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2018年9月30日 (日)

9月は散々な月

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昨日の午前中、仕事仲間にメールを書いていたら突然コンピュータの電源が落ちた。てっきりまた自分のコンピュータがクラッシュダウンしたのかと思ったら、机の上のヒマラヤソルトランプも消え、いままで動いていた洗濯機も炊飯器もみんな止まっている。玄関の配電盤を見に行くと、ヒューズが飛んでるわけではないので停電とわかった。
でも停電ならすぐに復旧するだろうと思っていたら、ぜんぜん復旧する気配がない。
窓から外を見ると、わけがわからず困って部屋から出てきた住人たちが話しはじめている。話しているのは一様に停電らしいということばかり。
書きかけの仕事のメールがぶっ飛んでしまったわたしは軽いショックをうけつつ、娘にiPhoneで事の原因を調べてもらうと、『山梨県で停電』というトピックのほかは、NTTのサイトで現在停電している地域を表示しているだけだった。次にツイッターを見てもらうと、あきらかに見慣れた近所の写真が投稿されていて、信号機の消えた路地を走る車や、電気が消えて真っ暗なコンビニの店内などの写真が多数出てきた。豪雨が降ってるわけでも雷が鳴ってるわけでもないのに、停電で信号機まで消えてるって、前代未聞の非常事態だ。
それで事故が起きたりしないのだろうか、と思っていたら、さっそく救急車と消防車がけたたましくサイレンを鳴らしながら何台も町を駆け抜けて行った。
いまこの町では、スーパー・マーケットも飲食店も銀行も郵便局も、それどころか病院も停電しているのだ。このあいだまで父が在宅医療をうけていた身としては、こんなに長く停電していたら医療機器が止まって患者の命にかかわるんじゃないかと、そんなことまで気になった。
電気の消えた町はしんとして、まるで世界の終わりみたいだった。
でも、電気が消えたくらいでワールズエンドを感じてしまう自分たちって、もうとことん野性を失ってしまったんだ、とも思った。
そんな様々な思いをめぐらしながら真っ暗なコンピュータのディスプレイを眺めていたら、のんきな娘が「信号機の消えた町を散歩しにいかない?」というので、朝ごはんを食べたあとパジャマのままでコンピュータの前にいたわたしは、薄暗い部屋のなかで身支度をはじめた。昨日みたいな天気の日だったらまだよかったのに、と思っていたら、突然パチッと電気がついて、何事もなかったようにまた炊飯器が音を立てて動きはじめた。
やっと復旧した。その間、約30分間くらい。けっこう長かった。
「よかったね」と娘がいった。
でも問題はそこからだ。
コンピュータは電源を入れたらすぐ立ちあがったけれど、メールの送受信ができない、サイトがひらかない。ルータを見たら『ひかり電話』のランプが消えていた。つまり電話回線もネット回線も落ちてて使えないってわけだ。それじゃコンピュータがあってもぜんぜん意味ない!
そこから溜め息つきつつプロバイダの登録確認書を探し出してサービスセンターに電話をすれば、書かれた情報が古かったようで現在使われてない番号だという。しかたなく104で調べてもらったカスタマーサービスに電話をし、支持されるままルータの初期化をしてみるけれど復旧しない。そこからさらにネットがつながってなくてもルータとコンピュータがつながっていればひらくという管理画面をひらこうとするも、どういうわけかひらかず、ここでできることはこれまでなので、ここから先はテクニカルサポートセンターに電話してくださいと電話番号を教えられ。そこでは物理的にルータの電源コードと電話ジャックを抜き射しするのをやらされ、でもやっぱりだめで、となるとこれは機器的な問題だろうと、最後はNTTの故障係に回された。そこで調べてもらうと建物自体の回線が反応しないということで、住宅全体の回線機器の故障かうちのルータの故障のどちらか、あるいは両方の故障ということが考えられる、とのことだった。まずは故障状況を見に行かせます、とのこと。それで自分は在宅ワーカーで、うちには自分のほかにももううひとり自宅作業をする人がいるのでできるだけ急いでもらえるとありがたい、というと、とっても快く「交渉してみます」といってくれたのだけれど、けっきょくのところは修理窓口が非常に混んでて最短でも週明け月曜日になってしまうとのこと。もうこの時点で万事休す。(だからこの記事をアップできるのもそれからで、9月の大半の記事とおなじようにリアルタイムにはできない。)訪問時間は当日に修理担当から電話がくるまでわからないそうだ。おまけにそれで機器的な問題が解決しても、初期化してしまったルータのインターネット設定をやり直さねばならないから、またもやプロバイダのカスタマーサービスに連絡しなけりゃならないってわけだ。ふぅ。やれやれ。
父の死の前後になぜか家電が次々に壊れてあたらしく買い換えたうえに設置工事代がかかり、そのうえ玄関と洗濯機用蛇口の修理まであって、最後は停電に電話回線切断にルータの故障か。そして明日は大型台風上陸ときてる。
そう思ったら昨日は疲れたのを通りこしてなんだか悲しい気持ちになった。
9月は散々な月だった。
10月は断舎離・掃除・クリアリングの月になるだろう。
自分をクリアーにすること。
そして、もういちど1からやりなおすこと。
(写真は今朝いちばんに会った訪問者。おっきなカマキリ!)

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2018年9月24日 (月)

Birthday Eve@Posada del Sol ☆

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明日、息子の30歳の誕生日。
でも明日は息子は夜から仕事の会議があって早く帰れないっていうから、今日バースデー・イブ・パーティーをやることにした。
でも今朝になったら息子は熱があって風邪気味というまさかの事態。
たった家族3人なのになかなかうまくいきません。
でも予定通り決行でいいというのでまずは娘と2人でケーキと花を買いに。
家族3人なのに、6号の大きなバースデー・ケーキ。
今日と明日分。
デジタルカメラの色の加減でピンクがつよく出てしまったけど、おきまりの紅いばら。外側の濃い赤の花弁が内側に向かうにつれてパープル、ピンクと変化してゆく、カップ型の形がきれいなばら。なかなかこういう好みの赤ばらはない。
『深い感動』という名のばらだそうです。

