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2018年7月 6日 (金)

時を経て立ち現れた二つの物語/Narratives

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今日は朝から雨で、仕事が終わる頃にはすっかり面倒になってしまったのだけれど、今日はそれを押して夕方から出かけた。藤本さんの発語のきっかけが知りたくて。
出かけた先は国立の room103。
ここは古道具 LET 'EM INが運営するギャラリー・イベントスペースだそうだ。
ここを使っていま行われているのは、詩人・藤本徹さんと映像作家・波田野修平さんの企画による二人展、『Narratives』。
わたしが narrative という言葉を知ったのは、詩人の谷川俊太郎と医師の徳永進の往復書簡集『詩と死をむすぶもの』の中でだった。nrrative-based medicine、物語に基づいた医療。あの本もすごくいい本だった。
わたしが room103 の前で写真を撮っていると、後からやって来た女性が店先に自転車を停めて中に入っていった。そのあとにつづいてわたしも中に入ると、部屋の中は暗く、ナレーションの声が響いていた。手前のガラスのショウケースの上に、被写体のオブジェクトごとに『建物』とか『動物』のように種類分けされたリバーサルフィルムの黄色い箱が並び、下の段には日記やスケッチの紙片、封書の手紙や葉書などが無造作に置かれている。どこの誰が撮ったとも知れぬ大量のポジフィルム、名も知らぬ誰かが一心に書いた日記やスケッチや手紙・・・・・・。これらはすべてLET 'EM INが仕入れた古道具の中からみつかったのだという。みつけたのがLET 'EM INじゃなければ、とっくに廃棄されてたかもしれないし、LET 'EM INのオーナーを通じて遺品を託されたのが詩人と映像作家じゃなければ、こんな展示はなかっただろう。だからこれはある意味、数奇なめぐりあわせともいえる。
すべてはここからはじまった。
物語のはじまり。

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『トンボの記』。
藤本さんの詩の書きだしはトンボだった。
空想の中のトンボ?
壁に貼られた紙片に印刷された活字を、1枚1枚右から端まで読んでいく。
部屋の中に響くナレーションの声が大きくて、最初なかなか集中できなかったけど、白い紙の中の活字が藤本さんの声になるまで集中した。
先に入って詩を読んでいた女性が読み終わってあっさり出て行ってしまって後も、ひとり時間をかけて読んだ。読んでいくうちに自分の感情がじわじわと高揚していくのがわかった。そして最後まで読んで、「すごい、これって大作だよ! しかもとても力のある熱い詩だ!」 と思った。
それで、行く前は今日はよけいなことは喋らずに、こそっと行ってこそっと帰ってこようと思っていたのに、急に誰かに話しかけたくなって、思わず近くにいた波田野さんに「これってすごい大作ですね」と言ってしまった。すると波田野さんも、「そう、藤本くん本人も手ごたえを感じたみたいですよ」というから、「これだけのもの書けたらきっと手ごたえなんてものじゃないと思うな。たしかなものを書き終えたという歓び。自分だったらきっと感動してハイになっちゃう。」
物書きだって詩人だって、ゆで卵を温めるように時間をかけて自分の中で温めていたものが、いざ筆をおろしたら最初の書き出しからは予想もできないほど、あるいは自分でも予期しない深いところまで降りていって書くことができてしまった、その歓びったらない。それはその瞬間のためだけに自分は生きてるんじゃないかと思えるほど。この詩を書き終わったときの藤本さんもそうだったんじゃないかと思う。
壁一面に貼られた詩はたった一度しか読んでないから、それが何連だったかのかも覚えてないけど、長い詩。最初、それはどこか遠巻きに飛んできたトンボに感情移入することからはじまり、だんだん、どこまでが藤本さんの言葉で、どれが古い紙片からの写しなのかわからないほど渾然一体となっていって、しだいに古き佳き時代の文人のような(たとえば夏目漱石のような。もっというと夏目漱石の草枕のような)絵描きの姿が、リアルな肉体と声をともなって鮮やかに浮かび上がり、同時にそれは、いまを生きる藤本さんの姿、息遣いとぴたりと重なって、ふたりの人物が一体となることで時空を超えて、この現代に血の通った物語、熱い詩として結実した。これはもうフィクションとかノンフィクションとか関係ない。
正直言ってわたしは最後まで読んで驚いた。
藤本さん、この詩で才能が開花したなって。
これはもう『青葱を切る』を超えたよ、って。
そこからは延々、波田野さんと話しこんでしまった。
いつもあまりよく知らない人と喋りすぎるときまって家に帰ってから後悔するわたしだけれど、「こんな天気のせいか誰も来なくて、今日は1人も来ないかと思っていたからいいんです」と波田野さんはいい、その言葉でわたしは気が楽になった。

