父の肝臓がん

2017年2月15日 (水)

父のがん検診とミリキタニの猫

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去年、妹から父のがん検診の結果また肝臓に1センチ大のがんがみつかった、とメールがきたときには「またか」と思った。
延々繰り返されるデジャヴ。
母のときからずっと・・・・・・。
85歳と高齢であるため、もう外科的治療はこれが最後と決めてラジオ波を受けてから、わずか半年後の再発だった。
けっきょく、根本的な何かが変わらない限り、いまの西洋医学的治療では完治に至ることはほぼないし、また病院と縁が切れることもないのだと思う。
80になっても90になってもがんが見つかればすぐにオペか、それに準じる外科的治療を勧めるのがいまの大学病院で、それはわたしが読んだ本の中では『かつてはなかったことだ』とされていた。
病院が好きな人なんておおよそいないと思うけど、父も例外ではなく、がんの再発を知っても「もう、いいんじゃないの」「病院には行かない」といっていた。
その時点で妹の考えもわたしの考えもほぼ決まっていたと思う。
3ヶ月おきにCTをやるだって80を超えた人には過剰医療なんじゃないかという思いがあって、次の検査は血液検査だけにしてもらった。その血液検査の結果をもって今後どうするかを決めてください、と医師からはいわれていた。

それを決めるのが今日だった。
昨日までのあいだに妹とはなんどかやりとりして、アバウトなところは決めていた。
そのなかで、いくらボケているとはいえ父の前で生き死にに関わるような会話を医師としたくない、というわたしの言葉をうけて、わたしより先に血液検査のために父と病院に行っていた妹は、受付にその旨書いたメモを渡しておいてくれたという。
ちょっと前までは廊下の待合スペースに人があふれかえっていて毎回最低でも40分以上は待たされたこの病院も、いまは予約システムが入って順調に機能しているようで前ほど待たされることもなくなった。
診察室の電光掲示板に父の受付番号が表示されて3人で狭い診察室に入ると、わたしが初めて見る先生は気さくな感じに挨拶してから検査結果を説明してくれた。
わたしたちが用意していた考えは、検査結果が良くなかった場合どうするかということだったけれど、結果はがん数値も上がってないし、肝機能も悪くはない、というものだった。
それを聴いて妹もわたしも、とりあえずホッと息をついた。
「おとうさん、だいじょうぶだってよ」と、妹が父に向っていうと父の顔もほころんだ。
だから今日の場合はとくべつ必要でもなかったのだけれど、そこで看護師さんが気を利かせて父の腕をとり「血圧を量りにいきましょう」と診察室の外に連れ出してくれた。
そのおかげで短時間だったけれど医師とこころおきなく話すことができた。
我々の考えとしては病状に急激な変化でもない限り、基本的にはもうここでがんの外科的治療を受ける気はないこと。次の検査以降、定期検診についても家の近所の病院に移行させていただきたいこと、などなど。
これまでの担当医は1センチ大のがんがみつかるとすぐ外科的治療をいくつか挙げて、「これかこれか選択肢は2つしかない」という言い方だったけれど、今回の医師は「たしかに」と、わたしの言葉をうけて、「がんはいじればいじるほどこじれる傾向があります。何かされるとがんも負けてはいないから、必死になって細胞がだんだん変質していくんです。だから『がんがあっても何もしない』というのも間違った考えではない、選択肢として『あり』だと思いますよ」といった。
いったいこれまで母のときから何人の医師と話してきたかわからないけど、そんなことをいわれたのは初めてで、ちょっとびっくりした。
大学病院もだいぶ変わってきつつあるんだな、と思った。
でもすぐに医師は「もちろん」といった。
おとうさんの体力が回復されて、またオペをやってみようと気が変わられたときにはすぐにいってください。いつでもやりますから。

とりあえず経過観察で次回はCTとMRIを3ヶ月後に、ということで診察室をでた。
妹もわたしも今日の結果にホッとはしたけれど、ここまでくるまでにも妹にはいろいろな葛藤があった。父の今後のことを勤め先のクリニックの先生にお願いしたところ快諾してくれたものの「本当にそれでいいの?」と訊かれたらしい。
介護ベッドを借りて部屋のどこに置くかとか、ちゃんと考えていますか?
いずれ父は寝たきりになり、働きながら父を自宅で介護することになること。
生活がこれまでと一変すること。
最後は自宅で看取ることになることの覚悟がありますか? と ・・・・・。

すぐには答えられない重たい問題。
わたしとちがって妹は父とずっと一緒に暮らしているし、仕事柄介護福祉士の資格も取っているからわたしよりずっと知識も持っているし、それなりの想定も覚悟もしていると思う。
そして、すべてはそうなってしまってから考えるんじゃなくて、いまからしっかり、リアルに考えておかなきゃならない問題なのだろうとは思う。

でも。と、わたしはいった。
どれだけ想定したところで実際に起こることやそのとき自分が感じることは想像を越えたこと、それこそ想定外のことばかりなんだろうし、それに父は意外とぽっくり逝っちゃうかもしれないよ、と。
まあ、なんてひどい娘だろう! と、世間の人は思うかもしれないけれど85じゃなくたって様々な原因でぽっくり逝ってしまう人はたくさんいる。85ならいつ逝ってもおかしくない。
医師も肝臓がんを気にするより、これからは心筋梗塞や脳卒中、インフルエンザや風邪による肺炎に気をつけてください、といっていた。
妹も「そうなんだよね」といった。
いまから準備しておいたほうがいいこともいっぱいあるだろうけど、でもそのために妹は地域包括センターと繋がったりデイサービスや訪問介護を利用するようにしてきたのだから、あとは今の時点でできる最低限の準備をすればいいのではないか。
けっきょくのところ、人が一気にブレイクスルーするのなんて、いつもその当事者になったときだけなのだから。
そして楽観性をこそ処世術とする姉のわたしは父が苦しむことなくぽっくり逝くことを毎日祈ることにする。もちろん、それ以上に生きているいま、父が最大限にそれを楽しめたらいいのだけれど!!!

