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2020年4月27日 (月)

Hard rain、もしくは何番めかのマイルストーン。

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夢の中でわたしは娘の小さいときらしき4歳くらいの女の子といて、夜で、縦に民家が並ぶ脇の土の道を、その子は自分の家めがけてぴんこぴんこ飛び跳ねるように駆けてゆき、わたしはそのうしろを歩いているのだけれど、手前の家の前を通り過ぎるとき、家の中から親の怒鳴り声と子供の泣き声がして、(またか、、、)と嫌な気持ちになる。けれども玄関から家にあがるべき娘はなぜか、かつてトイレだった記憶のある、いまは物置みたいな部屋に入ってふざけていて、わたしはその部屋が嫌いなので思わず娘に「早くここを出て家の中に入りなさい!」とすこしきつく言ってしまう。それで娘が部屋にあがり、自分も玄関に入って後ろ手にドアを閉めようとすると、いま泣いていたはずの隣の女の子が開いたドアから中に入ろうとしていて、もう時間も時間だし、わたしはその子がなんだかちょっとこわくもあり、「もう今日は入っちゃだめ。明日遊ぼう。また明日ね!」といってドアを閉めてしまう。そして家にあがって部屋の中を見ると、さっきまで4歳くらいの女の子だったはずの子どもは何故かちいさなアライグマになっていて、まるでゴムマリのように丸くなって床に自分の身体を打ちつけてはびょんびょん跳ねている。そんなにしたら身体が痛くなるでしょう、というくらいに。それでわたしは、さっき自分がちょっときつい言い方をしてしまったからこの子はこんなことをしているのか、と思って、「ごめんね」というつもりでやさしく抱きあげると、アライグマはそのちいさな手を差しだして、「握って」という。そのピンク色のちいさな温かい手を握りながら、手を握っても何も、こんなにしっかり抱きとめてるでしょう、と思ったところで目が覚めた。
そして目をあけてオートマチックに「ああ、わたし、あの家、いやだった」と思ったそのときだ。
瞬時に二十数年前にSから言われた言葉が頭によみがえって、その一瞬でわたしは彼の気持ちを理解した。そして自然と「それは悪かったわね。ごめんなさい」という言葉が口をついて出た。
でも、その後になって次々やってきたのはこの二十数年、何度となく繰り返してきた様々な葛藤だ。
こんな感情がまだ自分の中に残っていたなんて・・・。
『暗闇に目を凝らすのは悪いことじゃない』と書いた直後にこれか。
ブロックって、そう簡単にはなくならないものらしい。
さらにそのあとで、自分が長いこと暗いトンネルの中を2人のちいさな子供の手をひいて歩いてきたことを思い出した。
これまでこんなふうに思い出したこともないくらい、しみじみと。リアルに。
そして、つくづくこれまでよくひとりでやってきたよなあ、と思った。あの状況でよくがんにもならず、うつにもならず、自分で自分をあやめることもせずに。人間って人のやっていることはいくらでも認められるのに、自分のやってることってなかなか認められないものだ。でもいまさらになって無性に、誰がねぎらってくれなくても自分で自分をねぎらいたい気持ちになって、はじめて自分を心からねぎらった。さっき「手を握って」と言ったアライグマは子どもの化身なんかじゃなくて、もしかしたら自分だったのかもしれない。もちろん、いつもわたしたちを見守ってくれ、ぎりぎりのところで助けてくれる目に見えない力が常にあったことは知っている。だから厳密には自分はひとりではなかったことも・・・。つまり、今日こういう感情がでてきたのはそれがついに今日、消えて無くなるためだ。
おめでとう、わたし。
ありがとう。

いつも娘のつくるてるてる坊主はとても効くから、分厚い雲の合間からおひさまが見えたときには今日は天気予報が変わって晴れるのかと思ったけれど、けっきょく家を出るころには雲行きが怪しくなってビニール傘を持って出た。
娘ときたらよりにもよってSTAY HOME期間中にセッションの予約を入れちゃうなんて、と思うけれど、人それぞれ、タイミングってものがあるからしかたない。娘を現地まで送って途中、荻窪で買い物して最寄り駅に降り立つころには、さっきまで小振りだった雨は思いっきりバケツをひっくり返したような土砂降りになった。瞬く間に膝から下がびしょ濡れ。行きは行きで自分がついていながら頭がぜんぜん働かなくて、乗り換えを間違えて約束の時間を遅刻することになったし、帰りはこれだ。今日はつくづくこんな日ってことか、と思ったけれど、まあ、そんな日もある。わたしたちはゆっくりだけど確実に進化してる。
それに転生を繰り返すなかでの人間の一生なんて、大きな書棚にたくさん並んでいる1冊の本に過ぎないのだ。
ゆっくり、よく味わうこと。
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2020年4月26日 (日)

