ある日のこと

2018年3月 9日 (金)

EXA PIECO

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昨日、買いものにいこうと階下まで下りていくと、ドアの外までYの怒鳴り声が聞えていて、ああ、またやってる、と思った。しばらくYの息子の姿を見なかったから、てっきりもう家を出たのかと思っていたけど、まだいたんだ、と思う。
聞えてくるのはいつもYの声だけ。
常軌を逸してすごい剣幕で怒鳴りまくるYの声だけだ。
うちもよくあったからよくわかるけど、思いきり親子喧嘩してお互いにエネルギーを発散しあってるならまだいい。でも、うちの息子とちがってYの息子はおとなしいのか、それともすっかりエネルギーを失くして鬱屈してるのか、息子が言い返している気配はない。
あれだけ大声でヒステリックに怒鳴りまくられて、血気盛んな若い男の子が黙っていられるなんて考えられない。逆に息子がYに恐れをなして静かに、ただひたすらじっと耐えているとしたら、あまりにもかわいそすぎる、と思った。
公営住宅に住んでいて最もシャビィに感じるのは、こういうとき。
昔、ジム・ローンのセミナーに行って、『貧乏は病気』と聞いたけど、まさしくそのとおり。貧乏は病気だ。延々と負の連鎖を生む病気。
そんなもの自分で断ち切らなきゃ。

空はまたすぐにでも降りだしそうな灰色で暗く、寒く、おかげですっかり頭の中を乗っ取られてしまった。それから自転車飛ばしてスーパー・マーケットでパスタの材料を買い、珈琲のデザートにエクレアを買い、ちょっと考えて迷ってからYの家の分も買った。
帰り道、頭の中で、「Y、もういつまでもそんなふうに息子を怒鳴るのはやめなよ。よくないよ。ときどき誰かを怒鳴りたくなる気持ちはわかるけど、息子はもうじゅうぶんに傷ついてるし、彼はあなたのたったひとりの息子じゃないの。彼のエクサピーコさんはこんなつらい人生をやるために、苦しみや悲しみを体験してそこからたくさんのことを学ぶために、覚悟してあなたを母親に選んであなたのもとに生まれてきたんだよ。もう、いいかげんそれに気づいて息子も自分もしあわせにすることを考えなよ」と話した。それからYのエクサピーコさんとYの 息子のエクサピーコさんにも話しつづけた。
楽しく大学に通っていたのに親の経済事情でやめざるをえなかった息子。
奇しくも、これもたまたま部屋の前を通りかかったときに電話で知らせをうけたNが激しく号泣するのを聞いて知ってしまったことだけど、Yの別れた夫は数年前に自死している。(ふだんからYの声は大きすぎるのだ。外まで筒抜け。)
もうじゅうぶんじゃないか・・・・・。

そうやっていろいろ考えながら家のすぐ近くまで来たとき、ある強い思いが湧いてそのことに自分でも打たれた。でもそれはいますぐじゃなくてもいい。Yや息子にいってあげたいことはいっぱいあるけど、今日はそんなことはぜんぶ奥にしまって、「スーパーで買ったお菓子だけどさ、甘いものでも食べて、お茶でものんで、すこしほっこりしなよ」とだけいって玄関でお菓子を渡して帰ってくるつもりだった。
でもYの部屋のチャイムを何度鳴らしても誰もでてこなかった。
うんともすんともいわなかった。
激しい親子喧嘩の後でYも息子も家を出て行ってしまったのだろうか。
それとも布団かぶってフテ寝してるとか。

家に帰って娘にいまあったことを話すと、「宗教やっててもなんの意味もないじゃない」というから、「そうなんだよ。あんな宗教に入るくらいだったらこの本(波動の法則/実践体験報告)読んでるほうがよっぽどほんとのことが学べるよ」とわたしはいった。そして「余計なお世話なのは重々承知してるけど、いつかYに話をしようと思う、もし息子と顔をあわす機会があったら息子とも話すかもしれない」といったら、娘は「かかわりあいにあらないほうがいいと思う」というから、わたしは「ちがうよ!」といった。「いままで自分もそう思ってたけど、それは全然ちがうってことがはっきりわかって、いま決心したんだよ。どんなに面倒でも人とかかわらなきゃならないときはかかわる。断固としてかかわる、ってね。有難迷惑だといわれるかもしれないし、嫌われるかもしれないけれど、嫌われるのなんてどうでもいい」。
わたしがそういうと娘は「でも刺されるかもしれない」というから、「あの子はそういうことをする子じゃない。それに刺されるのはYのほうだよ。あるいは自分をやってしまうか。ああいうおとなしくて静かな人がずっと我慢しつづけた上に切れるといちばんこわいんだよ。そんなことにでもなったらここは事故物件になってますます住めなくなる。三面記事に載るようなことになる前に気づけとYにはいうよ」。
今の世の中お節介否定論者は多いし、こういうことを書くと批判する人もいると思うけど、余計なお節介をしないでできるだけ他人と関わらないようにした結果がいまの無関心な世の中なんじゃないかと思う。
立派な邸宅に住んでいてもシャビィな公営住宅に住んでいてもそれぞれの家庭が抱える問題は様々で、同じ間取りの部屋でも住んでいても一歩部屋の中に入ればまるでちがう世界がひろがる。いまここを天国にするのも地獄にするのも自分なら、すこしでも調和のとれた世界で息をしていたいと思う。