病院の会計を済ませるとまだお昼までには少し時間があって、例によって父は「お腹すかない」というんだろうと思って「ここで分かれようか」といったら、妹が父に「牡蠣フライ食べて帰ろうか?」といった。牡蠣は父の大好物なのだ。
それで近くのビルの飲食店で3人で牡蠣フライ定食を食べた。
そのあと、そこから普通の人の足だとそれほど遠くない場所で『ミリキタニの猫展』をやっていたので行ってみるかと訊いたら、父も行ってみてもいい、という。
今日はひさしぶりに外に出てきたし、今日はいい天気で暖かいし。
それになんたってミリキタニも80だったし父だって子供のころは絵が好きですごく上手かったんだし。

でも、それがとんでもなく大変だった!
西新宿から新宿駅南口まで出て全労済ホールに行くまでが。
やっとのことでたどり着くころには父は疲れて不愛想になり、全労済ホールの地B1ギャラリー『スペース・ゼロ』に降りる階段(階段しか使えなかった!)の前で尻込みして、「ここで待ってるからあんたたちだけ見てくればいい」という。
ギャラリーには椅子とテーブルが置かれているのが見えたからなんとかなだめてそこまで歩かせ、椅子に座らせる。
テーブルの上には何やら分厚いアルバムのようなものがあったから「それを見てたら?」というと、父は「興味が無い」と。

興味が無い。

でもいったいぜんたい、いまの父に興味があることってあるのかな?
ふつうの人は目に見えるもの、視界が変わったら自然と頭の中も変わるものだけど、それは健常者に限ったことなのか、父は視界がどんなに変わっても、誰が聞いていようといなかろうと、いつもとおんなじことを呟きつづけるだけ。
こういう父を連れて、わたしと妹はかねてより父の念願だった京都旅行を実現させようと計画中なのだけれど、はたしてそれって連れて行く側の単なる自己満足に過ぎないんじゃないかな。息子にそういったら、たとえ自己満足だったとしても行ったほうがいいし、それは自己満足には終わらない、といった。やさしい息子でよかったと思うけれど、想像するだけでため息が出てしまうのはたしか。

ミリキタニの猫展は、正確には『ジミー・ミリキタニ絵画展&写真展』というタイトルどおり、冬は極寒のニューヨークで路上生活をしていた80歳のミリキタニの写真と、彼が描いた絵で構成されていた。
映画『ミリキタニの猫』を渋谷で友達と見たのはもう10年前のことになるだろうか。
そのとき一緒に映画を見た友達はそのあと一気に人生の、というか運命の車輪が回転してしまって、わずか数ヶ月後に洋服のセレクトショップをはじめることになるのだけど、ほんとうに時が経つのはなんて早いんだろう。
あらためて静止した写真で見るとミリキタニの存在感は圧倒的で凄味があり、かつ、大都会ニューヨークの摩天楼の中に独りぽつねんと佇む姿はどこまでも孤独で儚げでもあり、どんな逆境にあっても打ち負かされることのなかったこの老人の信念の強さと反骨精神と描くことへの情熱に深く打たれた。
そんなファンキーでプライド高き超強がりのミリキタニの写真の中にたった1枚だけ、ふたつの大きな瞳を涙でうるませてじっと佇む写真があって(ただ単に寒くてそうなったのかもしれないけれど)、その目が家に帰りついても頭からずっと離れなかった。
何かで読んだけど、人は過酷な状況に置かれていればいるほど免疫力が高くなるそうだ。自分が具合が悪くても頼れる人があって金銭的にも何不自由なく、冬暖かくて夏涼しい、便利な生活をしている人間ほど心身ともに弱くなるのだとか。
でも、わたしはそれ以上に、自分で自分自身の健康を気遣うこともできなくなったとき、そして自分で自分のたのしみをつくる(クリエイトする)ことすらできなくなったとき人はボケるんじゃないかと思う。もっとも、西洋医学のエリート医師たちは「そんなの全然関係ないね!」というだろうけど。

このミリキタニの写真展&絵画展は、新宿全労済ビルのB1ギャラリー『スペース・ゼロ』で18日まで。

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2016年3月23日 (水)

父、退院。

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今日、父、無事に退院。
妹には来なくてもいいといわれたけれど、退院の日くらいと珈琲も飲まずに家を出た。
入院からちょうど1週間。
今回は早かったな。
今回は懸念した運動機能低下も認知症の進行もなくてよかった。
歩行に関しては入院前より良くなったくらい。
入院しているあいだに、どこかで父の意識が変わったのかもしれない。
入院する前は二言めには「足が痛くて歩けない」と言いつづけていた父が、今日はタクシーに乗らずに駅まで歩いてみようかという。
でも新宿は人も多くて排気ガスもひどいし、工事中の道は狭くて歩きにくいから、最寄りの駅から家まで歩いたら、といって駅までタクシーに乗り、電車を降りてから家まで歩いた。
実家は駅から歩いて10分くらいのところなのだけれど、それでも父にはキツかったらしく、ゆっくりゆっくり歩いて、やっとのことでたどり着いた。
そしてお茶をいれて一服して妹とわたしが話してるあいだ、新聞を読んでいると思ったらすぐにうとうとしはじめた。
それだとますます腰が痛くなるから、ちゃんと布団に入って横になったら、というと、やっぱり狭いながらも自分の家がいちばん落ち着くのかな。あっという間にスースー寝息を立てて眠ってしまった。
まだ数日は眠って起きるたびに頭が錯綜するのだろうけど、それはしかたのないことだろうな。

また妹と父の生活がはじまった。
母が亡くなって16年。
近い将来ここを出て、妹ひとりの生活になるのは必至なのだから、もうもったいないとか二束三文とかいってないで荷物をどんどん処分しなきゃだよ、手伝えることがあったら手伝うよ、といって帰る。
自分の持ち物ならともかく、家族の持ち物を捨てようと思ったらもう非情の掟に従って心を鬼にしてバンバン捨てないと時間がいくらあっても足りない。
それも過去にフォーカスするか、いまにフォーカスするかだと思う。
もちろん、それはわたしがわたし自身にも言うことだ。

今日は家を出るときには曇っていて寒かったけど、実家を出るころには晴れて少し暖かくなった。
青空に、ひらきはじめたソメイヨシノ。

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2016年3月17日 (木)

