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2013年11月12日 (火)

兼用できないもの

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7年間専業主婦だった私がとつぜん仕事を探しはじめたのは、ある約束のため

だった。2週間以内に仕事を見つけると約束してしまったのだ。私も重い荷物を

はんぶん背負うために。

働くといってもまだ下の子どもが2歳半だったから遠くに働きに行けるはずもなく

働き場所は近所で見つけるしかなかった。とはいえ私が住んでいる市は企業が

少ないせいで税金が高いくらいだから、そうそう仕事があるはずもなかった。

だから近所を自転車で走っていて、電信柱に貼りつけられたその求人募集の

チラシを見つけたときには驚いた。そこには『A編集室』とあった。

A編集室? まさか、こんなところにそんな仕事場があるなんて。

それはできるだけ自分が興味を持てる仕事、できれば言葉の周辺にある仕事

に就ければと思っていた私には格好の求人だった。

さっそくチラシに書かれた電話番号に連絡して面接に伺うと、そこはふつうの

民家の一軒家で、私は執筆者であるAさんの書斎兼仕事場のような部屋で面

接を受けた。彼はいかにも物書きらしいちょっと変わったところのある面白い

人だったけれど、私はどちらかというとそういうちょっと変わった人に好かれる

傾向にあるからすぐにそこで働くことになった。

かくして約束通り2週間以内に仕事を見つけた私だけれど、もう片方の約束が

守られることはなかった。ついに。人生って無常だ。

これから寒くなろうという季節に専業主婦だった私はいきなり小さな子どもとと

もにポンと放り出されてしまったのだった。でも、とにかく働かなくちゃならない。

いまでもよく憶えているけれど、あさ自転車に乗ってその家の前まで行って生

け垣の横に自転車をとめると、チャイムを鳴らさずに2階に上がる。仕事場は

廊下をはさんでAさんの書斎の向かいに側にあって、木の引き戸をがらがらっ

と開けると、Aさんの長年のアシスタントらしい男性の机が西向きにひとつあっ

て、南の窓際に向かって3つか4つ机が並び、その一番端が私の席だった。

A編集室というのは辞書を編纂している編集室で、すでに何冊かの辞書を世

に送り出していたAさんが執筆した原稿のゲラの校正がアシスタント以下その

部屋でのアルバイトの仕事だった。たしかふつうの原稿が2校か3校するとこ

ろを辞書の場合は6校か7校はしなくてはならない。延々と続くスタティックで

単調な仕事。辞書だからもちろん、間違いはご法度だ。ゆえに仕事場にはい

つもピンと張りつめた空気があって、かろうじてアシスタントの男性が机の上

で鳴らすラジオの音はあったけれど、それ以外はひたすら鉛筆を走らせるさら

さらという音と紙をめくる音がするだけで、うっかりため息をつくのも、お昼前

にお腹がぐぅと鳴るのもはばかられるような、私には息が詰まるくらい静かな

仕事場だった。

部屋の入り口から近いところには東向きに置かれた小さなテーブルがあって、

上にはお茶筒と急須に湯の入ったポット、インスタントコーヒーや紅茶のティー

バックやスティックシュガーやミルク、それにみんなのマグカップや湯飲みなん

かが置かれていて、とくに決められた休憩時間はなく、疲れたときや一段落し

て一息いれたいときに各人そこで自由に飲みたいものを作って飲んでいいよ

うになっていた。でも、そうはいってもまだ入ったばかりで勝手もわからず緊張

している新参者には休憩のタイミングすらつかめず、息を詰めて仕事をしてい

る私を見かねて先輩の女性が私の分までお茶をいれて持ってきてくれるよう

なことがよくあった。

そんな最初のころ、もうすぐ日も暮れようというころになってAさんが白いビニ

ール袋をさげて部屋に入ってきた。Aさんは外出から帰って来たところのようで

小腹が空いちゃって、そこでお団子を買ってきたからみんなで食べようという。

そこでA氏が自らみんなにお茶をいれてくれたのだけれど、私に「あなたの湯

飲みはどれ?」と聞くから「このマグカップです」というと、「マグカップ? いけ

ないねえ」という。日本茶だろうがコーヒーだろうがマグカップひとつでなんでも

飲むのは無粋でいけない、というのだ。私は自分の家ならともかく仕事場だか

らいいと思っていたのだけれど、A氏さん「ちゃんと湯飲みを持ってきなさい」

というので、いうとおりに翌日持って行った。

そのとき、Aさんのそういうところ、いかにも文学者っぽいなあ、と思った。

そしてそういう人って好きだ。食器なんか100均でいいという人、私はだめ。

日本人の日常生活は和洋折衷どころかものすごく多様だから、必要以上に

物を増やさないためには兼用で使えるものは兼用したほうが合理的だけど、

でも兼用できないものってある。たとえば日本茶の急須。

実をいうと我が家にはずっとその急須がなかった。

