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2006年11月18日 (土)

冬の楽しみ

Neko_sweater

朝からふと思いついて、北村太郎の随筆にたしか『別れの作法』とい

うタイトルのものがあったと探しているのだがいっこうに見つからな

い。食事のときにも片手に書棚から引っ張り出した本を眺めながら

食べていた。そんな風に今すぐ調べたいものがあると本を読みなが

らだったり、音楽を聴きながら食事をしていて、ときどきその音楽に

乗って一緒に歌ったり踊りったりしてしまう私は、もちろんいつもでは

ないけれど、家庭での食事のときの行儀はあまり良いとは言えな

い。子供の頃は箸の上げ下ろしから母に口うるさく言われた。なので

そんなとき私は自分自身に、「歌いながら食べるんじゃありません」と

か「踊りながら食べるじゃありません」と口に出して言う。変な母親だ

が子供はいつものことでもう慣れっこになっている。私は食事は楽し

くするもの、と思っているので母ほどうるさくは言ってこなかったが、

うちの子供の食事の作法は悪くない。話はそれたが、結局、『別れの

作法』は見つからず、人間の記憶なんて実にいい加減なものだから、

きっとエッセイの中で別れについて書いた一文をそのままタイトルと

勘違いしただけなのかもしれないし、実際にこのタイトルだったかさえ

定かではないと思ったが、その内容について少し触れると、それは

船の別れについて書いたものだった。

子供の頃に洋画の中に出てくるシーンで、私も子供ながらに憧れた

が、船が出航すると、船に乗った人と埠頭にいる人とが持ったテープ

が徐々に引っ張られていって、そしてついにプツッと切れてしまうあ

の別れのシーンだ。想いがある人間同士の間でのことなら、どんな

関係であれ、嫌が上にも胸を引きちぎられる様なシーン ・・・・・・。

ここでまた話が脇にそれてしまうが、昨日、タモリがやっているミュー

ジック・ステーションと言う番組を見ていたら、子供みたいな若い女の

子のバンドが出てきて、携帯電話を川に流してしまって嘆きながらも

「こんなもので繋がっていたなんて」と歌う歌詞が耳に入ってきて、若

い子がそういうことに気づくのはいいと思った。「こんなもので繋がっ

ていた」のではなくて、実際には「こんなもので繋がっている気がして

いた」だけなのである。昔、電話でプロポーズしたり別れを切り出した

りというのにびっくりしていたが、今は電話の肉声でどころかメール1

本でそういうことをやる。信じられない。そういう輩に『別れの作法』だ

の手法だの言ってももう通用しないに違いない。やれやれ。私も仕事

で使うことでもなければ携帯なんか川に捨てたいくらいだ。「どうやっ

て君を捕まえたらいいんだ」と聞かれたら、「あなたの野生の本能で

探し当てて捕まえて」と言いたいね。女友達のMならさしずめ「そうち

ゃん、キザ。」と言うだろうが、ちっともキザなもんか。

さて話は大幅にそれたが、目当てのエッセイが見つからなかった代

わりに本をぱらぱらやっていて、『冬の楽しみ』という文章を見つけた

ので少し引用したい。この文章は、「冬。だいすきである」という書き

出しで始まる。


衣 - セーターくらい好ましい衣類はない。わたくしは身に着けるも

のは量質ともに構わぬほうで、だから衣装持ちならぬ、衣装なしとい

うのか衣装持たずというのか知らないが、安くて実用的な衣類を最小

限度所有しているにすぎない。ところがセーターだけは手編み、機械

編み合わせて十着ある(これぱっかり、衣装持ちからいわせれば憐

れむべき少数だろうけれど、いまのわたくしにとっては大変なぜいた

くなのだ)。むろんセーターは秋口から春さきまで着るものだが、”最

盛期”は冬。寒さの程度に合わせて、とっかえひっかえ着るのを、わ

たくしは冬のささやかな楽しみとしている。セーターのどこがすきなの

か、ときかれれば、その手ざわり、匂い、と答えよう。誤解を恐れずに

いえば、エロチックな味わいがすきなのである。


私もセーターが好きだ。特に肌触りが良くて猫のようなセーターが好

きだ。気に入ったものばかり着てしまうから、セーターには毛玉が付

き、洗う頻度も多ければくたくたにもなってくる。去年、もう寒い頃に

恋人と植物園にバラを見に行って、道を歩いているときに「おい」と言

うから何かと思ったら、セーターの袖のつなぎ目を指さして「穴あいて

るぜ」と言う。そんなセーターをデートのときに来て行く私もどうかして

いるが、それくらいそのセーターが好きだったというわけなのだ。

15で出逢って、私は今に至るまでずっとこの詩人を愛してきたが、

それは他ならぬ、限りなく自分と似た感覚を共有できたことにあり、

それは長い人生のなかでもそうそう滅多にあることではないと思う。

だから、何がしかの感覚を共有しあった相手なら、たとえ別れのとき

でも礼を尽くすのが本当じゃないかと私は思うのだが、こんな時代で

はそれさえもう甘いと言われようか。

写真は私が猫セーターと呼んでいるカシミヤのセーターで、私はこれ

と同じものをキャメル、チャコールグレーと色違いで持っているが、い

ずれくたくただ。冬の間は外出のとき以外はデニムの上にこのセータ

ーをとっかえひっかえ着ている。着たきり雀やカラスよりはちょっとマ

シくらいなものである。

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コメント

セーターでなく同じサルがうちにもいる。
嫁に行った娘が置いていったもの。
結構可愛くって好きです。

投稿: hanta | 2006年11月19日 (日) 21:56

hanta さま、
このサルは、母がガンで亡くなる前年、闘病生活をしているときに妹が母をハワイに連れて行って、そのときに母がうちの娘(リササルと呼ばれていた)に買って来たお土産なの。
手と足にマジックテープが付いてるじゃない?
よく娘はこれをおんぶしてましたよ。
いまは私の机の足元のかごのなかに、同じく娘がかわいがってた
うさぎのぬいぐるみとともにいつも入っています。
ふわふわでかわいいよね。

投稿: soukichi | 2006年11月20日 (月) 00:05

そうそう、マジックテープがついてます。
今は娘の部屋にぶら下がってます。
なんか可愛いよね。

投稿: hanta | 2006年11月24日 (金) 23:05

hanta さま、
うん。かわいい。
手ざわりもいいしね。
これ、けっこう高級なぬいぐるみみたいよ。

投稿: soukichi | 2006年11月25日 (土) 00:48

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