ある日のこと

2020年11月 4日 (水)

瞬間の素粒子

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いつも電車ででかけるときはトートバッグの中に本を入れていく。
今朝どれを持っていこうと、本棚からふいに目についたプリミ恥部さんの本をとりだしてぱっとひらいたら、ひらいたページに書いてあったことが自分の心のなかにあったこととシンクロしててはっとしたから、ちょっと長いけど(自分のために)ここに引用しておく。

 キミはぼくに、一月までに仕事が絶対入るって言ってたのに実現してないね、まだなのかな?って優しくきいてきたけれどぼくはもうとっくに長期の案件へと軌道修正しているんだ。ぼくが成功することを一番にのぞんでいるのなら、今は二人離れよう。100%集中して自分の進むべき道を選択したい。ぼくが成功の起動に乗るまでは、あわないことにしよう。

 君は表面的が自由に見えても、精神が自由じゃない。精神は依存していて、自立してない。
 他人が自由と感じて、自分も自由を感じることが本当の自由だ。そして、たとえ他人に自由と感じてもらえていなくても、自分の精神が自由であれば、それはだれがなんと言おうと自由だ。
 また、自分の進むべき決まった道からはずれることは、自由ではない。
 自分のゆくべき決まった道に自由があるんだ。

 しあわせや感謝で、世界中の意識、宇宙中の意識が、その瞬間たった一人の人を祝福する。それはランダムに祝われる。花屋さんだったり、高校生だったり、刑務所の囚人だったり、酒場のあるじだったり、政治家だったり、営業マンだったり、サックス吹きだったり、ミリオネアだったり主婦だったり編集者だったり。そのたった一人の存在が自分であると想像する。そしてそれは繰り返し自分が想えばその都度訪れる。一度訪れたら、十年後とかではない。瞬間というのは宇宙のすべてに満ちている。その瞬間を私たちは呼吸している。その瞬間の素粒子は変動体である。自分の想うままに成分の分布が変わる。もし瞬間の素粒子の成分のすべてを愛で満たしたら、あなたは愛だ。(引用:プリミ恥部 あいのことば 白井剛史) 

「ごめんね。マスクをしていて口紅もつけてないから、わたし疲れた顔してるでしょう?」
今日会った彼女は、カフェの奥まった席についてマスクをとるなりそういった。
50を過ぎた女性ってみんなこんなふうだ。もう自分を若くも美しくもないと思ってる。あまりにも無意識に日常的に世間からそういう扱いをうけてるからだと思う。そんなのお互いさまだし気にもしないから「そうかな。そんなふうに見えないけど」といってわたしは彼女に店員さんが持ってきたメニューを見るよう促した。
彼女と会うのはまだこれで2回めだ。
彼女とは去年の暮れの土砂降りの寒い日に、渋谷のカンファレンスルームで会った。そこにいた時間はほとんど無駄に等しかったけれど、たまたま隣にいた彼女はわたしとおなじように会ったときからオープンで正直な人で、帰りの電車も方向が一緒だったからお互い屈託なく話してメールアドレスを交換し、その後もときどきメールでやりとりするようになった。最初に会おうといったのはわたしだけれど、夏になってもいっこうにコロナが治まらず、お互いの中間地点あたりでランチをしようにもちょうどいい店がなかなかみつからないのでそのままになっていたところ、彼女のほうから連絡がきたのだった。LINEの最後には「心配して何度もメールくれたこと、わたしはわたしでうれしかったのです」とあって、なんとなくだけど彼女も何かあったのかもしれないな、と思った。「うん、会おう」とすぐに会うことにした。 

そして会ったらやっぱりそうだった。
オーダーをして店員さんが離れたあと「A子さんは元気だった?」と訊くと、「それがわたし、夏のあいだはがっくり落ち込んでたの」という。「うーん。今年の夏はしょっちゅう誰かが亡くなってほんとにキツくて暗い夏だったもんねえ・・・」というと、「コロナで、ってわけじゃないんだけど知らないあいだに友達が死んじゃって」というから「ええ?!」と驚いた。
そこから彼女がした話は今年あちこちで聞いたようなことだったけれど、この夏しばらく連絡をとってなかった友人にコロナのこともあるからひさしぶりにメールをしてみたら返事が返ってこなかった。そのあとも何度かメールしたけれどいっこうに返事がないから気になって携帯に電話をしたら、すでに使われてない番号になっててショックだった。でも自分の歳くらいになるともうスマートフォンもいいかと携帯を持つこと自体やめちゃう人もいるしと思って自宅に電話してみたけれど、やっぱり出ない。いよいよ気になってきて、中学のころからいちばん親しくしてきた友達だったから、そらで覚えてた実家の電話番号にかけてみたところ、おかあさんが出てきて「娘は亡くなりました」という。聞けばもうずいぶん前のこと。去年の5月、自殺だった。それで心底ショックをうけた彼女は中学時代の同級生も誘って実家の仏壇にお線香をあげて、お墓参りもさせてもらおうと実家を訪ねると、おかあさんはお墓に行ったらわかることだし、そこでみんながショックをうけるといけないから先に話してしまうけど、、、といって、実は娘が亡くなる前に彼女の息子のほうが先に自殺してしまったことを告げたのだった。
そこまで話してから彼女はまた心底すまなそうに「ごめんね。1回しか会ったことないあなたに会うなりこんな話して」といった。「いや。ぜんぜん。そういう話聞いてもわたしはもう引きずられたりしないからだいじょうぶだけど、でも息子に死なれたっていうのはほんとにきっついね! わたしだって子供に自殺されたりしたらもう生きていけないよ!」といった。すると彼女は「そうだよね。わたしも考えられない! それで息子に死なれて耐えられなくなった友達は、もともと精神科からもらっていた薬を大量に飲んで死んじゃったらしい」という。
数の問題じゃないから何人子供がいたっておなじだけど、A子さんのうちも一人娘だそうで、身近な親友とその息子の死を知って、彼女が自分の身に置き換えて深刻に感情移入して落ち込んでしまった気持ちもよくわかるし、それは相当こたえただろうと思う。
A子さんは同級生とお墓参りして、ひさしぶりにいろいろ話して、最近ようやく落ち着いてきたところ、といった。
そして、こういう話につきもののことではあるけれど、彼女は後悔を口にした。
数年前、最後に会ったとき友達は息子のことで悩んでいて、それについて話されたとき、自分はそれくらいのこと、どこの家庭にだってあるよと、軽く一蹴してしまったんだそうだ。いま思えば、自分とってはよくある話でも、彼女にとったら自分が思った以上に深刻なことだったんだなとわかって。なんであのとき、わたしはもっと彼女の話を親身に聞いてあげられなかったんだろうと・・・・・・。
わたしは「そうかあ・・・。でもわたしもいわれたよ。離婚して母子家庭の人なんて世の中にごまんといるし、特にめずらしいことでもなんでもないって。大変大変って、親がこどもの面倒みるのは当たり前だよ、ってね。たしかにそうだし、それが友達の言葉なんだから、もうそれ以上、何もいう気なくなった」といった。この『後悔』についてはよく息子とも話すのだけれど、相手が死んでしまった後で何をいったところでなんにもならない。後悔の気持ちをどれだけ誰かに述べたところで、そのひとが優しいことを証明してくれるわけでもない。ひとから何かいわれたとき、簡単に一蹴してしまうのは一言でいえば『想像力の欠如』にほかならないけど、たいていの場合みんな自分のことに手いっぱいで、他人のことを深く考える余裕もなければ、ほんのちょっとのことができなかっただけなんだろうと思う。ただそのしなかった、できなかったことについて関係のない誰かに向かって後悔を吐露するのは違う気がする。誰にもいわずに、それが時間をかけて鎮まるまで、自分のなかでそっと抱いていればいい。そして次からは少しでも後悔しないようにしたらいい。・・・・・・もちろん、彼女にそういったわけではないけれど。
そういうかわりに、「でも、仮にどれだけしてあげられたところで、大事な人の死後にかならず残るのが後悔なんじゃないかな。で、亡くなったひとはもうとっくにそんなところにはいないんだから、いつまでも落ち込むのはやめにして、前を向いたほうがいいってことだよね」と話した。
でも、もっというと『他人の人生にはいっさい干渉できない』というのが宇宙の法則なのだそうだ。それを聞いたとき、はー、そうか! と思った。
そこまで無慈悲になれたら他人に対する期待も執着もぜんぶはずれると思う。
完全ではないにせよ、他人に期待も執着もしなくなってわたしはずいぶん楽になった。