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息子もついに30歳。
自分のエイジングについては日々鏡の前で確認してるから、どうりでわたしも歳をとるってわけだ、なんて常套句をいうつもりもないし、ここまであっという間だった! なんていうことも全然できない。この人についてはここまでほんとに苦労してきたから。(で、いまは下の子で苦労してる。)でも、よっぽど(親に似ず)出来でもよくて自立心旺盛でもないかぎり、母親なんていつまでも苦労するもんでしょう、といまではすっかりあきらめ・・・・・・、もとい、すっかり悟りの境地でいる。大事なことは世間の一般論や常識、外野のいうことに振り回されることなく、自分で感じるところを大事に、多少凸凹でも親子ともども我が道を行くことじゃないかと思う。まだまだ道はつづくし、道のりは長い。
それにもちろん、子供がいてよかったことはいっぱいある。
ここまでぶつかりあいながらも助けあって生きてきたという感じ。
それは子供がほんとに小さく、非力だったときからのことで、子供がいなければわたしはこんなにがんばってこられなかっただろうと思う。
きっとこの先だってまだまだいろいろあるんだと思うけど、2人のユニークな子供を授かったことをこころから神さまに感謝します。
いつだってそう思ってるけど、特に今日はそういう日です。
夜は最近みつけた、家族がめちゃめちゃお気に入りのメキシカン・レストラン、ポサーダ・デル・ソルへ。Posada del Sol とは、太陽の宿、太陽が休むところ、という意味だそうです。お日さま大好きなわたしにはこの店名からしておあつらえ向き。
ここに来るのは今日でまだ2回めだっていうのに、出てきた店主に「今日、息子の誕生日だから予約したのに、このひと熱があって風邪っぴきなの」とわたしがいうと、店主「えー、だいじょうぶー? 辛いもの食べて元気になって帰って」という。
というわけで、いつも最初にでてくるワカモレ。

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あらためてここで食べたら自分で作ったのとは全然ちがってた!
まずタマネギの分量がちがうし、自分で作ったのほど辛くない!
もちろん、こっちのほうが全然おいしい。
三種のソースがそれぞれちがった味でアクセントを与えてくれる。
それからシュリンプカクテル。

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ここにもアボカドがいっぱい入ってて、この緑のソースが何でどうやって作られてるんだか全然わからないんだけどこれがまたとってもおいしくて海老に合うんです。
で、ピンボケになっちゃったけどタコス。

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ちょっと焦げ目のついた温かいトルティーヤに具が入ってて、かならず小皿に軽く炒めた細かい角切りのタメネギと、トマトとタマネギのみじん切りが付いてくる。このタマネギがあまくておいしいんです。お好みでさっきの三種のソースをかけて。
タコスだけでも、チョリソコンパパスというのとカルニータスというのとチキンの3種類食べたのだけど、どれもみんなおいしかった!
それからチリコンカルネね。

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温かいトルティーヤがまるい、かわいいカゴにナフキンに包まって入ってきて、そのうえにレタスとトマトとチーズのたっぷりかかったチリコンカルネをのせて包んで食べるんだけど、これが食べると見た目よりボリューミーで、このあたりからお腹いっぱいになってきます。
このほかにも写真はないけど肉が好きな息子はチョリソと、ミラネサという薄切りビーフカツレツをオーダーして、息子も途中で死ぬほどお腹いっぱいに。
このミラネサと、このあいだ食べた白身魚のフライに付けあわせでのってたジャガイモがめっちゃめちゃおいしくて、日本人のわたしにはこれがどういう味付けで作られてるのか全然わからないんだけど、とにかくわたしはこれがいちばん好き、ってくらいにおいしい。このあいだ店主に訊いたら「そりゃ秘密のものが入ってるから」と笑ってごまかされたんだけど、今日はシェフに「あれはなんていう料理?」って訊いたら、「ジャガイモのピュレ」ってことでした。ゆでてマッシュして味付けしたクリーミーなジャガイモを表面だけ焦げ目がつくように焼いたもの。あれだけバクバク食べたいくらいおいしい。
それで最初から最後まで「おいしい」を連発してるけど、ここほんとに何を食べてもおいしいんです。どうおいしいかというと、まず味が濃くなくて、ぜんぜん油っぽくない。から、どんどん食べれてしまう。でもそれぞれしっかり固有の味があって、いってみればとても上品な味。いままで食べたタコスともチョリソともチリコンカルネとも全然ちがう。
最後に店主がお皿をさげるときに「辛くなかったですか?」と訊いたんだけど、みんなの答えは「ちょうどいい!」。それで逆に訊いたのは「ここの料理は日本人向きにアレンジしているんですか?」ってこと。そうしたら店主は「きっと日本の人はメキシコ料理を誤解してるんじゃないかと思いますね」とソフトな語り口で話しはじめた。「日本で一般に食べられているメキシコ料理(といわれるもの)は、もっと味が濃くてスパイシーで油っぽいかもしれないけれど、それはほんとうのメキシコの味じゃありません。ここで出しているのはメキシコのふつうの家庭で作られている家庭料理です。それはそんなにしょっぱくしない。おとうさんに出す料理はしょっぱくしてるものもあるかもしれないけど、たいがいはこんなものです。ときどき外国人が来て、塩をください、といわれることもあるけど、あっさりしたのが好きな日本人にはあってるかもしれないですね。それとうちの料理が油っぽくないのは、フライといっても油で揚げてるんじゃなくてフライパンで焼いてるからです。」ってことだった。
つまり、日本人が食べてるタコスやチリコンカルネやブリトーなんかはどうやらアメリカ的にアレンジされたものってことになるらしい。本場メキシコの味はもっと上品でやさしい味なんだなあ・・・・・・
食べようと思ったらもっと食べられそうだったけど、今日はこのあと家でバースデー・ケーキと珈琲が待ってるから、デザートはパスして終わりにした。
帰り際に厨房前で「おふたりの写真を撮らせてもらってもいいですか?」と訊くと、「えー、なんで? カメラ壊れるよ」と店主。壊れてもいいよ、ふたりとももっと寄って、というと店主、シェフを見ながら「えー、気持ち悪いよ」という(笑)。
で、この笑顔!

