« 緑のパスタ* | トップページ | ひつじのミミがいっぱい! »

2019年5月 5日 (日)

『五月の虹』を見た。

19gogatsu-no-niji-03

わたしがトナカイさんを知ったのはいつだろう?
それは偶然だった。
たしか Twitter で誰かがリツイートしていた写真を見たのがきっかけで、それまで何度も目にしていた『アパートメント』というサイトで、トナカイさんの『地上の夜/この星/の/現在位置』というページを見た。そのトップに載っていた、どこかミステリアスな眼差しをした女性の横顔。それはツイッターで見たばかりの現在の彼女の印象とはずいぶんちがっていて、それで興味を持ったのだと思う。
『地上の夜』はトナカイさんの日常を切り取った写真日記のようなもので、古いものから順を追って見ていったら、わびしい独り住まいのアパートにある日突然ひとりの女の子が現れて、世界が一変したのを感じた。それはまるで以前見た『トニー滝谷』という映画の中で、目の前にひとりの女性が現れたとたん、モノクロだった画面がカラーに変わるのにも似ていた。
あくまで『地上の夜』という世界の中で見てのことだけれど、とつぜん現れたその女の子はトナカイさんの部屋で(まるでもとからいたみたいに)猫のごとき自然さで眠り、目覚め、歯を磨き、見慣れたアパートの部屋の景色を空気からしてやわらかく変えていた。
そして、その後でトナカイさんの『魂について』という文章を読んだ。
そこには『35年間。僕が今まで目にしたあらゆるもののなかでいちばんうつくしいと感じたのは、妻の魂だ。 』と書いてあった。
人が興味を持って何かを追っていくとき、そこには知りたいものの答えみたいなものがあるはずだと思うけれど、そこにはすべてが書いてあるわけじゃなかった。でも、すべてが書かれていないことをわたしはむしろ好ましく思った。なんでも書けばいいってもんじゃない。書かれてないことがあることで、トナカイさんがどれだけ妻の魂を大事にしているかわかったから。
そこにあったのは物語だった。
トナカイさんという人が内包している固有の物語。
いつだってきっかけは些細なことかもしれないけれど、人がほんとうに何かに惹かれてゆくのは物理的なものを超えた物語のほうではないかと思う。