彼岸の入り

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今日は父のラジオ波の日だから時計を見ながら緊張しながら過ごしてたら、仕事のことで別の緊張がやってきて、一気に消耗してしまった。
ややこしい物事って、どうしていつもこう重なるんだろう。
それをやっとすませて、遅い昼ごはんを買いに行ったついでに、お彼岸だからおはぎと菊の形の干菓子を買った。そのまま商店街を歩いていて、花屋の店先で『東海桜』というのをみつけて、思わずそれも買った。
で、それを買ってしまったがゆえに夕方、誰もいない実家に寄って妹のぶんのおはぎをテーブルに置き、母の仏壇にお花と干菓子を供えて拝んでから病院に行った。

病室に入ってカーテンをあけると妹がベッドの前で読んでいた。
父は管で繋がれて赤い顔をして眠っていて、見るからに痛々しかった。
わたしがじっと見ていると、妹が「かわいそうだねえ」といった。
もうこういういこと(大きな病院で先進医療を受けるようなこと)はこれで最後だね、と。
そうだね。もう限界だね、とわたしがいった。

父はかるく口をあけて寝ていて唇が乾き、病院は相変わらず10分いただけで喉が渇くほど暑かったけど、ラジオ波当日は一日絶食で治療後4時間は安静、水も飲めない。

しばらく見ていると目をあけた父は我々に時間を訊き、それから数言やりとりしたけれどいうことははっきりしていて、意識はそれほど朦朧とはしてないようだった。
ともかくラジオ波の治療は無事に終わった。
妹が今日、担当医と話したところによればうまくいたようだ。
よかった。
いまは痛々しい状態だけど、きっと日に日によくなるだろう。

父は動かないように拘束されていて、まだしばらくは起き上がることもできないし、わたしたちにできることも何もないから、しばらくベッドの脇にいて、「また明日来るね。ゆっくり休んで」といって妹と帰った。
あとは父が回復するのを待つだけ。

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2016年3月16日 (水)

父、入院。

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父が入院するのは午後1時で、今日はもう病院ではお昼ごはんが出ないから、早めに行って近くのファミリーレストランで3人でランチをすませてから行く。
父は先日から「入院するのは何階だったっけ」としきりに聞くのだけれど、入院するのはいつもの17階。
もうここに来るのも4回めだから、わたしたちにはすっかり見慣れた景色になってしまった。
妹も『勝手知ったる』という感じで、病室に入るなりテキパキ持ってきた荷物をロッカーにしまっている。父といえば、わたしたちの心配をよそに明日受けるラジオ波焼灼療法のことよりテレビの使いかたのほうが気になるようだ。
病院の中は異常なほど暖房していて、わたしたちは瞬く間に喉が渇いてしまい、ここはまるで南国ハワイアンセンターみたいだね、といって笑うのだけど、父はそうでもない、という。
下着の上にパジャマ1枚、という服装のせいもあるけれど、ここはがん病棟で、もともと体温が低いうえに体温の調節がきかなくなった患者が多いのだろうから、これくらい暖かくしなきゃならないのだろう。

6人部屋の端のベッドからは重症患者らしき人の苦しげな呻き声が始終聞こえてきて、患者の痛みに昼も夜もないから、これは夜になったらちょっとキツイかもな、と思う。
担当看護師さんから説明を受けて、パジャマに着替えた父と一緒に妹と3人で下の階で心電図やらいくつかの予備検査を受けて、採血して尿検査をして身長・体重を量ったら、もう夕方になってしまった。
妹は病院で働いていていつも医師の横で介助する役だから、父が採血されるところなんかも平気で見ていられるのだけれど、わたしは自分がされるのも人がされているのを見るもの嫌だから、採血のあいだは部屋から出ていた。
それにしても病院ってところはどうしてこうも疲れるのだろう。
病室からも病人からも独特の波動が出ているみたいで・・・・・・
半日いただけで心底へとへとになった。

検査の後は担当医と話さなければならなかったのだけど、わたしはたまたま仕事で東京に来ていた友達に相談事があったので、あとは妹にまかせて先に病院を出た。
新宿で誰かと会うことになるといつも待ち合わせ場所に困ってしまう。
西新宿からはかなり歩くけど、そこしかお互い知っているところがなかったのでブルックリンパーラーへ。

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でも、疲れていたせいもあるけど、店に入るとすごく混んでてて音がうるさかったので、ここじゃおよそ落ち着いて話なんかできん、と思って外へ。
階段を降りてきた友達に「場所変えよう」といって、さらに歩いて新宿御苑前の感じのいいカフェに入って、席に着くなり「ねえ、わたし老けた? すごく疲れた顔してない?」なんて聞いてしまう。
旧友いわく「ちっとも変らんな」、ですと。
つくづく辛辣な女友達じゃなくて、やさしい男友達でよかった。
夜はもうひとりと落ちあってジェロニモ。
伴侶なし貯金なし資産なし年金なしのナイナイ尽くしのそうきちさんの行く末を案じて、晩年は広島移住を考えている東京っ子から一緒に移住を勧められるの巻。
やれやれ!

明日は84の父がラジオ波焼灼術を受ける日。

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2016年2月26日 (金)