変わりなく見える日曜の朝の

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グリーンレタスとルッコラとパプリカとプチトマト、蒸したミックスビーンズのサラダ。
ドレッシングはその都度つくる。
ドクターケイシーのリーディングではドレッシングに酢は使っちゃいけないらしい。
酢が胃に入ってしまうと胃酸の出が悪くなり消化スピードが遅くなる、もしくは消化にエネルギーを使いすぎる、からだそうです。
『クエン酸サイクル』といって酢はいいものとばかり思っていたけど、「何かと一緒に食すときには」酢はとらないほうがいい、ということらしい。飲むお酢を単体ですこし飲む分にはいいんじゃないかとわたしは勝手に解釈した。
それで、だからというわけじゃないけど、ずいぶん前からうちはドレッシングに酢を使ってない。
去年、森さんに沖縄土産といってペットボトルに入ったシークヮーサージュースを3本もらって、それが薄めて飲むにも酸っぱすぎるので、酢のかわりに使ってる。レモン果汁みたいでちょうどいい。小さなボウルにオリーブオイル、ヒマラヤブレンドソルト、ブラックペッパー、それにシークヮーサージュースを入れてティースプーンでぐるぐる掻きまわしてしっかり乳化させて。
先日ドクターケイシーのコロナ対策のオンラインセミナーを見てからは、ここに粉末のコラーゲン(ゼラチン)も入れている。人間の身体のあちこちにはコラーゲン(ゼラチン質)があって、つなぎの役目を果たしているから、毎日ゼラチンをとるのはいいことなんだと思う。それで白髪が黒くなったという報告もあるしね。
とはいえ、わたしのつくるサラダはドクター・ケイシーの奨めるサラダでは全然ない。
ドクター・ケイシーではトマトは食べちゃいけないし、野菜と穀類を一緒に食べてもいけないんだ!
食養法って究めるのは実に難しい。
もともとわたしは究める気なんてはさらさらないし、ある意味適当でいいと思ってる。
それより心のありようのほうがずっと大切だ。(わたしにとっては、という話。)
バックで流れているのは先週はミルトンだったけど、今日はカルロス・アギーレの『オリジャニア』。
先日、J-Waveを聴いているときに流れて衝動買いした。
うつくしいアルバム。
ときどき大洋レコードで試聴してCDを買ったりするからアルゼンチンの音楽もけっこう聴いてきたけど、わたしは「カルロス・アギーレ」って知らなかった。
ブラジルとアルゼンチンって近いのに、かけた瞬間から雰囲気が全然ちがう。
声もちがう。
楽器の使い方もちがう。
でもバックコーラスはブラジル音楽っぽい。
このイントロはまるでロックだよ! という笑えるユニークな曲もあって、昔『クロスオーバーミュージック』ってのが流行ったけど、まさにそれだな。ジャズとロックとポップスとアフロアフリカン、それに南米のいろんなのが混ざった音楽。このごちゃごちゃいろんなのが混ざった音楽が大好きだ。そんなことをいろいろ思いながら聴く。
世の中ではコロナ自粛の閉塞感からイライラしてる人が多いそうだけど、音楽を聴いてればイライラなんかしない。
みんなもっと音楽を聴けばいい。
音に没念できる、いい音楽を。

昔、といえば、昔いまよりもっと何もかもギリギリで生きていてたとき、時給800円で働く百貨店のガーデニングショップの店長だった人に「わたしが唯一いま自分に許してる贅沢は音楽だけだ」といったら、「Nさんは音楽がないと生きられないっていうけど、この先CDも買えなくなったらどうする?」って訊かれて、やなこという人だな、、、と心底がっかりしたことがあった。
しようと思えばいくらでも悪い想定なんかできたなかで、そんなこと頭に思い浮かべることもなく生きていたから。
それはいまも変わらない。
ただ14年ものサラリーマン生活でいささか薄れかけてたその『ギリギリの感覚』ってやつを、最近またリアルによく思い出すようになった。ハロー、暗闇よ、ぼくの古い友達・・・。
でも暗闇に目をこらすのは悪いことじゃない。
いまは誰もがそうすべき時なんだと思うから。

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カルロス・アギーレの『オリジャニア』。
いま見たらそれぞれの曲に、まるで短編小説のような素敵なタイトルがついていた。
これについてはあらためて書きたい。

