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2015年5月21日 (木)

赤い実を食べた

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昨日は日付けが変わったあと急にバタバタ雨が降りだしたと思ったら風が

吹き荒れはじめ、次いで火事でも起きたのか消防車と救急車とパトカーの

サイレンがけたたましくその後を追った。それからは激しい暴風雨と低いと

ころで爆弾が破裂するような雷の音、時折りカッとフラッシュライトのように

一瞬部屋の中を照らす稲妻と ・・・・・・。雷が炸裂するたびにガラス窓に圧

がかかり、寝ていても振動音が響いてくるほどの物凄さで、まったく生きた

心地がしない恐ろしいばかりの夜だった。でも明けてみればこの天気だ。

いったい昨夜は何だったんだろう、と思うけれど、日中は最高気温27度の

初夏の陽気だったのが、夕方から急に涼しくなったことを考えると、上空で

暖かい空気と冷たい空気が激しくぶつかりあった結果なんだろうと思う。

けっきょく寝たんだか寝ないんだかわからないままよろよろ起きて、洗濯を

して朝食をとって、あわててリハビリに行った。

1月に生まれて初めて整形外科の診察を受けてリハビリをすることになって

あっという間の4ヶ月。

リハビリルームから見える窓の緑もすっかり鬱蒼としてきた。

この病院は西武多摩湖線の線路沿いにあって、リハビリルームはちょうど

線路脇の土手の斜面の下にあるせいで、窓いっぱいに土手の緑が広がる。

椅子に座って痛む肩に電気をあててもらいながら、窓枠いっぱいに広がる

緑を眺めていると、まるでここが森の中ででもあるような錯覚を覚える。

風が吹くたび揺れ動く瑞々しい緑の葉っぱと、移ろう陽の光のきらきら輝く

粒子 ・・・・・・

窓から緑が見える、というただそれだけのことで、人はどれだけ癒されるだ

ろう。人が気づいている以上に、人は植物からたくさんの力をもらっている。

ふだんあれだけ病院嫌いの私が規則正しくここに通って来られているのも

もしかしたら、ひとつにはこの緑のロケーションにあるのかもしれない。

今日は昨晩の嵐が嘘のような快晴で、今日も自転車に乗るとサドルが熱か

ったけれど大気は涼しいくらいで、ちょっと風もあってここちよい。

帰りは緑道の緑を見ながら帰ろうと道を曲がったら、すぐに素敵なものを見

つけた。

桜の実!

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わあ! と思って思わず自転車を置いて木の下に行くといっぱい生ってる!

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風にそよぐ緑と光のコントラスト、そのなかで揺れる色とりどりの桜の実の

うつくしさに夢中で写真を撮っていたら、向こうから2人で歩いてきたらしい

年配の女性のひとりが、かたわれの女性に「さくらんぼ?」と訊いた。すると

すぐにもうひとりの女性が「食べれないけどね!」とつまらなそうにそっけな

くこたえて、ふたりは立ち止まることもなく通り過ぎて行った。私は彼らを見る

こともなくカメラを桜の実に向けたまま、なんて現実的なんだろう、と思った。

年をとった女のもっとも嫌なところ。私が年をとった女のもっともつまらないと

思うところ。私がつきあわない人たち。

つまらない日常のあらゆるところに夢の入り口は隠れているのにね。

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あんまりきれいなので少し摘んで持って帰ることにした。

うつくしいということはうつくしいというだけで価値がある。

それは言葉になり絵になり音楽になる。

私の友達はそれがわかる人だけでいい。

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それからもう少し先に行ったところで大きな傘みたいな木を見つけた。

これは早春のころ清らかな花をいっぱいつけていた枝垂れ梅の木。

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ほんとに大きな傘みたい。

あまりに凄いのでここでも木の下に立って揺れる緑を見ていたら、なんだか

瞑想的な気分になった。

木はうつくしい。

昔から私は自分が住んでいるここを木が多いのだけがいいところだと思って

いるけれど(それは思いのほか大きいことかもしれないけれど)、もはやそれ

以外ここにいる理由は何ひとつないんじゃないかという気がした。互いの家を

仲良く行き来しあっていた友達ももうとうにいないし、ここは中途半端に雑多な

街の匂いがして、木があるところ以外、どれだけ長く住んでも好きになれない。

それに私はここであまりにも多くのものを失いすぎた。

つくづく心底、引っ越したいなと思った。

鳥のように自由に明日の寝床を移すことができたらどんなにいいだろう!