ずいぶん花は落ちてしまったけど、毎日水を替えて、水の中にわずかに活性剤を入れていたのがよかったのか、まだもっている忘れな草。今日は水切りして活けなおした。
ワタシハアナタノコトヲワスレナイヨ。

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2018年1月27日 (土)

はじめて父の気持ちがわかった日

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東京に4年ぶりで大雪が降った日の翌日、夕方いつものように夕飯の買いものに行った。雪の日に大量に作ったおでんがあったからとくに買いものに行かなくてもいいようなものだったけど、雪の日の夜からなんだか喉がイガイガしだして風邪っぽい感じで、二日つづけておでんだと野菜が足りないからホウレンソウでも買いたいと思ったのだった。
最初に行ったスーパーマーケットの野菜売り場を見てびっくりした。
棚の上がガラガラで。
この大雪で商品が届かないせいだという。
それでしかたなくそこではのど飴だけ買って、別のスーパーマーケットに行くことにした。でも行ってみるとやっぱり野菜は全体的に品薄で、残念ながらそこにもホウレンソウはなかった。いま思えばそこであきらめればよかったのだ。でも、うちの近所には3つのスーパーマーケットがあって、そこからそう遠くないところにあるものだから、すこし遠回りして帰るくらいの感じで寄ってみることにした。
はたして3つめのスーパーマーケットでホウレンソウをみつけて、ほかにも細々買いものをして、さて帰ろうと暗い駐輪場の木立ちの下を歩いているときだった。ちょうど黒いアスファルトのスロープを降りはじめたとき、すこし先の横断歩道の青信号が見えて、できれば信号が点滅する前に渡ってしまいたいなと思った次の瞬間だった。いきなり地面が目の前に迫ってきて、「え! ウソ!!」と思ったときにはもう顔から転んで地面に叩きつけられていた。
ほんの一瞬のことだった。
いったい何が起きたのかもわからなかった。

ただスローモーションの映像のように記憶しているのは、左のおでこが地面に当たってバウンドし、目の下の左頬の高いところを砂混じりのアスファルトでジャリっとこすり、同時に聞えたザクっという音に激しい衝撃をうけたことだけ。
気づけば自分は黒いアスファルトの上に倒れていて、いま打った顔といい手といい脚といいどこもかしこもズキズキ・ジンジン傷んで、しばらくは立ちあがることもできなかった。前から自転車で走ってくる人がいて、一瞬、あ、と思ったけれど目が合ったのにそのまま横を走り過ぎて行ってしまった。
それからなんとかよろよろ起き上がって、横断歩道を渡り、すぐ前の病院の敷地内に入ったところで生暖かいものがポタポタ顔から落ちてきて、もうアウトだった。
近くにいた病院の警備員さんに声をかけて一緒に病院の中に入ってもらった。受付けには警備員さんが事情を話してくれた。もうほとんど患者が来ない時間でのんびりしていたらしい受付けの男性が、わたしを見るなりものすごく慌てたのを見て自分の状態がどれだけひどいのかわかっておそろしかった。
受付けの前の椅子で看護師さんを待つあいだにも血はポタポタ流れて、手袋が血まみれになった。見かねた受付けの人がティッシュペーパーを箱ごと持って来てくれた。でもその病院はふだんあんまり救急外来、とくに外科的な救急外来患者は受け付けていないのだと思う。やっと来てくれた男の看護師さんはあまりそういうことに慣れてなさそうなひとだった。ラッキーだったのはその日たまたま当直だったのが以前かかったことのある整形のN先生だったことだろうか。
救護室では血圧と体温を測られ、ベッドの上に横になって顔のケガしたところに生理食塩水をかけられて布でごしごし拭かれ、いちばん切れて血が出つづけている眉毛のところに絆創膏を貼られて応急処置はおしまいだった。N先生はわたしを見下ろして、「目はちゃんと見えますか?」と聞いた。わたしは「ちゃんと見えます」と答えた。そんなような単純な質疑応答をいくつかしたように思う。
先生は、「よく顔を強く打ったりした後に歯の噛みあわせがおかしくなることがあるんですよ。もし明日になって何かが劇症発症するようなことがあったら、そのときには形成外科に行ってください」といった。「形が成る、と書くほうの形成ですよ。でもこの近所にはないので、大きい病院に行かないとなりません。でもそこまでじゃなかったら皮膚科に行くんでもいい。皮膚科ならこの病院にもありますから」。わたしは何かいわれるたびに返事だけははきはき返した。
応急処置が終ってベッドに起き上がると看護師さん(とても人のよさそうな優しそうな男性の看護師さん)が「だいじょうぶですか?」とわたしに訊いた。わたしは、「いつも86の父に転ばないように転ばないようにって注意してるのに自分がこんなことになってすごくショックです」と正直に心境を吐露した。するとN先生が、「こんな大雪が降った後はふだんとは違いますから。このあいだTVを見ていたら言ってましたが、一見濡れているだけに見える凍結したアスファルトの道のことを、『ブラックバーン』というそうですよ」といった。そんないいかたも実にN先生らしいと思った。N先生が「それじゃ、お大事に」といって救護室を出て行った後、看護師さんが「先生はいま何も言っておられませんでしたが、おでこを強く打っているので心配です。こういうときはたいてい後になっていろいろ症状が出てくることが多いですから、明日以降、もし何かあったらすぐに大きな病院で診てもらうようにしてください」といった。そして、この後もくれぐれも気をつけて帰るように・・・・・・

