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2005年6月30日 (木)

黒の涼

『PARCO コムサ・イズムのショー・ウィンドー』

yukata

おととし買った浴衣は黒の疋田に桜の絞り。

赤い鼻緒の黒塗りの下駄に、落ち着いた薄紅の帯を

合わせて着ようと思いながら、着る機会もないまま

タンスの肥やしになっている。

とはいえ今年は連れ立って歩きたい人もいないから、

またもや今年もお蔵入りかな。

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2005年6月29日 (水)

小さな太陽

花屋さんの店先で。超ミニのひまわり。

himawari

昨日の東京の気温が午前11時で35、8度もあると聞いて

びっくりしていたら、今朝のニュースで午後2時には36、2度

もあったと聞いてまたまたびっくり。6月の気温としては過去

最高だとか。

去年の夏、熱い温水プールのなかにいるみたいな赤坂で、

「いったいここはどこなんだ?」と思ったけれど、そう思う横で

スーツを着たアフリカ人が、「アフリカより暑い」と言っている

のを聞いた。

今日の東京は一転、午前中の雨で気温が10度も下がった

らしい。夏といえば向日葵で、向日葵は小さい太陽みたいな

花だけど、これは小さすぎて人工的すぎるかも。

私はやっぱりお陽さまに向かって、私の背丈よりぐんぐん

伸びてゆく、大きな向日葵が好き。

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2005年6月28日 (火)

桜桃

sakuranbo

彼の小説はほとんど読んだし、彼については様々な読み物で

知っていて、あんなに駄目な男の人を好きになったりしては

いけないとわかっているのに、でもたとえばいま、アパートの

隣りに彼が住んでいたりしたら、やっぱり好きになってしまう

だろうと思ってしまうのが太宰治なのである。

おまけに私なら絶対に彼を死なせやしない、なーんて思うこと

こそ、間違いの始まりだ。

今年もまた、6月19日には太宰の墓の前にたくさんの人が

集まり、桜桃忌が行われたのだろうか。

思えば桜桃の季節になるたびに思い出してもらえるなんて、

彼も幸せな作家だと思う。

太宰の時代から贅沢品だった、さくらんぼ。

うちの食卓にもめったにのぼらない。

それにしてもいつかの佐藤さんのくれた佐藤錦は、

なんて甘かったんだろう。

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2005年6月27日 (月)

悪魔のように黒く

『悪魔のように黒く、濃く、深い飲み物』

coffee

私の朝の1杯。

1日の始まりのPower。

どんなに忙しい朝も挽きたての豆で淹れる珈琲の贅沢。

この半年は土居珈琲さんの珈琲以外、飲めなくなった。

珈琲カップはお気に入りの備前。

『家じゅう 備前』でおなじみの、生 万里(せい・まり)さんの

ショップで買ったもの。

備前で飲む、土居珈琲の珈琲。

もう、やめられません。

今週もまた1週間、新たな気持ちでがんばろう!

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2005年6月26日 (日)

くろしろ君

「こう暑いと、ダレるにゃあ~~~」

neko_01

neko_02 

いきなり真夏日になって、33度を記録したこの週末。

公園の木陰のベンチで猫もダレダレ。

そういや平日はここで営業マンが自転車停めて

2匹もお昼寝してたにゃあー

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2005年6月25日 (土)

蛇イチゴの赤

hebi-ichigo

これまた懐かしい、蛇イチゴ。

小学校低学年の頃、友達とよくこれを探しに行った。

どぶの脇の土手の下草の中とか、ちょっと行くのが気持ち

悪いような、危ないところに自生していて、取りに行くだけで

スリル。

で、見つけたら見つけたで嬉しいと同時に気味悪くもある。

蛇イチゴっていう名前自体から感じる毒の気配。

それに私は、「これは蛇が食べるイチゴなんだよ」とか、

「蛇がいるところに生えるイチゴなんだよ」とか言う、

わけ知り顔の友達の言葉を信じていたのだ。

でも、本当のところはどうなんだろう?