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はじめてこの店に来たとき、外から見たときの(ちょっとあやしい)イメージと中に入った感じが全然ちがってて、店主は無口だけれど人当たりがソフトで温かい感じで、出てくる料理がみんなおいしくて、びっくりしたのでした。帰りに夜道を歩きながら、まるで映画の中から出てきたみたいな人たちだったね。こんな店が近所にあったなんて! って。
今日も家族でおいしいものお腹いっぱい食べて二人の笑顔見て、とてもしあわせな気持ちで帰ってきました。
でもね、このあいだも今夜も我々がいた時間は我々3人だけだったの。
(家に帰ってホームページを検索したらGoogleのコメントに「奇跡的な店!」ってあったのにですよ。)
これってマズイでしょう?
なので、こんな素敵な店がつぶれたら困るので、わたしは折りあらば誰かを誘ってはここにタコスを食べに行こうと思います。いまこれを見てくださってる人もなかなかこんなローカルなところに来ることはないかもしれないけれど、西武新宿線に乗ったらぜひお立ち寄りください♪
よろしくお願いします。

 Posada del Sol  sun

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2018年9月23日 (日)

スピリット・オブ・フリーダム **

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きっとみんな疲れがでてくるころなんだと思う。
めずらしく2日つづけて寝坊した。
今年はほんとうにいろいろあった年だから。
時は一刻たりとも止まってなくて、全ての物事は流動的に常に変化しつづけていて、自分だけいつまでもグズグズ変われないでいたって、否が応でも変わらずにはいられない時が来る。
人は変わる。というのと、人なんてそうそう変わらない。というのと、どちらも真なりだけど、どちらに転ぶかは自分しだい。だと思う。
そろそろ本気で本気を出さないとね。
今日は午後になって雲が切れて、ひさしぶりに青空が広がり気温が上がった。
きれいに咲いたスピリット・オブ・フリーダム。
自由な精神。

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2018年9月21日 (金)

10月中旬の気温

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今日は晴れるかと思ったのに、今日も雨。
父が夏を一緒に連れてっちゃったみたいだ。
9月に毛布をひっぱりださなきゃならないほど寒くなるなんて。
スーパー・マーケットに行ったらレジのおばさんが「今日は10月中旬の陽気だって」と教えてくれた。
朝9時に来るというから用意して待っていたのに、けっきょく表具屋さんは昼過ぎにやってきた。今年の夏は暑すぎたせいで蝉も蚊も少なかったけど、気温が下がる9月に爆発的に孵化した蚊が猛威をふるうっていうからオーダーしたベランダ側の網戸。いまさら、って気もしないでもないけど、娘は「やった! これで蚊ともゴキブリともオサラバだ」といって喜んでいる。
じきに9月も終って10月は秋ばらの季節。
写真のばらはスピリット。オブ・フリーダム。

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2018年9月12日 (水)

さようなら

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さようなら


わたしの肝臓さんよ さようならだ

腎臓さん膵臓さんともお別れだ

わたしはこれから死ぬところだが

かたわらに誰もいないから

君らに挨拶する

長きにわたって私のために働いてくれたが

これでもう君らは自由だ

どこへなりと立ち去るがいい

君らと別れて私もすっかり身軽になる

魂だけのすっぴんだ

心臓さんよ どきどきはらはら迷惑かけたな

脳髄さんよ よしないことを考えさせた

目耳口にもちんちんさんにも苦労をかけた

みんなみんな悪く思うな

君らあっての私だったのだから

とは言うものの君ら抜きの未来は明るい

もう私は私に未練がないから

迷わず私を忘れて

泥にとけよう空に消えよう

言葉なきものたちの仲間になろう

 

( 谷川俊太郎 『さようなら』 / 『死と詩をむすぶもの』より )

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おとといプリントした遺影を届けに実家に行ったとき、妹と棺に何を入れるかという話になって、家に帰ってから「あなたたちも何か入れたいものがあったら用意しておいてね」とふたりの子供にいうと、娘は即座に「わたしは手紙を入れる!」といって、わたしも「いいね、それ。おかあさんもそうする」といったのだった。
葬儀の前日だから早く寝たいと思ったのにけっきょく昨日も一日バタバタして、寝る前になってからやっと手紙を書きだしたのだけれど、いつもだったら書いちゃ破り書いちゃ破りしてなかなか書き終わらないわたしが、昨日は一度も書き直すことなく一気に書きあげることができた。つまり、なんにも考えずに書けたってことだ。頭を使わずに、こころから出てくるままに書いた手紙。だからもう二度とおなじようには書けないし、たった一度限りの手紙。
父へのありがとうの手紙。
いつもそんなふうに書けたらわたしの言葉はもっと人に伝わるだろうか。
どうだろう? わからない。
最後に今年1月に亡くなったJさんからもらったマリアさまのメダイを入れた。
父の亡くなった8日は母の誕生日というだけではなく、マリアさまの誕生日だと友達に教えてもらったから。

自宅で納棺、ということで、祖父のときのことを思いだしていた。
でも、あの家はなんたって大きかったし、祖父はまだ若かったから、おなじようにまだ若い娘や息子や、その連れ合いや、たくさんの孫たちや親戚に囲まれて納棺の儀は賑やかだった。わたしはまだ中学生で、紺の制服を着ての出席だった。
今朝、納棺に集まったのはたったの6人。
でも、それでも狭い部屋では身の置き場もないようだった。
やっと冷たくて重たいドライアイスから解放された父の棺には、いつも愛用していた帽子、妹がハワイで買ってきた帽子、うちの息子が誕生日に贈った夏の帽子、それに滅多に着ない上等のスーツに、父が寝たきりになってからわたしが買った竹布のタオルケット、シルバーパスや地図や都内のバスの路線が載った観光ブックや好きだった煙草やお菓子や細々したものなどが入れられ、瞬く間に全身花で埋められて最期にみんなの手によって静かに蓋が閉じられた。
娘とわたしは手紙と、父が少し元気になったらこれで嚥下訓練をしてもらおうと買ったおもちゃの笛と紙風船を入れた。
あたりまえかもしれないけれど、棺の中の父の顔からはもう、どんな表情も読みとれなかった。というより、それはもういつもの父の顔ではなかった。
空は雲が切れて晴れ間が広がっているのに、霊柩車のフィルムのかかった窓から見える景色はモノクロームで、それは時間の感覚をおかしくさせるようだった。