病院を出てひとりになると一気に転んでケガをした現実感が襲ってきた。
何も貼ってない頬の傷に夜気があたって引きつるようにズキズキ痛み、雪の残る夜道を注意深く歩きながら、ふとトートバッグの中からタオルハンカチを出してそっと顔にあてた。そうしてはじめてさっきまで自分がハンカチを持っていることすら全然思い浮かばなかったことに気づいた。もうあとはとにかく早く家に帰りたかった。誰とも顔をあわすことなく家に帰りつきたかった。そして頭の中でずっと考えていたのは『ひまし油』のことだ。
家に帰ったのは夜の7時で、その日子供はふたりとも仕事に出かけていて家には誰もいなかった。いま思ってもそれはよかったと思う。母親が買いものに出かけたと思ったらしばらくしてこんな姿になって帰ってきたんじゃ、みんな驚いて飛び上がってしまう。
家に入るとカーテンを閉め、ストーブをつけてしばらくその前でぼんやりした。
手も痛いと思ったら、左手の親指の腹に大きな血マメができていた。
ジーンズをまくって見たら左の膝のまわりが青黒くあざになっていた。
ケガはぜんぶ左半身に集中していた。
それから意を決して洗面台の前に行っておそるおそる鏡を見た。
数年前に父が遠くのスーパーマーケットに行って重いものばかり買って両手荷物で帰る途中、家のすぐ近くまで来てコンクリートの歩道の上で顔から転んで四谷怪談みたいな顔になったことがあったから、自分の顔がどうなってるかは大体想像がついた。あのときだっておそろしいのとかわいそうなのとで実家に行っても父の顔が見られなかったわたしだ。でも自分となればそうもいってられない。
顔は、、、、、、見るも無残にオバケみたいになっていた。
左の顔を下にして倒れたせいで目の周りを強く打って腫れあがり、眉毛の中、額、まぶたの上を切って頬の高いところを広い範囲で擦りむいていた。
人間の顔なんて一瞬にして変わっちゃうものだなあ、と思った。
目の周りがまるでアイラインを引いたように黒くなってるのを見て、いったいこれってちゃんと元通りに治るんだろうか、と不安になった。
そしてやった当日より明日のほうがもっと腫れるのは目に見えていた。
もうため息しかなかった。
でも、冷静に観察した後は淡々と手当てするしかなかった。
お湯を沸かして温めたタオルで傷のない部分の汚れた顔を拭き、傷の部分は化粧水のポンプボトルに水を入れて軽く洗った。それからいつか『ひまし油湿布』にトライしようと買っておいたネル布を切って、たっぷりとひまし油を浸して傷口にあてた。そのときのなんともいえずほっとした感じは忘れられない。ひまし油の滲みたネル布は患部に温かく、やわらかく包みこまれるようで、それまでズキズキしていた痛みが急速にやわらいでいった。同時に気持ちも落ち着いてきた。
まさしく、キリストの御手。
それを実感した瞬間・・・・・・。
わたしの勘は当たった。
ひまし油を買っといてよかった、と心底思った。
そしていまはどうでも、あとはもう自分の免疫力、治癒力にまかせるしかない、と思うことができた。

そのあとは洗濯物をたたんだり、静かにできることをしていたのだけれど、気持ちが落ち着くにしたがって浮かんできたのは、この日はじめて父の気持ちがわかった、ということだった。
もう十数年以上も前のこと、父は駅前の踏切近くで派手に転んで大ケガをした。
やっぱり雪がちらちら舞うような寒い日で、そのころまだ細々とだけど仕事をしていた父は、夕方集金したお金をどこかに持って行く途中だったかなんだかで、先を急いでいたらしかった。もうすぐ踏切を渡り終える、というくらいのところで信号機が鳴りだして、急ごうと思った瞬間に転んだらしい。父は「足がもつれて・・・」と言っていたけれど、それもたぶん、後付けの話なんじゃないかいまはと思う。なぜならこの日わたしは自分が転ぶなんてまったく思わなかった。転んでる最中もなんで自分がこうなるのか全然わからなかった。直前までなんの兆候もなかったし、だから身構える暇もなくもろに顔から転んでしまったのだ。父と共通しているのは目の端(頭)に信号機が映ったとたんに転んでいること。つまりスリーセブンの7がカチッと合うみたいにこういうことが起きてしまう瞬間があるんだってことだ。そして、そういうときに転んだ人間をどう責めたところで無意味だよねってこと。自分でも何が起きたんだか全然わかってないんだから。そう思ったらなんだか急激にあのときの父の気持ちがわかって、いまさらながら父がかわいそうになってしまった。

そしてしみじみ思うのは、自分も年だなあ、ってこと。
このあいだのスイミングクラブでの81歳が80歳に話してた『81になってみなさい、わかるから』には笑ったけど、だんだん1歳の重みがずっしり重くなっていくんだろう。だんだん今日みたいに意識と身体が即座に連動しないことが多くなって。
毎年、自分の誕生日前後にはたいてい何かあるから注意してたのに、いったいわたしは何をやってるんだろうなあ・・・・・・
でもいま、それから5日経ったいまはもうちょっと冷静に当日の自分の動きをを分析してみることができる。わたしは雪掻きのされた雪のないアスファルトの上を歩いている気でいたけど、N先生がいうようにそこは一部が凍結したブラックバーンで、青のメモリが半分以下になった信号機を見て勢いよく足を右・左と踏み出して左足のときに足を滑らせ、そのまま前傾姿勢のまま一気に顔から行ってしまったんだろう。それでケガはぜんぶ左半身、とくに顔に集中してしまったというわけだ。おりしも慣れない長靴で、風邪気味だったこともあり。やれやれ。やっとわかった。