ひとは仲がいいから、古い友達だからなんでも話せるかというといつもそうとは限らなくて、むしろ旅先なんかで初めて会った、通りすがりのワンタイムのひととのほうがオープンに話せたり、親身に優しくできることってあると思う。わたしと今日の彼女がまさにそれで、お互いのバックボーンをほとんど知らなくて過去の既成概念がないから、自分の近況を素直に正直に話すことができた。それがよかったかどうか、楽しかったかどうかは別として、今日はそういう日だったんだろう。わたしはこの一年、家族以外ではずっとそれができないでいたし、ひとりで抱えているのもときどき息が詰まるから。感情のデトックス・デー。
わたしは昔から老若男女にかかわらずキラキラしたひとが好きで、それは単に外見的なことをいってるんじゃない。しわくちゃの笑顔の農家のおばあちゃんにだってあると思うんだけど、どこか非現実的な要素を持ったひと。どんな状況にあっても、ごくごくささやかでも夢を持ってるひとが好きなんだ。そういう意味では今日の彼女はわたしより2歳年下なのにわたしなんかよりずーっと堅実で現実的だ。えらいなあ、と思うし、素直に勉強させていただこうという気持ちはあるけど、正直なところあんまり惹かれない。
でも、そういうわたしたちにもひとつだけ共通点があるのが駅まで歩いているあいだにわかった。それは『いろいろあってもわたしは強運!』と思っていることだ。これはきっとポジティブな信念。
駅のホームで方向のちがう彼女と別れるとき、「いつでもそう思えたら、わたしたちきっとこれからもなんとかなるね!」とハイタッチして別れた。

最初に引用したプリミさんの本について最後にもう少し書くと、引用した文章には前のページに続きがあって、それはこうだ。

 ぼくとキミはもうほとんど一体になりかけてる。キミが好きだとおもうものはぼくも好きになりかけるし、不安や恐怖を感じていると、ぼくが100%未来に前向きじゃなくなる。ぼくは今無職で、この先どうなるかわからないし、キミの望む二人の未来をかなえてあげられないかもしれないし、そもそもキミの望む未来を中心にやっていたら、お互いに不幸になって必ず離れるだろう。

朝ぱっと目についた本を取ってひらいたページにこういうことが書いてあるっていうのは、自分がいまどんなバイブレーションをしてるかがわかるってもんだよね。それと同様に、かどうかはわからないけれど、今年ずっと断捨離してるなかでいつか息子のものだった部屋の本棚を片づけていて、ふと手にとったカミユの異邦人の冒頭を何気なく読んだら、変ないいかただけど「ひっさしぶりにこんな硬質で文学的な文章読んだ!」と感嘆したのだけれど、この『あいのことば』の中にあるいくつかの文章もそれを思いだすような硬質ないい文章で、これが二十歳のころに書いた文章だとすると、若いってやっぱりすごいな、と思った。自分もそうだったけど、内なるエネルギーが充溢してて。
特に曇り空について書いた文章。
わたしは晴れ女で、お天気さえよければ元気ってタイプの人間なんだけど、これを読むと曇り空が好きなひとの感性や感覚がはじめてよくわかって、晴れの日よりも曇りや雨の日のほうが好きな息子の気持ちもこういうふうなんじゃないかと、、、思ったりした。
プリミ恥部さんの本は不思議とただ持ってるだけでも落ち着くところがあるんだけど、この本も息子に送ってあげようかな。

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2018年9月 8日 (土)

最期の夜

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昨日午後、妹からの電話で父の急変を知りお昼も食べずにあわてて実家に駆けつけると、父はベッドの上で酸素マスクをしてハアハアと苦しそうに荒い息をしているところだった。いっときはよくなりかけたいた誤嚥性肺炎がまたぶり返して、熱が上がり、痰がでるようになって、血液の酸素濃度が80に落ちてしまったため、少しでも楽になれと先生が酸素マスクをつけていってくれたという。でも、それさえ嫌がって父は取ってしまうから、見てないとならないということだった。
わたしは生まれてこの方たった一度だけ酸素マスクをしたことがあって、はじめての出産のとき突如、医師が「まずい! 赤ちゃんの心音が急に弱くなった! 酸素マスク!」と叫ぶと、一気に分娩室に緊張が走った。それでいきなり看護婦さんに酸素マスクをあてがわれて、「思いきり息を吸ってください!」といわれ、必死で思いきり息を吸ったときの、あのなんともいえない一気に呼吸が楽になる感じは、いまでも忘れられない。それだというのに、父の脳はそれさえ感知できなくなってしまったのか、呼吸のことより顔に何かを固定される煩わしさのほうが勝っているようだった。