誰か、蛇イチゴの名前の由来を知っている方がいたら

教えてください。

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2005年6月24日 (金)

赤つめ草

akatsumekusa

今日、自転車で郵便局に出かけたついでに道草していたら、

線路脇の道で、赤つめ草を見つけた。

かわいいピンクの頭。

赤つめ草を見るなんて、いつ以来だろう。

私が子供の頃は、東京中野区にも原っぱがいっぱいあって、

白つめ草も赤つめ草も、それに蓮華も、普通にいっぱい咲い

ていた。近所の子たちと思い思いに草のうえに座って、花冠

を作って遊んだ。

いまの東京で、そんなことをして遊ぶ子供がどれくらいいる

だろう?

・・・・・・

花屋では売っていない、雑草の美しさ。

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2005年6月23日 (木)

水たまりの窓

mizutamari

水たまりに映った樹木とグレーの曇り空。

小さい頃は、よく水たまりのなかを覗きこんでたな。

水たまりの向こうに、もうひとつの別な世界があるような気がして。

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2005年6月22日 (水)

雨上がりのスミレ

violet

英名では violet 。

まさしく君はヴァイオレット!

こういうの見ると、

実に神の手は微に入り細にわたっているなと思う。

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2005年6月19日 (日)

グラハムトーマスの黄色

rose

グラハムトーマスの黄色は特別な黄色。

食卓に一輪あるだけで、

そこだけぽっと灯りがともったように、

食卓が明るくなるから好き。

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2005年6月18日 (土)

フロストの白

frost

いまはもうなくなってしまったけれど、原宿の『Wood Pecker』で

結婚祝いに友人に買ってもらったアンティークのランプシェード。

以来ずっと我が家を照らしてる。あたたかな電球のいろが好き。

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2005年6月17日 (金)

6月のいろ

azisai

6月といえばこのいろ。紫陽花のブルー。

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2005年6月16日 (木)

デジカメが来た!

とうとうデジカメが来た!

うれすぃ~!

これで遅ればせながら(遅れすぎだって!)

私もデジタル新時代。(なんのこっちゃ)

で、ただいまさっそく充電中・・・

『そうきちの勝手気儘なシネマの話』が、あくまでテキスト主体の

ブログなので、ここではビジュアル主体で、オンタイムにライトに

いこうと思うのです。

何気ない日常にあふれる色、彩、いろを求めて・・・

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2005年6月11日 (土)

ショコラ

Chocolat_01

Once apon a time ・・・

むかしむかしあるところに・・・、で始まるこの映画は、どこかミステリ

アスで、まさに現代のおとぎ話のようなストーリー。

ある北風の強く吹く寒い日に、どこからともなく赤頭巾のようなコート

を着た不思議な親子がやってくる。

ここは、フランスの片田舎の小さな村。

敬虔なカトリックが慎ましやかに暮らすこの村は静かだけれど、モノク

ロームのように色が無く、市長の権力下、厳しい戒律で縛られた村

人にはどこか生気がない。

そこへ現れた真っ赤なコートを着たバラ色の頬の訪問者、ヴィヴィア

ンヌ(ジュリエット・ビノシュ)と娘アヌーク(ヴィクトワール・ティヴィソ

ル)は、まさに異端者。彼女は訝しげに自分たちを見る、見るからに

偏屈そうな老婦人アルマンド(ジュディ・デンチ)から家を借りる。

そして旅の疲れも見せず、翌日から手慣れた風情で家の壁を明るく

塗り替え、すっかり内装をほどこした1階でヴィヴィアンヌは店を開店

する。それは、いままで村人が見たこともないような華やかな装飾品

で飾られた、色も形も様々な、見るからにおいしそうなチョコレート!