本日、晴天なり。

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今朝は早起きして家事をすませて家を出た。

今日は父の担当医と話す日。

本日、晴天にして風もなく、ここ数日にくらべたら暖かい。

何より先日みたいな雨じゃないのがありがたい。

昨日の夕方は電話でさんざんわけのわからないことをいいつづけて、ついに

頭がおかしくなったんじゃないかと心底ぎょっとさせられた父だけど、今日は

そんなこともなく落ち着いていて、2週間前にくらべたらまだ少しは歩けるよう

になったように思える。それでも行きも帰りも駅からタクシー。

病院は、タクシーに乗ってさえしまえばあっという間。

結果、受付時間より30分以上も早く着いてしまって、1時間以上待つことにな

ったけど、時間ぎりぎりではらはらするよりはずっといい。

来月の父の入院日が決まった。

初めて受けるラジオ波の治療が功を奏して父の肝臓がんが縮小し、まだこの

先数年、無事に生きながらえられるか否かは神のみぞ知るところ。

でも大きな病院での治療はそれで最後として、いまできることをしようというこ

とになった。体重が38キロしかなくなってしまった父にとってはハードな治療

であることは確かだけれど。

帰りは近くのレストランで、父、いつもよりはがんばってよく食べる。

行きも帰りもタクシーの中で、「今日は天気がよくて風もなくて最高だった」と

父は何度もいった。

それで万事すませて家まで送り届けて、今日は何事もなく穏やかに終わる

かと思いきや、お茶を飲みながらのいいかげん聞き飽きた昔話の延長線上

で、言うに事欠いてもう20年以上も前の、わたしが父の口からもっとも聞き

たくないことについて話しだし、そこでわたしの我慢の緒がぷっつり切れてし

まった。それについてはもうこれまでなんど父の無神経さに抗議したかわか

らない。父にはもともと、なんの悪気もなしに無神経なことを平気で口にする

ところがあったけれど、いくらアルツハイマーだからって、言っていいことと悪

いことがあるだろう。今日みたいにほぼ丸一日家事も仕事もほっぽりだして

時間とお金を遣って忍耐強く面倒をみて最後にこれか、と思ったらほとほと

嫌になった。そして父に断固として抗議して家を出たあとは、こんどはアルツ

ハイマーの人に我慢がつづかない自分が情けなくなり、いったいわたしの人

生っていつからこんなふうになっちゃったかなあ、と心底落ちた。

他人と違って血縁の厄介なのは、何かを思うそばからそれとは真逆の感情

で揺られることで、簡単に疎遠にはなれないことだろう。

前に妹がわたしにいったのは、母はとても繊細で扱いの難しいところがあっ

たけど、その点、父は鈍感で単純だからつきあいやすいと。

私は、そうかなあ、と思ったけれど、いまや父は直近のことは何ひとつ覚えて

いられず、古い記憶のループだけが頭を占めている人だから、今日わたしに

いわれて嫌だったことも明日には忘れてしまうだろうということで、それはいま

のお互いにとっては救いなのかもしれない。

つまりはまた何度でも今日とおなじことを父にいわれかねないということで、

それはもうどこまでも忍耐してホ・オポノポノするしかないのかもしれないな。

潜在意識の中にあるネガティブな記憶をデリートすること。

今日、実家近くの坂を上りながら、退院するころにはもうすっかり桜だな、と

父がいった。昔は好きでよく浅草の花祭りに行った、と。

それでわたしは、福蔵院の中にある幼稚園に妹を迎えに行ったことを思い

だした。妹が幼稚園で飲んだという甘茶をわたしも飲んでみたかった。

季節はじきに桜三月。

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2016年2月12日 (金)