そのとき、父のベッドのまわりには妹と看護師さんひとりだったのが、わたしの後から続々とヘルパーさんやらケアマネージャーさんが部屋に入ってきて、最後にかかりつけ医も到着して、このあいだとまったくおなじ状況になった。昨日も夏日でとても暑かったけれど、父は熱が38度以上もあるせいで「寒い、寒い」といいつづけていて、そのためクーラーもつけられず、暑い部屋の中で先生は汗をかきながら検査のために採血をしたり、あたらしい点滴バッグをつけたり、その扱い方を妹に説明したりと、大変だった。そして最後に父の顔を見ながら、「まだこれのほうがいいかな。それともこれも取っちゃうかな」といいながら、酸素マスクの代わりに鼻のチューブに付け替えた。すると父はそれさえ「鼻が痛い!」といってむしり取ってしまうところだったけれど、もし鼻から外れてしまうようなことがあっても、顔の近くにあればだいじょうぶだから、先生は穏やかにいった。
そしてようやくちょっと落ち着いたところで父の部屋の襖を閉めて、隣の部屋で先生からわたしと妹にお話があった。それはこれまで妹から聞いてきたことがほとんどだったけれど、父のこれまでの病状の経緯と、行ってきた治療の詳細をとても丁寧に説明してくれた。それから今日は妹からのたってのお願いで、これまで使ったことのないお薬を使ったこと。なぜこれまで使わなかったかというと、それが保険のきかない高価なお薬で、でも今日それを使ったからといって父の症状が劇的によくなるという可能性は低く、いまの状況からいって父は今週末から週明けくらいのあいだに亡くなってしまう可能性が高いから、覚悟をしておいたほうがいいということ。最後に先生が「これ以上、延命治療をすることがご本人にとってほんとうにいいこととはいえないと思うんですね。むしろそれはこっち側の気持ちの問題だけかもしれない」と先生がおっしゃったとき、わたしは「そうですね、むしろこれ以上はこちら側のエゴかもしれないと思ってました」といった。誰だって意識がはっきりしているあいだはそうだろうと思うけれど、父は寝たきりなんかになりたくなかったし、ましてオムツをされるのは嫌だったろう。それが証拠に点滴を付けられて動けなくなってしまってからも父は何度か「トイレに行く」といって起き上がろうとしたから。まだ寝たきりではない、というのが父の最期の砦だったと思う。それでわたしは「先生にはここまでほんとうによくやっていただいて、こころから感謝しています。もう十分です。覚悟という意味では、実はもうずいぶん前から覚悟はしているし、それは父が肝臓がんになったときからずっと学んできたことでもあるので、だいじょうぶです、と伝えた。
そして忙しい先生が帰ってしまい、後を追うように今日中にやらなきゃならない仕事を抱えた妹がクリニックに戻ってしまうと、先生のお話のあいだ席をはずしてくれていたヘルパーさんがふたり戻ってきて、父の介護をはじめた。父もすっかり顔なじみのベテランのヘルパーさんで、今日は父の具合が悪いからできるだけ何もしないで帰ろうと思っていたようだったけれど、実際蓋をあけたら父の着ているものからシーツまで濡れていたので、けっきょく何から何まで総とっかえしなくてはならない羽目になってしまった。そこからはもう大変だった。父は息が苦しいうえに、やせ細ってどこもかしこも骨が尖っているから、ちょっとどこかが当たっても痛い。おまけに膝から下の足がパンパンに浮腫んでちょっと触られただけでも痛がる。そういう人を二人がかりであっちに向けこっちに向けして汗だくで着替えさせたり、シーツを替えたり。そのたびに父は「あーイタイ」「イタタタタタ・・・!」「寒い寒い」といいつづけ、時にヘルパーさんの手を噛みそうなほど抵抗する。そういう場に慣れていないわたしにとっては見ているだけでも聞いているだけでも耐え難くて、身体が末端までずっと緊張しつづけた。ほんとうにヘルパーさんって大変なお仕事だと頭が下がるのと同時に、もし自分が死に向かってるというほどじゃなくて、インフルエンザにかかって熱が高くて息が苦しいくらいでもやっぱり父とおなじように、もう何もしないで黙って寝かせておいてくれと思うだろう、と思った。
でも、そうはいっても寝たきりの病人の濡れた服やシーツを放って帰ることはできないのだ。まさしく死にかけている人とヘルパーさんとの格闘の時間だった。
そして汗だくになってすべてをやり終え、ようやっとヘルパーさんたちが帰ってしまうと、父と二人だけの時間がやってきた。
妹からはちょっと目を離すと父は鼻のチューブをはずしてしまうから気をつけて、といわれていた。そして自分の帰りは8時を過ぎてしまうかもしれないと・・・・・・。

最初わたしは午後の明るい時間から暗くなるまでのこの数時間、ずっとたくさんの人に囲まれ体調の悪いなかいろんなことをされて父も声をあげたり手を振り回したりしていたから、みんながいなくなって静かになればてっきり疲れ果てて眠るだろうと思っていたのだ。
ところが父は眠るどころか目を見開いたまま、荒い呼吸をしつづけている。
何か怒っているというか、完全に神経が立ってしまっている感じで、いつもの穏やかな父ではなくなっていた。
そこからは父とわたしの果てしない攻防がはじまった。
ベッドの脇に立って見ていても、父はさっと鼻のチューブをとってしまうのだ。
取っちゃだめだよと、いくらいってもきかない。
何も痛いことはしてないし、痛いはずはないのに、痛い!痛い!という。
では先生のいうように顔の近くにあればいいかと顎の上に置いても、それでもやっぱり振り払ってしまう。なんのためにこれをつけているのか、ここから何が出てるのか、小さな子供にいうようにいってきかせてもきかないし、ねえ、これがはずれると息ができなくなって死んじゃうんだよ、お願いだから静かにしたままにしててよ、と懇願しても、妹から頼まれて看てるんだから、そのあいだに何かあったりしたらわたしが困るんだって、という泣き落としもぜんぜん通用しない。延々、付ける外すを繰り返しているうちに疲れてきて、「ね、ちょっと落ち着いて。すこし眠ろう、と部屋の電気を消して小さなテーブルランプだけにしてみたけれど、父は目をつぶることもなく、わたしが部屋の電気を消してまわっているあいだにチューブを取ってどこかにやってしまっていた。布団の上を探して右手の下にあるのをみつけて取ろうとすると、父は「痛い!何するんだ!」とものすごい顔で怒ってチューブを両手で引っぱって引きちぎろうとしたのでついにわたしもキレてしまって、「やめて! 何してるの! これがないとおとうさん死んじゃうんだよ! それでもいいの!?」とチューブを取りかえすと、死にかけの老人のどこにこんな力が残ってたんだというような力で父はわたしの手を振り払い、「もういいんだよ!」と怒鳴った。それでわたしもはじめて、ああ、そう、それなら勝手にすれば、とベッドを離れたけれど、かといってそのまま放っとけるわけもない。ふたたび戻って鼻チューブをあてがうと、ついに父もキレたのか、瞬間カッと目を見開き、わたしの顔を睨みつけると、まるでマントヒヒみたいに下顎を突きだして獣のような声で吠えだした。暗闇の中で目だけがランランと光ってすごく怖かった。父はたしかに何かがとても不快で苦しかったのだと思う。もう人からどんな不自由さを押しつけられるのもまっぴらで、自分のいいようにしたかったのだと思う。どうしていいかわからなくなったわたしはベッドの柵にもたれて、もう無理だ。これって地獄だよ・・・・・、と呟いた。そしてこれがほんとうに最期なのだということもわかった。父のこの高ぶり方は、これまでにも見たことがあるから知ってる。肺がんだった母は病院のベッドの上で、痛みからくる神経反射で本人の意志とは関係なく勝手に手や足が踊るように飛び上がっていた。そんな状態でも幼馴染の親友が見舞いに訪れて「ふみちゃん」と名前を呼ぶと、起き上がらんばかりになって言葉にならない声で返事をして「ありがとう」とお礼をいおうとした。身体がそんな状態になってまで意識がはっきりしているがんって、なんて残酷な病気なんだろうと思った。それはまごうかたなき断末魔の力だった。
わたしはそっぽを向いている父に、鼻も痛いよね、喉も苦しいよね、といった。
父はそっぽを向いたまま、うんうんと頷いた。
ごめんね、でもわたしがいるあいだはこれ、しててくれないかな。もうすぐ I ちゃんが帰ってくるから、そうしたら I ちゃんにどうしても我慢できないからはずしたいと伝えて。父は返事をしなかった。それから父の気をそらそうとして昔、車でいろんなところに行った話をはじめた。そのあいだは父は静かにうんうんと聞いているのだけれど、はずれた鼻のチューブをしようとすると頑として手で払いのけた。
そういう苦しい2時間近くが過ぎて、ふと窓を見るとカーテン越しにナース服を着た妹が自転車で帰ってくる姿が街灯の灯りに映し出されて、わたしはやっと息をついた。遅くなってごめんねー、といいながら入ってきた妹にこれまでの状況を伝えると、妹は、そうか、といって父のほうを向いて、おとうさん、帰って来たよー、ただいま、といった。すると父は妹に向かって口をあけて何かを訴え、妹は、痰とる? ちょっと待ってて、といって自分の部屋にバタバタと着替えに行った。
今夜はこれからだってまだまだ大変だろうし、妹ひとりで看られるとは思えなかったから、家に帰って着替えてからまた来ようか、と訊くと妹は、いや、だいじょうぶ、帰っていいよ、といった。瞬間的に、ここで帰るとまた母のときとおなじになる、と思ったけれど、わたしはもう汗だくだったし、どこかで身体の力を抜きたかった。わたしは昼に食べるつもりで買ってきたおにぎりとお惣菜を妹の夕飯用にテーブルに置き、へとへとになって実家を後にした。整体に行ったばかりだというのに身体が緊張してどこもかしこもガチガチだった。部屋を出ようとしたとき見えたのは、父のベッドの脇で父の痰をとってやっている妹の姿。父も妹の腕にだらりと手をかけていて、さんざん喧嘩しながら暮らしてきた二人だったけど、26で家を出た自分とちがってずっと一緒に暮らしてきた二人だから、やっぱりいちばん気を許しあった仲なんだろう、と思った。
駅前のスーパー・マーケットで買ったお惣菜を買って帰り、自分ひとりでいいかげんな夕飯をとって、お風呂に入って寝たのは1時過ぎ。布団に入ってもなかなか寝つけないまま、やっとうとうとしかけたとき、自分の携帯が鳴りつづけているのにはっと気づいた。ついに来たか、と思いながら起き上がってとると、わずかな沈黙の後に、ふだんとはちがう、とても静かな、くぐもった声があった。「おとうさん、呼吸が止まってるみたいなの」と、妹はいった。受話器の向こうから重たい空気が流れ込んだ。
それが午前2時半だった。

