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2013年10月18日 (金)

ダメージ

13rose

人はいままさに危険な領域に足を踏み入れようとするとき、どこまでその危険

性に気づいているものだろうか。

傍の心配をよそに、おうおうにして当事者である本人は意外にもその危険性

にいささかも気づいていない、ということのほうが多いのではなかろうか。


『ダメージ』という映画を見たのは、家族がひとりいなくなってしまった後のこと

だった。

子どもが寝静まったあとの深夜の暗いリヴィングで、独りでその映画を見終わ

ったとき、あまりの衝撃でしばらく身動きもできなかった。

社会的にも家庭的にも恵まれ、成功者ともいえるポジションにいて何不自由

なく暮らす男が、ある日ファム・ファタルと出会って恋に溺れ、文字通り何もか

も失くしてしまう物語。

繊細さが服を着ているみたいなジェレミー・アイアンズの腺病質なルックスが

どこか消えた家族の面影とも重なり、当時の私にはよりいっそう衝撃だった。

しかもラスト近く、主人公の男が空港でかつて自分が全てを失うことになった

原因である相手の女に遭遇したとき、すでにその女はファム・ファタルどころ

か、ただの平凡な家庭の主婦になっていた、というオチ付きだ。そのとき、男

の胸に去来したものは何か。

いまは人の妻となって母となって幸せそうに微笑む女の横顔とは対照的に

ラストシーンの男の身を切るような孤独と落ちぶれようは見ているこちら側

までうすら寒さをおぼえるほどだった。

『ダメージ』という簡潔なタイトルにはパーフェクトすぎる物語。

このダメージが意味するところは重層的で深い。

これが愛の国フランスの巨匠ルイ・マル監督、60代にして最期(正確には遺

作の前作)の作品だとは。

それがたとえどんなに大きな代償をともなおうとも、人は嵐のように激しい愛

の衝動の前ではなす術なく無力に従わざるを得ないのか、でも、そうやって

身を投じた愛さえ過ぎてみればただの幻想に過ぎない、という。それが監督

のいいたいことだったかどうかは知らないが、私にはそのように受けとれた。

映画人として見るならこれだけの情熱とインパクトを遺して世を去れたのは

すごいことだと思うけれど、ひとりの人間として見るならもう少し現世における

幸福な側面を描いて終わりにしてもよかったのに、と思わないでもない。

そして、いまさらなぜそんなことを思い出して書いているかというと、それはこ

こには書けない。なんでも書くわけじゃないからだ。

(いつか、このブログを読んでいるという男の人から「私はあなたのことは何

でも知っている」というメールをもらったことがあるけれど、馬鹿いわないでく

れ、と思う。なんでもここに書いてるわけじゃなし、むしろ書けないことのほう

が多いくらいなのに。それに「書いてある」ことがすべて事実だと思うなんて

どうかしてるよ。)

でも、少なくともこの文章をいまの自分に照らして書いているわけではない。

私は盤石でも十全でもないにしろ、いまは比較的安寧に暮らしているから。

若いころは安寧な暮らしなんて退屈なだけだと思っていたけれど、いまの私

は退屈していない。身内から湧いてくる興味と好奇心だけでまったく退屈と

いうものを知らない。貧乏暇なしの言葉のとおり、私にはそんな時間もない。

ならなぜ書かずにいられないかというとひどくがっかりしているからだ。

恋に駆られた人間というのは(その思いを早急に遂げたいばかりに)平気

で友人にさえ嘘をつく。多忙な日常の間隙を突いて逢瀬を重ねるうちに気

づいたら泥沼にはまり、人の言葉は耳に届かなくなっている。

ダメージは当人たちばかりでなくまわりの人間をも巻き込む。

ダメージはいつだって重層的だ。

私はいま頭のなかにあるカタストロフィが現実にならないことを祈るだけだ。

若い(つまり私より年下の、という意味で)女の子にいいたいのは、目の前

に現れたちょっと素敵な男が「実は妻とうまくいってなくて・・・」などといいだ

したら一切とりあわないことだ。関わらないのが賢明。

時は金なりだから時間の浪費は禁物ね。

若さも時間もお金じゃ買い戻せない。

これは知識としていってるのじゃなくて経験的にいっているので確かです。

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