火葬場で遠くから来た叔母と従妹と落ちあい、炉の前で棺が少しずらされて、みんなで最期のお別れをした。お世話になったケアマネージャーの男性がここまで来てくれたのにはちょっとびっくりした。
小さかったころは、業火で焼かれるということ自体がこわかった。暗くてじめじめした地中に入れられ、重たい石で閉じこめられるのもすごく嫌だった。
でも今日、炉の前でゴーという炎の音を聞いても、子供のころにはじめて感じたあの激しい感情にふたたび襲われることはもうなかった。もうとっくに父が今生におけるすべての苦しみから解放されたのを知っていたから。

そしてほどなく収骨の時間がやってきて、経験するたびいつも思うけど、収骨ってなんてシュールなんだろう。これをやるのって日本だけなんだろうか?
係員の人が慇懃丁寧に箸で骨をつまんでひとつひとつ説明してくれるのを聞きながら、みんな子供のように驚いたり、明るい声を出したり・・・・・・。しばし死の哀しみから離れて、単純に観察者の顔になる。骨を骨壺に詰めながら係員の男性はおもむろに骨壺に書かれた年齢を確認したあと、白い手袋をした手で骨壺の3分の2くらいのところを指さし、「このくらいの年齢の方になるとふつうこのくらいまでしかお骨が残らないものなんですが、これだけ残るということは、ずいぶん身体のしっかりした方だったんですね」と物柔らかな口調でいった。それを聞いて妹もわたしも、父はもともと小柄な上に骨粗鬆で転んだらいつ、どこの骨でも簡単に折れる、と医者から注意されていたから、すごく意外だ、という反応したのだけれど、でもそれだっていまになって思えば数日前、「きっとおじいちゃんの骨は少ないだろうね」という息子にわたしは、「いや、あの時代の人はいまの人とちがって骨がしっかりしてるから、意外と多いんじゃないかな」と答えていたのだった。
で、実際に太くてしっかりした父の骨を見ていたら、父はほんとうはもっと長生きできた人なんじゃないか、という思いが一瞬、頭をよぎった。少なくともあと2年、父が見たかった東京オリンピックの年くらいまでは。もっとも、父が自分の健康にもっとコンシャスな生き方をしていれば、の話だけれど。

葬儀屋さんが提供するごく一般的な葬儀というのはお金は莫大にかかれど至れり尽くせりにできていて、案内されるままベルトコンベアーに乗っているように整然と粛々と物事が進んでいくものだけれど、それを選ばなかった我々は至極手作り感満載の、つまり段取りの悪さが露呈してしまう一日となった。それでもそれを払拭してくれたのはそのあと会食したレストランで、そこではごく親しい身内だけで誰に気を遣うこともなく、おいしい料理を食べ、それぞれ飲みたいものを飲み、みんな歳が歳だから苦くて重たい話もあったけれど、それもこの家系の色というのか、なかなか諧謔に富んでいて、口々にいいたいことをいいあって楽しくすごした。何よりあのモーツァルト狂の叔父が「またみんなで集まってこういう会をしようよ」といってくれたのはよかった。変な言い方だけど、父がここにいたらどんなに喜んでくれただろうと思う。(そう思っただけで涙が出る。)つくづく今日の会食はお金を払うに値する時間だった。葬儀屋さんのコースにパックされた食事じゃ、こうはいくまい。

ビールに紹興酒を飲んで酩酊気味の妹と帰りのバスの中で別れ、家にたどり着くと、深い深い疲れがどっと襲ってきた。いつもとおなじ自分の家の中が、なんだかいつもと全然ちがって見えた。少なくとももう、ここに父が来ることはない。
そう思ったところで疲れすぎているせいかなんの感情も湧かなかったけれど、父がいなくなったさびしさとかなしさは、これから時間の経過とともに繰り返し、繰り返し、波のようにどんどんやってくるのだと思う。

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孫さんの本日のスペシャルな一品、ぷりぷり海老の揚げ春巻き。

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2018年9月10日 (月)

死と浄化、メタモルフォーゼン、4つの最後の歌

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朝食を食べながら、おとといの父の最期の様子があまりに物凄かったことから、ふと思いだして急にこれが聴きたくなってCDラックの奥から引っぱりだした。
リヒャルト・シュトラウスの『死と浄化/メタモルフォーゼン/4つの最後の歌』。
死期の迫った老人が、ひとり孤独のうちに死と対峙し、死と抗って必死に闘った末についに死神に負け、諦めて死をうけいれ、自らをゆだねてゆく過程が静かに、激しく、うつくしく描かれた交響詩。
死神との手に汗握るような激しい闘いの後にやってくる安らかさと透明な光は、カラヤン率いるベルリンフィルの艶やかで美しい弦の響きあいまって官能的ですらある。199 ・・・・・・ 、何年だろう、もう忘れてしまった、夏の夜に、わたしはこれを毎晩大音量でかけながら、夜遅くひとりで夕飯を食べた。百貨店のインショップで働いていたころ。ふだんはまだ子供が小さいことを理由に朝番しか入れなかったわたしは夏休みに実家に子供ふたりを預けると、夜遅くまでいつも以上に働いた。一緒に働くスタッフのためでもあったし、少しでも多く給料をとるためだった。くたくたになって夜遅く帰ってひとりでとる夕飯はどうでもよく、たいていは蕎麦をゆでて食べた。ざる蕎麦とシュトラウス。ぜんぜん合わない。
でも、それがその年の夏のわたしのリアルだった。
シュトラウスのこの交響詩に美を見いだしていたからといって、わたしが死の幻想に引きずられていたというわけではなかった。むしろ、死に自分を預けてゆく安らぎを傍観しながら、精一杯『生きているって感じ』をわたしは味わっていたんだと思う。
そういう、いまの自分を愛すること。イコール、肯定すること。
誰に何をいわれたって負けずにいまを生きること。
なぜ大音量で聴くかといったら、この曲がピアニシモからフォルテシモまで、実にダイナミックレンジが大きすぎるくらい大きいせいで、どんな小さな音も聴き洩らさないようにボリュームを上げて聴いていると、フォルテになった瞬間、飛び上がりそうになるくらいデカイ音になる。よくまあ、一軒家に住んでいて近所の住民から文句がこなかったと思う。
そして、わたしがどうしてもBOSEのウェストボローを欲しかった理由も実はそこにあって、それはクラシック音楽のどんな小さな音から大きな音までも再現できる、という謳い文句にあった。最近じゃこの相棒も死にかけで、1日に1枚、CDをかけてくれるかくれないかだけど、およそ離れる気がしない。
だから今日ももちろん大音量で聴いた。
十数年ぶりに聴いたカラヤンのシュトラウスはやっぱり凄かった。
素晴らしかった。
聴きだしたら否も応もなく堰を切ったように涙があふれてきて泣いた。
そうしたらCDを聴き終るころ息子も泣いた顔して部屋から出てきて、いったい血のつながりってどこまで・・・・・・、と思うけれど、そういう自分とよく似た人間がこの世にいるってことこそがしあわせなのかもしれない。
今日このCDを聴いたらあの夜の父の様子とあまりに酷似していて、弱冠25歳の若さでこの『死と浄化』を書いたという、シュトラウスの老成ぶりにあらためて驚かされた。