19totan

そうしてトナカイさんの Twitter をときどき見るようになって、つくづく感心してしまったことがひとつある。
トナカイさんがツイートする日常的な何気ないつぶやき。
それはたいてい、愛する妻のことがほとんどなのだけれど、それをまるで自分のことのように喜び、祝福し、時に嘆いたり心配したり、心底うらやましがったりする人たちがたくさんいるということ。
一歩外に出ればうんざりするような現実しかないこんな時代にあって、人間というのは潜在的には清らかでうつくしいもの、やさしさや純粋さ、穏やかでピースフルなもの、もうどこかレトロな感じすらする平凡な家庭のしあわせや『純愛』と呼ばれるようなものにこんなにも惹かれ、求めているものなのかと知ったのは正直言って驚きだった。むしろこんな時代だからこそ、ともいえるのかもしれないけれど・・・。
Twitter での言動を見る限り、トナカイさんはとてもシャイそうな人なのに、妻への愛に関しては誰に憚ることなくストレートでオープンだ。何気ない日常を切り取られて公開されている被写体としての妻は妻で、いつも飾ることなく飄々と、淡々として端正でうつくしく、俗世間とは別の次元で生きているかのよう。ともするとそれは『ハレ』と『ケ』でいうなら『ハレ』が2%で、残りの98%が『ケ』であるような現実的な夫婦生活を送っている者からしたらあまりにきれいごとすぎて作りものみたいに見えたっておかしくないのに、それは作りものでもなんでもなく、ちゃんと存在しているということ。(ちゃんと存在している、と思えるのはそれがまぎれもなくトナカイさんにとって切実だからだ。)そういう宝ものみたいなものを何も持っていない人からしたら(それを見せられるのは)かえって自分の孤独を色濃くすることになりはしないかと思ったりもするのだけれど、そういうことではないらしい。もしかしたらそれは、『峠の灯り』みたいなものかもしれない。そこにいつもあるのを見るだけで落ち着く、というような。
そして、潜在的に清らかなもの、うつくしいものに惹かれる人が多ければ多いほど、それはこの時代の光になってゆくのかもしれないなと思うようにもなった。自分がそんなふうに思うくらいだからきっと、SNSでつぶやかれるトナカイさんの短い言葉や時折さしはさまれる写真以上に、もっと読みたい、もっと見たいという気持ちがみんなのなかで高まっていたんだろう。
3月のある日、トナカイさんがこれまで撮りためてきた写真と最近あらたに書きはじめた詩で展示をしようと思う、とつぶやいた。
その資金をクラウドファウンディングで募ることにしました、といったら、なんとスタート直後たった1日で目標額に達してしまい、当初の希望通り東京だけではなく地方を巡回する規模へと拡大され、みるみる最初の目標額の4倍近いお金が集まってしまった。これにもびっくり。時代には常に良い面と悪い面があるのは当然のこととして、これはまさしく良い面といえるだろう。昔はこんなこと考えられなかったもの!
かくいうわたしはプアだったのと、変なとこシャイだから迷っているうちにいいなと思っていたリターンの枠は完売してしまった。
めでたく開催が決まった展示のタイトルは、『五月の虹』。
トナカイさんがこれまで書いた詩の中で「これが一番いい」と奥さんがいった詩のタイトルをそのままつけたという。見た瞬間、すごくいいタイトルだと思ったし、DMのポストカードがこれまた素敵で、「これは行きたい!」と思った。
アパートメントの文章の中にあった「妻は、僕のことを、大きな樹みたいだといいます。その樹の下では、悪いことは起きない。いろんな動物が休みにきて、仲良く話をしている、そういう樹みたいだと言ってくれます。」といわれるトナカイさんがどんなひとなのか、会ってみたい気もしたし。 
そしてあっという間に展示の日はやってきて、10連休もあと2日を残すばかりとなった今日、行ってきました。東京下町の谷中、『トタン』というギャラリーで行われているトナカイさんの写真と詩の展示、『五月の虹』に。

19totan-01

家にいるときはわからなかったけど今日は暑いくらいの陽気だった。
外を歩きながらリネンのチュニック1枚で出てこなかったことを後悔したくらいだ。
そうして日暮里で降り、懐かしい『夕やけだんだん』を降りて谷中銀座に行くと、そこはもう原宿の竹下通りみたいな混み方だった。『谷根千』といって昔からこの界隈は人気だったけど、いつからここはこんなになったんだろう。
せっかくプリントした地図を忘れてきたせいで道に迷いながら汗をかきかきやっとのことでトタンにたどり着くと、そこはこんなレトロな一軒家だった。一目見れば店名を『トタン』にしたわけも合点がいく。
玄関の硝子戸は開け放しになっていて、玄関には靴がいっぱい。中にも人がいっぱい。出てくる人を待ってから中に入った。
座敷にあがると厨房にはトナカイさんとおぼしき男の人が珈琲をいれていて、脇には今日の店番のきれいな女の子。
6畳くらいの居間は人が5人もいればいる場所がないくらいで、壁際にいくつか写真と詩が展示されていて、主な展示は2階だといわれて階段を上がって2階に行った。2階も8畳あるかないかくらいのスペースで、壁という壁、襖を外した押し入れに写真が飾られ、南の硝子窓には活版印刷の詩がとめられていた。後でトナカイさんに伺ったところによると部屋に入って右側に飾ってあるのがカンボジアで撮った写真で、左側がインドで撮った写真だという。押し入れの奥まった壁にひときわ大きな奥さんの写真と、手前に詩がピン止めしてあって、なんていうかそれが神聖な祭壇みたいに見えた。写真はどれも光が印象的な作品で、淡く、儚さを感じるもの。その中に強く実存を感じさせる瞬間があって、すべてはもう過ぎたことなのに、過去からいまここへと平行時間のエネルギーを放っていた。雨の日だったりするとまた印象が変わるのだろうけど、晴れた日だったせいで窓硝子から入ってくる自然光がやわらかくてよかった。
そしてわたしにとってはひとつのトピックだった。
今年2月のある夜にふと「詩を書こう」と思って初めて詩を書きはじめたトナカイさんだから、それを5月に公開するっていうのはかなり大胆だなあ、と思っていたのだけれど、今日見たら個人的には写真よりよくてびっくりした。いや、びっくり、というのもちがうかな。あの審美眼の鋭そうな奥さんが「すごくいいからもっと書いたほうがいい」と言ったという時点でそれはもうすでにわかっていたようなものだから。
きっと書きはじめたタイミングが今年の2月だったというだけで、トナカイさんの中にはきっと潜在的な溜めがたくさんあったんだろうと思う。それは今日の写真を見てもわかる。それに『詩』という表現形態はトナカイさんに合っていたんだろう。詩は、謎は謎のままであってよいものだから。
2階の展示をひととおり見て、もと来た階段を降りようとくるりと踵を返したら、ぱっと奥さんの写真が目に入ってきて、それは今日見た彼女の写真の中でもっともよく撮れてるいい写真で、その仕掛けに、この展示はどうやったってトナカイさんの愛のかたちなんだな、と思った。
(家に「ただいま」と帰って、奥さんがあんな穏やかな微笑で「おかえり」と出迎えてくれたら、そんなしあわせってないでしょうね。)

