« 2005年3月 | トップページ | 2005年5月 »

2005年4月23日 (土)

仕立て屋の恋/The Hand

Shitateya_2

『エロス』という言葉はわかりずらい。

特に基本的な宗教観を持っていない日本人にとっては難しい言葉だ

と思う。『エロス』イコール肉欲ではないし、宗教的見地、文学的要素

心理学的、精神分析学的要素を踏まえてこの言葉に言及しようとす

るなら、それだけで小難しいエロス論を展開しなくてはならないだろ

う。『エロス』とは○○である、と言ってしまうことは簡単だが、それは

人によって、あるいは1人の人間にとっても様々な言い方ができる。

それだけ確立した定義を持たない言葉なのだと思う。

私の場合、エロスと聞いて即座に思い浮かぶのは何故か海外ならシ

ェイクスピア、日本なら三島由紀夫である。

エロスと聞いて、あなたの頭に思い浮かぶのは何だろう?

この映画はそういう映画です。

エロスをテーマにして、国籍も年齢も、また映画的手法も全く違う3人

の名匠が織りなすトリロジー。『トリロジー』とは劇、小説などにおける

3部作、という意味です。そして、そのトリロジーの最初の作品となる

のはウォン・カーウァイの『仕立て屋の恋』。

ストーリーは、仕立て屋の見習いをする若きチャン(チャン・チェン)が

お得意様で、たくさんのパトロンを抱え、使用人付きで瀟洒なマンショ

ンに住む高級娼婦ホア(コン・リー)のところに使いにやらされるところ

から始まる。緊張しながらホアの部屋のベルを鳴らしたチャンは、使

用人にホアの居間に通され、待つように言われる。昼日中から仕事

中の隣室のホアの寝室からは、一定のリズムで高まる男女の息遣

いと喘ぎ声が筒抜けに聞こえ、チェンは平静を保とうとするが身体は

自然に反応してしまう。事の終わりとともに出てきた男と入れ替わり

に、たったいま男女の営みが行われていた寝室に通されるチャン。

ぎこちなくチャンはズボンの前を持ってきた紙袋で隠しながらホアの

前に立つが、ベッドに腰かけたホアに無情にも「その紙袋をどけなさ

い」と言われる。おずおずとどけるチャンに、「どうしてこうなるの?」

と鋭い口調で詰問するホア。続けてホアはあろうことか「ズボンを脱

ぎなさい」と言い、チャンが戸惑っていると「師匠に言いつけるわよ」

と脅す。ホアの高圧的な命令口調と、師匠に言いつけるというその

言葉への恐怖から、チャンはホアの目の前でズボンを下ろし、下着

を下ろす。屈辱的な姿になったところでホアはチャンの手にそっと触

れ、その手を眺めながら、「まだ女を知らない手ね」と言い放つ。

「こんな手で私のドレスを縫うことができるの?」

そしてチャンの太腿の付け根を優しく愛撫し、身体の中心をゆっくり

と弄びながら、「この手の感触を覚えていて。あなたには才能がある

わ。でもあなたにひとつだけ忠告し ておく。立派な1人前の仕立て

屋になりたければ、できるだけたくさん女の身体に触れることね。そ

して私の服を作るとき、この手のことを思い出して。私に美しいドレス

を縫ってちょうだい」

その最初にしてただ一度きりの接触以来、ホアに恋してしまったチャ

ンは、ホアに呼ばれるままに彼女のもとを訪れ、何年もの間、ホアの

ためにただ黙々と繊細で美しいチャイナドレスを縫い続ける。

時にホアの情事の気配を仕事場に持ち帰ったチャンは、夜の仕事場

で独り狂おしく縫いかけのホアのドレスに手を差し入れて欲望に掻き

立てられたりするが、そんなチャンの官能は、ホアの前ではストイック

なまでに抑えられる。

そんな日々が数年続き、そのホアも見抜いた持って生まれた才能と

誠実な仕事振りで、チャンはしだいに高い評価と信頼を得てお得意