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2018年8月24日 (金)

やっと月・・・・・・

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自分の調子がやっとよくなってきたと思ったら相棒(カメラ)の調子が悪くなった。(電源をOFFにしてもOFFにならない。)自転車の後輪は何回空気を入れてもらっても乗るとヘタってる。父の容体が悪くなってあわてて実家に行こうとすれば家のドアが閉まらない。(経年劣化でドアの下のコンクリートが腐食して陥没ならぬ、隆起してるのだそうだ。)
そして昨夜は夕飯食べ終わってコンピュータの前に座ったら足もとがぐっしょり濡れてて、バカなわたしはうっかり自分で机の上のコップでもひっくり返しかと思ってたら、いくら拭けども拭けども乾くどころかどんどん濡れてきて、バスタオルを何枚敷いてもぐしょぐしょになるばかり。さすがにこれはおかしい、と思ってタオルを取りに行ったついでに娘に話せば、「それって、『生き人形』の話にでてきたやつじゃない?」などとこわいことをいう。もう夜も遅いというのに。
どれどれ、とわたしの部屋に見に来た娘とあらためて床以外のところを見てみると、カーテンまでぐっしょり濡れてる。それでそのときはじめて上を見上げて、あっ! と思った。なんとクーラーから水漏れしているではないか!!
でもすでにそのとき夜中で、外は台風のまっただなか。
雨はまだ降りだしてなかったけど風が吹き荒れてるから窓を開けるわけにはいかないし、室外機を見にベランダに出ることもできない。コンピュータの電源を落とす前にあわてて週間天気予報を確認すれば、台風一過の後はまた連日35度の真夏日が戻ってくるっていうじゃないか。
いったいほんとに、今年はなんて年なんだろう・・・・・・

しかたなく昨夜はポタポタ水が漏れつづけるクーラーの下にタオルを何枚もはさんで寝たものの、荒れ狂う風の音とクーラーの水漏れが気になってなかなか寝つけず。眠れないと父のことも気になってくるし、そうなるとてきめんに痛くなってくる肩・・・・・・。
それでも人間、ほんとに切羽詰まると頭も身体も動くもんだと思う。
寝不足にもかかわらず今朝は早く起きて、昨日出た大量の濡れタオルを洗濯機に放り込み、濡れたカーテンと床に除湿機をかけつつ、『クーラーから水が漏れる』とネット検索して室外機を点検した。で、自分ではどうにもならないとわかったらもうグズグズ考えてる暇はない。そうじゃなくたって今年のスーパー猛暑でエアコン業者はどこもてんてこまいで取り付け工事の予約が取れないっていうのに。
そこからは朝ごはんも食べずにコンピュータの画面にかじりつき、いくつかのエアコンのスペックとサイズと価格を比較して、高い買い物にはちがいないけどもう迷ってる暇はない。エイヤ!っとヨドバシドットコムで数年来の念願だった白くまくんをカートに入れて、カード決済した。インターネット上に家電のネットショップ数あれど、商品と取付・取り外し工事費用とリサイクル費用をそれぞれカートに入れて、向こうから電話をかけてくれるように設定して決済できるヨドバシドットコムはわたしにとっては神である。これまでだってある日突然、毎日使う必需品の家電が壊れるたびに、何度助けられてきたことか。わたしにとっては溜め息が出るような痛い出費だけど、いいかげんここまで先延ばしにしてきたのがいけなかったんだろう。もう20年以上も使ってるクーラーで、ずいぶん前から電源入れてもなかなか動かなかったり、やっと動きだしたと思ったら離陸した直後の『紅の豚』みたいにパラパラパラパラ凄い音がしたりして、毎年夏の間中いつ壊れるかとハラハラした。もう来年からはハラハラしなくてすむんだ。よかった!
でもさすがスーパー猛暑。
いつもだったらすぐ取り付けてくれそうなものなのに、速攻で買って、最短で設置手配して、なんと28日だって。今日はまだ風があるから家じゅうの窓あけはなしてクーラーなしでもどうにか動きまわれてるけど、明日からは? 
暑がりの息子だっているのに・・・・・・。
で、午後はまたしゃかりきに動いてまず自転車屋さんでタイヤの応急処置してもらったついでに顔見知りの電気屋さんに寄ってみた。そこの奥さんときたらもうわたしと真反対の逞しい女なのだ。わたしなんか困ったときにこのひとの顔見るだけでもちょっと安心しちゃうくらいだ。たくましい腕を組み、鼻の頭にシワを寄せてわたしの話を聞いていた奥さん、「そりゃ、室外機のホースの詰まりだね」といった。それで、「割り箸でもなんでもいいから細長い棒で室外機の水が出る方のホースを突ついてみて。それで詰まってたものがドロっと出てきたら水漏れしないで動くかもしれないし、それでもダメなら室内機の問題かもしれないし。とりあえずやってみて、どうしてもダメだったらここに電話して」と、店のパンフレットをくれた。それから帰って遅いお昼を食べて腹ごしらえしてから、昨日濡れた床からはじまって家じゅうの掃除をし、最後にベランダに出てもういちど室外機のホースを探し、電気屋の奥さんにいわれたとおり、割り箸をつなげて長くしたので突ついてみた。たしかに白い割り箸に泥のようなものがついて黒く汚れる。でも何かがドロっと出てくる気配はないなあ、と思ってよく見たら、ホースの下のコンクリートに、すでに泥のかたまりのようなものがある。もしかして昨日の暴風雨がホースの途中にあいてる穴から入って、すでに詰まってたものが押し出されたのでは? と思って、部屋に戻っておそるおそるクーラーの電源を入れると・・・・・・
ややあってから動きだしたクーラーの送風口からはたしかに冷たい風がでてくる。・・・・・・
水漏れはしてない!
ふう~~~、助かった。
これであたらしいクーラーが来るまでのあいだ数日でも動いてくれればなんとかなる、あさっては出かけられる、とほっとして空を見上げれば、夕空にきれいな月。
いろいろあってすごく疲れる1日だったけど、今日一日も無事に暮れてゆきそうです。

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2018年3月 9日 (金)