家に帰って、おいしくないことはわかっていたけど、好奇心から娘と赤い実を

食べてみようということになった。熟した実をふたつ選んで、洗ったのを先に

口にした娘が「う! まずい!」といってすぐに口から吐き出した。すごく苦か

ったそうだ。それで私は後につづかなかった。

赤い実はベランダに来る鳥にあげよう。

できれば食べられるさくらんぼの生る木をどこかにこっそり植えたいもんだ。

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コメント

はじめまして。

僕もきっとその実を見つけたらワクワクして写真を撮ったり持ち帰るだろうと思いました。

そして、そのあまりにも切ないほどの苦さを一度知ってしまったが最後、先の「食べれないけどね!」とつまらなそうにそっけなく言った女性のようになってしまう可能性も否めないなとも思いました。

すごくワクワクしている時のその裏切られたような気持ちは、人によっては絶望感となり好奇心を失わせてしまうほどの力を持っているのかもしれないのだなと。

ハートのエースが瞬時にジョーカーに様変わりし兼ねないこのお話、深く胸に刻み込んでおきます。

どれだけ深く知っても無邪気に愛することの大切さを教えて頂けたように感じましたもので。

投稿: ぴょん | 2015年5月23日 (土) 07:57

ぴょんさん、うさぎさん、かえるさん、子ガラスさん、

はじめまして。
メッセージ残してくださってありがとう。

ぴょんさんは繊細で、(きっと)ロマンチックな人ですね。
最初、このメッセージを見て、ヒーラーかカウンセラーの方かなと思ってしまいました。
そして、ぴょんさんのメッセージを見てあることを思い出しました。

その島に住んでいるお婆さんは夫を亡くして以来ずっと1人で明るくたくましく生きてきたのだけれど、そこにある日夏休みで美しい小鳥がやってくる。小鳥は世間知らずで無防備でいつもお腹を空かせていて、元来世話好きで茶目っ気のあるお婆さんは彼をからかったりご飯を食べさせたりしているうちに、いつのまにか小鳥を好きになってしまう。年甲斐もなく若い女の子みたいなドレスを着てみたり精一杯かわいいらしいところを見せたりするのだけれど、でも小鳥とお婆さんはあまりに年が離れていて小鳥には恋愛対象には映らない。小鳥は若くてナイーブだけど、自分の気持ちの及ばないところではインセンシティブです。やがて小鳥は美しいお魚に恋をして、お婆さんは落胆のうちに視力を失ってしまう。小鳥は美しいお魚にふられ、夏休みも終わって都会に帰る。島はまるで時が止まったような郷愁に満ちたパラダイスだけど、未来の感じられないところで、ここは僕のいる場所じゃないと思って。それから何年もして小鳥がずいぶん大人になってまた島に行くと、もうお婆さんは死んでしまっていない。彼女の部屋には小鳥と撮った楽しげな写真がフォトフレームに入れられて飾ってあるだけ。

これはある映画の比喩です。
この映画を見て、私は日本映画にしてはよくできたおとぎ話みたいだと思って好きだったんですけれど、親友はあれは最低な映画だったとすごい勢いで批判した。
彼女は無邪気で鈍感な若い小鳥に翻弄されたお婆さんのほうに激しく感情移入してしまったんです。まるで自分が捨てられたかのように。
でも、お婆さんの恋は最初からどうなるものでもなかった。
でも美しい小鳥がそばにいるあいだ、お婆さんはいっとき孤独からも退屈からも解放されて久しぶりに生き生きした時間を過ごした。
気持ちだけはまるで若い娘のようでした。
どっちが貴重かという話です。

私が嫌なのは、常に自分の現実的な目線になんでも落とし込んでしまう人です。
食べられるか食べられないかを最重要視してしまう。

桜というのは、同じ種類の木の雄しべの花粉が雌しべに付いても実を結ばないんだそうです。
近くに違う種類の桜の木があって、他の木の花粉がくっついて初めて実を結ぶ。
この緑道には寒緋桜から河津桜、ソメイヨシノにサトザクラに大島桜、いろいろな種類の桜があって、鳥がたくさん来るからこんなきれいな実ができたというわけです。
それだけでもなんだかロマンですよね。
桜の頃にここに来たとき、鳥もメジロにヒヨドリ、それに南国にいるような大きな緑のインコまでいてびっくりしました。

私はもともと、食べられるかどうかはどうでもいいタイプです。

投稿: soukichi | 2015年5月24日 (日) 21:56

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