様を何人も抱えるようになってゆく。経済的にも恵まれて順調にキャ

リアを重ねてゆくチャンとは反対に、年々しだいに衰えてゆく容色と

浪費的な生活の果てに、徐々に落ちぶれてゆくホア。

パトロンにも捨てられ、ついにはドレスの仕立賃さえ払えなくなり、師

匠のジンに言われて取り立てに来たチャンに、「旅に出るからもうドレ

スはいらなくなったわ。これを売って仕立て賃にしてちょうだい」と、そ

れまでチャンに縫ってもらったドレスの山を差し出す。ホアの気持ちを

察して丁寧に断るチャン。そんなチャンにホアは、今までこんなにたく

さん美しいドレスを縫ってもらったのに、あなたには何もしてあげられ

なかったわね、と言って酒をふるまう。互いに無言のまま杯をかわし

苦い酒をあおる2人。数日後、再びチャンがホアを訪ねると、すでに

ホアの姿は消えていた。

数年後、ホアのことなどすっかり忘れかけていた師匠ジンのところへ

突然ホアから電話がかかってくる。ホアが指定したうらぶれたホテル

(看板には旅館と書いてあります)にチャンが行くと、そこには生活す

ることに身をやつし、痩せて地味な服を着た昔とは別人のようなホア

がいる。「私はっすっかり変わってしまったわ」と言うホアに、「あなた

は全然、昔と変わっていません」と言うチャン。

「あなたって優しいのね」

そしてチャンがまだ独身だと知ると「私が相手では駄目かしら?」と

聞き、チャンは「もちろんです」と嬉々として答えるが、ホアはそれを

若者の慰めとしかとらず、チャンもまたその言葉がホアの冗談だっ

たと受け取る。どこまでも自分の情熱を抑制し続けるチャン。

ホアがチャンを呼び出したのは、ホアに会いたがっているアメリカ人

の愛人に会うため、新しいドレスが必要なのだと言う。

「私に協力して。これが最後のチャンスなの。これがいまの私の全財

産よ」と言って、ありったけの紙幣を差し出すホアの手を押し留めて

「私はまだあなたのドレスをとってあります。だから、それを仕立て直

せばいい」と言うチャン。採寸するために背後からホアの身体に触れ

たチャンの手を握り締めて、気丈なホアの目から、初めてはらはらと

涙がこぼれ落ちる ・・・

そしてチャンは彼女の再生を願って一心にドレスを縫い上げるが、そ

のときすでにホアは土砂降りの雨の日にまで街頭に立って客を引か

なければならないほど落ちぶれていて、その身体は重い結核に侵さ

れていた。病の床についているホアの代わりに、訝しげに見る大家

に家賃を払ってやるチャン。見舞いに行くとホアは「病気が感染する

からもう来ないほうがいい」と言う。「それでもかまわない」というチャ

ンに、冒頭の2人のダイアローグが再現される。

「初めて会った日のことを覚えているかしら?」

「はい」

「触れた手のことも?」

「はい。覚えています」

「私を憎んだでしょ?」

「いいえ。あなたには感謝しています。あの手がなければ、私は一人

前の仕立て屋にはなれませんでした」

それを聞いて、「長い間、あなたは私に尽くしてくれたのに、私は何も

お返しができなかったわね。それにこれからももう無理ね」と、しみじ

みと言うホア。その顔はもうかつての高慢な高級娼婦の顔ではなく、

ただのひとりの薄幸な女の顔になっていた。そしてホアは「もっと近く

に来て」と言う。思わず近寄ってキスしようとするチャンを、「病気が移

るから」と言って懸命に手で避けると、そのホアの手にチャンの熱い

涙がぱたぱたとこぼれ落ちる。チャンの自分への変わらぬ思いを知

り、彼女は唯一残された両の手で、チャンに最後のお返しをする。

(・・・ふぅ、長かった。詳細にストーリーを書くつもりはなかったのに、

つい興が乗って書いてしまいました。ネタバレ、ごめんなさい。)