翌日、会社の同僚だけには伝えておこうとメールで事情を説明したら、彼女はひまし油なんて伝承療法はきっと全然信じない人なんだろうなあ。しきりに消炎鎮痛湿布剤を貼ることをすすめられたけど、傷がある(とくに顔に貼れる)消炎鎮痛湿布剤なんてまったく思い浮かばないし、仮にそんなものがあるとして、傷口にひまし油湿布を貼ったときのあの安心感こそが正しい選択だったと信じているから、補完・代替療法の医療系ベンチャーに勤めるわたしとしては、このままひまし油を貼って夜だけ冷やすという方法でどんなふうに治癒が進んでいくのかを自分の顔で観察してみようと思う。
ちなみに4日も過ぎたいまさら『顔の傷を早く治す方法』と検索してみたら、『湿潤療法』というので、簡単な方法としては『ラップにワセリンを塗って患部に貼る』というのが出てきた。なるほど、ラップなら剥がすときもくっつくことなく剥がせそうです。滅多にお世話になることはないだろうけど、しっかり覚えておこうと思う。
まだまだ雪がふりそうなこの冬、これを読んでる人もわたしみたいにケガをしないようにくれぐれも気をつけてください。

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2017年3月 4日 (土)

セッションの後で

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生れてはじめてセッションをうけた。
セッションをはじめる前にTさんが、「このセッションには時間がかかります。2時間か、2時間半くらい。」と言ったとおり、セッションが終わる頃にはちょうど2時間がたっていた。
そこから質疑応答、まとめまでで、ぜんぶで約2時間半。
映画を1本観るくらいのあいだ、ずっと質問されつづけていたことになる。
セッションがひととおり終わって最終的にたどりついた結果というか答えというか、抽出された自分(わたし)固有のエッセンスをTさんが言葉にして言い、それを言われるがままに復唱した瞬間、頭がぼわわわぁ~~んとなって手足の指先がしびれ、「いまどんな気持ちがしますか?」と問われても、すぐには答えられなかった。頭のロジカルな部分がぶっ飛んで、ミルクコーヒーみたいに中和された感覚の中にいるようだった。
そしてさらに今日のまとめともいうべき締めの言葉をTさんが言ったとき、なぜかわからないけど、うっとなって涙があふれてきた。
はじめて自分以外の誰かに生まれてからこれまでの自分を認めてもらったような気持ち?
自分ではこれまですごく自由に自分らしく言いたいことを言って生きてきたつもりだったのに、潜在意識のあらゆるところでわたしは自分自身を抑圧し、制限し、見下し、スポイルしてきたのだった。それがわかった。
まさかセッションうけて泣くとは思わないからマスカラなんかつけて行って、後でトイレで鏡を見たら目のまわりがひどいことになっててまいった。
でもまあ、、、、、、それもよし、と思った。
自分の顔見て可笑しくて笑えたから。

セッションルームを出たあと、手を振ってわかれた後もTさんはしばらく路地の角に立ってこちらを見ていた。
わたしが「寒いですから!」というとやっと部屋に戻って行った。
最近、はじめての人に会うときやはじめての場所に行くときはなんの期待もせずに行くようにしているのだけれど、Tさんはだいたい思った通りの方だった。
ソフトで穏やかな雰囲気の方で、真摯で誠実で繊細な人。
そして、それ以上に勘が鋭くて力強い人。
そうじゃなければ迷路の先に立って歩けないだろう。
セッションをはじめて経験して思ったのは、対面で繰り出される相手の声による問いのパワー。
それは自問自答とはまるで違う。

外は風が強くて寒かった。
その風に向かって歩きながら、ふいに珈琲が飲みたいなと思った。
と同時に『くぐつ草』が頭に浮かんで、自然と足がそっちに向いた。
ちょっと危ないくらい急な階段を地下に降りると穴ぐらみたいなそこは、まるで胎内みたいでネストみたいで、すごく落ち着いた。
ティーンエイジャーの頃から寸分違わずおなじ場所にあるここもまた(今日の自分の結果とおなじように)自分固有のエッセンスを生きつづけているような場所だと思った。

濃い珈琲と、ちょっと甘いものがほしくて、期間限定のココアパンプディングとストロングコーヒーを頼んだ。
パンプディングをひと口食べたら大島弓子の『バナナブレッドのプディング』が思い出されて、昔ここでよく会った女子高時代の友達、金木犀のお酒、大島弓子、紙巻煙草(コンサイスの英和辞典を破いた紙で紅茶を巻いたもの・ちなみに大変まずい・良い子は真似しないように)、キララ☆クイーン、スターマン、サリンジャー、ナイン・ストーリーズ、ルキノ・ヴィスコンティ、ジャン・ルノワール ・・・・・・ なんかのことを一気に思った。
いったいあれからわたしはどれだけ変わったんだろう?
見た目はもう別人みたいに違うけど。