村人は大いに気をそそられるが、折りしも運悪く村は断食の期間。

そんな時期によりにもよってチョコレートの店を開くとはもってのほか

と、市長のレノ伯爵(アルフレッド・モリーナ)はヴィヴィアンヌをまるで

人心を惑わす魔女のように眼の敵にする。けれど無理な禁欲を強い

られれば強いられるほど禁じられたものに惹かれてしまうのが人間

の性。甘いチョコレートの誘惑に思わず店に入った者は、一発で彼女

に好みを当てられ、その今まで味わったこともないような不思議に心

を蕩かすチョコレートの味の虜になってしまうのだ。

人間のみならず犬までも!

そう、その味はまさしくヴィヴィアンヌ自身が醸し出す味に他ならず、

彼女には人の心を見透かしてしまうような不思議な力を持っていた。

それは眠るときにアヌークがきまってがせがむ、ヴィヴィアンヌの18

番の寝物語によると、彼女たちの先祖は代々、不思議な力を持った

遊牧の民だったらしい。そのまじないの道具はヴィヴィアンヌにまで

受け継がれ、その血の由縁こそ、ヴィヴィアンヌがひとところに定住

できない理由なのだった。たとえ幸せな結婚生活のなかにあっても、

ひとたび特別なニュアンスを持った北風が吹き荒れ始めると、彼女

はもうどうすることもできない。何かの合図に促されるかのごとく後先

を忘れ、一心に旅の想いに駆られてその場を後にするしかない。そ

れは血の宿命、サガであって、ヴィヴィアンヌにもどうすることもでき

ないのだった。

そんなおかしな母親に連れられるまま、どこに行っても異端者でしか

ない流浪の旅のような生活を強いられてきた娘のアヌークは、いさ

さか疲れている。彼女は自分の心だけに見える架空のペット(カン

ガルー)を飼うことで、心の均衡を保っているような繊細な女の子。

さて、そして禁欲的な色の無い村に、開放的でどこか奔放な雰囲気

の、敬虔なカトリックから見たらどこか魔女のような女がやってきた

ことで様々なできごとが起こるのは予想できることだろう。

けれど、村人の誰とくらべても、自然に気持ちよく生き生きと生きて

いるのはヴィヴィアンヌのほうで、そんな彼女にみんなが惹かれて

しまうのは無理のないことだと思う。彼女はただ明るく奔放なだけじ

ゃなく、自分の正しいと思うところはどんな権力下でも主張できる強

さを持っているのと同時に、人の話を聞く心、たとえ相手が間違った

ことを言おうとも、その場はいったん引いてそれを受け入れ、包み込

むような優しさ、そして自分を傷つけた相手をも許すような寛大な心

を持っているのだ。それが私が彼女ヴィヴィアンヌに最も感心したと

ころだ。いまの世の中の人、それから自分に最も足りないのは、そこ

なのではないかと。

そしてヴィヴィアンヌと彼女が作るチョコレートは次第に村人の心ば

かりか、村全体までを変えてゆく。村の権力者であるレノ伯爵VS

ヴィヴィアンヌの構図。次々に起こるできごとを通して、村が抱えて

いた一見平穏な顔の裏に隠された様々な深刻な問題が露呈し、

また村にやってきた厄介者のジプシーのルー(ジョニー・デップ)と

の恋で、ヴィヴィアンヌもまた知らず知らずのうちに変わってゆく。

そして最後に村と村人は、そしてヴィヴィアンヌとアヌークはどうなる

のか?   ・・・ それは実際に映画を見て、最初の村と最後の村がど

んなに変わったか見比べて欲しい。

開店しても誰も寄り付かないヴィヴィアンヌの店に、最初にふらりと

入ってきて盗みを犯したジョゼフィーヌ(レナ・オリン)は、長年夫に

暴力を振るわれ、別れることもできずに労働に耐えてきた女。見る

からに精神を病んだ挙動不審の疲れきって荒れ果てた顔のこの女

が、ヴィヴィアンヌのもとで見事に再生し、生気に溢れた美しい女に

変わってゆくのは素晴らしい! ・・・ 結果的には、最初はまったくの

無力のように見えたジョゼフィーヌが、最後にはヴィヴィアンヌの心、

生き方まで変えるのだから。

この世には、人に真のエネルギーを与える『パワー』と、人から生命

とエネルギーを奪う『フォース』があるという。どちらも『力』を表す言

葉なれど、その本当の意味はまるで違う。この意味においてヴィヴ

ィアンヌはまさに『パワー』そのものなのです。

見るだけで一気に波動が上がる映画だと思うので、いまちょっと心が

弱ってるな、と思う人には超おススメです。

しっかし、この映画の中でヴィヴィアンヌが作るチョコレートのおいしそ

うなこと! チョコ好きにはたまりません! つくづく映画見ながらチョ

コを買っておかなかったことを後悔しました。

それとジョニー・デップ!

この映画の中ではそんなに出番が多いわけではないのに、その圧

倒的な魅力、存在感には魅了されました。特に彼の目。もう、完全

にやられましたね。

この映画はできれば素敵な恋人の横で(まあ、それが無理なら1人

でもいいけど)、このときばかりは虫歯も肥満も顧みず、たっぷりチ

ョコレートを用意して見ることをお勧めします。

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2005年6月 8日 (水)