梅、満開

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今日は父のエコーの検査の日だった。

このあいだのことがあるから家まで迎えに行く。

3時の予約で、家を出たのは1時前。

かなり余裕をみてのことだったけど、それくらいでちょうどよかった。

つまり、いまの父はそれくらい時間がかかるということ。

なんだかしらないけど家を一歩出た途端から常に何かにびくびくしている。

バスに乗る前は、まだ歩いている坂の途中で歩きながら鞄に手を突っこんで

シルバーパスを探しはじめる。駅の踏切ではじゅうぶん時間があったはずな

のに渡りきれなくてはらはらする。電車のICカードを渡せば改札のかなり手

前から何度もわたしにやり方を確認する。電車の中では鞄のいくつかある仕

切りをガサガサやっては保険証と診察券を探し出し、しげしげと眺める。と思

えば身をよじってズボンのポケットからICカードを出したりしまったりしていて、

降りるころにはついにどこにやったのかわからなくなってしまう。

ずっとそんな風。

一緒にいてほんとに落ち着かないし、疲れる。

認知症になると自分の外の世界は脅威でしかないのか、と思う。

かなりの部分でそうなんだろうな、と思う。

いつか自分が風邪をひいてちょっと調子が悪くなったくらいでも、健康な人

に合わせて作られたこの社会の暴力性を感じたから。

でも、かなり早く出たおかげで今日は受付時間より前に病院に着いた。

受付時間ちょうどに名前が呼ばれて父がエコー室に消えたあと、椅子に座

って目をつぶると周囲で聞こえる様々な音 ・・・・・・ 患者を呼ぶアナウンス

や目の前の血圧計から流れてくるサティのジムノペディや機械のデジタル

音や人の話し声や咳ばらいなどが、頭の中に広がった陽の当たる白い壁

にまるで文字や奇妙な絵のように浮かんで、突如わたしはコラージュの意

味がわかった! と思った。それが変な言い方なのはわかっているけれど、

たしかにわたしの頭の白い壁には数字や文字で埋め尽くされた父のシル

エットや、一見なんの脈絡もないようでいて遠いところで関係している土地

の風景や断片的なものなどが絵のようにコラージュされていたのだった。

これを実際に紙の上に再現できたらいいのにな、とわたしは思った。

それからエコー室の中にいた看護師さんから呼ばれて暗い部屋の中に入

り、いま撮ったばかりの父の肝臓の画像を見た。

ひととおり担当医師と必要なやりとりをして、父はどうしたいか尋ねた。

父の口から出てきたのは、行きの電車の中でわたしが、父がわかっても

わからなくても一応ちゃんと説明しておこうと今日のことを話したときに返

ってきた言葉と一緒だった。

「わたしはあんまり先のことは考えないんだ。難しいことはわからないし、

江戸っ子だからグズグズ考えたりしない。もう84だし、なるようにまかせれ

ばいいと思ってる」

父がそういうと医師が、「でも、痛いのは嫌でしょう?」と訊く。

すると父は笑いながら、「いまはなんにも自覚症状もないし、どっこも痛くな

いから」と答える。

いつもとおなじ。

でも、いま自分の肝臓の画像を見たでしょう、たしかにまるくて白い欠損部

分があるのを確認したよね、がんが画像に映るまでに10年かかるんだか

ら、ふつうの健康な人の肝臓にはないものなんだよ、といってみるけれど、

父にはもう近い未来の痛みを想像することすらできないらしい。

父の頭の中では、84なんて男としては長生きなほうだ → みんなもうとっ

くにあの世に行ってしまっている → おとうさんの友達はみんな死んじゃっ

た → もう仕事仲間もいないし話し相手もいない → 仕事もしてないから

お金もないしつまらない → 食べたいものもとくにない → 昔はよかった

→ 車がないからどこにも行けない → 足が痛くて歩けない → 何もする

ことがないから家でテレビを見てるだけだ → でも、もしかしたら100まで

生きちゃうかもよ? → 東京オリンピックのときは仕事でそれどころじゃな

かったから今度のオリンピックは見たい → 次のオリンピックまで生きられ

たら生きたい、というのが常に同一線上になんの破綻なく並んでいて、ただ

それがループしているだけなのだ。

医師にはわたしが懸念していることを伝えて、家族やかかりつけ医とも相談

したいので結論は少し待ってほしいといって帰ってきた。

次の予約は26日。

いまはとにかく父が足が痛くてまったく歩けないので病院を出た後どこかで

休憩するということもできなくて、病院を出るなりタクシーに乗ってとんぼ返り

するだけ。

去年、肩のリハビリで病院に通っているとき、リハビリルームでたくさんの老人

を見た。なかには作業療法士さんが何をいっても無気力で表情ひとつ変えな

い人もいたし、父よりもっと深刻な病気を抱えた人もたくさんいた。こんな言い

方はよくないけれど、そういう人にくらべたら父はまだ表情もあるし何より笑え

るからずっとましだ。・・・・・・ と、そう思おうしたけれど今日は何をどう考えた

ところでそういうことを超えてなんだか悲しくなってしまって、すっかり気持ち

が落ちてしまった。そうなるともう父にも優しくできないし何を話す気もなくなり

気づいたら実家で自分のいれたお茶を飲みながら、食べ終わったチョコの小

さな包み紙を正方形に切ってひたすら鶴を折ることに集中していた。鶴なん

てほんとに久しぶりに折ったのに、折り方を覚えていてちゃんと鶴ができあが

ったのは自分でも不思議だった。

今日よかったのはぜんぜん寒くなかったことだ。

コートが暑いくらいだった。

行きに実家に行く途中に寄った福蔵院の梅は見事だった。

見事に満開。

満開って、つまりすごく円満な図で、それを見ているときには次に花びらが散

って行く姿なんて思い浮かべもしないんだ。

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2016年1月29日 (金)

節分間近

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今日は父の術後1ヶ月検診の結果を聴きに行く日。

天気予報では今日は雨か雪だというので、昨日のうちに娘にてるてる坊主を

作ってもらって、今朝は「よかった、まだ降ってない」といって出かけた。

そうして待ち合わせの実家の最寄駅の改札に早めに着いてみると、父はまだ

来ていない。でも火曜日に行ったときも昨夜もあれだけ念を押したんだから乗

る電車の時刻までには来るだろうと思っていたら、電車が来てもまだ来ない。

乗ろうと思っていた電車は行ってしまった。まさか、一人で先に行ってしまった

とか?! と不安に思いはじめたころにやっと姿を現した父は、例によって信

じられないほど歩みがのろい。病院には受付時間ってものがあるのにと、思

わずはらはらして改札のこっち側から「早くしないと病院に間に合わない!」

と叫ぶわたしに、父は「早くったって、足が痛くて歩けないんだよ!」と凄む。

それから小銭入れのチャックを開けて、ぽかんと口をあけたまま切符売り場

の前でぼーっと運賃表を見上げて固まる父 ・・・・・・

ああ、なんでこんなときに妹は父にSsuicaを渡しとかないんだ。妹はいつもわ

あわあいうくせに肝心なときにはいつもぜんぜん気が利かないんだ。父と一

緒に家を出るわけじゃない、待ちあわせて時間までに行かなきゃならない人

の緊張感など考えもしない。父はいまではもう全く健常者ではなくなってしま

ったのに。それに今日は父が失くした診察券の再発行だってあるのに ・・・、

と、行きの電車の中から胃がきりきりした。

そしてこんなときに限ってうまくいかないもので、あと一駅、というところで車両

点検があって電車が遅れ、さらに時間がなくなった。目的の駅に降りた途端に

私は走り出したいくらいなのに、父はゼンマイ仕掛けの人形ほども歩けない。

そして「がんばって、歩いて」というわたしをまるでこれからアウシュヴィッツの

強制収容所に連行される人みたいな猜疑心と悲しみいっぱいの目で凝視しな

がら歩くのだ。まいる ・・・・・・

やっと駅の外に出ると、雨がぱらぱら降りはじめていた。

ちょうど近くまで来ていた空車のタクシーを押さえて父を乗せるまでも大変で

でも上品なお年寄りの運転手で助かった。タクシーが病院の車寄せに着くと

守衛さんみたいな人が「車椅子をお使いになりますか?」と聞いてくる。つま

り父の様子は見るからに車椅子が必要ってことだ。それを断ってそこからは

私が父の保険証持ってダッシュして、ぎりぎりセーフで受付けに間に合ったの

だった。ふぅー、ほんとに疲れる。

そしてやっと順番がまわってきて、診察室に入った我々に医師がいった言葉

は、我々が願っていたこととは真反対の言葉だった。

つまり結果は×。

このあいだ塞栓術をした箇所にもまだ腫瘍が残っているし、新たにポツポツ

出てきたものもある。嫌なのは、その中のひとつが心臓へとつながる上大静

脈と、冠状静脈の近くにあることだ、と医師はいった。超音波でよく調べてみ

ないとどっちの方法がいいかまだわからないけれど、ラジオ波で焼くか、この

あいだとおなじ塞栓術をするかしたほうがいいでしょう、という。父もわたしも

えっ、また? という気持ちだった。思わず父は「もういいんじゃないかな・・・」

といいかけた。もしどちらかをやるとしたら、それはいつくらいのことですか? 

