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2011年1月 3日 (月)

そよかぜ 墓場 ダルシマー

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騒がしい友達が帰った夜おそく食卓の上で何か書こうとして

三十年あまり昔のある朝のことを思い出した

違う家の違うテーブルでやはりぼくは「何か」を書いていた

夏の間に知り合った女に宛てた「別れ」という題のそれは

未練がましい手紙のようにいつまで書いてもきりがなかった

そのときもラジオから音楽が流れていて

その旋律を今でもぼくはおぼろげに覚えている


そのときはそれでよかった

ぼくは若かったから

だがいまだにこんなふうにして「何か」を書いていいのだろうか

ぼくはマルクスもドストエフスキーも読まずに

モーツァルトを聴きながら年をとった

ぼくには人の苦しみに共感する能力が欠けていた

一所懸命生きて自分勝手に幸福だった


ぼくはよく話しよく笑ったけれどほんとうは静かなものを愛した

そよかぜ 墓場 ダルシマー ほほえみ 白い紙

いつかこの世から消え失せる自分 ・・・・・・


だが沈黙と隣合せの詩とアンダンテだけを信じていいのだろうか

日常の散文と劇にひそむ荒々しい欲望と情熱の騒々しさに気圧されて


それとももう手遅れなのか

ぼくは詩人でしかないのか三十年あまりのあの朝からずっと

無疵で 


(谷川俊太郎 詩集『モーツァルトを聴く人』より、『そよかぜ 墓場 ダルシマー』)

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昨日も書いたとおり、今年はどこにも行かないお正月を過ごしている。

たった1日のことだけれど、これがなかなかいい。

子どもの頃から私はお正月が嫌いだった。

それというのも私の実家が、向田邦子の小説に出てくるようなきりっとしたお正月をや

る家ではなく、コタツにミカンにテレビ、という典型的な平凡な庶民のお正月をやる家

だったからだ。私は1日中だらだらやっているただ騒々しいだけのお正月番組にも興

味がないし、駅伝にもまったく興味がない。それでティーンエイジャーの頃はたまりか

ねて家を抜け出しては、街で友達と会ったりしていた。お正月の街は人も、開いている

店も少なくて、ちょっと非日常で楽しかった。

今でもお正月に実家に行くと、私は条件反射的に眠くて眠くてたまらなくなる。

何もすることがないから、というのもあるだろうけど、あの家にはそれ以上の何かがあ

るような気がする。

それにくらべると自分の家ですごすお正月は静かだ。

テレビもラジオもついてない。

部屋の中には朝のんだ珈琲の香りがまだ微かに残っていて、窓の外ではバラの葉が

冬の陽を浴びている。食事の時間が終われば、みんなそれぞれに自分の場所で好き

なことをしている。

それで新年にはたいていグレン・グールドを聴くことが多いのだけれど、さっきキッチ

ンで洗いものをしていたらモーツァルトのピアノ・ソナタがふいに頭に浮かんで、それ

で今日はこれを聴いている。小学館から出ている、谷川俊太郎の詩集とCDがセット

になったCDブック、『モーツァルトを聴く人』。

このCDブックについてはもうずいぶん前に書いたから詳しくは書かないけれど、子ど

もの頃から好んでモーツァルトの音楽に親しんできた谷川俊太郎が、その嗜好のまま

に曲を選び、自分の詩を朗読している。音楽と詩は絶妙に絡み合い、渾然一体となっ

て新たな作品となっている素晴らしいCDだ。

お正月の清冽な朝を、さらに浄化してくれるような音楽と声。

私はモーツァルトのCDもそれなりに持っているけれど、それよりもこの谷川俊太郎セ

レクトで聴くとき、モーツアルトが天上の音楽と言われることに心から納得する。

そして、そう思いながら聴いていたら、息子が「今これ聴くとわかるのが不思議だね」

とポツンと言った。

このCDブックを買ったのはかれこれ16年前、息子が小学校に入ったばかりの頃だ。

これを聴くと、いくら掃除してもしてもきれいになった感じが全然しないあの古い一軒家

で、誰もいない平日の休みに、窓をどこもかしこも開け放してこのCDを延々リピートで

聴きながらキッチンのペンキを塗り変えていた日のことを思い出す。

おかげでメロディーは頭に刻まれ、詩は暗唱できるまでになってしまった。

当時、子どもがいるときにも何度か聴いたのかもしれないが、詩人が離婚した妻のこ

とや、呆けた母親のことや、危篤の床にいる友人(武満 徹)のことを書いた詩の朗読

をしているのを聴いても、小さな息子にはわからなかったろう。それが、いま聴いてわ

かるというのは、それこそが時の変遷ではないか、と思う。

当たり前だけれど、16年前は私は今よりずっと若かった。

今よりずっと苦しんではいたけれど ・・・

続けて息子が、「これ聴いてても全然恥ずかしくないところがいい」と言った。

そうなのだ。

私はこれ以前は詩の朗読というものが嫌いだった。

いっときポエトリー・リーディングがブームになったことがあったけれど、心底やめてく

れえー! と思っていた。今だって、もし機会があってもそういう場には絶対に行かな

いと思う。単純に、気持ち悪いから恥ずかしいからその場から逃げだしたくなるから。

では何故これが聴けるかと言ったら、それは谷川俊太郎だからだ。

谷川俊太郎がリアリストで、リアリストたる声で自身のリアルな詩を朗読しているから

だ。どこまでも淡々と、酷薄なまでに。

もちろん、酔ったところが全然ないかと言うとそうではないのだけれど、むしろそれが

厳然たる情熱となって迫力を感じさせるから凄い。

それと、間。

音楽を愛する人だけあって、朗読の間が素晴らしい。

たとえば、このCDの最初に先ほど頭に浮かんだと書いたモーツァルトのピアノ・ソナ

タ第11番の第一楽章の後に読まれる詩のタイトル、『そよかぜ 墓場 ダルシマー』

だけだって、一度聴いたら頭から離れなくなる。

谷川俊太郎の詩の朗読には、音楽にあるグルーブと同じようなものを感じる。

谷川俊太郎にとって詩を書くことはカタルシスなのかそれを朗読することはカタルシス

になるのか、私にはわからないけれど、それを聴く者が聴くだけでカタルシスに到達

できるというのは、稀有なことではないだろうか。

詩の並び、曲の構成ともに完璧(かつ有機的)で、今まで私と同じように詩の朗読を敬

遠していた人、モーツァルト好きにはぜひ聴いていただきたいCD。

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