車で通りかかって、こりゃ大変だ!とばかりにすぐに妹の職場を調べて妹に電話をくれたのだという。

妹の話を聞いてるだけでも事の顛末が頭に浮かんで、もうまったく。退院したばかりだっていうのに何やってるんだか・・・・・・ (>_<) という気持ちになったけど、いまの様子を聞くと、父は顔のあちこちをぶつけて腫れたり擦り傷ができたりしていて、見るも無残なことになっているらしい。舌も切ってしまったから、しばらくはまともにものも食べられない状態だという。
いったいそんなことになるほどスーパーで何を買ったのかというと、お味噌とかジャガイモとか、重いものばかり。しかもみんな家にあるものばかり。という妹の言葉を聞くと、父はもうほんとうにまともな判断力が全然なくなってしまったんだなあ、と思う。

入院するまでだっていろいろあって大変だったのだ。
それがやっと緊張するオペも終わって、無事に退院してまだたった2日でこれなのだから、一緒に暮らす妹のげんなり感たるやハンパないけど、今日は妹より近所のおばさんが烈火のごとく怒って、「どうせ娘のいうことなんか聞かないんでしょうから、わたしが言ってやる!」とばかりに痛い思いをしてへばっている父にこんこんと説教したらしい。
父としては泣きっ面にハチだけど、自業自得だからしかたない。

職場から現場に駆けつけた妹と家に帰り、忙しいなか往診に来てくれた近所の医師の処置を受けた後は父はしばらくしゅんとしてたけど、心配する妹を気遣ってか、いまは「おとうさんはだいじょぶだ。たいしたことない!」とカラ元気でいるとのこと。
唯一、不幸中の幸いだったのは見た目の酷さの割には骨折とかはしていなかったこと。
それで妹は、父の顔の腫れは今日より明日のほうが酷くなるだろうし、しばらくは流動食しか食べられないから何を作ってあげるとかいうのもないし、家で寝てるしかないからとうぶん1週間くらいはお姉さんは家に来ないほうがいいよ、という。
父の惨状を見たら姉はまたショックを受けるだろう、という妹の配慮なのだと思うけど、妹と話すなかで何度も「お姉さんは来ないほうがいいと思うよ」と繰り返すので、「わかった。それじゃあ、ほんとにしばらく行かないよ」といって電話を切った。

そうして今日、プール帰りに水道道路を通ればここ数日よりずっと暖かく、昨日はショックと怒りと落胆のほうが大きかったけど、ひとあし早く満開の桜の下にいたら、父もほんとに馬鹿だなあ。退院してすぐの昨日みたいな寒い日にあわてて出て行かなくても、今日まで待ったら暖かくてのんびり休み休み歩けてイタイ思いしなくてすんだのに、という不憫な気持ちになった。
前にも書いたけれど、父の脳のCT画像を見た医師が頭を抱えてしまったほど、父にはできることとできないことのギャップがあって、行動が予測できないのだからいけない。
たとえば医師が信じられなかったことのひとつに夕飯の買いものがあるけれど、父は問題なく買いものができるどころか、買ったものをいちいち帳面に付け、味噌汁と野菜炒め程度の簡単な料理だったら自分でできるし、洗いものもする。電話番号を見ながらだったら電話もかけられる。そして、これはわたしたちでさえ驚くことだけど、シルバーパスで都バスと都電を使って最も安い交通費で自分の好きな浅草に片道3時間近くかけて行って帰ってきたりする。それも近所の人や娘へのお土産を買って。
そんなふうだから、一緒に暮らしていると父がどの程度キケンな認知症患者なのかわからなくなってつい自由にさせていると、今回みたいなことになる。
といって、犬や猫みたいに紐でつないだり家に閉じ込めとくわけにもいかないし。
ほんとうに困ったもんだなぁ・・・・・・

プールの日は帰ったら帰ったでやることがいろいろあって泳いだだけで疲れてるし、目の下にはゴーグルの痕もついてるから基本もう家から出たくないのだけれど、夕飯の準備をして子供たちだけ食べさせたあと父に一筆書いて、もう夜の8時をまわってから朝焼いたプリンと一緒に、まとめ買いしたレトルトおかゆだの野菜ジュースだの重いものばかり持って実家に行った。もう遅かったし疲れていたので家には上がらず、玄関で荷物だけ渡してとんぼ返りして来た。
このあと1週間は妹のいうとおり実家には行かないつもり。
来週はいろいろ予定も入ってるし。
それで1週間と少しもすると、父の85歳の誕生日がやってくる。