とわたしが訊くと、医師が「2ヶ月後とか」と答えたので、またしてもわたしは

このあいだやったばかりなのにそんなにすぐ! と思ってしまった。

あのう ・・・・・、とわたしはいった。

「84の人が一年に何度もそういうことをしてもだいじょうぶなんでしょうか?」

すると医師は、「問題ありません!」と笑顔で即答した。

あたりまえだけど、きわめて西洋医学的。

でも入院して環境が変わっただけで認知症は明らかに進んでしまうし、この

あいだのように勝手に出歩いて転ばれたら大変だからとベッドに繫がれて

しまったら、筋肉も運動能力もますます落ちてしまう。実際43キロあった体

重がいまは38キロしかないのだ。「でも84で、もう年齢的にもやりたくない

とかあるでしょうから、それはご本人とご家族が決めることですけれども・・・」

と先日の執刀医で担当医の才色兼備の女医はやんわりといった。

「でもとりあえず超音波で調べることだけはしたほうがいいんですね?」とわ

たしがいうと、「もういちど診させていただけますか?」というので、よろしくお

願いします、といって2週間後のエコーの予約をして診察室を出た。

今日はバタバタで水を買う暇もなかったから会計を済ませて病院を出るころ

には喉がカラカラで、疲れたからちょっと休みたかったし、このあと仕事があ

るからわたしはお昼をすませて帰りたかったけど、父は例によって「食事はし

ない。あんただけ食べて帰れば」とぶっきらぼうにいう。電車の乗り降りにも

介助が必要なのに、「送らずに帰せるわけないでしょう」とタクシーに乗った。

雨は朝よりひどくなっていて、駅ビルの暖かい場所で父に待ってもらって、

「わたしはこんなところで買いものはしない」と妹がいう地下のバーンロムサ

イで小さなお弁当を2つ買って電車に乗った。帰りは二人とも無言。

友人の医者がいう私の好きな言葉に「人は70になっても夜ぐっすり眠ること

で成長ホルモンが出るんです」というのがあるけど、父の身体はついに負け

が込んできちゃったんだな、と思う。もう熟睡するにも睡眠物質が必要なだけ

脳から出ないし、一晩眠ったくらいじゃ壊れた細胞の修復までには至らない。

今日、診察室で父が「このあいだ3階でいろいろやられた」といったら女医が

「いま、やられた、っていわれてショックです」と冗談ぽくいって、わたしが「父

はいつも『やられた』っていうんです。自分のために治療してもらってるのに。

病気だって自分がつくったのに、どこかから飛んできたみたいに思ってる」と

いうと、女医は「でもC型肝炎の場合はどこかから飛んできたっていうのに近

いですね」といった。つまり、衛生環境や技術がいまほど進んでなかった昔

の医療(もっと簡単にいうと血液製剤)に原因があるということのようだった。

以前にこの医師から「C型肝炎がベースにあるので塞栓術をしても次から次

へと出てきてしまうんだと思います」といわれたことがあったので、「C型肝炎

自体を治すことはできないんですか?」と今日聞いたら、「C型肝炎を治す治

療法はあります。でもAさんの場合はもう手遅れです。何十年も前から、たぶ

ん、子供のころからウイルスに侵された肝臓をしていたところにがんができて

しまったわけですから」といわれた。子供のころっていったいいつ ・・・・、と思

うが、父の記憶は定かじゃないからもうわからない。

煙草をまったく吸わないのに肺がんで亡くなった母、お酒を飲まないのに肝

臓がんになった父。いったいなんなんだろう ・・・・・・。

そして今後はいったいいつまで西洋医学の治療をつづけるかというのが問

題だ。もし本人の意思で何もしないことになったらなったで、いちばん嫌なの

は、がんが進行すればいずれかならずやってくるであろう痛みのことだ。

今日、父はわずかな距離を歩くのにもずっと足の指の痛みを訴えつづけた。

大げさに顔をしかめて見せたりして。

母は我慢強すぎるほど我慢強い人だったけど、女の人にくらべて圧倒的に

男の人のほうが痛みに弱い。極端な痛がりで、足の指にできたイボくらいで

これなんだから、がんの末期となったらどうなるんだろう。とても耐えられは

しないだろう。私だって父が苦しむのなんか見たくない。内にそれがあってこ

れまで3回も塞栓術を受けてきたのではないか・・・・・。

実家で買って行ったお弁当でお昼をすませて父と別れた後は、今日もひたす

らどうしたら病気にならないかについて考えた。人間には身体にもこころにも

生活習慣の中にも無数の病気の芽があって、それを大きく育てないためには

その芽に気づいたらできるだけ早く摘み取ってしまうことだ。自分を矯正する

こと。矯正という言葉が良くないなら、よりよく改善すること。

たとえば食べものを食べるんでも、それはただの物じゃなくて生きたエネルギ

ーをいただくということなのだから、食べられれば、お腹がいっぱいになれば

何でもいいってわけじゃないのだ。

目には見えなくても悪い気を持ったものを食べつづければ人は病気になる。

真冬でもわたしが朝起きたらすぐに家じゅうの窓を全開にするのは、濁った

気を新しく入れ替えるため。

今日面白かったのは、マクロビオティック弁当って大体そうだけど自然食品

屋のバーンロムサイで買ったお弁当も見た目は色味が無くてすごく地味で

これってどうだろ、と思いながら買ったんだけど、食べたらおいしい。胚芽米

に黒米を混ぜて炊いた巻き寿司3つに小さな焼き鮭、大根と人参とカボチャ

とさつま芋とこんにゃくの煮ものに紅ショウガ、っていう、なんてことないお弁

当なんだけど、どれを食べてもおいしのです。

で、そう思いながら食べてたら、きっとこういうのは好きじゃないんだろうなと

思ってた父が、「これ、けっこういろいろ入ってるね」といった。

「うん、おいしいね」「おいしい」。

いくらだった? と訊くから、600円、と答えたら、へー、ラーメン食べてもそ

れくらいはするもんね、というので、こんどはこっちが、父って(あんなにボケ

ボケなのに)味覚は達者なんだね、といってしまった。

味覚は達者、つまり、ちゃんとしたものを食べたらちゃんとおいしいってわか

る繊細な感覚が父にはまだあるわけで、それって大事なことだなと思ったの

でした。

だからわたしはやっぱり宇宙の愛を信じる。

わたしの願いは父の健康寿命(父はすでに病気だからこのいいかたは違う

か、天寿、といったほうがいいのかもしれない)ががんのスピードを追い越し

て、まっとうされることです。

それを神に祈るしかない。

今年は父と行きたかった実家近くの福蔵院の招福豆まき。

明日も雨か雪だというし、父の足がああだから行けそうもないけど、節分は

盛大に『鬼は外、福は内!』といこう!