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2018年9月 9日 (日)

父の遺影

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今日は自分の撮った写真ファイルの中から父の遺影を選んで、妹に頼まれた掲示用の訃報の張り紙を作って夕方持って行った。まだやることがいっぱいあって泣く暇はないから、フォルダの中から写真をピックアップする作業に没頭したけれど、過去の写真を見ながらついこのあいだまでこんな笑顔を見せてくれていた人がもういないんだと思うと、ただ悲しいのともちがう、不思議な感覚に捉われた。ただ、いまよかったと思うのは、生きているあいだに何度か父に直接「ありがとう」と言えたこと。ほんとうにいまとなっては父には感謝の気持ちしかない。父には小さかった子供の頃から大人になるまでほんとうにやさしくしてもらったし、困った時に助けてもらった。それは何度ありがとうと言っても足りないくらい。
それに父は母より20年も長生きしたから、晩年はいろんなところに一緒に行くことができた。たいていの場合、あまり歩けなくなった父とどこに行くのも、連れて行くほうとしては神経を遣ってとても大変だったけれども、過ぎてしまえばそれもいい思い出。なかでも去年の春に、妹の提案でかねてより父の念願だった京都に行けたのはほんとうによかった。気さくで温かな人柄のご主人のいる京料理の店で、父があんなに食べたのはあれが最後のことだったろう。父がよく「冥土の土産に」といっていたのが、ほんとうになってしまったけれど・・・・・・

わたしとは今年の5月に浅草に行ったのが最後になった。
そのときのことをわたしは一生忘れないだろう。
父はそのとき「これが最後」と言った。
最後に浅草の弁天さまにお参りしたいんだ、と。
そのとき父のこころにあったものはなんだろう。
けれども、そう言った父は浅草に着くなり歩けなくなってしまい、一歩一歩、わたしに手を引かれて何時間もかかってようやく弁天さまの前まで行きながら、けっきょくはリタイアしなkればらないことになってしまったけれど、あきらめて前を通り過ぎるとき、父が鳥居の前で帽子をとって、敬礼のポーズをして軽く会釈をしたことは忘れられない。できることなら最後までちゃんとお参りさせてあげたかったといまになっても思う。あの日は夕方から急に雲行きが怪しくなってきて、あとちょっとのところであわや土砂降りのなか立ち往生するところだった。わたしにとっては恐怖の遠出になってしまったけれど、それでも父は後で妹に「今日は楽しかった」といったそうだ。認知症の父はなんでもすぐに忘れてしまうから。でも、それもいま思えば父のいいところだったかもしれない。そのおかげでわたしの言ったこともみんな忘れてしまったと思えば、わたしもずいぶん気が楽になるし、ありがたいことだと思う。
そしてありがたいといえば、父は何より笑顔のいい人だった。
わたしなんかとくらべても気取りのない、自然で嘘のない笑顔。
それは見ず知らずの誰にでも向けられていたらしい。
5月の夕方から深夜にかけて、わずか数時間ではあったけれど、父がはじめて行方不明になって心底慌てた夜、妹が父がよく行くスーパーのレジの男の人に写真を見せて尋ねたところ、「ああ、あの笑顔の素晴らしい人!」といわれたというから。
いつか自分もそんな笑顔ができるようになれるだろうか、と思う。

父が肝臓がんになって何度か入退院を繰り返し、アルツハイマーもあって脳だけではなく身体の機能が落ちてだんだん歩けないようになってからは、妹もわたしもいつ何が起きてもおかしくないとこころして、出かけたときにはできるだけ父の写真を撮るようにしていた。いつか必要になるであろう、遺影のために。
だから父の写真はいっぱいある。
でも意識して撮っていたとはいえ、いざ実際に選ぼうとすると、遺影にふさわしいものはそんなにはない。けっきょく父の遺影は、去年の5月に生活の木・薬香草園の白もっこうばらのアーチの下で撮った写真になった。背景の緑と白がきれいな写真で、父も母と同様、花の好きな人だったからいいんじゃないかと思った。やっぱり、とてもいい笑顔をしている。そして、この日に撮ったほかの写真を見ても父はとても澄んだきれいな表情をしていた。
妹に今日それらの写真を見せたら「泣ける・・・・・・」といった。
父はそれを見てどこかで笑っているだろうか。
だといいけど。
ここから先は、わたしはただただ父と母にありがとうと言いつづける。
もうそれくらいしかわたしにできることはないから。

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2018年9月 8日 (土)

