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2018年1月27日 (土)

はじめて父の気持ちがわかった日

18castor_oil

東京に4年ぶりで大雪が降った日の翌日、夕方いつものように夕飯の買いものに行った。雪の日に大量に作ったおでんがあったからとくに買いものに行かなくてもいいようなものだったけど、雪の日の夜からなんだか喉がイガイガしだして風邪っぽい感じで、二日つづけておでんだと野菜が足りないからホウレンソウでも買いたいと思ったのだった。
最初に行ったスーパーマーケットの野菜売り場を見てびっくりした。
棚の上がガラガラで。
この大雪で商品が届かないせいだという。
それでしかたなくそこではのど飴だけ買って、別のスーパーマーケットに行くことにした。でも行ってみるとやっぱり野菜は全体的に品薄で、残念ながらそこにもホウレンソウはなかった。いま思えばそこであきらめればよかったのだ。でも、うちの近所には3つのスーパーマーケットがあって、そこからそう遠くないところにあるものだから、すこし遠回りして帰るくらいの感じで寄ってみることにした。
はたして3つめのスーパーマーケットでホウレンソウをみつけて、ほかにも細々買いものをして、さて帰ろうと暗い駐輪場の木立ちの下を歩いているときだった。ちょうど黒いアスファルトのスロープを降りはじめたとき、すこし先の横断歩道の青信号が見えて、できれば信号が点滅する前に渡ってしまいたいなと思った次の瞬間だった。いきなり地面が目の前に迫ってきて、「え! ウソ!!」と思ったときにはもう顔から転んで地面に叩きつけられていた。
ほんの一瞬のことだった。
いったい何が起きたのかもわからなかった。

ただスローモーションの映像のように記憶しているのは、左のおでこが地面に当たってバウンドし、目の下の左頬の高いところを砂混じりのアスファルトでジャリっとこすり、同時に聞えたザクっという音に激しい衝撃をうけたことだけ。
気づけば自分は黒いアスファルトの上に倒れていて、いま打った顔といい手といい脚といいどこもかしこもズキズキ・ジンジン傷んで、しばらくは立ちあがることもできなかった。前から自転車で走ってくる人がいて、一瞬、あ、と思ったけれど目が合ったのにそのまま横を走り過ぎて行ってしまった。
それからなんとかよろよろ起き上がって、横断歩道を渡り、すぐ前の病院の敷地内に入ったところで生暖かいものがポタポタ顔から落ちてきて、もうアウトだった。
近くにいた病院の警備員さんに声をかけて一緒に病院の中に入ってもらった。受付けには警備員さんが事情を話してくれた。もうほとんど患者が来ない時間でのんびりしていたらしい受付けの男性が、わたしを見るなりものすごく慌てたのを見て自分の状態がどれだけひどいのかわかっておそろしかった。
受付けの前の椅子で看護師さんを待つあいだにも血はポタポタ流れて、手袋が血まみれになった。見かねた受付けの人がティッシュペーパーを箱ごと持って来てくれた。でもその病院はふだんあんまり救急外来、とくに外科的な救急外来患者は受け付けていないのだと思う。やっと来てくれた男の看護師さんはあまりそういうことに慣れてなさそうなひとだった。ラッキーだったのはその日たまたま当直だったのが以前かかったことのある整形のN先生だったことだろうか。
救護室では血圧と体温を測られ、ベッドの上に横になって顔のケガしたところに生理食塩水をかけられて布でごしごし拭かれ、いちばん切れて血が出つづけている眉毛のところに絆創膏を貼られて応急処置はおしまいだった。N先生はわたしを見下ろして、「目はちゃんと見えますか?」と聞いた。わたしは「ちゃんと見えます」と答えた。そんなような単純な質疑応答をいくつかしたように思う。
先生は、「よく顔を強く打ったりした後に歯の噛みあわせがおかしくなることがあるんですよ。もし明日になって何かが劇症発症するようなことがあったら、そのときには形成外科に行ってください」といった。「形が成る、と書くほうの形成ですよ。でもこの近所にはないので、大きい病院に行かないとなりません。でもそこまでじゃなかったら皮膚科に行くんでもいい。皮膚科ならこの病院にもありますから」。わたしは何かいわれるたびに返事だけははきはき返した。
応急処置が終ってベッドに起き上がると看護師さん(とても人のよさそうな優しそうな男性の看護師さん)が「だいじょうぶですか?」とわたしに訊いた。わたしは、「いつも86の父に転ばないように転ばないようにって注意してるのに自分がこんなことになってすごくショックです」と正直に心境を吐露した。するとN先生が、「こんな大雪が降った後はふだんとは違いますから。このあいだTVを見ていたら言ってましたが、一見濡れているだけに見える凍結したアスファルトの道のことを、『ブラックバーン』というそうですよ」といった。そんないいかたも実にN先生らしいと思った。N先生が「それじゃ、お大事に」といって救護室を出て行った後、看護師さんが「先生はいま何も言っておられませんでしたが、おでこを強く打っているので心配です。こういうときはたいてい後になっていろいろ症状が出てくることが多いですから、明日以降、もし何かあったらすぐに大きな病院で診てもらうようにしてください」といった。そして、この後もくれぐれも気をつけて帰るように・・・・・・