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2020年4月25日 (土)

本日はメキシカン・ディナー

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昔観たジム・ジャームッシュ監督の『ストレンジャー・ザン・パラダイス』っていう映画の中に『TVディナー』ってのがでてきたけど、ちょっとあれみたいだ。で、TVディナーはテレビを見ながら食うメシのことだったけれど、うちにはテレビはない。いや、正確にいうと、ある。86の叔父が「いまだにこんなものを置いてるうちがあるなんて!」と呆れる、後頭部のでっかいブラウン管テレビなら。でも、あれはいまやもっぱら映画を見るためのモニターであって、テレビじゃないから。
今日の夕飯はわたしが『久米川の至宝』と呼ぶメキシカンレストラン、ポサダ・デル・ソルのメキシカン・ディナー・ボックスを買ってきた。ディナーは2種類あって、ミートボールと、ポークのグリーンソース煮込みだって。1000円。TAXなし!
今日選んだのはミートボール。
ランチで定番のメニューで、メキシカンライスにスパイスの効いたソースで煮込んだミートボール、それにじゃがいものペーストと豆のペースト、炒めた玉ねぎがついて。メキシコ料理って全体的に色が茶色いから写真で見るとおいしそうに見えないかもしれないんだけど、食べるとこれが実にうまいの!
とくにミートボールのソースの中に添えられたじゃがいものペースト。
何これっ! ってうまさです。ほかの料理では食べたことのない味。
豆のペースト、リフライドビーンズも、これが豆かと思うほど、複雑で深い味。
また炒めただけの玉ねぎも、セルヒオさんが炒めた玉ねぎは別物の味なんだよね。
メキシコ料理って日本とまったく違う文化のせいか、何食べてもすごく新鮮な感じがするし、それでいてどこか懐かしい、ハマる人にはハマっちゃう味です。

今日の夕方、買い物帰りにポサダデルソルに行くと、マスクをしたマスターがわたしの顔を見るなり「なんだか大変なことになっちゃいましたね」という。マスクに帽子という、いささか怪しい風体のわたしも「うん、ほんとに。しかも日本だけじゃなくて世界中だからね。もう、しょうがない」と相槌を打つ。それで、ディナーボックスを予約するつもりで行ったのが、15分でできるというのでできあがるのを待つあいだマスターと話していたのだけれど、外国人から見ると日本の国民は国に文句を言いすぎに見えるのだそうだ。他の国に比べたら日本政府はよっぽどよくやってると。国民のほうが国に甘えてるように見えると言うんだね。そうかなあ? といろいろ話したけれど、ま、たしかに日本人は電車が5分遅れたくらいで遅れた遅れたっていうからね、と言ったら、そうなんですよ! ちょっと(他人に)完璧を求めすぎるんだと思います、ってことだった。たしかに文脈も考えずにワンセンテンス、ワンワードだけとらえて揚げ足取りみたいにちまちま細かいことをしつこく突っつきつづけるよなあ、というのは常々感じてるけど。とくにSNS全盛になってからは特にそう。
マスターはおととしあたりかなりひどい気管支炎をやって、肺炎になる手前までずいぶん長いこと治らなかったから、新型肺炎についてはハイリスク者で嫌だよね、と言ったら「そうなの。また痰がでてくるようになっていやなんだけど医者にも行けない」という。「医者にはよっぽどじゃないかぎり行かないほうがいいよ。かえってやばい。それより、この時期だけでもいいから煙草とお酒を控えたほうがいいかもね」と
言ったら、わたしはそんなに煙草吸うほうじゃないからだいじょうぶ、なんていうマスターなんでした。
マスターのアルマンド・バレンシアさんの話すスペイン語の響きは、やわらかくて温かい。セルヒオさんは厨房できびきびと身体を動かしてる人らしく、もうちょっと鋭く、エッジが利いてはっきりしてる。そのふたりのやりとりを聴いていると、単調な日本語と違って音楽的でさえあって、言葉はコミュニケーションツールだから意味がわかってなんぼなんでしょうけど、言ってる意味がわからないだけに音の響きだけで癒される、ってことがあるんじゃないかと思ったりした。

夕飯の後は先週同様、大好きなミュージシャンのオンラインライブのテストモニター。いつも生演奏を生業とするライブハウスやミュージシャンたちはインターネットを使ったオンライン配信を模索しはじめたし、ポサダデルソルはテイクアウトをはじめた。
みんながんばってる。
世界は刻々と変わってるし、誰しも今までと同じじゃいられない。
誰しも変わるときがきた。
いまを生き延びるために。

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