ココアパンプディングはプリンというよりはこのあいだ自分で作ったフレンチトーストに限りなく近くて、これは自分でも作れるな、と思った。
まずはいちごとフランボワーズとブルーベリーのコンフィチュールでも作って・・・・・・

今年のわたしのソウルレッスンは『共時性』。(を生きること)
まだはじまったばかりだし、まだまだつづく。

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2016年10月24日 (月)

幻の鳥取

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昔から鳥取砂丘は一度行ってみたいところだったけど、今年の夏、そのひとがインスタグラムにアップする写真で、鳥取が自分が思っていた以上によいところだと知った。
どこか昔懐かしいようなビーチと、海の家。
温かいひとたちがたくさん住んでそうなイメージ。

そんなふうだから、どうしたって思いださずにはいられなかった。
そこはかつてわたしが結婚していたひとの両親の故郷でもあって、彼らふたりは若いとき駆け落ち同然で家を出て、北海道で暮らすようになったのだと、むかし義理の母に聞いた。そのときわたしは若かったし、自分の親が見合い結婚なものだから、駆け落ち結婚なんてロマンチックだなあ、と思ったけれど、実際のところはどうだったかわからない。
それほどたくさんのことを聞いたわけではない。
ただ言葉の端に出てくる『倉吉のおばちゃん』とか、そんな言葉が頭に残っていて、だから倉吉の写真がアップされれば、ああ、ここがあの倉吉ってところなんだ、と思って眺めた。
鳥取を出てからずっと北海道で暮らしていた両親が再び故郷に帰ったのは、いくつくらいのときだったろうか。
北海道といっても東京とあんまり変わらない札幌市内で暮らしにくらべたら、そこはずいぶんとさみしいところだったに違いない。
家の裏は山で、冬は山から風が吹いてくるの、と母はいった。
わたしはついに鳥取に行くことはなかったけれど、小さかった息子は父に連れられて一度だけ鳥取に行ったことがある。夜行列車で。
あのときわたしが行かなかったのは妊婦だったからだろうか。
あとから向こうの家や近所の公園や、砂丘で撮った息子の写真を見せてもらった。
砂丘の先は海なのだという。
海の写真はなかった。
わたしもいつか、家族みんなで行きたいです、とわたしは母にいった。
鳥取砂丘で家族みんなで写真を撮るのが夢だった。
いつものごとく、その絵はすでに頭にあった。
いつも現実より美化されてしまう、お馬鹿なわたしの頭の中に。
そしてけっきょく、かなわなかった。

離婚してからもときどき鳥取の母とは手紙や物を送りあったり電話で話したりした。
まだまだ慣れないさみしい3人暮らしのなかで、母の送ってくる荷物はいつもちょっと泣けるようなものだった。
詳しくは書かないけれど、とても日常的なもの。
ありがたく思うのと同時に、ちょっと切なくなるような。
そして、わたしがお礼の電話をすると、きまって最後に母に謝られるのがしんどかった。
わたしはいつも最後に「いつか子どもたちと一緒に鳥取に遊びに行きます」といった。
それはわたしのなかではいつか果たさなければならない約束みたいなものだった。
そういう、どこかぎこちないやりとりの何年かが過ぎて、向こうから何もいってこなくなった後もわたしは何かの折りをみつけては贈りものをした。
でもいつも最後は謝られるばかり。
それにそんな言葉とは裏腹に、どれだけ時間が経っても心を割ってつきあってくれない頑なさに、だんだん疲れてしまった。自分の息子をバカ息子といいつつ、たった数回しか会ったことのない孫よりは、やっぱり自分の息子のほうがかわいいんだなあ、と思った。
そりゃそうだ。
それは、わたしも一人息子を持つ母親の身だからわかる。
しだいに自分がするわずかなことで返って相手に気詰まりな思いをさせているんじゃないかという気がしてきて、「もういいかげんやめたら」という親友の言葉を期に、こちらから連絡するのをやめた。
たぶん、もう十年以上前のこと。
ただ自分の中に果たせなかった約束だけがいつまでも残った。

そんなわけで鳥取の景色を見ることが多かったこの夏、思いだしたのは母の子どものころのこと。
わたしの母は樺太から着の身着のまま本土に引き揚げてくるときに写真の一枚すら持ってくることができずに何もかも失ったけれど、鳥取の母は母で、子どものときに遭った鳥取地震で家ごと何もかも失った経験を持つ人だった。
いま計算すると12歳のときだった。
それはどんなにいたましい経験だったろう。
そんなことを思いだしていた矢先に先週、鳥取で地震が起きた。
ちょうど娘がアルバイトに行く前に一緒に遅いお昼を食べていたときで、わたしの携帯が鳴って、地震発生のメールを見て思わず上げたわたしの声のほうに娘はびっくりしてた。そのままアルバイトに出かけた娘も気になったようで、帰って来るころにはわたしの知らなかった情報を教えてくれた。
それでいろいろ考えたけどやっぱり何もせずにはいられなくなって、今日ときどき行く自然食品屋さんに行って、細々みつくろったものを箱詰めして送ってもらった。
もうわたしには母があれほど好きだった珈琲をいまも飲んでいるのかいないのか、豆でよかったのかダメだったのかもわからないし、うちの単純な親と違ってちょっと難しいところのあるひとだから素直に喜んでもらえるかどうかわからないけれど、あとは天にまかすだけ。
地震で壊れた地域の復興と、余震が治まって住民に穏やかに暮らせる日々が早く戻ってくることを祈るだけだ。