病院を出てひとりになると一気に転んでケガをした現実感が襲ってきた。
何も貼ってない頬の傷に夜気があたって引きつるようにズキズキ痛み、雪の残る夜道を注意深く歩きながら、ふとトートバッグの中からタオルハンカチを出してそっと顔にあてた。そうしてはじめてさっきまで自分がハンカチを持っていることすら全然思い浮かばなかったことに気づいた。もうあとはとにかく早く家に帰りたかった。誰とも顔をあわすことなく家に帰りつきたかった。そして頭の中でずっと考えていたのは『ひまし油』のことだ。
家に帰ったのは夜の7時で、その日子供はふたりとも仕事に出かけていて家には誰もいなかった。いま思ってもそれはよかったと思う。母親が買いものに出かけたと思ったらしばらくしてこんな姿になって帰ってきたんじゃ、みんな驚いて飛び上がってしまう。
家に入るとカーテンを閉め、ストーブをつけてしばらくその前でぼんやりした。
手も痛いと思ったら、左手の親指の腹に大きな血マメができていた。
ジーンズをまくって見たら左の膝のまわりが青黒くあざになっていた。
ケガはぜんぶ左半身に集中していた。
それから意を決して洗面台の前に行っておそるおそる鏡を見た。
数年前に父が遠くのスーパーマーケットに行って重いものばかり買って両手荷物で帰る途中、家のすぐ近くまで来てコンクリートの歩道の上で顔から転んで四谷怪談みたいな顔になったことがあったから、自分の顔がどうなってるかは大体想像がついた。あのときだっておそろしいのとかわいそうなのとで実家に行っても父の顔が見られなかったわたしだ。でも自分となればそうもいってられない。
顔は、、、、、、見るも無残にオバケみたいになっていた。
左の顔を下にして倒れたせいで目の周りを強く打って腫れあがり、眉毛の中、額、まぶたの上を切って頬の高いところを広い範囲で擦りむいていた。
人間の顔なんて一瞬にして変わっちゃうものだなあ、と思った。
目の周りがまるでアイラインを引いたように黒くなってるのを見て、いったいこれってちゃんと元通りに治るんだろうか、と不安になった。
そしてやった当日より明日のほうがもっと腫れるのは目に見えていた。
もうため息しかなかった。
でも、冷静に観察した後は淡々と手当てするしかなかった。
お湯を沸かして温めたタオルで傷のない部分の汚れた顔を拭き、傷の部分は化粧水のポンプボトルに水を入れて軽く洗った。それからいつか『ひまし油湿布』にトライしようと買っておいたネル布を切って、たっぷりとひまし油を浸して傷口にあてた。そのときのなんともいえずほっとした感じは忘れられない。ひまし油の滲みたネル布は患部に温かく、やわらかく包みこまれるようで、それまでズキズキしていた痛みが急速にやわらいでいった。同時に気持ちも落ち着いてきた。
まさしく、キリストの御手。
それを実感した瞬間・・・・・・。
わたしの勘は当たった。
ひまし油を買っといてよかった、と心底思った。
そしていまはどうでも、あとはもう自分の免疫力、治癒力にまかせるしかない、と思うことができた。

そのあとは洗濯物をたたんだり、静かにできることをしていたのだけれど、気持ちが落ち着くにしたがって浮かんできたのは、この日はじめて父の気持ちがわかった、ということだった。
もう十数年以上も前のこと、父は駅前の踏切近くで派手に転んで大ケガをした。
やっぱり雪がちらちら舞うような寒い日で、そのころまだ細々とだけど仕事をしていた父は、夕方集金したお金をどこかに持って行く途中だったかなんだかで、先を急いでいたらしかった。もうすぐ踏切を渡り終える、というくらいのところで信号機が鳴りだして、急ごうと思った瞬間に転んだらしい。父は「足がもつれて・・・」と言っていたけれど、それもたぶん、後付けの話なんじゃないかいまはと思う。なぜならこの日わたしは自分が転ぶなんてまったく思わなかった。転んでる最中もなんで自分がこうなるのか全然わからなかった。直前までなんの兆候もなかったし、だから身構える暇もなくもろに顔から転んでしまったのだ。父と共通しているのは目の端(頭)に信号機が映ったとたんに転んでいること。つまりスリーセブンの7がカチッと合うみたいにこういうことが起きてしまう瞬間があるんだってことだ。そして、そういうときに転んだ人間をどう責めたところで無意味だよねってこと。自分でも何が起きたんだか全然わかってないんだから。そう思ったらなんだか急激にあのときの父の気持ちがわかって、いまさらながら父がかわいそうになってしまった。