娘に備前の土瓶を割られてしまってから、ずっと。

貧乏暇なしの生活だとなかなか器にまで趣向を凝らす余裕がないのと、とにか

く何にせよ好きなものがピンポイントしかないものだから、なかなか好きな急須

を見つけられずにいた。気に入らないものを買うくらいなら少々不便でも無くて

いいってタイプだから、ずっと、それこそなんでもいれちゃうこのポットで日本茶

もいれていたのだった。

でもここへきて、こう寒くなって熱いお茶がおいしくなってくるとなんだかそれも

味気なくなってきて、本気で急須を探しに探して、やっと見つけたのがこれ。

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境 道一(さかい・みちかず)さんの急須。

一見備前のように見えるけれど、この赤っぽい色は備前じゃなくて南蛮焼きだ

ろうなあと思ったらその通り、南蛮焼き締めだった。でも、作家の境道一さんの

経歴を見たら岡山の備前陶芸センターで学んだあと備前焼作家に師事したと

あるから、備前ぽいのもなるほどだった。

備前は遠赤外線効果で中に入れたものをなんでもおいしくしてくれるから、で

きればまた備前の急須がほしいと思っていたけれど、これがなかなかどうして

好みのものがない。今回はひとつ見つけて最後までそれと迷ったけれど、これ

にしてよかった。その備前のはかたちはよかったけれど緋襷でうちには明るす

ぎたから。

このどこかの遺跡から堀り出してきたみたいな渋い急須はうちにぴったりだ。

ぴったりなものって、初めて置いた瞬間から違和感なくなじんで、まるで昔から

ったみたいにしっくりする。

そして、さっそくお湯を沸かしてお茶をいれてびっくり。

いつもの三年番茶がまるでいつものお茶じゃないみたいにおいしい。

磁気のポットでいれたお茶とは大違い。

急須ひとつでこんなにもお茶の味が変わるんだなあ、やっぱり器って大事だな

あ、とあらため思ったしだい。急須にお湯を注ぐときの音もとてもよくて、これ

ってまさしく冬の音だ、と懐かしく思った

やっぱり兼用できないものってあるのだ。

A編集室の話に戻ると、そこでの校正の仕事は長くは続かなかった。

私にはまったく向いてない仕事だったうえに、そのころ精神的にズタボロ状態

だったには例文としてあげられていた短歌や俳句がどうやってもただの記

としての文字にはならなくて、感情を揺さぶられては人知れず涙・涙でミス

してばかりだったのと、辞書の出版が遅れに遅れてコストばかりかかったせい

で私の仕事は自宅での出来高制にしてください、とアシスタントにいわれたと

ころで辞めるこにした。辞めるとき、「ぼくは君いいと思うんだけど、どうやら

彼には気に入られなかったみたいだね」とAさんはいった。そりゃそうだ。ミス

ばかりしてりゃ。

そんなわけで、A編集室での仕事は数ヶ月で終わりとなってしまったけれど、

こではたぶん、生涯の友とるであろう大事なひとと出会ったから、やっぱ

最初から私はそこで働くことになっていたんだと思う

私が辞めてから何年後のことだったろうか。

そこで働いていた女性から電話があって、Aさんが亡くなられたことを知った。

まだ50代だったと思う。

学生のころからとても優秀で将来を嘱望された方だったようだけれど、どんなに

優秀な人でも、それまでどんなに健康だった人でも、またどんなミッションを抱

ていようとも、人は死ぬときには死ぬ、と最近、よく思う。

共有した時間の長さに関係なく、人のこころに何かを残していく人というのがい

て、Aさんもそんな人だった。たった数ヶ月働いただけの私がいまこのような回

想録を書こうとは、ゆめゆめAさんも思うまい。

あのとき私が校正に携わった原稿は後に『必携季語秀句用字用例辞典』とし

無事に出版されたようだ。

そんなことを思いだしながら熱いお茶を飲む晩秋の日。

いただいたおいしい栗蒸し羊羹と。

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ちなみにこの急須、わざわざさんで買いました。

なぜショップ名が『わざわざ』なんだろうと思ったら、長野の山のてっぺんに

お店があって「こんなところまでわざわざどうも」って意味だったんですね。

このわざわざさん、まるで宮崎駿の映画に出てきそうな素敵な薪釜を持ってい

て、ホームページの写真も出てくる素敵な素敵な女性が毎日、抱えるほど大き

なカンパーニュを焼いているのです。それがとってもおいしそうなのだけれど、

少し前、彼女はiPhoneで撮りためた映像を編集したという『みまきカンパーニュ

ができるまでの全行程』というムービーをYouTubeにアップされたということで、

ブログには「世界中の人にみて欲しい」とあって、そのきっぱりした明るさに私

は惚れてしまいました。

彼女の焼く、おいしそうなパンもいつか買ってみたい。



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