青いパパイヤの香り

Papaya

冒頭、東洋的な音楽が流れる暗い夜のシーンから、そこが異国の地

であることを感じさせられる。

ここはどこなのかというと、ベトナムのサイゴン。

まるで自然と共存するように植物の生い茂るなかに建っている東屋

風のお屋敷。そこに夜になって大きな荷物をしょってやって来た少女

はそこの女主人の言葉からすぐに、この家に奉公にやってきた10歳

の少女なのだとわかる。そんな小さな女の子がひとりで奉公に出さ

れたとなると、まるで「おしん」のような話かと思ってしまうけれど、ま

るで違う。女主人は夜遅くなって着いたその女の子が、一日道に迷

った末にやっと辿り着いたのだということを夫に告げ、「可哀相に」と

労るのだ。彼女はもともと優しいだけじゃなくて、この小さな奉公人

の少女ムイに特別な感情を抱いているようである。そして夫との言

葉少なな会話からも、一見お金持ちで平穏に暮らしているように見

えるこの家の、秘められた不幸の匂いが微かにしてくるのを感じる。

そして翌朝から、そんな優しい女主人のもと、年配の使用人ティーと

ともに、ムイの奉公生活が始まる。

彼女はまわりから「何をグズグズしてるんだい!」とか「そら!早くや

っておしまい!」などとどやされたりすることはないし、とりたてて厳し

く指図されたりするわけではないのだけれど、朝早くから夜遅くまで

黙々と実によく働く。逆に、夜、先に布団に入ったティーに「今日はも

ういいから早くお休み」と言われるくらい働くのだ。そしてこのムイが

何より素晴らしいのは、そんなに働き詰めなのにちっとも悲壮なとこ

ろがないばかりか、常に好奇心旺盛で天真爛漫なところ。それは少

女というよりまるで子供の心そのままで、ムイは少々お行儀は悪い

が、ご飯中にお茶碗とお箸を持ったまま立って行って庭にしゃがんだ

と思ったら、一心に蟻の行列を眺めていたりする。彼女がそんな小

さな生き物を見て嬉しそうに微笑むときの愛らしさ。思わず見ている

こちらまで自然に微笑んでしまう。彼女にとってこの世界は、小さな

生命に溢れた光り輝く万華鏡のようなものなのかもしれない。

もちろんムイにだって全然、苦労がないわけじゃない。

その屋敷の3男のチビ助はいたずら盛りで、ムイへの好奇心の裏返

しから彼女の仕事の邪魔になるようないたずらばかりする。一度は壷

の中から突然出てきたトカゲに驚いて、うっかり大事な壷を割って泣

いてしまうようなこともあった。そしてムイがただの無邪気な少女かと

いうと、それも違う。ある日、ムイは家に遊びに来た大学生の長男の

友人クェンに心惹かれる。そして夕飯の準備のために料理するティー

に、私にやらせて欲しいというのである。好きな人のために料理をし

たいというささやかな、けれどそれはもう立派な女心。そして自分の

持っているうちで一番上等なアオザイ・ドレスに着替え、鏡の前で髪

を整えて精一杯お洒落したムイは、いそいそとクェンのテーブルに料

理を運ぶ。クェンを目で追い、ふと目が合いそうになって目を伏せる

ムイは、少女ながら色っぽくさえある。

朝露に濡れた青いパパイヤ。

それを半分に割ったときの、はっとするような白のつぶつぶ。

しっとり雨に濡れた樹木の緑と、葉っぱの上のカエル。