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2015年12月28日 (月)

父の退院

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父が退院した昨日が、入院した日とおなじようにお天気のいい、晴れた日で

よかった。けれど無事退院できてよかったとはいっても、入院していたたった

12日(正味11日)のあいだに父の様々な機能は著しく衰え、服の着脱はお

ろか、日に何度もトイレに間に合わなくなったり、自分がいまどこにいるのか

わからなくなったりするのにはまいった。アルツハイマー患者にとって環境の

変化がよくないことはわかっていたけれど、こんなになってしまうとは。

それにいちばん当惑しているのは父本人で、オペのあとずっとベッドで寝て

ばかりいて筋肉が落ちてしまったのだからしかたない、これからちょっとずつ

よくなるよ、と励ましてはみるものの、これが退院直後の一過性のことなのか

体力の回復とともに徐々に頭の機能も身体の機能も入院する前くらいには

戻るものなのかは、いまのところちょっとわからない。

寒さが苦手な父にとってよくないのはこれから一年で最も寒い季節に向かう

ことで、この前の冬は寒さで家に閉じこもってばかりいたせいで歩行困難に

拍車がかかった。梅の咲くころ久しぶりに父と出かけて、駅前の狭い商店街

の舗道を歩くのに父がつかまるものを探して両手をあわあわさせて歩くのを

見て衝撃を受けたのだった。今年はそうならないように気をつけなければと

思っていたけど、あまり食べないことにくわえて体温調節機能が衰えた父は

例年以上に寒さが身にこたえるらしく、春まで家でじっとしている、という。

もっとも、父の気分は予測不可能だから、いま感じている身体の痛みがおさ

まって、小春日和の日でもあれば、またふらふらと出かけたくなるかもしれな

いけれど・・・。いまはとにかく、春になって暖かくなったらあそこに行きたい、

ここに行きたいという父の気持ちを、馬の鼻先に人参、じゃないけど、先の楽

しみを糧に前に引っぱっていくしかない。

今日、仕事納め。

だけれど、週の前半は忙しくて父をみられない、という妹に代わって父のお

昼ご飯と夕飯をつくりに実家へ。

夕方、足りないものを買いに、最近できた家からいちばん近そうなスーパー

マーケットに行く途中、いつか見たような夕空。

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2015年4月10日 (金)

今年最初の定期検診

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いつものように駅の改札を出ると、少し先で帽子をかぶった小さな老人が私

に向かって手を上げた。どうやら父は私より1本早い電車だったらしい。

今日は今年最初の父の定期検診の結果を聞きに行く日。

雨なら駅前ですぐにタクシーを拾うつもりだったけれど、今日は雨にならなく

てよかった。それに先月、久しぶりに父に会ったときはあまりに足腰が衰え

ていたからどうなることかと思ったけれど、今日は思いのほか元気そうで、

このあいだにくらべたらずいぶんしっかりしているように見える。

年寄りの気分や体調というのは日によって激しく落差があって、ほんとうに

わからない。天気は薄曇りで今日も寒かったけれどでも風がないだけでもあ

りがたい。病院までの道をなんのかんのと話しかけては父を励ましながら父

のペースでゆっくりゆっくり歩く。

病院では、ここ半年くらいはそれほど待たされることもなくスムースに診察が

終わって短時間で帰れたのが、今日は久しぶりにずいぶん長く待たされた。

やっと電光掲示板に父の番号が載って診察室の前へ移動してふと目につい

たのは、去年の秋に電子カルテを導入したばかりなので何かとご不便をかけ

るかもしれない、という内容の張り紙だった。これだけ大きい病院だから電子

カルテなんてとっくに入っているかと思いきや、現状はそうでもないらしい。

仕事で電子カルテにも関わっているから、ふ~ん・・・と考えてしまった。

受付票に記載された医師の名前が見知らぬ人になっていたから、また担当

医が変わったことはわかったけれど、やっと名前を呼ばれて診察室に入って

いくと、こんどの先生は若くてきれいな女医だった。父が何かいうと、ちゃんと

父のほうを見てこたえてくれる。それだけでもだいぶ好印象を受ける。

先週やったCTとMRIの結果は、肝臓にがんの芽のようなものは点々と存在

するけれど、とくべつそれが悪さをしなければだいじょうぶでしょう。肝機能の

数値も良くはないけれど、これまでとさほど変化がないので、まあ正常値とい

っていいでしょう、という、これまでとほぼ変わりないものだった。現状維持。

父くらいの年齢になると、この現状維持がいちばんいいのだ。

それで機を見はからって、このあいだ実家に行ったときに妹からも相談してみ

てほしいといわれた定期検診の間隔をもうすこしあけてもらえないだろうかと

いう話をもちかけてみた。低線量被ばくということを横に置いておいたとしても

4ヵ月おきにCTとMRIと血液検査をするというのは84の父にとってはつらい

ことだからだ。先生は、う~ん・・・、としばらく考えていたけれど、いくつかエク

スキューズを入れてから、まあ、いいでしょう、といった。

診察室を出た我々は「やったね!」と喜んだ。

というわけで、次回は検査が9月末で結果を聞きに行くのが10月頭だ。

真夏の暑い時期に病院に2回も行かなくていいというだけでも、ほんとうにあ

りがたいことだ。父も痛い目にあわなくてすむ。

検査の結果もなんでもなかったし、次回は半年先だ、よかったね! 

ということで帰りは帰りで父の気分を盛り上げて、病院でさんざん待たされて

喉が渇いたからお茶でもしよう、と目の前のビルのロイヤルホストに入った。

朝が軽くてお腹がすいていた私は元気にもりもりランチを食べ、例によってま

だお腹がすいてない父は寒いというのにまたクリームあんみつを食べた。

父がここでクリームあんみつを食べるのはこれで2回めなのに、父はこんなの

初めて食べた、と前とおなじことをいった。でも私は父のペースで歩くのにすっ

かり慣れたし、父が元気でにこにこ機嫌がよければそれでいいのだ。

家に帰って、私はいいことがあった日のお礼として宇宙銀行(フィンランドのブ

タの貯金箱)に500円玉を投入した。

今日はいい日♪

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2014年8月 8日 (金)

ホットチョコレートバナナファッジ

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昨日、電波の入らない地下のJAZZバーを出た瞬間にメールの着信音がして、