EXA PIECO

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昨日、買いものにいこうと階下まで下りていくと、ドアの外までYの怒鳴り声が聞えていて、ああ、またやってる、と思った。しばらくYの息子の姿を見なかったから、てっきりもう家を出たのかと思っていたけど、まだいたんだ、と思う。
聞えてくるのはいつもYの声だけ。
常軌を逸してすごい剣幕で怒鳴りまくるYの声だけだ。
うちもよくあったからよくわかるけど、思いきり親子喧嘩してお互いにエネルギーを発散しあってるならまだいい。でも、うちの息子とちがってYの息子はおとなしいのか、それともすっかりエネルギーを失くして鬱屈してるのか、息子が言い返している気配はない。
あれだけ大声でヒステリックに怒鳴りまくられて、血気盛んな若い男の子が黙っていられるなんて考えられない。逆に息子がYに恐れをなして静かに、ただひたすらじっと耐えているとしたら、あまりにもかわいそすぎる、と思った。
公営住宅に住んでいて最もシャビィに感じるのは、こういうとき。
昔、ジム・ローンのセミナーに行って、『貧乏は病気』と聞いたけど、まさしくそのとおり。貧乏は病気だ。延々と負の連鎖を生む病気。
そんなもの自分で断ち切らなきゃ。

空はまたすぐにでも降りだしそうな灰色で暗く、寒く、おかげですっかり頭の中を乗っ取られてしまった。それから自転車飛ばしてスーパー・マーケットでパスタの材料を買い、珈琲のデザートにエクレアを買い、ちょっと考えて迷ってからYの家の分も買った。
帰り道、頭の中で、「Y、もういつまでもそんなふうに息子を怒鳴るのはやめなよ。よくないよ。ときどき誰かを怒鳴りたくなる気持ちはわかるけど、息子はもうじゅうぶんに傷ついてるし、彼はあなたのたったひとりの息子じゃないの。彼のエクサピーコさんはこんなつらい人生をやるために、苦しみや悲しみを体験してそこからたくさんのことを学ぶために、覚悟してあなたを母親に選んであなたのもとに生まれてきたんだよ。もう、いいかげんそれに気づいて息子も自分もしあわせにすることを考えなよ」と話した。それからYのエクサピーコさんとYの 息子のエクサピーコさんにも話しつづけた。
楽しく大学に通っていたのに親の経済事情でやめざるをえなかった息子。
奇しくも、これもたまたま部屋の前を通りかかったときに電話で知らせをうけたNが激しく号泣するのを聞いて知ってしまったことだけど、Yの別れた夫は数年前に自死している。(ふだんからYの声は大きすぎるのだ。外まで筒抜け。)
もうじゅうぶんじゃないか・・・・・。

そうやっていろいろ考えながら家のすぐ近くまで来たとき、ある強い思いが湧いてそのことに自分でも打たれた。でもそれはいますぐじゃなくてもいい。Yや息子にいってあげたいことはいっぱいあるけど、今日はそんなことはぜんぶ奥にしまって、「スーパーで買ったお菓子だけどさ、甘いものでも食べて、お茶でものんで、すこしほっこりしなよ」とだけいって玄関でお菓子を渡して帰ってくるつもりだった。
でもYの部屋のチャイムを何度鳴らしても誰もでてこなかった。
うんともすんともいわなかった。
激しい親子喧嘩の後でYも息子も家を出て行ってしまったのだろうか。
それとも布団かぶってフテ寝してるとか。

家に帰って娘にいまあったことを話すと、「宗教やっててもなんの意味もないじゃない」というから、「そうなんだよ。あんな宗教に入るくらいだったらこの本(波動の法則/実践体験報告)読んでるほうがよっぽどほんとのことが学べるよ」とわたしはいった。そして「余計なお世話なのは重々承知してるけど、いつかYに話をしようと思う、もし息子と顔をあわす機会があったら息子とも話すかもしれない」といったら、娘は「かかわりあいにあらないほうがいいと思う」というから、わたしは「ちがうよ!」といった。「いままで自分もそう思ってたけど、それは全然ちがうってことがはっきりわかって、いま決心したんだよ。どんなに面倒でも人とかかわらなきゃならないときはかかわる。断固としてかかわる、ってね。有難迷惑だといわれるかもしれないし、嫌われるかもしれないけれど、嫌われるのなんてどうでもいい」。
わたしがそういうと娘は「でも刺されるかもしれない」というから、「あの子はそういうことをする子じゃない。それに刺されるのはYのほうだよ。あるいは自分をやってしまうか。ああいうおとなしくて静かな人がずっと我慢しつづけた上に切れるといちばんこわいんだよ。そんなことにでもなったらここは事故物件になってますます住めなくなる。三面記事に載るようなことになる前に気づけとYにはいうよ」。
今の世の中お節介否定論者は多いし、こういうことを書くと批判する人もいると思うけど、余計なお節介をしないでできるだけ他人と関わらないようにした結果がいまの無関心な世の中なんじゃないかと思う。
立派な邸宅に住んでいてもシャビィな公営住宅に住んでいてもそれぞれの家庭が抱える問題は様々で、同じ間取りの部屋でも住んでいても一歩部屋の中に入ればまるでちがう世界がひろがる。いまここを天国にするのも地獄にするのも自分なら、すこしでも調和のとれた世界で息をしていたいと思う。

ずいぶん花は落ちてしまったけど、毎日水を替えて、水の中にわずかに活性剤を入れていたのがよかったのか、まだもっている忘れな草。今日は水切りして活けなおした。
ワタシハアナタノコトヲワスレナイヨ。

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2018年1月27日 (土)

はじめて父の気持ちがわかった日

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東京に4年ぶりで大雪が降った日の翌日、夕方いつものように夕飯の買いものに行った。雪の日に大量に作ったおでんがあったからとくに買いものに行かなくてもいいようなものだったけど、雪の日の夜からなんだか喉がイガイガしだして風邪っぽい感じで、二日つづけておでんだと野菜が足りないからホウレンソウでも買いたいと思ったのだった。
最初に行ったスーパーマーケットの野菜売り場を見てびっくりした。
棚の上がガラガラで。
この大雪で商品が届かないせいだという。
それでしかたなくそこではのど飴だけ買って、別のスーパーマーケットに行くことにした。でも行ってみるとやっぱり野菜は全体的に品薄で、残念ながらそこにもホウレンソウはなかった。いま思えばそこであきらめればよかったのだ。でも、うちの近所には3つのスーパーマーケットがあって、そこからそう遠くないところにあるものだから、すこし遠回りして帰るくらいの感じで寄ってみることにした。
はたして3つめのスーパーマーケットでホウレンソウをみつけて、ほかにも細々買いものをして、さて帰ろうと暗い駐輪場の木立ちの下を歩いているときだった。ちょうど黒いアスファルトのスロープを降りはじめたとき、すこし先の横断歩道の青信号が見えて、できれば信号が点滅する前に渡ってしまいたいなと思った次の瞬間だった。いきなり地面が目の前に迫ってきて、「え! ウソ!!」と思ったときにはもう顔から転んで地面に叩きつけられていた。
ほんの一瞬のことだった。
いったい何が起きたのかもわからなかった。