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帰り際に、Amleteronでやったイベントのときのものだという藤本さんの詩の入ったポケットと波田野州平さんの『半分くらいは本当の話』という冊子を買い、波田野さんの作った映像作品を見た。古道具の中にあった大量のポジフィルムから、波田野さんの視点によって選ばれ、紡ぎだされた物語。これもとても面白かった。
見ていると、さもありなん、というか、話の流れがごく自然だから、ふつうにこういうことがあってもおかしくないと思いつつ、まるで本当にあったことのように観終わってしまうんだけど、でも実際のところは無機質な(あまり感情のこもっていない)ただの記録写真のようなフィルムからこれを作りだすのは最初とても苦労したそうだ。でも逆にいえば、そこにこそ波田野さん独自のの視点があるわけで、視覚映像ということでここではよりいっそう(虚構の)物語を創作する、あるいは事実とは違うことを捏造する、ということが意図的に試みられていて、同時にいかようにも事実を変幻させ歪めてしまえる『作る』ということへの疑問も投げかけられていて、そこがとても興味深かった。もっというと、『事実』といわれていること自体にも、実は現実にあった事と物と時間と人の記憶の間に激しくズレがあるんじゃないかというようなことが示唆されていて、見終わったあと不思議な感覚に捉われた。それは、『そもそも人が何かを思いだすということ自体がフィクションを作っているのとおんなじなんじゃないか』という、波田野さんの考えをそのまま反映していると思う。
他人の撮ったフィルムの間に挿入された、波田野さんの美しい映像。
音の入れ方もとても効果的で印象に残った。
はじめて出会ったのが夏だったからかもしれないけれど、藤本さんも波田野さんも、ともに夏を感じさせる人だ。

映像を見終わった後もまたまたたくさん話した。
なかなか本人を前にしては訊きずらい(ふつうはきっと訊かない)、「映画監督って映画を撮ってないときはどうしてるんですか?」「いったいそれで生活は成り立つんですか?」なんて素人の素朴な疑問から、映画『トレイル』を観たときのわたしの率直な感想や、今日の映像を見て感じた波田野さんの可能性、波田野さんからはあの映画の成り立ち、今回のイベントでの詩人と映像作家の視点や思考回路の違い、今後したいことの話、などなどいろいろ・・・・・・。
外は来たときより土砂降りになっていて、それだけ今日は誰も来なかったってことだ。場をおなじくしたのは2回めだけれど、はじめて話した波田野さんはとても人の話をよく聴く、よく聴いて感じて話す、とても真摯で誠実な人だった。
どんな質問にも率直に答えてくれた。
正直で嘘のない人は大好きです。

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誰が遺したともしれない過去の遺物を前に、まったく違う視点で紡がれた映像と、詩の物語。そのふたつの「違う視点」こそが人の想像、興味をかきたてるいい展示だった。
欲をいえば、ここで発表された書き下ろしの藤本さんの詩と、波田野さんが自分の映像につけたナレーションの文章が載った、この会場に来た人だけが手にできる冊子のようなものがあったらもっとよかったなと思う。まあ、それだけおふたりの作品がよかった(単純に自分が欲しい)ってことなんだけど。
それぞれの活動はもちろん、今後のコラボレーションもたのしみなおふたりです。
Narratives@room103はあさって日曜日まで。

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