そしてしみじみ思うのは、自分も年だなあ、ってこと。
このあいだのスイミングクラブでの81歳が80歳に話してた『81になってみなさい、わかるから』には笑ったけど、だんだん1歳の重みがずっしり重くなっていくんだろう。だんだん今日みたいに意識と身体が即座に連動しないことが多くなって。
毎年、自分の誕生日前後にはたいてい何かあるから注意してたのに、いったいわたしは何をやってるんだろうなあ・・・・・・
でもいま、それから5日経ったいまはもうちょっと冷静に当日の自分の動きをを分析してみることができる。わたしは雪掻きのされた雪のないアスファルトの上を歩いている気でいたけど、N先生がいうようにそこは一部が凍結したブラックバーンで、青のメモリが半分以下になった信号機を見て勢いよく足を右・左と踏み出して左足のときに足を滑らせ、そのまま前傾姿勢のまま一気に顔から行ってしまったんだろう。それでケガはぜんぶ左半身、とくに顔に集中してしまったというわけだ。おりしも慣れない長靴で、風邪気味だったこともあり。やれやれ。やっとわかった。

翌日、会社の同僚だけには伝えておこうとメールで事情を説明したら、彼女はひまし油なんて伝承療法はきっと全然信じない人なんだろうなあ。しきりに消炎鎮痛湿布剤を貼ることをすすめられたけど、傷がある(とくに顔に貼れる)消炎鎮痛湿布剤なんてまったく思い浮かばないし、仮にそんなものがあるとして、傷口にひまし油湿布を貼ったときのあの安心感こそが正しい選択だったと信じているから、補完・代替療法の医療系ベンチャーに勤めるわたしとしては、このままひまし油を貼って夜だけ冷やすという方法でどんなふうに治癒が進んでいくのかを自分の顔で観察してみようと思う。
ちなみに4日も過ぎたいまさら『顔の傷を早く治す方法』と検索してみたら、『湿潤療法』というので、簡単な方法としては『ラップにワセリンを塗って患部に貼る』というのが出てきた。なるほど、ラップなら剥がすときもくっつくことなく剥がせそうです。滅多にお世話になることはないだろうけど、しっかり覚えておこうと思う。
まだまだ雪がふりそうなこの冬、これを読んでる人もわたしみたいにケガをしないようにくれぐれも気をつけてください。

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コメント

しばらくブログが更新されないので、もしやお父上が具合が悪いのかしらと思っていましたが、なんとご本人が見事に転んでしまわれたとか。大変でしたね。
大変なお怪我の様で。どうぞお大事に。早く回復されるよう祈っています。

投稿: mocyako | 2018年2月 1日 (木) 11:16

そうきちさん
 お怪我の方は快方に向かっていますか。
ブロッグの更新が途絶えていたので心配していました。
私の方は少しだけ元気です。ご心配かけました。
 そうきちさん、大けがの中でも気を使っていただきまして
感謝・感謝です。
 雪が降れば確実に春が近づいてきます。
春が来るのを心待ちにしています。
 お身体ご自愛くださいませ。

投稿: 味噌部ユキさん | 2018年2月 2日 (金) 10:35

mocyakoさん、

お気にかけてくださって、ご心配いただいてありがとうございました。
もうほんとに1月はつらかったですけど、でも人間の治癒力って偉大ですね。
まだ頬の高いところは傷治りたてでピンクで、いちばん打撲して切れた眉のところは色が変わってて触るとまだ痛いですけど、でも95%方ほぼ治りました。
何より目が無事だったのと、骨折したりしなくてよかったです。
そしてもう二度とあんな経験したくないですね。
もうこの先は年々気をつけなくっちゃって思いました。
父はそれなりに元気そうにはしてるんですが、ほんとに食べなくなって、それからどんどんボケて身体の機能も衰えて、一緒に暮らす妹は大変です。
長生きについてはいつも考えさせられてます。
このあいだ急逝された野村幸代さんみたいなのがいちばんですね。
まわりはあまりに突然でボーゼンとしてしまうと思うけど。

インフルエンザが猛威をふるっているようです。
mocyakoさんも気をつけて、暖かくしてお過ごしください。

投稿: soukichi | 2018年2月 5日 (月) 23:42

ユキさん、ありがとう!

すこし元気になられてよかったです。
そういうときはここにメッセージじゃなくてお電話でもください。
人間、バカなこと言って笑ったらすぐにちょっとは元気になります。

そして、おかげさまでわたしも元気になりました。
人間の治癒力も偉大だけど、ひまし油湿布も偉大だった!
たぶん、ほとんど傷跡も残らないで治りそうです。
やった後1週間はほんとにオバケみたいだったのに・・・。
傷や打撲だけじゃなくて肌荒れや抜け毛、点眼にも使えますから、ユキさんも必要とあらばよろしかったらお試しください。
ただし、使うのはオーガニックのひまし油です。

ユキさんは今年はもうお味噌の寒仕込みは終わりましたか?
そしてまだまだ寒い日がつづきそうですけど、ご自愛のほど、
お元気でおすごしくださいね。

投稿: soukichi | 2018年2月 5日 (月) 23:53

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