熱い陽射しに、夏服から伸びたしなやかなムイの素足の足首。

水浴の後の香り立つような長い黒髪。

いつしか10年の時が経ち、美しく成長したムイは長男の嫁の提案で

財政が厳しくなった家から暇を出され、まるで我が子のように可愛が

っていた女主人の悲嘆に暮れる姿に後ろ髪引かれながらもクェンの

家に使用人として働きに行く。資産家の息子であるクェンはその頃、

新進気鋭の作曲家で、同じく由緒正しき資産家の令嬢のフィアンセ

がいる。この資産家の令嬢、というのはどこの国でも万国共通のイ

メージなのかと思うけれど、よくあるタイプの美人。知的で洗練され

ていて、自立した女の立場で男に対して対等であろうとする、リベラ

ルで奔放な魅力があるかわりに我儘で家事が全然できなさそうで。

そしてそんな彼女にぞっこんのクェンなのかというと、そうじゃないと

ころがいかしてる。彼は彼女がそばにいながら置き去りにして自身

の弾くピアノに没頭したりする。他人の入り込めない領域を持った男

は色っぽい。そしてクェンの家、これがまたとても気持ちがいいのだ。

いつも部屋には柔らかな光が溢れていて、清潔で、風を感じさせる

家。パリ音楽院出の新進気鋭の作曲家の家だけあって、家具調度

は東洋と西洋がいい感じに入り混じり、そして何よりその空間は、

いつも彼が奏でる美しいピアノの音で満たされている。ここでもまる

で口のきけない人のように寡黙なムイは、ただ黙々と、そのピアノが

流れる気持ちの良い空間の気持ちの良い空気の一部のように自然

に存在し、誰の邪魔もせず、料理に縫い物にと、主人に心からのお

もてなしをする。そしていつしかクェンも、いつも自分のそばにいる、

美しい空気のような彼女の存在に目を向けるのです。

彼が最初に窓辺に置いてあった半眼の仏像の顔を見て、そこにム

イの表情を見出すシーンはとてもいい。それは誰が見てもまさしく

ムイの表情そのものだから。

そして一見、何の苦労も無く育った育ちの良いお坊ちゃまのクエン

が、実に確かな人を見る目の持ち主であったことに感心するのと同

時に、10歳の少女ムイの「男を見る目」の正しさにも感服してしまう。

ここで『波動』などという言葉を出すと読んでいる方がどう思われるか

わからないけのだれど、ムイの身に起こったことは、全て彼女自身が

呼んだこと。全ては自分のやったように返ってくる、という、宇宙の大

いなる普遍の法則を感じます。彼女が小さなものに向ける慈しみの

眼差しや、他人に対する細やかな気配りは、暖かいプラスの波動と

なって放射され、それはそのまま彼女に返ってきたのだと納得させら

れる。

この映画は台詞もほとんどなく、特別な起承転結があるわけではな

いけれど、見ているだけでいつのまにか穏やかな気持ちにさせられ

る、とても瞑想的な映画です。この映画がデビュー作だというトラン・

アン・ユン監督は、その思春期をほとんどパリで過ごしたために本作

品もきわめてフランス的と言われているけれど、私はどこか小津安次

郎にも似ているような気がします。いかがでしょう。

本格的な夏が来る前、もうすぐ梅雨に入る初夏の今頃に見るにはぴ

ったりな映画です。

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