電車に乗ってから見ると妹からだった。今日の待ち合わせ時刻についてはすで

に電話で父に何度も念を押してあったにもかかわらず、父が心配して何度か確

認の電話を入れた、とある。例によってピリピリした感じの事務的なメールで、

読み終わったとたんに一気に疲れてしまった。このあいだも、父によけいなもの

は買ってこないでといくらいって買ってきてしまう、という愚痴をなだめたばかり

だけれど、妹は年をとって穏やかにまるくなっていくどころかどんどんアグレッシ

ブになっていくようだ。いつも自分がまわりにどういう空気を撒き散らしているの

か全然わかってない。それで、いつも人と約束しているときはたとえ前日寝るの

が遅くなっても寝坊することはないのに今朝はうっかり1時間も寝坊した。

あわてて飛び起きて身支度をすませ、家族分の簡単な朝食を作って珈琲をいれ

自分は食事も珈琲もそこそこに席を立って、窓の外を見ながら傘を持って出よう

かどうしようかと考えているうちに雨が降ってきた。こりゃ、ますます大変だ、とい

いながら家を出た。昨日の帰り道はまさしく立秋だと思えるくらいに涼しかったの

に、今日はうんざりするほど蒸し暑い。

父の通う病院は電車一本で行けて、私の足なら駅から15分もかからないところ

にあるのだけれど、父の歩く速度では真夏の炎天を行くのはキツイから、今日

は地下鉄を乗り継いで行くことになっていた。乗り換えは乗り換えで面倒だけど

病院は地下鉄の降り口からはすぐなのだ。だいいち地上よりは涼しい。

雨がひどいようならいつもどおりの駅からタクシーで行ってもいいと思っていた

ら、待ち合わせの駅に着いてみると雨はぜんぜん降ってなかった、都内と都下

では天気にもかなりの違いがある。それから西武線と都営大江戸線と丸ノ内線

を乗り継いで行ったのだけれど、やっぱりそれはそれなりに大変だった。まず西

武線の駅を降りて大江戸線の乗り口に行くまでの間に雨に降られた。エレベー

ターもエスカレーターもない駅では父は階段の上り下りに苦労する。父の遅い

歩調にあわせて常に先回りして周りに注意しながら父に気配りながら歩くのは

ほんとうに疲れる。何よりどこかに遊びに行くときと違って、異常に時間を気に

しながら神経を張り詰めている父の様子がわかるからよけいに疲れる。こんな

思いをして病院に通わなければならない父がかわいそうにもなってくる。

けっきょく、私が家を出てから1時間半近くかかってやっと病院に着いた。

ロビーに入ると、父はいつものようにショルダーバッグに手を突っ込んで診察券

を探している。そして診察券が見つかると、先週妹と検査に来たばかりなのにも

うそれをどうしたらいいかわからないのだ。

でも今日はこれまで通院したなかで最速の速さで診察が済んだ。

自販機で買ったミネラルウォーターを飲んで一服するかしないうちに名前が呼ば

れて診察室に入れたのだ。

結果は軽くグレーではあるけれど、いちおう異常なし。

そしてこんどは4ヶ月後だ。

これまでは3ヶ月毎だったから年に4回だった検診がやっと3回になったのだ。

やった! ラッキーだね、といいながらロビーに降りた。

会計をすませるとやっと父もさっきまでの緊張から解放されたようだった。

めずらしく父が「ジュースでも飲んでちょっと休んでいくか」というから、てっきり私

は喫茶店にでも入ってのんびりしていこうというのかと思ったら、どうやらさっき買

ってあげたペットボトルのジュースのことらしい。

すでに疲れていた私はがっかりして、「えー、そんなこといわないで近くの喫茶店

にでも入って、涼しいところで冷たいものでも飲んでちょっとのんびりしていこうよ

お茶代くらい私が払うから。もう疲れた!」と子供みたいにいって、近くにあった

ロイヤルホストに父を引っ張って行ったのだった。

店はまだ11時過ぎとあってランチで混みはじめる前で空いていて、明るい窓際

の席に通された。朝ごはんをちゃんと食べられなかった私はすでにおなかがすい

ていたけれど、父はすいてるわけもないので甘いものにした。

オーダーしたものがくるのを待つあいだ、「こんな広くて明るい部屋が家にあった

らいいのにね」といったら、「そうだね。広々として。気持ちがいい」と父がいった。

私が食べたのはホットチョコレートバナナファッジだ。

バナナサンデーに熱々のチョコレートをかけて食べる。

めちゃめちゃ甘かった。

虫歯ができそうなくらいに甘かった。

父はクリームあんみつを食べた。

クリームあんみつを食べながら、父はまた例によって「おとうさん、こんなの初め

て食べた」というから「何いってるの、このあいだ後楽園に行った帰りに神楽坂の

紀の善で食べたじゃない」といったら、「そうだっけ」といっている。

父はなんでもすぐに忘れてしまう。昨日のことも覚えてない。

そんなひとにいくらよけいな食材は買ってこないでとヒステリックにいったところで

ぜんぜん無駄だと思う。それよりは父が何か買ってきたら、ハイまた買ってきた

のね、とすぐに冷凍するか、駄目になったら父の見てないところで何も考えずに

捨ててしまえばいい。そのくらい罰当たりにもならないだろうし、女親と違って高

い洋服を買ってくるわけじゃないのだ。半分ボケてるといったって父はまだ話が

通じる。落ち着いて話せば会話が成り立つ。感情表現もあれば表情も豊かだ。

それが何よりいちばん大切でありがたいことじゃないか。

店に入って食べ終わるか終らないかのうちに父が気にすることといったら会計

だ。父はウェイトレスがテーブルに伝票を置くなり、さっと取った。

娘だっていい歳で働いていて収入があるんだからいいじゃない、と思うけれど

とにかく自分が払わなくちゃいけないと思っている。

父が会計をすませて外に出たあと「ごちそうさまでした」と私がいうと、父は「いや

今日はお疲れさまでした」といった。

あさ家を出たときはものすごく蒸し暑かったのが、午後はカンカン照りじゃないだ

け少しはマシだった。父が歩くというので、帰りは西武新宿駅まで歩いて行った。

次は12月。

一年って、ほんとにあっという間だと思う。

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