« 入梅 | トップページ | 雨のあさ »

2013年6月12日 (水)

こびとの長靴

13rain_boots

もうずいぶん昔のことになるけれど、ある日私達は渋谷のファッションビルに行った。

自分の服を見るつもりでエスカレーターを上っていたのだけれど、階を間違えたのか

着いたところは子ども服売り場だった。

私達はまだ20代のはじめで独身で、子ども服なんてものにはぜんぜん縁がなかった

けれど、時間はたくさんあったし子ども服はとても新鮮だったので、買いもしないのに

フロアを眺めてまわった。まるで子どもに服を選んでいるみたいに店をいくつか見た

あと、私達が足をとめたのは子ども靴の店先だった。そこにはアクリルのカラフルな

レインシューズが色とりどりに並んでいた。それはほんとに小さくて、まるでこびとの靴

みたいに可愛かった。そのなかでもとくにミルキィみたいな乳白色のアクリルの長靴

が私達のこころを捉えた。それは妙に甘くて、懐かしい感じがした。

すると何を思ったのか、彼はその長靴を買ってしまった。

どうするの? と私が聞くと、彼は別に、と笑って答えた。

その小さな長靴は長いこと、彼の部屋のオーディオの上にちょこんと飾られていた。

それから数年後、私達は結婚し、翌年子どもが生まれた。

もうそのころにはその乳白色の長靴はだいぶ黄ばんではいたけれど、私達の子ども

が最初に履いた長靴はそれである。

子どもというのは長靴が大好きで、それが履きたいばかりに雨の日でも外に出たが

る。その長靴は雨の日ばかりか、近くの公園の砂場に行くときにもよく履いていた。

私は長靴を履いて片手に小さなバケツを持った2歳の息子の後ろ姿を眺めながら、

心底しあわせな気持ちになったものだ。それがあっというまに履けなくなると、同じ店

に行ってこんどは黄色いのを買って履かせた。

そして先日、保育園に入園したばかりの下の娘に、アクリルの同じかたちのピンクの

長靴を買った。あまい、いちごのキャンディーみたいなピンク色の長靴。

小さな娘はいま、雨の日が待ち遠しくてたまらない。

*****************************************************************

ボスが亡くなった後にボスの手紙と自分の原稿の下書きを探しているときに、そうだ

コンピューターの中にも何か入ってなかったっけかな、と思って見つけた文章。

変な文字数でこまかく改行してあるところをみると、当時ほんのわずかな期間手伝っ

ていた地元のローカル誌のために書いたものらしい。なんたって私が割り当てられた

枠はすごく小さかったから、これでもきっと字数オーバーでボツネタだと思うけど。

ボスが亡くなって今月3日が四十九日だった。

ついにボスは私のところには現れなかった。

誰に宛てた遺書も指示書も出てこなかった。

いつかの休日の朝、娘がボスの夢を見たといって、どんな夢だったの? と聞いたら

ボスが背中に漢字がいっぱい書いてあるTシャツを着ていて、「読んでみろ」というか

らよく見たらそれはボスの詩で、声に出して読んだらボスは嬉しそうに笑ってた、とい

うので、そうかあ、嬉しそうに笑ってたかぁ、それはいい夢だねえ、といったのだった。

それっきりだ。

ボスが亡くなって4日めの夜にあったことについてはいまだ書けずにいるけれど、自

分のための記録として、書けたら自系列どおりに人知れずジグソーパズルのように

ここにはめこんでおくことになるだろう。

四十九日から1週間余りが過ぎた昨日、やっとボスの弟さんに電話をした。

彼と話すのはこれで2回めで、あのときはお互い苦しい時間のさなかにいたからずい

ぶんと救われたような気持ちになったけれど、ひと月半余りが過ぎて弟さんもだいぶ

落ち着かれたようで、精神的にずいぶん楽になったという反面、別の感情が出てきた

ようだった。とかく愛憎というのは背中合わせのものだけど、そのふたつがぴったりと

くっついてしまったときの人間ほど厄介なことはない。それが親きょうだい、血縁とも

なればなおさらだろう。初めて話したときもボスと同様、一筋縄ではいかない人だとい

うことはわかったけれど、でも都会暮らしが長かったボスとくらべたらずっとひねくれた

ところのない、生まじめで素直な方なのかと思った。

昨日話して、そうとばかりはいえないようだとあらためて思う。

彼はボスの携帯をいまだ生かしておくような不可解な行動で兄に対して強い愛情とあ

る種の執着を見せる一方、長年のあいだに兄にいわれたこと、されたことをいまでも

恨みに思うところがあって、話しているうちに私の聞きたいことからはどんどんそれて

相反する感情の沼にずぶずぶと溺れていってしまう。もともと声の大きい人なのに、

気持ちが高ぶってくるとますます声が大きくなって津軽弁でまくしたてるものだから、

私は受話器を持ったままただただ困惑してしまう。そして家とか、きょうだいが心理的

に抱える病理って、どんな家庭にもあるものなのだろうかと考える。親が裕福だった時

代の子供と貧乏だった時代の子供とでは、お金の価値観ひとつとってもあまりに違

う。けっきょく、死んでからも人は許されないままなのか、血縁であってもわかりあえな

いままなのかとひどく残念に思う。そう思いつつ、こんぐらがった感情をそのまま赤の

他人である私にぶつける彼の声を聞きながら、ともすればどんどん狭量になってしま

いそうな相手のこころをゆるめて、ボスが死に際に望んだ(はずの)最良の結果に導

くためにはどうしたらいいかと、ひどく冷静に考えていたりもする。いっそ書いてあるこ

とがわからないならわからないで、あっさり手離してくれる相手ならよかったとも思うけ

れども、実際にはそうではなさそうだ。ともあれ原稿は見つかった。詩集の原稿はたし

かに存在したのだ。私がこわいのは時間の経過によって人の気持ちが変わってしま

うことだ。痛みさえ風化してしまうこと。

とにかく原稿をいちど見たいと思うけれど、いったいどうしたらいいだろう。

考える考える考える考える考える考える ・・・・・・

写真の長靴は娘にかわいいと思って買ったのに、履かないといわれて私が履くことに

なってしまった。私の服装はいたってシンプルでそれほどいろめもないし、まあ、雨の

日の長靴くらいピンクでもいいかと思っている。



|

« 入梅 | トップページ | 雨のあさ »

season colors」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 入梅 | トップページ | 雨のあさ »