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2020年11月 4日 (水)

瞬間の素粒子

20purimichibu_ainokotoba

いつも電車ででかけるときはトートバッグの中に本を入れていく。
今朝どれを持っていこうと、本棚からふいに目についたプリミ恥部さんの本をとりだしてぱっとひらいたら、ひらいたページに書いてあったことが自分の心のなかにあったこととシンクロしててはっとしたから、ちょっと長いけど(自分のために)ここに引用しておく。

 キミはぼくに、一月までに仕事が絶対入るって言ってたのに実現してないね、まだなのかな?って優しくきいてきたけれどぼくはもうとっくに長期の案件へと軌道修正しているんだ。ぼくが成功することを一番にのぞんでいるのなら、今は二人離れよう。100%集中して自分の進むべき道を選択したい。ぼくが成功の起動に乗るまでは、あわないことにしよう。

 君は表面的が自由に見えても、精神が自由じゃない。精神は依存していて、自立してない。
 他人が自由と感じて、自分も自由を感じることが本当の自由だ。そして、たとえ他人に自由と感じてもらえていなくても、自分の精神が自由であれば、それはだれがなんと言おうと自由だ。
 また、自分の進むべき決まった道からはずれることは、自由ではない。
 自分のゆくべき決まった道に自由があるんだ。

 しあわせや感謝で、世界中の意識、宇宙中の意識が、その瞬間たった一人の人を祝福する。それはランダムに祝われる。花屋さんだったり、高校生だったり、刑務所の囚人だったり、酒場のあるじだったり、政治家だったり、営業マンだったり、サックス吹きだったり、ミリオネアだったり主婦だったり編集者だったり。そのたった一人の存在が自分であると想像する。そしてそれは繰り返し自分が想えばその都度訪れる。一度訪れたら、十年後とかではない。瞬間というのは宇宙のすべてに満ちている。その瞬間を私たちは呼吸している。その瞬間の素粒子は変動体である。自分の想うままに成分の分布が変わる。もし瞬間の素粒子の成分のすべてを愛で満たしたら、あなたは愛だ。(引用:プリミ恥部 あいのことば 白井剛史) 

「ごめんね。マスクをしていて口紅もつけてないから、わたし疲れた顔してるでしょう?」
今日会った彼女は、カフェの奥まった席についてマスクをとるなりそういった。
50を過ぎた女性ってみんなこんなふうだ。もう自分を若くも美しくもないと思ってる。あまりにも無意識に日常的に世間からそういう扱いをうけてるからだと思う。そんなのお互いさまだし気にもしないから「そうかな。そんなふうに見えないけど」といってわたしは彼女に店員さんが持ってきたメニューを見るよう促した。
彼女と会うのはまだこれで2回めだ。
彼女とは去年の暮れの土砂降りの寒い日に、渋谷のカンファレンスルームで会った。そこにいた時間はほとんど無駄に等しかったけれど、たまたま隣にいた彼女はわたしとおなじように会ったときからオープンで正直な人で、帰りの電車も方向が一緒だったからお互い屈託なく話してメールアドレスを交換し、その後もときどきメールでやりとりするようになった。最初に会おうといったのはわたしだけれど、夏になってもいっこうにコロナが治まらず、お互いの中間地点あたりでランチをしようにもちょうどいい店がなかなかみつからないのでそのままになっていたところ、彼女のほうから連絡がきたのだった。LINEの最後には「心配して何度もメールくれたこと、わたしはわたしでうれしかったのです」とあって、なんとなくだけど彼女も何かあったのかもしれないな、と思った。「うん、会おう」とすぐに会うことにした。 