1階2階を通して見てもそれほど広い空間じゃなかったし、そんなにたくさんの作品ではないからギャラリーにいた時間はそれほど長くはなかった。ひととおり一巡して、珈琲を1杯いただくくらいの時間。
2階の展示を見ているあいだもずっと珈琲のいい匂いがしていて、ちょうど今朝は滅多にないこと珈琲豆を切らして飲めなかったから、下に降りてゆくなり、写真集と珈琲をお願いした。珈琲をいれてくれたのはトナカイさん。
わたしも友達から「そうきちさんはギャルソンエプロンして珈琲いれてるのが一番似合う」といわれたりするけど、トナカイさんが珈琲をいれてる姿もまるで喫茶店の人みたいに似合ってて、ちょうど台所の窓硝子から差し込む光がいい感じだったので、「トナカイさんの写真を撮ってもいいですか?」と訊いたら、即「いいですよ」という答えが返ってきた。でも「その写真はできればSNSに載せたりしないで、ご自分だけのものとしてくださると助かります」とも言われた。ブログはSNSとはちがうし、家に帰ってコンピュータで見たらなかなよく撮れてるのがあって残念だけど、それはここにはアップしない。いつか何かの機会にプリントしたものを渡せたら、と思う。
トナカイさんのいれてくれた珈琲は濃いけど嫌な苦みも雑味もなく、とてもおいしかった。珈琲をいれるのがうまい人はきっと料理も上手だと思う。
トナカイさんはツイッターで見る言葉以上に気さくで穏やかで近くにいて心地よい人だった。うちではもっぱら娘に「トナカイさんみたいなひとをみつけたほうがいいよ」といってる。(あ、あと詩人の藤本さんみたいな人ね 。)
写真集にトナカイさんが書いてくれたサインを見たらなぜか「ヤッホー!」と書いてあって、それも「やっほう、といったらそうきちさんだよね」と友達にいわれているのでなんだか「HAAAA---」でした。
まだ次々お客さんが来そうだったから邪魔になったらいけないと思って早々に帰ってきたけど、ほんとはもすこしぼんやりしていたかった。
そして帰りの電車の中でもいろんなことを思った。
電車のドアの横に立って流れてゆく休日の夕方の景色を眺めていたら、これまでたくさんのものを失ってきたと思っていたけど、ほんとうはわたしは何も失っていないんじゃないかと思えたのはなんだか不思議でした。
谷中ではいったん通り過ぎてから戻って甘味屋でソフトクリームあんみつでも食べてやろうかと思ったけど、食べずに子供のお土産にパリジェンヌ(シュークリーム)を3つ買って帰った。子供の日だったから。
それがたぶん、いまのわたしのしあわせ。

トナカイさんの『五月の虹』は谷中トタンで12日、日曜まで。
その日トタンに行ったことが後々まで記憶に残る、きっとそんな日になると思います。ぜひ。

19gogatsu-no-niji-04

|

« 緑のパスタ* | トップページ | ひつじのミミがいっぱい! »

アートのある場所」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 緑のパスタ* | トップページ | ひつじのミミがいっぱい! »