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2016年2月17日 (水)

あの日の青空

160217sky

いまってすごい時代だな。

インターネットのSocial Networking Servicを使って、刻々と変遷してゆく他人

のいまの心情や感情や思考の断片や病状などをリアルに知ることができる。

いまやスマートフォンは人間にとってのライフラインで表現手段で、死ぬ寸前

まで大事に手に握られているようだから、枕元に紙と鉛筆を用意しなくたって

最期の言葉を世界中に発信できる。

去年の夏の終わり、以前会って話したこともある、自分とそう年の変わらない

知人が刻々と死に向かってゆくあいだに呟いた言葉があまりにリアルで、彼

女がこの世からいなくなってしまったあともしばらく胸に残ってキツかったけど

今朝、ずっと心配で陰ながら見守りつづけずにはいられなかったある方のお

母様がついに亡くなってしまい、ふいに16年前のある朝のことを思いだした。

’2000.02.21

よく晴れた典型的な冬の朝で、病院帰りの車窓にはどこまでも青い空がひろ

がり、それを脱力感と放心のなかで眺めた。夢の中にいるようで、さっきまで

息をしていた人がほどなく棺に納められて家に帰って来るということがよく理

解できなかった。

昨夜、家族で病室に詰めていたとき、深夜遅く帰ろうとするわたしを母は言葉

にならない、あらんかぎりの力で引きとめた。いったい何をいおうとしたのか、

しばらくそばにいつづけたけど、けっきょく母がいいたかった言葉は聞けなか

った。何故あのときあのまま帰らずに病室に泊まらなかったんだろうと後にな

って思ったけれど、何故もなく、わたしにはまだ小さな子供が二人いたのだ。

思えばあのとき、家で子供と一緒に留守番してくれた人がいたのも不思議と

いえば不思議だし、もう伝える術もないけどありがたいことだったと思う。

それから、母の死から半年過ぎたころだったか、目覚め間際の夢にふつうに

生きてる人のように母が出てきて、キッチンで何やらやりとりしているときに、

ふっと耳元で「ありがとう」と聞こえて、それと同時に目が覚め、ああ、あのと

き母がいいたかったことってこれだったのかと、思わず泣いた。それまで自

分になんども繰り返したたくさんの問いと後悔から最初に解放された瞬間。

Sさん、あなたはほんとうにここまでよく頑張りました。

自分にできる精一杯のことを、よくたったひとりでやってきたと思います。

ちょっと時間はかかると思うけど、いつか、いまこころのなかにある悲しみや

様々な苦しい思いから解放されて、全てを肯定できる日が来ると思います。

ほんとうに、こころからお母様のご冥福をお祈りいたします。

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2015年11月20日 (金)

Bad news

15henchikurin

人生って、ほんとに悲喜こもごもだな。

ちょっと油断してるとすぐ次がやってくる。

今日、朝1で妹から「先日の定期検診で父のがんの再発が見つかった」

ってメールを読んで、それこそガーン! とした直後に友達と話していて、

何か様子が変だと思ったら、昨夜お母さんが亡くなった、って ・・・・・・。

今日は降らなければいいなと思っていたけど、夜になって冷たいミストの

ような雨が降りだした。

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2015年9月 3日 (木)

May her soul rest in peace.

Bird_of_the_fantasy_2

今年の夏はとにかく湿度がひどくて身体に堪える猛暑だったけれど、

そんな夏が終わりに近づいたころ、一羽の小鳥が旅立ってしまった。

命って、ほんとに儚くてあっけない。

ほんの数日前はまだ彼女の囀りが聞こえていたのに。

わずか数年前までふつうに元気だった人がいったいどうしてそこまで

健康を損なうことになったのか、それは人体とこころの謎としか私には

いいようがないけど、想像を絶する闘病生活のなかで、彼女は信じられ

ないほどたくさんの絵を描いた。人魚が王子に恋して人間の身体を得た

代わりに美しい声を失ったように、それは大切なものの代償なくしては

開花し得なかった才能かもしれない。常に孤独と背中合わせの悩み多い

人生だったのじゃないかと思う。けれど、そのなかで彼女はじゅうぶんに

自分に忠実に我が儘に自分らしく精一杯生きた。好き嫌いをはっきり口

にする言動から誤解されることも多かったのではないだろうかと思うけど

その人となりと作品は多くの人に愛された。彼女はもうこの世にはいない

けど、彼女が遺した光はいまも、そしてこれからもずっと多くの人のこころ

のなかで輝きを放ちつづけると思う。

こころからご冥福を祈ります。

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2015年5月28日 (木)