そして会ったらやっぱりそうだった。
オーダーをして店員さんが離れたあと「A子さんは元気だった?」と訊くと、「それがわたし、夏のあいだはがっくり落ち込んでたの」という。「うーん。今年の夏はしょっちゅう誰かが亡くなってほんとにキツくて暗い夏だったもんねえ・・・」というと、「コロナで、ってわけじゃないんだけど知らないあいだに友達が死んじゃって」というから「ええ?!」と驚いた。
そこから彼女がした話は今年あちこちで聞いたようなことだったけれど、この夏しばらく連絡をとってなかった友人にコロナのこともあるからひさしぶりにメールをしてみたら返事が返ってこなかった。そのあとも何度かメールしたけれどいっこうに返事がないから気になって携帯に電話をしたら、すでに使われてない番号になっててショックだった。でも自分の歳くらいになるともうスマートフォンもいいかと携帯を持つこと自体やめちゃう人もいるしと思って自宅に電話してみたけれど、やっぱり出ない。いよいよ気になってきて、中学のころからいちばん親しくしてきた友達だったから、そらで覚えてた実家の電話番号にかけてみたところ、おかあさんが出てきて「娘は亡くなりました」という。聞けばもうずいぶん前のこと。去年の5月、自殺だった。それで心底ショックをうけた彼女は中学時代の同級生も誘って実家の仏壇にお線香をあげて、お墓参りもさせてもらおうと実家を訪ねると、おかあさんはお墓に行ったらわかることだし、そこでみんながショックをうけるといけないから先に話してしまうけど、、、といって、実は娘が亡くなる前に彼女の息子のほうが先に自殺してしまったことを告げたのだった。
そこまで話してから彼女はまた心底すまなそうに「ごめんね。1回しか会ったことないあなたに会うなりこんな話して」といった。「いや。ぜんぜん。そういう話聞いてもわたしはもう引きずられたりしないからだいじょうぶだけど、でも息子に死なれたっていうのはほんとにきっついね! わたしだって子供に自殺されたりしたらもう生きていけないよ!」といった。すると彼女は「そうだよね。わたしも考えられない! それで息子に死なれて耐えられなくなった友達は、もともと精神科からもらっていた薬を大量に飲んで死んじゃったらしい」という。
数の問題じゃないから何人子供がいたっておなじだけど、A子さんのうちも一人娘だそうで、身近な親友とその息子の死を知って、彼女が自分の身に置き換えて深刻に感情移入して落ち込んでしまった気持ちもよくわかるし、それは相当こたえただろうと思う。
A子さんは同級生とお墓参りして、ひさしぶりにいろいろ話して、最近ようやく落ち着いてきたところ、といった。
そして、こういう話につきもののことではあるけれど、彼女は後悔を口にした。
数年前、最後に会ったとき友達は息子のことで悩んでいて、それについて話されたとき、自分はそれくらいのこと、どこの家庭にだってあるよと、軽く一蹴してしまったんだそうだ。いま思えば、自分とってはよくある話でも、彼女にとったら自分が思った以上に深刻なことだったんだなとわかって。なんであのとき、わたしはもっと彼女の話を親身に聞いてあげられなかったんだろうと・・・・・・。
わたしは「そうかあ・・・。でもわたしもいわれたよ。離婚して母子家庭の人なんて世の中にごまんといるし、特にめずらしいことでもなんでもないって。大変大変って、親がこどもの面倒みるのは当たり前だよ、ってね。たしかにそうだし、それが友達の言葉なんだから、もうそれ以上、何もいう気なくなった」といった。この『後悔』についてはよく息子とも話すのだけれど、相手が死んでしまった後で何をいったところでなんにもならない。後悔の気持ちをどれだけ誰かに述べたところで、そのひとが優しいことを証明してくれるわけでもない。ひとから何かいわれたとき、簡単に一蹴してしまうのは一言でいえば『想像力の欠如』にほかならないけど、たいていの場合みんな自分のことに手いっぱいで、他人のことを深く考える余裕もなければ、ほんのちょっとのことができなかっただけなんだろうと思う。ただそのしなかった、できなかったことについて関係のない誰かに向かって後悔を吐露するのは違う気がする。誰にもいわずに、それが時間をかけて鎮まるまで、自分のなかでそっと抱いていればいい。そして次からは少しでも後悔しないようにしたらいい。・・・・・・もちろん、彼女にそういったわけではないけれど。
そういうかわりに、「でも、仮にどれだけしてあげられたところで、大事な人の死後にかならず残るのが後悔なんじゃないかな。で、亡くなったひとはもうとっくにそんなところにはいないんだから、いつまでも落ち込むのはやめにして、前を向いたほうがいいってことだよね」と話した。
でも、もっというと『他人の人生にはいっさい干渉できない』というのが宇宙の法則なのだそうだ。それを聞いたとき、はー、そうか! と思った。
そこまで無慈悲になれたら他人に対する期待も執着もぜんぶはずれると思う。
完全ではないにせよ、他人に期待も執着もしなくなってわたしはずいぶん楽になった。