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2015年6月 4日 (木)

父の記憶

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今日が誕生日の妹のためにワインとチーズを持って昨日の夕方、実家に行く

と、父はお寿司を買って待ってくれていた。家を出る前に電話しておいたら、

私が来るからと、わざわざ駅前にある千代田寿司まで行って買ってきてくれた

らしい。そんなことは滅多にあることではなかったけれど、先月、父の1ヶ月遅

れの誕生祝いをみんなでしたときに、私がお寿司をご馳走したことへの父なり

のお返しのようだった。なんてことだろう。これが激しく脳が委縮した人のする

ことだろうか。

先日、病院の物忘れ外来の診察室で、医師の質問に答えて私が「父は家の

中を歩き回るだけじゃなくて、雨の日以外はひとりでほぼ毎日歩いて買い物

に行っています」というと、医師は「買い物のトラブルはないですか」と訊いた。

私はすぐその意味するところを解したけれど、妹は「同じものを何度も買って

きて困るようなことはあるけれど・・・」といいかけ、私が「そうじゃなくて、先生

はお店の人とのトラブルのことをいってるんだよ」というと、医師は「店での金

銭トラブルはないですか?」と訊き直した。

もちろん、そんなものあるわけなかった。

それどころか父は、ときどき都バスのシルバーパスを使って、どうやったら自

分の行きたいところに1番安い交通費で行けるかを考えて行くことができたし

そうやって都バスを乗り継いで片道2時間以上もかけて行った浅草で、妹に

お土産の菓子折りを買ってきたりもする。(買ってきたお土産は帰るとちゃん

と母の仏壇の横に載っている。)

父の介護レベルは現在2で、いまは週に2回、デイケア入浴サービスを受け

ていて、父いわく金曜日のお風呂屋さんはバーサンばっかりでつまんないけ

ど、火曜日には面白い男がいて、その人が将棋をやろうやろうというので毎

週その人と一緒に将棋をするのが楽しみなんだ、といったりする。(将棋?)