物事の意味

15bizen

ついこのあいだは父のことを考えながらぼんやりしていて、銀行のATMで

うっかりキャッシュカードを抜き忘れて出てくる、という失態をしたばかりな

のに、今朝は今朝で、またしても父のことを考えていて、娘の珈琲カップの

底を自分の珈琲カップの縁にぶつけて割ってしまった。

カン! という乾いた音がしたと思ったら、堅いはずの備前が簡単にチップ

してしまった。一瞬のことだった。

忘れもしない奇しくも3.11の起きる日に届いて、なんとか難を逃れて以来

ずっと毎日愛用してきたカップだったのに。4年使ってガサガサだった肌も

なめらかになって、ちょうどいい景色になってきたところだったのに・・・・・・。

すごくショックだったけど、なんとか自分の気持ちを落ちつかせながら食卓に

ついた。土ものだからチップしたところは瀬戸物のように鋭利でも危なくもな

いけれど、黒い表面の土肌にできたグレーの傷痕は無残に目立って、思わ

ずため息をついた。

 形あるものはいつか壊れる。命あるものは必ずいつか死ぬときがくる

子どものとき、飼っていた小鳥が死ぬたびに父にいわれた言葉。

そんなこといわれても悲しくて泣いてる子どもには何の役にも立たなかった。

そういうときの子どもに必要なのは、子どもの心に寄り添うような温かい言葉

なのだと、子どもを二人育てたいまの私は思う。

けれども、そうやって何度となく呪文のようにいわれた言葉はいつしか私の心

に刻みこまれ、有形であれ無形であれ、何かを失ったときには必ず蘇る。

欠けた備前のグレーの傷痕には私の欠点と弱さがそのまま映し出されている

ようで、自分の身に起こる物事の意味を考える。

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2015年5月 7日 (木)

突然の訪問者

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昨日、夜遅くに妹からメールがきて、なんだろと思って見たら「なんと今日突

然、父の昔の知り合いが訪ねてきてくれました。その人は父と同い年とは思

えないとてもしっかりしたおじさんで、父の脚がもっとしっかりしていたなら旅

行とか、近場でも一緒に行きたいと思ってくれたようなのだけれど、父の頼り

ない感じに諦めた様子で、それでもこんど近くに食事でも行こうと誘ってくれ

ました。ありがたいことです」とあって私も驚いた。なんたって父はたまに顔さ

えあわせれば「お父さんの友達はみんな死んじゃった」というのが口癖だから

父にそんな知り合いがまだ残っていたというのが驚きだったし、またいつもそ

んな風にいっている父だからなおさら、突然の思いもかけない来訪者はどれ

だけうれしかったことだろう。そうと思うとなんだか泣ける話だった。それって

まさしく神さまからのギフトだと思う。

それで訪ねてくれた知人同様、父がまだ元気で矍鑠としていたら、それこそ

いやあ、あそこに行こう、ここに行こうと盛り上がったのかもしれないけれど

あいにくそうはならなかった。訪ねて来てくれた知人は、すっかり老いぼれて

しまった父を見てひどくがっかりしただろうか。

でも、と私は思う。

電話もせずに突然訪ねてきたその人の心情を思えば、家にたどり着くまで

様々な思いが頭を駆け巡っていたのではないだろうか。家に行っても、もう

そこには住んでないかもしれない、もし行って表札が変わっていたら、ある

いはチャイムを鳴らして出てきたのが妹で「父はもう・・・・・・」といわれたら。

そのほうがもっとずっと落胆したことだろう。もしかしたらいまの父みたいに

「私の知り合いはみんな死んでしまった」と嘆いたかもしれない。

そして、そこまで考えて父のことを思うと、父にとって友人の数のうちには入

ってなかったかもしれないその人を見て、父はすぐに誰だかわかったのだろ

うか。最近では叔父のお葬式のとき、私の従妹に会ってもわからなかった父

だから、ちょっとあやしい気がする。

突然の来訪者といえば、少し前に長らく会っていなかった腹違いの兄弟が

やはり突然、訪ねてきたことがあるらしかった。そのときは父がひとりでいた

ときだから、詳しいことは何もわからなかったけれど、彼(私の叔父)は病気

でもしているのか、いま知人を訪ね歩いているところだ、といったらしい。

人間、年をとったり病気をしたりしてもう自分の老い先長くないとわかると、

そうやってかつての古い、わずかなつてでも頼って誰かに会いたいと思う

ものなのだろうか。そうやって会ったところで相手の(あるいは自分の)心が

期待したとおりに動かなかったら、会う前以上にさみしくなったりはしないの

だろうか・・・・・・。

そんなことを寝る前にお風呂の中であれこれ考えていたら、今日は父の夢

を見た。それはあんまり、というか全然いい夢じゃなかった。かなりショッキ

ングな夢だった。でも、と私は思う。

でも、それさえ神さまが私に心構えをさせるために見せた夢だったのだろう

と思う。

人は誰でもいつかは死ぬ。それは避けられない。

父はそれまで精一杯生きて、私は自分にできるかぎりのことをする。

何をどれだけやったところで悔いが残らない、なんてことはない。

それさえもいまから心しておく。

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写真は最近、手に入れて父にプレゼントした古いのらくろの本。

