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2017年10月24日 (火)

ヒヤシンス

17hyacinthus

月曜は実家に夕飯ヘルパーに行く日で、きのう父の夕飯時刻の6時前に着くと、父はホットカーペットをつけたうえに電気ストーブまでつけて部屋の中は暑いくらいだった。夕飯ヘルパーといっても、昨日も出がけまで仕事でバタバタしていて作る時間もなく、けっきょくまた駅前でお寿司を買って自分はお味噌汁を作っただけなのだけど。なかなかうまくいかない。

それでもとにかく生ものが好きなひとだから、こういうものさえ買って行けば前は喜んで食べてくれたのだけど、今日は最初のひとつを「うまい」といって食べたほかは、ちっとも箸が進まない。もう86にもなると前みたいに食べれなくなるんだ、とか、お父さんなんて一日二食、いや一食でもいいくらいだ、とか、まわりはもうみんな死んじゃってる歳だ、とか、食べるかわりに言いわけばかり延々と喋る。そのあいだにも作ったばかりの味噌汁は冷め、TVからはうるさいばかりに音が鳴りつづけ、食事中に聞きたくないような陰惨なニュースが垂れ流され、それでも父はTVに釘付けのまま、とんちんかんな相槌を打っている。それを見ているわたしは心底げんなりしてきて、わざわざ自分が時間を作ってあたふたとここに来る必要なんてないんじゃないかと思えてくる。

父と話していてももう自分の娘のことも孫のことも一緒くたで、何を言っているのかわからないくらいだけれど、それ以上に父はもうずいぶんふつうのことができなくなってきた。
食事をしていても咀嚼力もなければ飲み込む力もないから口の中のものがいつまでたってもなくならない。そのくせ口いっぱいに頬張るもんだから、なおさら牛が反芻するみたいにいつまでも噛みつづけている。もうそうなると、おいしいとかまずいとかじゃない。そういう食事はたぶん、父にとっては疲れるだけで、身体に必要なだけ食べられないからどんどん痩せて、とっくに体重は40キロを割っている。常にエネルギーが足りないから自力で体温を上げることもできず、夏でも冷たい手をしている。骨と皮ばかりになって、とうぜん筋肉も筋力もないから歩くことはもちろん、家の中で立ったり座ったり、食事中にちょっと姿勢を変えるのだって一苦労だ。困ったことに最近はトイレまで間にあわなくって、粗相をすることも増えたらしい。
そういう父の先にあるもののことを考えたらいずれは間違いなく寝たきりになるということで、そうなった父にいったいなんの愉しみがあるだろうかと思う以上に心配なのは、一緒に暮らす妹の大変さ。もちろん、そうなったらわたしだって他人事ではいられないけど、所詮わたしは一緒に暮らしていない人間だ。そんなわたしにいったい何ができるだろう?
毎日、父と顔つき合わせて面倒みなきゃならないのは妹なのだ。
こういうことはあまり悲観的になってもしかたがないと思うけど、かといっていまのうちにできる準備はさっさとしておいたほうがいいのではないか。
妹は医療従事者だから仕事場でも嫌というほど老人を見ていて、わたし以上になんでも知っているだろうし、それ以上に父との生活で日々いろんな問題に直面して痛感しているだろうと思うのだけれど、姉と妹の性格の違いというものなのだろうか。いつだって姉の思考のほうが早く、妹はスローときてるのだ。いくら姉妹といってもわたしは家を出た身であってそうそう何がいえるわけでもなく、いったところでうるさがれるだけで、いつも内心やきもきしている。
そんなだから、最近わたしが母の仏壇の前で祈ることも変わってきている。
父はもうじゅうぶん長生きしたし、何より当人がいつもそういっている。
もうやりたいこともなければ行きたいところもなく、食べたいものすらないのだ。
いずれいまよりもっと何も判別できなくなり、身体は動かなくなる。
でも妹にはまだ自分の人生がある!

最近話題になったけれど、欧米には日本のような寝たきり老人はいないそうだ。
何故かというとそれは単純な話、寝たきりになる前に亡くなってしまうからだという。
一生分の医療費のほとんどを終末医療で使ってしまうといわれるこの日本と違って、欧米では高齢者に対して不自然ともいえるような手厚い医療は施さない。
自力で食べることができなくなった高齢者を胃ろうにしたり、点滴で栄養を与えるようなことをしないばかりか、肺炎になっても抗生物質さえ打たないというのにはちょっとびっくりしてしまうけど、それは高齢者をないがしろにしているわけではなく、むしろ本人の命の尊厳をおもんぱかってのことだという。
自力で生きていくことができなくなった人間は自然と死に向かう。
それを無理やり現代医学の力で延命したりはしない、ということだと思う。
一概にどちらがいいとはいえないけれど、大学病院でがんの標準治療を受けている限り、80過ぎても90過ぎても再発すれば可能な限りオペをする、という、日本の医療のあり方にいつも疑問を感じているわたしには欧米のやりかたのほうがより自然な医療、自然な死に方に思える。
人間、ただ生きていればいいってもんじゃない。
日本の医療も、いつか欧米のようになるだろうかと考えるとき、それは社会や個人の死生観や思想が成熟するとかじゃなくて、もっと危機的な問題、いまもいわれている医療の崩壊によって物理的にそうならざるを得ないんじゃないかという気がする。そしてこの日本において精神の成熟なしにそうなったらなったで、それは新たな悲惨を生むんだろうなと思う。
この世に生を受けたかぎり、生きている間は何があっても生きなきゃならないし、死ぬタイミングは自分では選べない。全ては宇宙タイミングなのだとして、でも頭も身体もしっかりしているうちに、自分はどう死にたいのかをしっかり考えておかないといけない。

最近実家に行って気になるのは、いつでも仏壇の花が枯れていることだ。
仏壇の手入れは信心深い父の役目で、お父さんは花屋に行くのを楽しみにしてるからわたしは行かないんだ、と前に妹がいってたのに。
気力がないのか、お金がないのか。
そのどっちもなのかな。
昨日なんか仏壇の花はカラッカラに枯れて、花瓶に水も入ってなかった。
そういうの、母はいちばん嫌いだったのに。
だから最近は、食べものだけじゃなくて花も買っていく。
実家の最寄りの駅前の花屋は、なんてことのないふつうの花屋だけれど、よく切り花の蘭が安く売られていて、昨日は緑のシンビジュームがとてもきれいで、母はこんなシンビジュームが好きだったっけな、と思って買って行った。
「ほら、きれいでしょう」と父に見せると、父も「きれいだなあ!」と感嘆し、そう、この父は最近お墓参りに行っても花がきれいだきれいだというんだった。
蘭は買うときちょっと高くてもほかの花よりもつからいい。
わたしは仏花は嫌いだし。
シンビジュームを買って店を出てしまってから、外の鉢花の近くにヒヤシンスの球根をみつけて白いのをひとつ買った。家に帰って、ごはんの支度をするより先にヒヤシンスポットにセットした。何故だかしらないけどすごく急いた気持ちで。
ふだんは花瓶として使っている透明度が素晴らしく高くて美しいヒヤシンスポットは、さこうゆうこさんのです。

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