英語のタイトルが『The Hands』というとおり、人間の手に官能の全て

を託した作品。手はときに言葉よりも声よりも雄弁に人の内面を語

る。ウォン・カーウァイは『花様年華』の時と同様、露骨な性描写をい

っさい排除し、声と気配だけで、見えそうで見えない、その独特の東

洋的なエロティシズムを表現している。

この作品を見て驚くのは、『花様年華』のマギー・チャンと同じように、

『ブエノスアイレス』ではまだ無垢な、輝ける青年だったチャン・チェン

が、すっかり大人の男の色気と憂愁を纏った役者になっていたとこ

ろ。様々な素材や道具やミシンをかける音などで雑多な印象を受け

る労働の場、仕立て屋の作業場でランニング姿でドレスを縫う姿と、

一転してかっちりとしたスーツ姿でホアのもとを訪れるチャン・チェン

の対比が素晴らしく、それは一言で言って、カッコイイ。

それにくらべてコン・リーは、『覇王別姫』(はおうべっき)で若い娼婦

を演じた頃は、したたかながらも内から溢れ出る、生きるエネルギー

に輝き、ロマンスの匂いもナイーヴな可憐さも感じさせたのに、今回

の娼婦役では殺伐とした負の匂いを振り撒きロマンスの片鱗もな

い。「お前のところに来るといつも金の話だ!」と、うんざりしながら捨

て台詞を吐いて出て行くパトロンの態度もさもありなんという感じで、

あまり魅力を感じなかった。強いて言えば退廃美か。

後半、落ちぶれかけてからのホアには、高級娼婦と言っても娼婦は

娼婦、そして娼婦と言えども男によって未来を決定づけられていると

いう点ではただの女の弱さ、儚さが滲んで切なさを感じるが、それ以

上に男の長期にわたる献身的な愛の末路はあまりに悲しい。

死の床で最期にチャンに愛の奉仕をしたそのとき、最初に彼を弄ん

だのとは違って、ホアは本気でチャンを愛したのだろうか。

そのとき彼女の心に去来したものは何だろう?

| | コメント (0)

2005年4月22日 (金)

花様年華(かようねんか)

Kayounenka

意味のある偶然のことを、シンクロニシティーという。

そんな幾たびもの偶然によって知りあった2人が、結ばれぬまま擦れ

違っていく様は、まさに昔ながらのメロドラマの王道である。

けれどメロドラマにありがちな激しい濡れ場もなければ、修羅場の愛

憎劇もない、限りなく抑制の効いたこの映画は、とびきりエレガントな

大人のメロドラマです。

部屋を借りに大家のクエン婦人のところへやってきたチャン(マギー・

チャン)は、クエンと別れ際にチャウ(トニー・レオン)と擦れ違う。チャ

ウもまたクエン婦人のところに部屋を借りに来たのだが、クエンは「も

ういまのご婦人に決まってしまったわ。でも確か隣りのクウさんのとこ

ろもひと部屋空いてたと思うから、聞いてみたら?」と言う。

かくしてクエンさんとクウさん、隣り合わせの大家さんを挟んで右隣と

左隣の部屋に住むことになったチャウとチャン。あろうことか引越しの

日まで同じ日で、しばしば2人の荷物は引越業者の人足によって間

違えられる。この、お互いの荷物が何度も入れ違うあたりからして、

今後展開される物語を暗示している。

商社に勤めるキャリア・ウーマンであるチャンは、夫が出張で留守が

ちなせいか、いつも寂しげで所在無げな風情をしているが、そんなチ

ャンはいつしかチャウ婦人が自分と同じバッグを持っていることから、

そして自分の夫がチャウと同じネクタイをしていることから、どうやら2

人が浮気をしているらしいことを知る。そしてチャウも。

互いに自分の伴侶がお隣さんの連れ合いと浮気をしていると知った

2人は急速に近づき、そしてしだいに強く惹かれあうようになる。

新聞の連載小説を読むのが好きなチャンと、新聞社に勤めながら、

いつか小説家になるのが夢だった、と語るチャウ。

夫婦関係がうまくいかなくなったことをきっかけにチャウは新しい生き

方を求めて小説を書き始め、チャウにも手伝って欲しいと頼む。退屈

で不毛な独りの時間を埋めるように、チャンもまた自室で書き始める

が ・・・

最初は、妻が不在のチャウの部屋で無邪気に楽しげに互いの原稿を

見せ合ったりしていたの2人だが、しだいに周囲の目が気になりだし

た頃、チャウは外に書くための部屋を借りる。(部屋番号は『2046』)

