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2018年9月12日 (水)

さようなら

18funeral_day

さようなら


わたしの肝臓さんよ さようならだ

腎臓さん膵臓さんともお別れだ

わたしはこれから死ぬところだが

かたわらに誰もいないから

君らに挨拶する

長きにわたって私のために働いてくれたが

これでもう君らは自由だ

どこへなりと立ち去るがいい

君らと別れて私もすっかり身軽になる

魂だけのすっぴんだ

心臓さんよ どきどきはらはら迷惑かけたな

脳髄さんよ よしないことを考えさせた

目耳口にもちんちんさんにも苦労をかけた

みんなみんな悪く思うな

君らあっての私だったのだから

とは言うものの君ら抜きの未来は明るい

もう私は私に未練がないから

迷わず私を忘れて

泥にとけよう空に消えよう

言葉なきものたちの仲間になろう

 

( 谷川俊太郎 『さようなら』 / 『死と詩をむすぶもの』より )

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おとといプリントした遺影を届けに実家に行ったとき、妹と棺に何を入れるかという話になって、家に帰ってから「あなたたちも何か入れたいものがあったら用意しておいてね」とふたりの子供にいうと、娘は即座に「わたしは手紙を入れる!」といって、わたしも「いいね、それ。おかあさんもそうする」といったのだった。
葬儀の前日だから早く寝たいと思ったのにけっきょく昨日も一日バタバタして、寝る前になってからやっと手紙を書きだしたのだけれど、いつもだったら書いちゃ破り書いちゃ破りしてなかなか書き終わらないわたしが、昨日は一度も書き直すことなく一気に書きあげることができた。つまり、なんにも考えずに書けたってことだ。頭を使わずに、こころから出てくるままに書いた手紙。だからもう二度とおなじようには書けないし、たった一度限りの手紙。
父へのありがとうの手紙。
いつもそんなふうに書けたらわたしの言葉はもっと人に伝わるだろうか。
どうだろう? わからない。
最後に今年1月に亡くなったJさんからもらったマリアさまのメダイを入れた。
父の亡くなった8日は母の誕生日というだけではなく、マリアさまの誕生日だと友達に教えてもらったから。

自宅で納棺、ということで、祖父のときのことを思いだしていた。
でも、あの家はなんたって大きかったし、祖父はまだ若かったから、おなじようにまだ若い娘や息子や、その連れ合いや、たくさんの孫たちや親戚に囲まれて納棺の儀は賑やかだった。わたしはまだ中学生で、紺の制服を着ての出席だった。
今朝、納棺に集まったのはたったの6人。
でも、それでも狭い部屋では身の置き場もないようだった。
やっと冷たくて重たいドライアイスから解放された父の棺には、いつも愛用していた帽子、妹がハワイで買ってきた帽子、うちの息子が誕生日に贈った夏の帽子、それに滅多に着ない上等のスーツに、父が寝たきりになってからわたしが買った竹布のタオルケット、シルバーパスや地図や都内のバスの路線が載った観光ブックや好きだった煙草やお菓子や細々したものなどが入れられ、瞬く間に全身花で埋められて最期にみんなの手によって静かに蓋が閉じられた。
娘とわたしは手紙と、父が少し元気になったらこれで嚥下訓練をしてもらおうと買ったおもちゃの笛と紙風船を入れた。
あたりまえかもしれないけれど、棺の中の父の顔からはもう、どんな表情も読みとれなかった。というより、それはもういつもの父の顔ではなかった。
空は雲が切れて晴れ間が広がっているのに、霊柩車のフィルムのかかった窓から見える景色はモノクロームで、それは時間の感覚をおかしくさせるようだった。

火葬場で遠くから来た叔母と従妹と落ちあい、炉の前で棺が少しずらされて、みんなで最期のお別れをした。お世話になったケアマネージャーの男性がここまで来てくれたのにはちょっとびっくりした。
小さかったころは、業火で焼かれるということ自体がこわかった。暗くてじめじめした地中に入れられ、重たい石で閉じこめられるのもすごく嫌だった。
でも今日、炉の前でゴーという炎の音を聞いても、子供のころにはじめて感じたあの激しい感情にふたたび襲われることはもうなかった。もうとっくに父が今生におけるすべての苦しみから解放されたのを知っていたから。

そしてほどなく収骨の時間がやってきて、経験するたびいつも思うけど、収骨ってなんてシュールなんだろう。これをやるのって日本だけなんだろうか?
係員の人が慇懃丁寧に箸で骨をつまんでひとつひとつ説明してくれるのを聞きながら、みんな子供のように驚いたり、明るい声を出したり・・・・・・。しばし死の哀しみから離れて、単純に観察者の顔になる。骨を骨壺に詰めながら係員の男性はおもむろに骨壺に書かれた年齢を確認したあと、白い手袋をした手で骨壺の3分の2くらいのところを指さし、「このくらいの年齢の方になるとふつうこのくらいまでしかお骨が残らないものなんですが、これだけ残るということは、ずいぶん身体のしっかりした方だったんですね」と物柔らかな口調でいった。それを聞いて妹もわたしも、父はもともと小柄な上に骨粗鬆で転んだらいつ、どこの骨でも簡単に折れる、と医者から注意されていたから、すごく意外だ、という反応したのだけれど、でもそれだっていまになって思えば数日前、「きっとおじいちゃんの骨は少ないだろうね」という息子にわたしは、「いや、あの時代の人はいまの人とちがって骨がしっかりしてるから、意外と多いんじゃないかな」と答えていたのだった。
で、実際に太くてしっかりした父の骨を見ていたら、父はほんとうはもっと長生きできた人なんじゃないか、という思いが一瞬、頭をよぎった。少なくともあと2年、父が見たかった東京オリンピックの年くらいまでは。もっとも、父が自分の健康にもっとコンシャスな生き方をしていれば、の話だけれど。

葬儀屋さんが提供するごく一般的な葬儀というのはお金は莫大にかかれど至れり尽くせりにできていて、案内されるままベルトコンベアーに乗っているように整然と粛々と物事が進んでいくものだけれど、それを選ばなかった我々は至極手作り感満載の、つまり段取りの悪さが露呈してしまう一日となった。それでもそれを払拭してくれたのはそのあと会食したレストランで、そこではごく親しい身内だけで誰に気を遣うこともなく、おいしい料理を食べ、それぞれ飲みたいものを飲み、みんな歳が歳だから苦くて重たい話もあったけれど、それもこの家系の色というのか、なかなか諧謔に富んでいて、口々にいいたいことをいいあって楽しくすごした。何よりあのモーツァルト狂の叔父が「またみんなで集まってこういう会をしようよ」といってくれたのはよかった。変な言い方だけど、父がここにいたらどんなに喜んでくれただろうと思う。(そう思っただけで涙が出る。)つくづく今日の会食はお金を払うに値する時間だった。葬儀屋さんのコースにパックされた食事じゃ、こうはいくまい。

ビールに紹興酒を飲んで酩酊気味の妹と帰りのバスの中で別れ、家にたどり着くと、深い深い疲れがどっと襲ってきた。いつもとおなじ自分の家の中が、なんだかいつもと全然ちがって見えた。少なくとももう、ここに父が来ることはない。
そう思ったところで疲れすぎているせいかなんの感情も湧かなかったけれど、父がいなくなったさびしさとかなしさは、これから時間の経過とともに繰り返し、繰り返し、波のようにどんどんやってくるのだと思う。

18after_the_funeral

孫さんの本日のスペシャルな一品、ぷりぷり海老の揚げ春巻き。

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