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2012年1月31日 (火)

凍雲

12january

一月は、へんな月

それまでの十一の月が

ほんとうに過ぎ去ったのを

きっぱりと感じさせながら、みずからは

足踏みをし

遠くの湖を見るように

未来に目を向けつづけているような月

ぜったい

過去になんかならないぞ、と

がんばっている顔つきの月


その一月早々

ある科学者の文章が新聞に出ていた

生物の種は、すべて

二千六百万年ほどの周期で

かならず絶滅するのだから、ヒトも

いずれは消えてしまうのだという

繁殖しすぎて

資源を食いつぶしたから

決まった周期よりも早く無になるかもしれないという


白いサザンカの花

もうほとんど散ってしまった

残っているいくつかが

冷たい風に

まだ未来をふくんでいる現在を主張し

こまかく、こまかく震えている

冬至のころ

色を変えて行き来していた人たちの

のんびりした足音が、垣根のむこうに ──

一月は、へんな月


( 思潮社刊・北村太郎詩集『すてきな人生』より、『凍雲』 )

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数日前の日曜、詩集をパラパラやっていて見つけた詩。

今年の一月はほんとに変な月だった。

毎年、暮れからお正月にかけて、どんどん浄化されてゆくような空のいろ、ひかりの

ありようは通常のそれとはまったくちがう、ハイオクターブの天上的な世界になるのが

不思議なくらいだけれど、今年はそれがもの凄かった。あきらかに何かが終わって何

かが始まろうとしているのを感じさせるような。

それが良いことなのか悪いことなのか、この先にあるのが光にあふれた明るい未来

なのか闇に向けてまっしぐらなのか、ほんとのところはわからないけれど、現実に起

こり続けている事象、予想されうる事態、毎日のように報道されている様々な悲観的

なニュース、つまりこの三次元空間で目に見えているもの、世間で解釈されていること

と、見えないところで本当に起きようとしていることはまったく違うような気がしている。

少なくとも私が感じるのはそういうことだ。そのギャップはどんどん広がっている。

もちろん、私はサイキックじゃないからあてにはならないけれど、『自分の直感を信じ

よ』というのに従うなら、日々どんどん自然の脅威が増してきて、これだけ次々と大き

な災害が起きてたくさんの人が死んでいるのに、大きな全体としてはどうやっても悪い

方向に行ってるとは思えないんだよなあ、と思う。

こう書くと、何やらスーパー楽天主義のように思われるかもしれないけれど、何も起こ

らないといっているのではなくて、むしろ起こることは必然的に起こるだろうけど、その

とき人は、両手をこうパーにして、全てを手放して(失って)、この三次元空間の重たい

重力からついに解放されるときがくるんじゃないかなあ、などと ・・・・・・

そうでも思わないと、どこを切っても金太郎、ならぬ、どこを切ってもいまパツパツの限

界状態で、どう考えてもこの世界がこのまま持続可能とは思えない。というのもあるの

だけれどね。

いずれにしてもいま、凄いところで生きてるなあ、と思う。

これより以前に亡くなってしまったひとには、いまのこの感じも、この先のことにも、た

ぶん耐えられなかったのじゃないかという気もしている。

一月は変な月だった。

二月の節分を過ぎてそれがどう変わるのか。

光を選ぶのも、闇を選ぶのも、自分しだい。

と、自分にいう。

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