ただスローモーションの映像のように記憶しているのは、左のおでこが地面に当たってバウンドし、目の下の左頬の高いところを砂混じりのアスファルトでジャリっとこすり、同時に聞えたザクっという音に激しい衝撃をうけたことだけ。
気づけば自分は黒いアスファルトの上に倒れていて、いま打った顔といい手といい脚といいどこもかしこもズキズキ・ジンジン傷んで、しばらくは立ちあがることもできなかった。前から自転車で走ってくる人がいて、一瞬、あ、と思ったけれど目が合ったのにそのまま横を走り過ぎて行ってしまった。
それからなんとかよろよろ起き上がって、横断歩道を渡り、すぐ前の病院の敷地内に入ったところで生暖かいものがポタポタ顔から落ちてきて、もうアウトだった。
近くにいた病院の警備員さんに声をかけて一緒に病院の中に入ってもらった。受付けには警備員さんが事情を話してくれた。もうほとんど患者が来ない時間でのんびりしていたらしい受付けの男性が、わたしを見るなりものすごく慌てたのを見て自分の状態がどれだけひどいのかわかっておそろしかった。
受付けの前の椅子で看護師さんを待つあいだにも血はポタポタ流れて、手袋が血まみれになった。見かねた受付けの人がティッシュペーパーを箱ごと持って来てくれた。でもその病院はふだんあんまり救急外来、とくに外科的な救急外来患者は受け付けていないのだと思う。やっと来てくれた男の看護師さんはあまりそういうことに慣れてなさそうなひとだった。ラッキーだったのはその日たまたま当直だったのが以前かかったことのある整形のN先生だったことだろうか。
救護室では血圧と体温を測られ、ベッドの上に横になって顔のケガしたところに生理食塩水をかけられて布でごしごし拭かれ、いちばん切れて血が出つづけている眉毛のところに絆創膏を貼られて応急処置はおしまいだった。N先生はわたしを見下ろして、「目はちゃんと見えますか?」と聞いた。わたしは「ちゃんと見えます」と答えた。そんなような単純な質疑応答をいくつかしたように思う。
先生は、「よく顔を強く打ったりした後に歯の噛みあわせがおかしくなることがあるんですよ。もし明日になって何かが劇症発症するようなことがあったら、そのときには形成外科に行ってください」といった。「形が成る、と書くほうの形成ですよ。でもこの近所にはないので、大きい病院に行かないとなりません。でもそこまでじゃなかったら皮膚科に行くんでもいい。皮膚科ならこの病院にもありますから」。わたしは何かいわれるたびに返事だけははきはき返した。
応急処置が終ってベッドに起き上がると看護師さん(とても人のよさそうな優しそうな男性の看護師さん)が「だいじょうぶですか?」とわたしに訊いた。わたしは、「いつも86の父に転ばないように転ばないようにって注意してるのに自分がこんなことになってすごくショックです」と正直に心境を吐露した。するとN先生が、「こんな大雪が降った後はふだんとは違いますから。このあいだTVを見ていたら言ってましたが、一見濡れているだけに見える凍結したアスファルトの道のことを、『ブラックバーン』というそうですよ」といった。そんないいかたも実にN先生らしいと思った。N先生が「それじゃ、お大事に」といって救護室を出て行った後、看護師さんが「先生はいま何も言っておられませんでしたが、おでこを強く打っているので心配です。こういうときはたいてい後になっていろいろ症状が出てくることが多いですから、明日以降、もし何かあったらすぐに大きな病院で診てもらうようにしてください」といった。そして、この後もくれぐれも気をつけて帰るように・・・・・・

病院を出てひとりになると一気に転んでケガをした現実感が襲ってきた。
何も貼ってない頬の傷に夜気があたって引きつるようにズキズキ痛み、雪の残る夜道を注意深く歩きながら、ふとトートバッグの中からタオルハンカチを出してそっと顔にあてた。そうしてはじめてさっきまで自分がハンカチを持っていることすら全然思い浮かばなかったことに気づいた。もうあとはとにかく早く家に帰りたかった。誰とも顔をあわすことなく家に帰りつきたかった。そして頭の中でずっと考えていたのは『ひまし油』のことだ。
家に帰ったのは夜の7時で、その日子供はふたりとも仕事に出かけていて家には誰もいなかった。いま思ってもそれはよかったと思う。母親が買いものに出かけたと思ったらしばらくしてこんな姿になって帰ってきたんじゃ、みんな驚いて飛び上がってしまう。
家に入るとカーテンを閉め、ストーブをつけてしばらくその前でぼんやりした。
手も痛いと思ったら、左手の親指の腹に大きな血マメができていた。
ジーンズをまくって見たら左の膝のまわりが青黒くあざになっていた。
ケガはぜんぶ左半身に集中していた。
それから意を決して洗面台の前に行っておそるおそる鏡を見た。
数年前に父が遠くのスーパーマーケットに行って重いものばかり買って両手荷物で帰る途中、家のすぐ近くまで来てコンクリートの歩道の上で顔から転んで四谷怪談みたいな顔になったことがあったから、自分の顔がどうなってるかは大体想像がついた。あのときだっておそろしいのとかわいそうなのとで実家に行っても父の顔が見られなかったわたしだ。でも自分となればそうもいってられない。
顔は、、、、、、見るも無残にオバケみたいになっていた。
左の顔を下にして倒れたせいで目の周りを強く打って腫れあがり、眉毛の中、額、まぶたの上を切って頬の高いところを広い範囲で擦りむいていた。
人間の顔なんて一瞬にして変わっちゃうものだなあ、と思った。
目の周りがまるでアイラインを引いたように黒くなってるのを見て、いったいこれってちゃんと元通りに治るんだろうか、と不安になった。
そしてやった当日より明日のほうがもっと腫れるのは目に見えていた。
もうため息しかなかった。
でも、冷静に観察した後は淡々と手当てするしかなかった。
お湯を沸かして温めたタオルで傷のない部分の汚れた顔を拭き、傷の部分は化粧水のポンプボトルに水を入れて軽く洗った。それからいつか『ひまし油湿布』にトライしようと買っておいたネル布を切って、たっぷりとひまし油を浸して傷口にあてた。そのときのなんともいえずほっとした感じは忘れられない。ひまし油の滲みたネル布は患部に温かく、やわらかく包みこまれるようで、それまでズキズキしていた痛みが急速にやわらいでいった。同時に気持ちも落ち着いてきた。
まさしく、キリストの御手。
それを実感した瞬間・・・・・・。
わたしの勘は当たった。
ひまし油を買っといてよかった、と心底思った。
そしていまはどうでも、あとはもう自分の免疫力、治癒力にまかせるしかない、と思うことができた。

そのあとは洗濯物をたたんだり、静かにできることをしていたのだけれど、気持ちが落ち着くにしたがって浮かんできたのは、この日はじめて父の気持ちがわかった、ということだった。
もう十数年以上も前のこと、父は駅前の踏切近くで派手に転んで大ケガをした。
やっぱり雪がちらちら舞うような寒い日で、そのころまだ細々とだけど仕事をしていた父は、夕方集金したお金をどこかに持って行く途中だったかなんだかで、先を急いでいたらしかった。もうすぐ踏切を渡り終える、というくらいのところで信号機が鳴りだして、急ごうと思った瞬間に転んだらしい。父は「足がもつれて・・・」と言っていたけれど、それもたぶん、後付けの話なんじゃないかいまはと思う。なぜならこの日わたしは自分が転ぶなんてまったく思わなかった。転んでる最中もなんで自分がこうなるのか全然わからなかった。直前までなんの兆候もなかったし、だから身構える暇もなくもろに顔から転んでしまったのだ。父と共通しているのは目の端(頭)に信号機が映ったとたんに転んでいること。つまりスリーセブンの7がカチッと合うみたいにこういうことが起きてしまう瞬間があるんだってことだ。そして、そういうときに転んだ人間をどう責めたところで無意味だよねってこと。自分でも何が起きたんだか全然わかってないんだから。そう思ったらなんだか急激にあのときの父の気持ちがわかって、いまさらながら父がかわいそうになってしまった。