父、永眠。

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朝、駅に向かう途中、喪服を着た女4人組と出くわした。
スーツケースをガラガラと重たそうに引きずりながら、どこか地方のお葬式に向かうようだった。大きな台風が行ったばかりだというのにまた台風の前のようなつよい風が吹き、時折り太陽がギラギラ光る、蒸し暑い晩夏の朝だった。
今日、母の誕生日。
父よりひとつ下の母は、生きていれば87歳。
今日、父が死んだ。
正確には8日の午前3時、ということになるらしい。
わたしに電話をくれたあと、時間が時間だったから妹はちょっと迷ってから先生に連絡し、夜中にもかかわらずすぐに駆けつけてくれた先生にそういわれたそうだ。先生が帰られたあと葬儀屋さんに電話をすると、葬儀屋は朝5時にドライアイスを持ってやってきた。わたしが今朝駆けつけたときには、あはれ、父は大量のドライアイスを身体の上に載せられ、室温17℃に保たれた寒い部屋の中でつめたくなっていた。火葬場の空き状況や週明け火曜日が友引のこともあって、荼毘に付される12日までは葬儀屋さんが毎日ドライアイスを取り替えに来るという。あんなに寒いのが嫌いな人だったのに、なんてかわいそうなんだろう! 夏に死ぬのもまったく楽じゃない。
昨日あれだけ苦しい息をしていたせいか、父は目も口もあけたまま亡くなっていた。
でもまだ顔色も悪くなっておらず、まだ生きてるみたいで、目も口もあいているせいでいまにも喋りだしそうだった。
わたしが帰ったあともしばらくのあいだ父と妹のあいだでは鼻のチューブを取る付けるの攻防がつづいたそうだけれど、次第に父は落ち着いたのだそうだ。意識も最後までちゃんとあって、やりとりすることもできた。最期に父は、「もう寝る!」といったそうだ。それで妹が「おとうさん、ここに寝ていい?」というと、「いいよー」といったのだって。
あんな狭い介護ベッドの隅っちょで寝た妹もえらいと思うけど、父も最期まで一緒に暮らした娘にそばにいてもらって、きっと心強かっただろう。疲れていた妹はすぐに眠りこんでしまい、「12時半くらいまでは息があったと思うんだけど、2時半くらいかな。気づいたら静かになっていて、でも目の前の父は目をあけているから起きているように見えて、でも起き上がって父を見たら呼吸器が外れてて呼吸の音がしないから、おとうさん、逝ってしまったみたいだなと思って・・・・・・」というのが妹から聞いた夜の状況だった。そこからはぜんぜん眠れなかったらしい。わたしも朝まで一睡もできなかった。娘もほとんど眠れなかったといっていた。
7日の日付けが変わって、奇しくも母の誕生日。
まさかほんとうにこの日に逝ってしまうなんて。
でも、それだって少し前から自分の中にぼんやりあったことだった。
父は母の仏壇のある部屋で寝ていたし、きっとここまでの父とみんなのやりとりを見るに見かねた母が、「ねえ、もういいんじゃないの」って、父を連れて行っちゃったんだろう。これ以上、延命治療が長引くのは誰にとっても負担で、何より父本人にとって苦痛でしかないことを知っていて・・・・・・
「おじいちゃんとおばあちゃんって、意外と仲よかったんだね」とは今朝、娘が言った言葉。たしかに。夫婦って不思議。人の死って不思議。まさしく宇宙タイミング、という感じ。
泣けることに、亡くなったときの父の体重、たったの28キロ!
それではいくら高カロリー輸液を入れたところで元気になるのは無理だったと思う。
妹の願いはあまりに非現実的だった。

けれども、シャバに遺された者たちはそんな悲しみにひたる間もなく現実が襲ってきて、妹と看護師さんがやっとの思いで遺体をきれいにして安置させたと思ったら、まだろくすっぽ涙もでないうちから次々いろんな人がやってきていろんなことをいい、朝10時には葬儀屋さんがやってきて、次から次へとノンストップでいろんなことを決めて行かなきゃならないのだった。葬儀のやり方や、それにまつわるお金の計算や事務手続きや、親戚への報連相 ・・・・・・
喪主は一度家を出て行ったわたしではなく、妹だ。
葬儀屋さんと妹のやりとりを聞いてたら、遥か昔、某結婚式場で披露宴の見積もりを立ててもらったときのことを思いだした。あのとき式場の担当者が提案することに我々はいちいち「それはいらない。これもいりません」といいつづけた。結果、超ミニマルな結婚式にはなったのだけれど、それでも有名な結婚式場だったからそれなりにかかった。だから今日も、落ち着いたソフトな話しかたの担当者に問われるまま「ではこれをひとつ、それをひとつ」とやっている妹を見て、だいじょうぶかなあ、と思っていたら、身近な親族だけでごく慎ましく行うはずの葬儀の費用が、けっこうな見積額になってしまった。葬儀屋さんが帰ってしまうと、妹は「けっきょく、こういう金額になっちゃうんだねえ!」といった。しかも葬儀屋さんに払うだけで全部じゃないのだ。お坊さんに戒名をつけてもらう費用だってある。この世はまさしく地獄の沙汰も金次第・・・・・・。
朝5時にドライアイスを持って来てくれ、とても真摯に誠実に対応してくれた葬儀屋さんには申し訳ない気持ちだったけれど、わたしは「こういうんじゃない、別のやりかたもあると思うよ。これはちょっとお金かかりすぎだから、もっとほかのやりかたも考えてみようよ」といった。

それから遅いお昼を外に食べに行った時間をはさんで、ふたりで別の葬儀屋さんの情報を見たり、いろいろ検討しまくって、けっきょく朝来てくれた葬儀屋さんにもういちど夜来てもらって再度見積もりを立て直してもらい、丸一日かかってようやく葬儀の内容が決まった。
まだそう遠くには行ってないはずの父はこんな我々をどう見ていたことやら。
ビンボーなこの姉とちがって妹は最初の見積もりでも十分に支払う用意があったようだけれど、彼女にはこれからまだ終末期医療にかかった費用の清算だってあるし、それにこの先の生活だってあるのだ。父は他人にはケチではなかったけど自分にはいたって貧乏性で質素な人だったし、まして娘に負担をかけるようなことは望まないだろうから不満に思うこともないだろう。何よりお金をかけるだけがいい式じゃない。

やっと葬儀の日程が決まって二人でホッとしてドッと疲れているところに電話が鳴って、母方の伯父が近くまで来て道がわからなくなったという。妹が迎えに出て、家で待っていたら、叔父が枕花を持って現れた。疲労ハイってのがあるとしたら妹もわたしもそれだったんだろう。それから叔父を相手に妹とわたしは1時間あまりも話しつづけた。
夜9時を過ぎて、わたしはそれから家に帰って夕飯を作らなきゃならなかったから先においとまして実家を出たけれど、9月は亡くなった人が多いのかもしれない。行きに三組、帰りの駅のホームでも喪服を着た寂しそうな男性と出会った。
静かに涙を流すことも、自分の感情と向き合うこともできずに空っぽなまま、ただただ夏の最後のような青空と雲が眩しかった日。
長い長い、一日の終わり。