相手は自分より若くて強いから、たいてい3回に1回くらいしか勝てないけど

ね、というので、私は(ふ~ん、それでも父が勝つこともあるんだ)と思う。

どれもあの医師が聞いたらびっくりすることばかりだろう。

聞かせてやりたいくらいだ。

この先、徐々にできなることも増えてくるのかもしれないけれど、でも父の現

状はこんなふうなのだ。

昔だとこういうとき、つまり用があって仕事の後に実家に来て、用が済んだら

またすぐ帰らなきゃならないような夕飯前の時間に父が何か出してくれても

私は食べずに帰って来るようなことが多かったけれど、さすがにこの前あん

なことがあった後では、なんだかこれが非常にありがたいことのように思えて

腰を落ち着けて食べて帰ることにした。

お寿司は私と妹の分しかなかったから、理由をつけて父の皿にも分けて食

べながら、食べることよりひたすら喋りたい父の話を延々と聴きつづけた。

父は古いことはよく憶えていて、支那事変に次ぎ、大東亜戦争前後に自分

がしていたこと、働いていた職場や、職歴などについての話を聴いた。

まだ東京の町なかを牛車が通り、人がリヤカーを引いて走っていたころ。

たった5、60年前のことだとは思えない。それらはもう何度も聞いた話もあ

ったし、なかには初めて聞く話もあった。でも、そこに通底しているのは父が

いかに負けず嫌いの働き者だったかということだ。父は一見、温厚でおとな

しそうに見えて、実は人に指図されたり、こき使われるのが大っ嫌いな人だ

った。若いころは客商売で自分の中に生じた憤りを我慢するストレスから十

二指腸潰瘍になってしまったほどだった。実はプライドがとっても高いのだ。

だから、このあいだの診察室でのことは、父はあのときこそ何もい

わなかったけど内心はずいぶん自尊心が傷つけられていたのだった。

けっきょく最後はこのあいだの話になり、自分がやらされたことを「あんなく

だらないこと」というので、なぜ医師が父にああいうことをちゃらせたのかを

きちんと説明したうえで、でもあのいいかた、やり方はなかったね、というと

父はやっと納得したようだった。

まだ何もわからないような小さな子どもにだって考えてることはあるし小さな

プライドもある。少々ボケているとはいってもお年寄りにはお年寄りなりの自

分が生きてきた人生経験からくる自負や考えがある。

少なくとも父はちゃんと話せばまだわかるところにいるのだから、『アルツハ

イマー』という括りで何もわからない人のような扱いをされたくなかったという

ことだ。それはお年寄り相手の医療に従事している人たちにはわかってほし

いことだと思う。

私には母が亡くなったあと後悔していることがひとつあって、それは母が元

気だったころにもっと母の昔話を引き出してちゃんと聴いておくんだったとい

うこと。いったい樺太のどのあたりに住んでいて、どんな家で、どんな暮らし

だったのか。本土に還って来てからはどこの親類の家にいたのか、どういう

変遷をへて東京に暮らすことになったのか。いまとなっては叔父たちにでも

聴くしかないけど、そんな話をする機会がこの先あるかどうかもわからない

まま、叔父たちだってもう2人亡くなった。

父には忘れないうちに自分の年表でも作っておいたら、というのだけれど、

父にはもうそんな気力もないようだ。とにかく父は人と喋りたくて喋りたくてし

ょうがな人なのだから、せいぜい私は聴きだして、あとはこんなふうにつまら

ない文章にでもして残しておくしかないかな、と思う。

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2015年5月27日 (水)

脳のMRI画像

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妹に、父をいちど認知症外来みたいなところに連れて行ったほうがいいん