そしてしみじみ思うのは、自分も年だなあ、ってこと。
このあいだのスイミングクラブでの81歳が80歳に話してた『81になってみなさい、わかるから』には笑ったけど、だんだん1歳の重みがずっしり重くなっていくんだろう。だんだん今日みたいに意識と身体が即座に連動しないことが多くなって。
毎年、自分の誕生日前後にはたいてい何かあるから注意してたのに、いったいわたしは何をやってるんだろうなあ・・・・・・
でもいま、それから5日経ったいまはもうちょっと冷静に当日の自分の動きをを分析してみることができる。わたしは雪掻きのされた雪のないアスファルトの上を歩いている気でいたけど、N先生がいうようにそこは一部が凍結したブラックバーンで、青のメモリが半分以下になった信号機を見て勢いよく足を右・左と踏み出して左足のときに足を滑らせ、そのまま前傾姿勢のまま一気に顔から行ってしまったんだろう。それでケガはぜんぶ左半身、とくに顔に集中してしまったというわけだ。おりしも慣れない長靴で、風邪気味だったこともあり。やれやれ。やっとわかった。

翌日、会社の同僚だけには伝えておこうとメールで事情を説明したら、彼女はひまし油なんて伝承療法はきっと全然信じない人なんだろうなあ。しきりに消炎鎮痛湿布剤を貼ることをすすめられたけど、傷がある(とくに顔に貼れる)消炎鎮痛湿布剤なんてまったく思い浮かばないし、仮にそんなものがあるとして、傷口にひまし油湿布を貼ったときのあの安心感こそが正しい選択だったと信じているから、補完・代替療法の医療系ベンチャーに勤めるわたしとしては、このままひまし油を貼って夜だけ冷やすという方法でどんなふうに治癒が進んでいくのかを自分の顔で観察してみようと思う。
ちなみに4日も過ぎたいまさら『顔の傷を早く治す方法』と検索してみたら、『湿潤療法』というので、簡単な方法としては『ラップにワセリンを塗って患部に貼る』というのが出てきた。なるほど、ラップなら剥がすときもくっつくことなく剥がせそうです。滅多にお世話になることはないだろうけど、しっかり覚えておこうと思う。
まだまだ雪がふりそうなこの冬、これを読んでる人もわたしみたいにケガをしないようにくれぐれも気をつけてください。

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2017年3月 4日 (土)

セッションの後で

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生れてはじめてセッションをうけた。
セッションをはじめる前にTさんが、「このセッションには時間がかかります。2時間か、2時間半くらい。」と言ったとおり、セッションが終わる頃にはちょうど2時間がたっていた。
そこから質疑応答、まとめまでで、ぜんぶで約2時間半。
映画を1本観るくらいのあいだ、ずっと質問されつづけていたことになる。
セッションがひととおり終わって最終的にたどりついた結果というか答えというか、抽出された自分(わたし)固有のエッセンスをTさんが言葉にして言い、それを言われるがままに復唱した瞬間、頭がぼわわわぁ~~んとなって手足の指先がしびれ、「いまどんな気持ちがしますか?」と問われても、すぐには答えられなかった。頭のロジカルな部分がぶっ飛んで、ミルクコーヒーみたいに中和された感覚の中にいるようだった。
そしてさらに今日のまとめともいうべき締めの言葉をTさんが言ったとき、なぜかわからないけど、うっとなって涙があふれてきた。
はじめて自分以外の誰かに生まれてからこれまでの自分を認めてもらったような気持ち?
自分ではこれまですごく自由に自分らしく言いたいことを言って生きてきたつもりだったのに、潜在意識のあらゆるところでわたしは自分自身を抑圧し、制限し、見下し、スポイルしてきたのだった。それがわかった。
まさかセッションうけて泣くとは思わないからマスカラなんかつけて行って、後でトイレで鏡を見たら目のまわりがひどいことになっててまいった。
でもまあ、、、、、、それもよし、と思った。
自分の顔見て可笑しくて笑えたから。

セッションルームを出たあと、手を振ってわかれた後もTさんはしばらく路地の角に立ってこちらを見ていた。
わたしが「寒いですから!」というとやっと部屋に戻って行った。
最近、はじめての人に会うときやはじめての場所に行くときはなんの期待もせずに行くようにしているのだけれど、Tさんはだいたい思った通りの方だった。
ソフトで穏やかな雰囲気の方で、真摯で誠実で繊細な人。
そして、それ以上に勘が鋭くて力強い人。
そうじゃなければ迷路の先に立って歩けないだろう。
セッションをはじめて経験して思ったのは、対面で繰り出される相手の声による問いのパワー。
それは自問自答とはまるで違う。

外は風が強くて寒かった。
その風に向かって歩きながら、ふいに珈琲が飲みたいなと思った。
と同時に『くぐつ草』が頭に浮かんで、自然と足がそっちに向いた。
ちょっと危ないくらい急な階段を地下に降りると穴ぐらみたいなそこは、まるで胎内みたいでネストみたいで、すごく落ち着いた。
ティーンエイジャーの頃から寸分違わずおなじ場所にあるここもまた(今日の自分の結果とおなじように)自分固有のエッセンスを生きつづけているような場所だと思った。

濃い珈琲と、ちょっと甘いものがほしくて、期間限定のココアパンプディングとストロングコーヒーを頼んだ。
パンプディングをひと口食べたら大島弓子の『バナナブレッドのプディング』が思い出されて、昔ここでよく会った女子高時代の友達、金木犀のお酒、大島弓子、紙巻煙草(コンサイスの英和辞典を破いた紙で紅茶を巻いたもの・ちなみに大変まずい・良い子は真似しないように)、キララ☆クイーン、スターマン、サリンジャー、ナイン・ストーリーズ、ルキノ・ヴィスコンティ、ジャン・ルノワール ・・・・・・ なんかのことを一気に思った。
いったいあれからわたしはどれだけ変わったんだろう?
見た目はもう別人みたいに違うけど。

ココアパンプディングはプリンというよりはこのあいだ自分で作ったフレンチトーストに限りなく近くて、これは自分でも作れるな、と思った。
まずはいちごとフランボワーズとブルーベリーのコンフィチュールでも作って・・・・・・

今年のわたしのソウルレッスンは『共時性』。(を生きること)
まだはじまったばかりだし、まだまだつづく。

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2016年10月24日 (月)

幻の鳥取

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昔から鳥取砂丘は一度行ってみたいところだったけど、今年の夏、そのひとがインスタグラムにアップする写真で、鳥取が自分が思っていた以上によいところだと知った。
どこか昔懐かしいようなビーチと、海の家。
温かいひとたちがたくさん住んでそうなイメージ。

そんなふうだから、どうしたって思いださずにはいられなかった。
そこはかつてわたしが結婚していたひとの両親の故郷でもあって、彼らふたりは若いとき駆け落ち同然で家を出て、北海道で暮らすようになったのだと、むかし義理の母に聞いた。そのときわたしは若かったし、自分の親が見合い結婚なものだから、駆け落ち結婚なんてロマンチックだなあ、と思ったけれど、実際のところはどうだったかわからない。
それほどたくさんのことを聞いたわけではない。
ただ言葉の端に出てくる『倉吉のおばちゃん』とか、そんな言葉が頭に残っていて、だから倉吉の写真がアップされれば、ああ、ここがあの倉吉ってところなんだ、と思って眺めた。
鳥取を出てからずっと北海道で暮らしていた両親が再び故郷に帰ったのは、いくつくらいのときだったろうか。
北海道といっても東京とあんまり変わらない札幌市内で暮らしにくらべたら、そこはずいぶんとさみしいところだったに違いない。
家の裏は山で、冬は山から風が吹いてくるの、と母はいった。
わたしはついに鳥取に行くことはなかったけれど、小さかった息子は父に連れられて一度だけ鳥取に行ったことがある。夜行列車で。
あのときわたしが行かなかったのは妊婦だったからだろうか。
あとから向こうの家や近所の公園や、砂丘で撮った息子の写真を見せてもらった。
砂丘の先は海なのだという。
海の写真はなかった。
わたしもいつか、家族みんなで行きたいです、とわたしは母にいった。
鳥取砂丘で家族みんなで写真を撮るのが夢だった。
いつものごとく、その絵はすでに頭にあった。
いつも現実より美化されてしまう、お馬鹿なわたしの頭の中に。
そしてけっきょく、かなわなかった。