父は小学生のころ、絵を描くのと算数が得意な子どもだった。

小学校の修学旅行で行った横浜で描いた船の絵が表彰されて、長いこと校

長室に飾られていという。算数は学年で1番だったそうだ。

私が小学校に上がる前、父に絵を描いてといって紙とエンピツを渡すと、父

はきまってのらくろの絵を描いてくれた。いつもそれなので母は呆れて笑って

いたけれど、私は父の描く自分の知らないのらくろが好きだった。

リハビリに行って作業療法士さんと話していたら、お年寄りには刺激が1番

だというし、PowerVoiceセミナーをやっている私の友人は、ボケた老人でも、

かつて自分が若いころに好きで聞いたり歌ったりした歌を聴くと記憶が蘇る

ことがある、というので、そうだ! 父にはのらくろだ! と思ってこの本を探

してプレゼントしたのだけれど、残念ながら私の予想に反して父はあまり喜

ばなかった。ときどき、どうかしたときにする、照れたような困ったような表情

を顔に浮かべて、妹に「あなたが読んだら」といっただけだった。

ほんとうに、人の気持ちを理解するのは難しい。

だからこそ、父がいつになく自分の要求をはっきり口に出していったりすると

どうにかしてそれをかなえてあげたいと思う。

まずは貯金をしないとな。

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2015年3月28日 (土)

ビジーな土曜日

15akasaka

朝起きてバスルームの掃除をしてお湯をはり、プールの前、細胞のひとつひ

とつが目覚めるようなローズマリーとジュニパーベリーのお湯に浸かって深呼

吸した。

両肩とも『石灰沈着性腱炎』と診断されて約2ヵ月半。

右肩はかなりふつうに動くようになったけれど相変わらず夜間痛はあるし左は

相変わらず動かない。こんなふうだからプールに行ってもまともに泳げるわけ

もないのだけれど、とりあえずプールにだけは休むことなく行く。

先週はロバさんから「そんな肩でよく来たよ。来ただけエライ」といわれたけれ

ど、たしかに自分よりずっと年上の人たちと泳いでいてこれだけ泳げないのは

かなりみじめではある。もともと水泳は身体がやわらかくなきゃだめなスポーツ

で、身体がカタイってことはそれだけで致命的なことだから、そういう意味では

水泳は自分にはぜんぜん向いてないんだ、と息子に話したら、自分に向いて

ないことを向いてないと知りながらよくそんなに長く続けられるね、といわれた。

それで思い出すのは長年ダンスをやっている妹のことで、新年三が日に実家

に行ったとき、私が「お正月が明けたら整形外科に行くつもり」といったら、妹は

妹でずっと不調を抱えていたらしい。1月に何かの折りに電話して、私が両肩

が石灰化しているといわれてすごくびっくりした、と話したら、おなじころ整形外

科に行ったらしい妹は、自分は『頸椎症』だといわれて、それも骨がひとつ飛び

出ているのはもう治らない、といわれて、すごいショックだった、といった。

そのショックというのは病気のこと自体もそうだけど、「10年以上水泳をやって

て両肩が石灰化するなんて」という私の思いと、「10年以上ダンスやってるこの

私がなんで頸椎症なんかに?!」という妹の思いとあって、日ごろ堅実で努力

型の現実的な妹と、片や感覚のみを頼りに幻想を糧にして生きるアホな姉とい

う、似てないところばかりが目立つ姉妹にしては変なところが共通している。

なかなか動くようにならない私の肩だけど、このあいだ整形外科の先生に「ま

だ痛いですか」と訊かれて「痛いです」と答えると、「あなたみたいな症状だと数

ヶ月では治らないよ。月単位じゃなくて年単位だと思ったほうがいい。自分もや

ったけど3年はかかった。その3年間は毎日明け方になると痛かった。ステロイ

ド注射をするとパーッと炎症が治って早くよくなるというけど、そうやって早くよく

なるのがいいことなのかどうか・・・」というから、「最初から時間はかかるだろう

と覚悟していたし、注射は嫌いだからいいです」と断った。

この20年背負ってきた重みがぜんぶ肩に凝縮してしまったのだと思うからしか

たがない。時間をかけて治すしかない。

それでも4週間前はクロールでさえ手が回らなかったのが先週かろうじて少しは

回るようになり、今日は痛いけど工夫すればなんとか両腕を回して泳ぐことがで

きた。ちょっとずつだけどよくなっているのだ。

プールのあとは今週もゆっくりしてる間もなく飛ぶように家に帰り、夕方、仕事の

ミーティングで赤坂へ。

壮大なことを語る友人に対してのここ数年の私の口癖は「もう私たち、それほど

時間が残ってるわけじゃないのよ」だったけれど、やっと友人もそのことに気づ

いてくれたらしい。時間はあまりにも早く過ぎ去った。

2時間のはずのミーティングの予定は彼の次のアポイントの相手が早く来たた

め繰り上がり、1時間半のミーティングのあと私はひとりで食事をして帰った。

フォーと生春巻きのセットを食べたのだけど、生春巻きは作ったことがないから

ともかく、フォーは自分で作る方が何倍もおいしかった。お金を払う価値なし。

疲れて家に帰って、もう9時半だけど珈琲をいれてアイスでも食べながらみんな

で映画でも見ようとツタヤの封筒を開けたら思いもよらぬDVDが入ってて、どう

やらリストの順番を変えたつもりで変えてなかったらしい。いつも無意識に選ぶ

映画がまるでオラクルカードのように共時性を見せるから、これはこれで何か

意味があるのかもと思いながら見ると、主人公の恋人が首つり自殺するシーン

が出てきて「これか・・・。」と思った。

つまり起こることの全てに意味があるのだ。

ということは、これまでやってきたあらゆる芽が出ないことのなかにも意味がある

ってことか? なんて思いながら寝た。

今日は仕事だからしかたないけど、できることなら土曜日はどこにも出かけたく

ない。セルフメンテナンスの日として一日をまっとうしたい。

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