じゃないかといったのは、父のいまの状態が単なる老化によるものなのか

それとも病的なものなのかをはっきりさせたほうがいいと思ったのと、もし

ある日突然、父にとんでもないことが起こったときに、一緒に暮らす妹が困

ってしまわないようにしたかったからだった。私のなかに『たとえ病気だとわ

かったからって何になる』という気持ちが全然なかったわけではないけれど

おなじ何か大変なことが起こってしまったときでも、事前にそれに対する知

識と心構えがあるのとないのじゃ、ぜんぜん話が違うだろうと思ったのだ。

それに今年に入ってからのことだけを見ても、父の歩行機能の著しい悪化

と、声が出にくくなって以前にもまして滑舌が悪くなったのはとても気になる

ところだった。

去年、転職していまは近所の個人クリニックで働く妹は、クリニックに来るた

くさんのお年寄りたちとくらべても、父はまだだいじょうぶなんじゃないかとい

ったけれど、私にはもうそういうレベルはとっくに超えているんじゃないかとい

う気がしていた。結果的には妹のほうで一連のやりとりがあったあとに4月

に父を連れて物忘れ外来の初診に行き、簡単な質疑応答のテストのあと

いくつか検査をして、それから2ヶ月に渡って脳波の検査と脳のMRI、脳の

血流の検査が行われた。

そして、それらの検査を踏まえて医師の診断を聞きに行くのが今日だった。

それはもう何年も定期的に父と通っている病院ではあるけれど、私は一度

も行ったことのない階にあり、名前を呼ばれて3人で入って行った診察室は

私の想像とはまるで違うものだった。まず部屋に入ると、正面を向いてずら

っと並んだインターンらしき白衣を着た若い10個の目と医師と看護婦の目

がいっせいにこちらを見た。今日が初診じゃないからか若い医師は自分の

名も名乗らず、彼はいきなり父に「ちょっと歩いてみて」といった。たくさんの

目が向けられているなか、父がたどたどしく窓に向かって歩いて行って方向

を変えて立ち止まると、医師は面倒くさそうに「戻ってきて」といった。父が戻

ってくると、医師は「もういちど」といった。それが無機質に2回繰り返された。

それでやっと父が椅子に着席したあと私の目に入ってきたのは、ちょうど父

の顔のすぐ前に貼ってあった脳のMRI画像の大きな写真だった。それを見て

驚愕した。それはまるでロールシャッハテストの蝶みたいな形をしていた。

もう何年も前のことになるけど眩暈がひどいので耳鼻科に行ったらメニエー

ル病を疑われて、私もMRIを受けたことがあるから正常な人の脳の画像が

どういうものかは知っていた。父のは素人が見てもあきらかに異常な脳の画

像だった。

その後のことは逐一思いだすのも嫌だから詳細には書かないけれど、それ

から医師は父にいろいろ質問をし、早口言葉を繰り返しいわせ、自分の指

の形を真似するようにいい、いくつかの動作をやってみさせた。父にはでき

ることもあったし、できないこともあったけれど、概ねできたほうだと思う。

でも医師にはできたことのほうが問題だった。

つまり、これまでの検査結果と異常な脳のMRI画像からしたら父は重度の

アルツハイマーということになり、自分ひとりでは何もできない人ということ

になるのに、実際の父は医師が質問すること(トイレとか食事とか)以上に

いろいろできたからだ。もちろん、それは健常者の数倍も時間をかけての

ことだし、いろいろミスもあったけれど、それでもじゅうぶんに医師を驚かせ

るくらいのことではあった。

医師は、昨日この画像を見て私が判断したことと実際の状態があまりに食

い違っているので困惑している、といった。この画像と検査結果からいって

アルツハイマーで間違いないと思うけれど、でもほんとうにそれだけなのか。

正直いって、全然わからない。判断しかねる状況です、と医師はいった。

若い医師は老人にはちっとも優しくなかったけれど、いっていることは明晰で

ストレートだった。

ただいえることは、と医師はいった。これだけの脳の変形があるということは

これはここ数年で起きたことではない。たぶん10年とか15年という長いスパ

ンで起きた委縮だと思う。

医師がそういうので、「15年だとしたら、母が亡くなって今年でちょうど15年

になるので、父が日中、話し相手もなく独りで家にいるようになったころと合

致しますね」と私がいったら、「話し相手がいなくなったということと委縮は何

の関係もありません」と医師にぴしゃりとやられた。

そうなのか、と私は思っただけだ。(でも、ほんとうにそうなのか?)

医師の話を聴きながら私が勝手に頭で考えていたのは、高度先進医療だ数

値だデータだエビデンスだといってもけっきょくいまの父の状態がわからない

としたら、人はそんなものだけでは限定できない精神性や霊性や、もっと複

雑にして精妙なたくさんのファクターによって成り立っているということだろう。

父の脳細胞の多くは損傷してしまっているかもしれないけれど、その失われ

たもの以上に別の何かによって補われていまの父があるのではないか。

もっというとそれは神さまとか宇宙の愛に通じるもので、だとしたら現代医学

より別のところに心の平安を見いだせるのではないだろうか ・・・・・・・・。

けっきょく、今日はアルツハイマーの薬が処方され、ほかの病気との混合が

疑われるから、その可能性を調べたいのであとひとつだけ検査を受けてくだ

さい、ということで、また来月も検査を受けに来なきゃならなくなった。

診察室に入ってからずっと衆目のなか知能テストをされ、体幹の状態を診

るのに医師にどつかれ、医師と私たちの病気に関するやりとりを延々聞か

されて、けっきょく薬とまた検査じゃ父はさぞかしがっかりしているだろうなあ

と父のほうを見れば、父はすっかり疲れてしまったらしく、うとうと居眠りをは

じめていたから、私はかえって「よかった」と思った。仮に私たちのやりとりが

全部わかってしまったとしたらそっちのほうがやりきれない。

診察室を出て、妹が次の検査の予約をするあいだ近くの椅子に座って待っ

ていたら、父が下を向いてしきりに何かやっているので見てみると、さっき医

師にいわれてできなかった指の形をやっているのだった。そして見ているう

ちにできたから、「な~んだ。できるじゃない」といったら、父は「あんなことが

テストだとは思わないもんなあ」とポツリといった。

そうだよ。モンスター・ペイシェントと違って父はなんにもいわないけれど、お

となしい父にだって自尊心はあるんだから。少しは尊重してもらいたい。

そこへ妹が戻ってきたので、「ほら、できるんだよ」と私が笑いながらいったら

「それ両手でやるんだよ。ほら、両手でやってみて!」とすかさずいう妹。

ふぅ。やれやれ。

いったいこれだけ高齢化社会が進んでいるなかで、お年寄りに優しい医療

なんてものが存在するんだろうか? と思う。

私は今日あったことを相当な部分端折って書いたにすぎないけれど、病院

を出てから怒る私に、妹はそれほど気にならなかった、といった。

例によって私がセンシティブすぎるのかもしれないけれど、おなじ姉妹でも

ここまで感覚がちがうとわかりあうのは難しいような気がする。

様々なことで頭がいっぱいになって、当人以上によれよれになって帰ってき

た今日。あたらしい問題のはじまり。

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