離婚してからもときどき鳥取の母とは手紙や物を送りあったり電話で話したりした。
まだまだ慣れないさみしい3人暮らしのなかで、母の送ってくる荷物はいつもちょっと泣けるようなものだった。
詳しくは書かないけれど、とても日常的なもの。
ありがたく思うのと同時に、ちょっと切なくなるような。
そして、わたしがお礼の電話をすると、きまって最後に母に謝られるのがしんどかった。
わたしはいつも最後に「いつか子どもたちと一緒に鳥取に遊びに行きます」といった。
それはわたしのなかではいつか果たさなければならない約束みたいなものだった。
そういう、どこかぎこちないやりとりの何年かが過ぎて、向こうから何もいってこなくなった後もわたしは何かの折りをみつけては贈りものをした。
でもいつも最後は謝られるばかり。
それにそんな言葉とは裏腹に、どれだけ時間が経っても心を割ってつきあってくれない頑なさに、だんだん疲れてしまった。自分の息子をバカ息子といいつつ、たった数回しか会ったことのない孫よりは、やっぱり自分の息子のほうがかわいいんだなあ、と思った。
そりゃそうだ。
それは、わたしも一人息子を持つ母親の身だからわかる。
しだいに自分がするわずかなことで返って相手に気詰まりな思いをさせているんじゃないかという気がしてきて、「もういいかげんやめたら」という親友の言葉を期に、こちらから連絡するのをやめた。
たぶん、もう十年以上前のこと。
ただ自分の中に果たせなかった約束だけがいつまでも残った。

そんなわけで鳥取の景色を見ることが多かったこの夏、思いだしたのは母の子どものころのこと。
わたしの母は樺太から着の身着のまま本土に引き揚げてくるときに写真の一枚すら持ってくることができずに何もかも失ったけれど、鳥取の母は母で、子どものときに遭った鳥取地震で家ごと何もかも失った経験を持つ人だった。
いま計算すると12歳のときだった。
それはどんなにいたましい経験だったろう。
そんなことを思いだしていた矢先に先週、鳥取で地震が起きた。
ちょうど娘がアルバイトに行く前に一緒に遅いお昼を食べていたときで、わたしの携帯が鳴って、地震発生のメールを見て思わず上げたわたしの声のほうに娘はびっくりしてた。そのままアルバイトに出かけた娘も気になったようで、帰って来るころにはわたしの知らなかった情報を教えてくれた。
それでいろいろ考えたけどやっぱり何もせずにはいられなくなって、今日ときどき行く自然食品屋さんに行って、細々みつくろったものを箱詰めして送ってもらった。
もうわたしには母があれほど好きだった珈琲をいまも飲んでいるのかいないのか、豆でよかったのかダメだったのかもわからないし、うちの単純な親と違ってちょっと難しいところのあるひとだから素直に喜んでもらえるかどうかわからないけれど、あとは天にまかすだけ。
地震で壊れた地域の復興と、余震が治まって住民に穏やかに暮らせる日々が早く戻ってくることを祈るだけだ。

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2016年2月17日 (水)

あの日の青空

160217sky

いまってすごい時代だな。

インターネットのSocial Networking Servicを使って、刻々と変遷してゆく他人

のいまの心情や感情や思考の断片や病状などをリアルに知ることができる。

いまやスマートフォンは人間にとってのライフラインで表現手段で、死ぬ寸前

まで大事に手に握られているようだから、枕元に紙と鉛筆を用意しなくたって

最期の言葉を世界中に発信できる。

去年の夏の終わり、以前会って話したこともある、自分とそう年の変わらない

知人が刻々と死に向かってゆくあいだに呟いた言葉があまりにリアルで、彼

女がこの世からいなくなってしまったあともしばらく胸に残ってキツかったけど

今朝、ずっと心配で陰ながら見守りつづけずにはいられなかったある方のお

母様がついに亡くなってしまい、ふいに16年前のある朝のことを思いだした。

’2000.02.21

よく晴れた典型的な冬の朝で、病院帰りの車窓にはどこまでも青い空がひろ

がり、それを脱力感と放心のなかで眺めた。夢の中にいるようで、さっきまで

息をしていた人がほどなく棺に納められて家に帰って来るということがよく理

解できなかった。

昨夜、家族で病室に詰めていたとき、深夜遅く帰ろうとするわたしを母は言葉

にならない、あらんかぎりの力で引きとめた。いったい何をいおうとしたのか、

しばらくそばにいつづけたけど、けっきょく母がいいたかった言葉は聞けなか

った。何故あのときあのまま帰らずに病室に泊まらなかったんだろうと後にな

って思ったけれど、何故もなく、わたしにはまだ小さな子供が二人いたのだ。

思えばあのとき、家で子供と一緒に留守番してくれた人がいたのも不思議と

いえば不思議だし、もう伝える術もないけどありがたいことだったと思う。

それから、母の死から半年過ぎたころだったか、目覚め間際の夢にふつうに

生きてる人のように母が出てきて、キッチンで何やらやりとりしているときに、

ふっと耳元で「ありがとう」と聞こえて、それと同時に目が覚め、ああ、あのと

き母がいいたかったことってこれだったのかと、思わず泣いた。それまで自

分になんども繰り返したたくさんの問いと後悔から最初に解放された瞬間。

Sさん、あなたはほんとうにここまでよく頑張りました。

自分にできる精一杯のことを、よくたったひとりでやってきたと思います。

ちょっと時間はかかると思うけど、いつか、いまこころのなかにある悲しみや

様々な苦しい思いから解放されて、全てを肯定できる日が来ると思います。

ほんとうに、こころからお母様のご冥福をお祈りいたします。

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2015年11月20日 (金)

Bad news

15henchikurin

人生って、ほんとに悲喜こもごもだな。

ちょっと油断してるとすぐ次がやってくる。

今日、朝1で妹から「先日の定期検診で父のがんの再発が見つかった」

ってメールを読んで、それこそガーン! とした直後に友達と話していて、

何か様子が変だと思ったら、昨夜お母さんが亡くなった、って ・・・・・・。

今日は降らなければいいなと思っていたけど、夜になって冷たいミストの

ような雨が降りだした。

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2015年9月 3日 (木)

May her soul rest in peace.

Bird_of_the_fantasy_2

今年の夏はとにかく湿度がひどくて身体に堪える猛暑だったけれど、

そんな夏が終わりに近づいたころ、一羽の小鳥が旅立ってしまった。

命って、ほんとに儚くてあっけない。

ほんの数日前はまだ彼女の囀りが聞こえていたのに。

わずか数年前までふつうに元気だった人がいったいどうしてそこまで

健康を損なうことになったのか、それは人体とこころの謎としか私には

いいようがないけど、想像を絶する闘病生活のなかで、彼女は信じられ

ないほどたくさんの絵を描いた。人魚が王子に恋して人間の身体を得た

代わりに美しい声を失ったように、それは大切なものの代償なくしては

開花し得なかった才能かもしれない。常に孤独と背中合わせの悩み多い

人生だったのじゃないかと思う。けれど、そのなかで彼女はじゅうぶんに

自分に忠実に我が儘に自分らしく精一杯生きた。好き嫌いをはっきり口

にする言動から誤解されることも多かったのではないだろうかと思うけど

その人となりと作品は多くの人に愛された。彼女はもうこの世にはいない

けど、彼女が遺した光はいまも、そしてこれからもずっと多くの人のこころ

のなかで輝きを放ちつづけると思う。

こころからご冥福を祈ります。

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