邂逅
朝から建物の階下ではひどい音がしていて、どうやら1階の空き家工事が始まったら
しかった。あまりにものすごい音があたりに響き渡っているので何事かと階段の踊り
場に出て見下ろせば、いかにも粗野な感じの丸太のような男が3人、大きなトラックの
荷台に上から家財道具を放り込んでいるのだった。これじゃあ、ひどい音がするわけ
だ。外の物音にイラつきながらギターの練習をしていた息子に、「このぶんだととうぶ
ん終わりそうにないよ」と言う。
1階の部屋のドアの横に『空き家工事を始めるにつき、何かと御迷惑をおかけします
が工事は細心の注意を払って行いますのでご了承ください』という貼り紙をみつけた
のは数日前だ。そこには80過ぎの花好きのおばあちゃんが住んでいたが、年々夏ご
とに弱って痩せ細り、いつしか医者通いが始まり、そのうち私よりひと世代上くらいの
娘が夜泊まり込みで世話をしにやってくるようになり、昼間はデイケアの車が迎えに
来ているのをよく見かけたが、そのうち姿を全然見なくなった。身体の衰えばかりじゃ
なく痴呆もだいぶ進んできたと聞いていたから、たぶん病院に入院したのか施設にで
も入ったのだろうと思っていたけど、今年になって今度は息子さんがやってきて、庭で
おばあちゃんの植木鉢をかたずけていたので、いよいよかと思っていた。おばあちゃ
んはお亡くなりになってしまったのか、それとももうここに帰ってくる見込みがなくなっ
たので家族が部屋を引き払ったのか、定かではない。ただ、それほどつきあいはなか
ったにせよ、確かにそこにいたはずの1人の人間の痕跡が、こんなにも乱暴に跡形も
なく壊され消されていくのを見るのはしのびなかった。
今年はひとつの時代の終焉とも思えるスターの訃報が相次いでいるけれど、またひと
つ大きな光を失って、いやがうえにも死について考えた6月。いよいよ季節は夏で、夏
はファントムの季節だ。ファントム。幻影、まぼろし、亡霊。飛んで火に入る夏の虫だ。
そんなことを思っていたら午後、長いこと音信不通だった人から突然電話がきて、思い
がけなく会うことになった。「報告したいこともあって」と彼は言った。もう3年近く顔も見
ていなかったから、いったいどんな(ひどい)ことになっているかと想像したら心は激しく
動揺し、「報告」という言葉は私を緊張させたけれど、電車に乗っている短い間にホ・
オポノポノをしたら落ち着いた。
夕方の駅前はそれなりに混雑していて、黄昏に目を凝らすようにして立っていたら、彼
は黒い影(ファントム)のように現れた。
それでも私が想像していたよりはずっとマシだった。
相変わらず痩せこけて疲れた顔はしていたけれど、自転車通勤のためよく陽に焼けた
顔は不健康ではなく、仙人のように長かった髪はさっぱりと短く切られて、数年前に見
た時とくらべてもそれほど老けこんではいなかった。
音信不通だったあいだ、彼はしばしば私が何も考えていないときに夢に出てきたが、
そのたびに私は夢の中で心底安心するのだった。いったい私という人間はどれだけ心
配症なのか。嫌になるが、私はそこで初めて夢の中でいつも彼に最初に言う言葉を現
実に言ったのだった。そして長らく(もう十数年来に亘ることと、ここ数年のことと)心に
引っかかっていたことを手放す機会を与えられた。
私が神様に愛されていると最も感じるのはこんなときだ。
天に発した問いの答えはかならず返ってくる。ノックし続ければ扉はいつか開かれる。
苦しみはやがて安寧にたどりつく ・・・
それに子供の頃から今に至るまで私は様々な間違いを犯してきたけれど、一度だって
見放されたことはなかった。これだけで充分ではないだろうか。
それから馴染みの店で2時間ばかり話した。
彼とそんなに話したのはもういつ以来だか思い出せないほどだった。電話をしてきた
理由はけして良いことばかりではなかったけれど、自分が何がしかの役に立てたのは
よかった。人からバカと言われようがおひとよしと言われようが、私は窮地に立たされ
たその人を無碍に突き放すことはできない。それに長年抱えてきた心の重荷をおろす
ことができたのは、私には何にも代え難いことだった。
彼は今月いっぱいでついに東京から引き揚げるようだ。
東京で生まれてずっと東京で暮らしてきた私と違って、そのときどき抱える問題と希望
によって住む所を転々と変えてきた彼にとっては、これもまた何かの終わり、ひとつの
転機なのかもしれない。寒い北で生まれ育った人だから南で暮らすのはいいと思う。
すっかり暗くなった駅前で握手して別れた。
そして今になって、初めて会った帰りも握手して別れたことを思い出した。
私が降りる駅が近づき、「今日はありがとう」と言って右手を差し出したら、彼は一瞬は
にかんで、右手をジーパンの後ろポケットでゴシゴシっと拭いてから私の手を握ったの
だった。その様子を見ながら、オルガン弾きのJは「あいつは遊んでて悪いヤツだから
気をつけろ」と言っていたけど、そうでもないのかもなあ、なんて思った。ある夏の日。
それが始まり。
そして終わり。
限りなくぼおっとしながら自分の駅に着いて電車を降りると、バタバタっと大粒の雨が
一気に落ちてきた。なんてタイミングなんだと思いながらも、それが厭じゃなかった。
雨もまた浄化。
個人的な記録として。
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