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最期の夜

1809sangojyu

昨日午後、妹からの電話で父の急変を知りお昼も食べずにあわてて実家に駆けつけると、父はベッドの上で酸素マスクをしてハアハアと苦しそうに荒い息をしているところだった。いっときはよくなりかけたいた誤嚥性肺炎がまたぶり返して、熱が上がり、痰がでるようになって、血液の酸素濃度が80に落ちてしまったため、少しでも楽になれと先生が酸素マスクをつけていってくれたという。でも、それさえ嫌がって父は取ってしまうから、見てないとならないということだった。
わたしは生まれてこの方たった一度だけ酸素マスクをしたことがあって、はじめての出産のとき突如、医師が「まずい! 赤ちゃんの心音が急に弱くなった! 酸素マスク!」と叫ぶと、一気に分娩室に緊張が走った。それでいきなり看護婦さんに酸素マスクをあてがわれて、「思いきり息を吸ってください!」といわれ、必死で思いきり息を吸ったときの、あのなんともいえない一気に呼吸が楽になる感じは、いまでも忘れられない。それだというのに、父の脳はそれさえ感知できなくなってしまったのか、呼吸のことより顔に何かを固定される煩わしさのほうが勝っているようだった。

そのとき、父のベッドのまわりには妹と看護師さんひとりだったのが、わたしの後から続々とヘルパーさんやらケアマネージャーさんが部屋に入ってきて、最後にかかりつけ医も到着して、このあいだとまったくおなじ状況になった。昨日も夏日でとても暑かったけれど、父は熱が38度以上もあるせいで「寒い、寒い」といいつづけていて、そのためクーラーもつけられず、暑い部屋の中で先生は汗をかきながら検査のために採血をしたり、あたらしい点滴バッグをつけたり、その扱い方を妹に説明したりと、大変だった。そして最後に父の顔を見ながら、「まだこれのほうがいいかな。それともこれも取っちゃうかな」といいながら、酸素マスクの代わりに鼻のチューブに付け替えた。すると父はそれさえ「鼻が痛い!」といってむしり取ってしまうところだったけれど、もし鼻から外れてしまうようなことがあっても、顔の近くにあればだいじょうぶだから、先生は穏やかにいった。
そしてようやくちょっと落ち着いたところで父の部屋の襖を閉めて、隣の部屋で先生からわたしと妹にお話があった。それはこれまで妹から聞いてきたことがほとんどだったけれど、父のこれまでの病状の経緯と、行ってきた治療の詳細をとても丁寧に説明してくれた。それから今日は妹からのたってのお願いで、これまで使ったことのないお薬を使ったこと。なぜこれまで使わなかったかというと、それが保険のきかない高価なお薬で、でも今日それを使ったからといって父の症状が劇的によくなるという可能性は低く、いまの状況からいって父は今週末から週明けくらいのあいだに亡くなってしまう可能性が高いから、覚悟をしておいたほうがいいということ。最後に先生が「これ以上、延命治療をすることがご本人にとってほんとうにいいこととはいえないと思うんですね。むしろそれはこっち側の気持ちの問題だけかもしれない」と先生がおっしゃったとき、わたしは「そうですね、むしろこれ以上はこちら側のエゴかもしれないと思ってました」といった。誰だって意識がはっきりしているあいだはそうだろうと思うけれど、父は寝たきりなんかになりたくなかったし、ましてオムツをされるのは嫌だったろう。それが証拠に点滴を付けられて動けなくなってしまってからも父は何度か「トイレに行く」といって起き上がろうとしたから。まだ寝たきりではない、というのが父の最期の砦だったと思う。それでわたしは「先生にはここまでほんとうによくやっていただいて、こころから感謝しています。もう十分です。覚悟という意味では、実はもうずいぶん前から覚悟はしているし、それは父が肝臓がんになったときからずっと学んできたことでもあるので、だいじょうぶです、と伝えた。
そして忙しい先生が帰ってしまい、後を追うように今日中にやらなきゃならない仕事を抱えた妹がクリニックに戻ってしまうと、先生のお話のあいだ席をはずしてくれていたヘルパーさんがふたり戻ってきて、父の介護をはじめた。父もすっかり顔なじみのベテランのヘルパーさんで、今日は父の具合が悪いからできるだけ何もしないで帰ろうと思っていたようだったけれど、実際蓋をあけたら父の着ているものからシーツまで濡れていたので、けっきょく何から何まで総とっかえしなくてはならない羽目になってしまった。そこからはもう大変だった。父は息が苦しいうえに、やせ細ってどこもかしこも骨が尖っているから、ちょっとどこかが当たっても痛い。おまけに膝から下の足がパンパンに浮腫んでちょっと触られただけでも痛がる。そういう人を二人がかりであっちに向けこっちに向けして汗だくで着替えさせたり、シーツを替えたり。そのたびに父は「あーイタイ」「イタタタタタ・・・!」「寒い寒い」といいつづけ、時にヘルパーさんの手を噛みそうなほど抵抗する。そういう場に慣れていないわたしにとっては見ているだけでも聞いているだけでも耐え難くて、身体が末端までずっと緊張しつづけた。ほんとうにヘルパーさんって大変なお仕事だと頭が下がるのと同時に、もし自分が死に向かってるというほどじゃなくて、インフルエンザにかかって熱が高くて息が苦しいくらいでもやっぱり父とおなじように、もう何もしないで黙って寝かせておいてくれと思うだろう、と思った。
でも、そうはいっても寝たきりの病人の濡れた服やシーツを放って帰ることはできないのだ。まさしく死にかけている人とヘルパーさんとの格闘の時間だった。
そして汗だくになってすべてをやり終え、ようやっとヘルパーさんたちが帰ってしまうと、父と二人だけの時間がやってきた。
妹からはちょっと目を離すと父は鼻のチューブをはずしてしまうから気をつけて、といわれていた。そして自分の帰りは8時を過ぎてしまうかもしれないと・・・・・・。