ひとは仲がいいから、古い友達だからなんでも話せるかというといつもそうとは限らなくて、むしろ旅先なんかで初めて会った、通りすがりのワンタイムのひととのほうがオープンに話せたり、親身に優しくできることってあると思う。わたしと今日の彼女がまさにそれで、お互いのバックボーンをほとんど知らなくて過去の既成概念がないから、自分の近況を素直に正直に話すことができた。それがよかったかどうか、楽しかったかどうかは別として、今日はそういう日だったんだろう。わたしはこの一年、家族以外ではずっとそれができないでいたし、ひとりで抱えているのもときどき息が詰まるから。感情のデトックス・デー。
わたしは昔から老若男女にかかわらずキラキラしたひとが好きで、それは単に外見的なことをいってるんじゃない。しわくちゃの笑顔の農家のおばあちゃんにだってあると思うんだけど、どこか非現実的な要素を持ったひと。どんな状況にあっても、ごくごくささやかでも夢を持ってるひとが好きなんだ。そういう意味では今日の彼女はわたしより2歳年下なのにわたしなんかよりずーっと堅実で現実的だ。えらいなあ、と思うし、素直に勉強させていただこうという気持ちはあるけど、正直なところあんまり惹かれない。
でも、そういうわたしたちにもひとつだけ共通点があるのが駅まで歩いているあいだにわかった。それは『いろいろあってもわたしは強運!』と思っていることだ。これはきっとポジティブな信念。
駅のホームで方向のちがう彼女と別れるとき、「いつでもそう思えたら、わたしたちきっとこれからもなんとかなるね!」とハイタッチして別れた。

最初に引用したプリミさんの本について最後にもう少し書くと、引用した文章には前のページに続きがあって、それはこうだ。

 ぼくとキミはもうほとんど一体になりかけてる。キミが好きだとおもうものはぼくも好きになりかけるし、不安や恐怖を感じていると、ぼくが100%未来に前向きじゃなくなる。ぼくは今無職で、この先どうなるかわからないし、キミの望む二人の未来をかなえてあげられないかもしれないし、そもそもキミの望む未来を中心にやっていたら、お互いに不幸になって必ず離れるだろう。

朝ぱっと目についた本を取ってひらいたページにこういうことが書いてあるっていうのは、自分がいまどんなバイブレーションをしてるかがわかるってもんだよね。それと同様に、かどうかはわからないけれど、今年ずっと断捨離してるなかでいつか息子のものだった部屋の本棚を片づけていて、ふと手にとったカミユの異邦人の冒頭を何気なく読んだら、変ないいかただけど「ひっさしぶりにこんな硬質で文学的な文章読んだ!」と感嘆したのだけれど、この『あいのことば』の中にあるいくつかの文章もそれを思いだすような硬質ないい文章で、これが二十歳のころに書いた文章だとすると、若いってやっぱりすごいな、と思った。自分もそうだったけど、内なるエネルギーが充溢してて。
特に曇り空について書いた文章。
わたしは晴れ女で、お天気さえよければ元気ってタイプの人間なんだけど、これを読むと曇り空が好きなひとの感性や感覚がはじめてよくわかって、晴れの日よりも曇りや雨の日のほうが好きな息子の気持ちもこういうふうなんじゃないかと、、、思ったりした。
プリミ恥部さんの本は不思議とただ持ってるだけでも落ち着くところがあるんだけど、この本も息子に送ってあげようかな。

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