最初わたしは午後の明るい時間から暗くなるまでのこの数時間、ずっとたくさんの人に囲まれ体調の悪いなかいろんなことをされて父も声をあげたり手を振り回したりしていたから、みんながいなくなって静かになればてっきり疲れ果てて眠るだろうと思っていたのだ。
ところが父は眠るどころか目を見開いたまま、荒い呼吸をしつづけている。
何か怒っているというか、完全に神経が立ってしまっている感じで、いつもの穏やかな父ではなくなっていた。
そこからは父とわたしの果てしない攻防がはじまった。
ベッドの脇に立って見ていても、父はさっと鼻のチューブをとってしまうのだ。
取っちゃだめだよと、いくらいってもきかない。
何も痛いことはしてないし、痛いはずはないのに、痛い!痛い!という。
では先生のいうように顔の近くにあればいいかと顎の上に置いても、それでもやっぱり振り払ってしまう。なんのためにこれをつけているのか、ここから何が出てるのか、小さな子供にいうようにいってきかせてもきかないし、ねえ、これがはずれると息ができなくなって死んじゃうんだよ、お願いだから静かにしたままにしててよ、と懇願しても、妹から頼まれて看てるんだから、そのあいだに何かあったりしたらわたしが困るんだって、という泣き落としもぜんぜん通用しない。延々、付ける外すを繰り返しているうちに疲れてきて、「ね、ちょっと落ち着いて。すこし眠ろう、と部屋の電気を消して小さなテーブルランプだけにしてみたけれど、父は目をつぶることもなく、わたしが部屋の電気を消してまわっているあいだにチューブを取ってどこかにやってしまっていた。布団の上を探して右手の下にあるのをみつけて取ろうとすると、父は「痛い!何するんだ!」とものすごい顔で怒ってチューブを両手で引っぱって引きちぎろうとしたのでついにわたしもキレてしまって、「やめて! 何してるの! これがないとおとうさん死んじゃうんだよ! それでもいいの!?」とチューブを取りかえすと、死にかけの老人のどこにこんな力が残ってたんだというような力で父はわたしの手を振り払い、「もういいんだよ!」と怒鳴った。それでわたしもはじめて、ああ、そう、それなら勝手にすれば、とベッドを離れたけれど、かといってそのまま放っとけるわけもない。ふたたび戻って鼻チューブをあてがうと、ついに父もキレたのか、瞬間カッと目を見開き、わたしの顔を睨みつけると、まるでマントヒヒみたいに下顎を突きだして獣のような声で吠えだした。暗闇の中で目だけがランランと光ってすごく怖かった。父はたしかに何かがとても不快で苦しかったのだと思う。もう人からどんな不自由さを押しつけられるのもまっぴらで、自分のいいようにしたかったのだと思う。どうしていいかわからなくなったわたしはベッドの柵にもたれて、もう無理だ。これって地獄だよ・・・・・、と呟いた。そしてこれがほんとうに最期なのだということもわかった。父のこの高ぶり方は、これまでにも見たことがあるから知ってる。肺がんだった母は病院のベッドの上で、痛みからくる神経反射で本人の意志とは関係なく勝手に手や足が踊るように飛び上がっていた。そんな状態でも幼馴染の親友が見舞いに訪れて「ふみちゃん」と名前を呼ぶと、起き上がらんばかりになって言葉にならない声で返事をして「ありがとう」とお礼をいおうとした。身体がそんな状態になってまで意識がはっきりしているがんって、なんて残酷な病気なんだろうと思った。それはまごうかたなき断末魔の力だった。
わたしはそっぽを向いている父に、鼻も痛いよね、喉も苦しいよね、といった。
父はそっぽを向いたまま、うんうんと頷いた。
ごめんね、でもわたしがいるあいだはこれ、しててくれないかな。もうすぐ I ちゃんが帰ってくるから、そうしたら I ちゃんにどうしても我慢できないからはずしたいと伝えて。父は返事をしなかった。それから父の気をそらそうとして昔、車でいろんなところに行った話をはじめた。そのあいだは父は静かにうんうんと聞いているのだけれど、はずれた鼻のチューブをしようとすると頑として手で払いのけた。
そういう苦しい2時間近くが過ぎて、ふと窓を見るとカーテン越しにナース服を着た妹が自転車で帰ってくる姿が街灯の灯りに映し出されて、わたしはやっと息をついた。遅くなってごめんねー、といいながら入ってきた妹にこれまでの状況を伝えると、妹は、そうか、といって父のほうを向いて、おとうさん、帰って来たよー、ただいま、といった。すると父は妹に向かって口をあけて何かを訴え、妹は、痰とる? ちょっと待ってて、といって自分の部屋にバタバタと着替えに行った。
今夜はこれからだってまだまだ大変だろうし、妹ひとりで看られるとは思えなかったから、家に帰って着替えてからまた来ようか、と訊くと妹は、いや、だいじょうぶ、帰っていいよ、といった。瞬間的に、ここで帰るとまた母のときとおなじになる、と思ったけれど、わたしはもう汗だくだったし、どこかで身体の力を抜きたかった。わたしは昼に食べるつもりで買ってきたおにぎりとお惣菜を妹の夕飯用にテーブルに置き、へとへとになって実家を後にした。整体に行ったばかりだというのに身体が緊張してどこもかしこもガチガチだった。部屋を出ようとしたとき見えたのは、父のベッドの脇で父の痰をとってやっている妹の姿。父も妹の腕にだらりと手をかけていて、さんざん喧嘩しながら暮らしてきた二人だったけど、26で家を出た自分とちがってずっと一緒に暮らしてきた二人だから、やっぱりいちばん気を許しあった仲なんだろう、と思った。
駅前のスーパー・マーケットで買ったお惣菜を買って帰り、自分ひとりでいいかげんな夕飯をとって、お風呂に入って寝たのは1時過ぎ。布団に入ってもなかなか寝つけないまま、やっとうとうとしかけたとき、自分の携帯が鳴りつづけているのにはっと気づいた。ついに来たか、と思いながら起き上がってとると、わずかな沈黙の後に、ふだんとはちがう、とても静かな、くぐもった声があった。「おとうさん、呼吸が止まってるみたいなの」と、妹はいった。受話器の向こうから重たい空気が流れ込んだ。
それが午前2時半だった。

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