世間の人目を避けた密室で、妙齢の魅力的な男女が、手を伸ばせ

ば届くほどの近さにいながら「一線は守りたい」というチャンの言葉の

まま、2人はプラトニックな関係を続ける。

冒頭、2組の夫婦が、クエンさんとクウさんがマージャンをする部屋で

同席し、入れ替わり席を立ったり座ったりするシーンで、映画『夢二』

のテーマ音楽とともに映像がスローに流れ始めると、それはもういつ

ものカーウァイ節、英語タイトルで言う『In the Mood for Love』 な

のです。

そしてまた、自分ひとりの夕飯のために保温ジャーを持って屋台に向

って暗い路地の階段を下りてゆくチャンと、同様に独りの夕飯のため

に屋台に来たチャウが擦れ違う時。音楽にあわせてスローに流れる

映像、身体にフィットした優雅なチャイナドレスを着た成熟した女の揺

れる後ろ姿と、擦れ違いざまの男の一瞬の親密な眼差し、女の微

笑。『花様年華』とは、満開の花のように成熟した女性が最も美しく

輝くときを言うのだそうだけれど、この映画のマギー・チャンはまさに

大輪の花のよう。『欲望の翼』のときはまだ青いパパイヤのようだっ

たのに、同じ女優とは思えないほどの成熟ぶりです。

そんなマギーがシーンごとに次々に着るチャイナ・ドレスはもうため息

もので、「屋台に行くときまでお洒落するの?」 とクエンの使用人の

女の子が聞くくらい、それはそれは素晴らしく、美しいドレスです。

それは成熟していながら清楚さを失わない貞節な妻であり、きびきび

と働くキャリア・ウーマンでもあるチャウ婦人をそのまま表現している

ようです。音楽もいつもながら素晴らしい。

時代はいつもと同様、ウォン・カーウァイの創作の源泉とも言える19

60年代で、彼が子供の頃に見た、母親の着ていたチャイナ・ドレス

や、その頃、母親が聴いていた音楽をそのまま反映するものとなっ

ています。そう、確かに私が子供だった頃、東京もラテン・ブームで

『キサス・キサス・キサス』のようなラテン・ミュージックがTVから流れ

てきましたっけ。

マギー扮するチャンがとても可愛かったのは、2人にとっての短い蜜

月ともいえる『小説のための時間』を共有している合間のこと、チャ

ウとご飯を食べながら、チャウを夫と見立てて浮気の事実を詰問す

る練習をする、という場面で、芝居でありながら、チャウがあっさりと

浮気を認めると、ショックを受けたチャンが思わず泣き出してしまう

シーン。対するチャウ演じるトニー・レオンは、冷静ながらいつもの人

のよさそうな優しい顔を困惑させて、「泣かないで。これは練習してる

だけで現実じゃない」、と彼女をなだめる。

それと同じようなシーンはずっと後にもやってきて、突然シンガポール

に行くことを告げたチャウは「別れるには心の準備がいる、そのため

の練習をさせてくれないか」と言い、2人は今度は別れのシーンを演

じるのだけれど、別れの言葉を言った直後、チャウの姿がしだいに遠

くなるにつれて、チャンはまたもや本気で嗚咽し始める。しかも、前よ

りずっと激しく。「これは現実じゃない」と言って、再び彼女を抱いてな

だめるチャウと、チャウの肩に顔を埋めて泣き続けるチャン。

それほどまでに好きな相手と、なぜ別れなければならないのだろう

かと思ってしまう。その夜、初めてチャンは「今夜は帰りたくない」と言

い、「もしもう1枚チケットが取れたら君も一緒に行こう」 と、チャンは

言うのだけれど・・・

さて、この夜、2人は一線を越えたのか?

1回目に観たときは私は2人がその夜、はっきり一線を越えたと思っ

たのだけれど、でも2回目に観にると、そのあたり、はっきりわかるよ

うな描き方はされていない。巷にはいろいろな解釈が飛び交ってるよ

うだけれど・・・

途中、アパートに誰もいないことをいいことにチャウの部屋で2人で原

稿を書いていたら、突然、大家さんたちが帰ってきて賑やかにマージ

ャンを始めてしまって、チャンが自分の部屋に帰れなくなってしまうシ

ーンがあるのだけれど、そこでチャウが屋台で買ってきたワンタン麺

様のものと中華ちまきを分け合って食べる。そのシーンを見ながら

よく焼肉のことを同衾食物というけれど、中華もそうなんじゃないかと

思ってしまいました。それはけして見た目に美しい食べ物ではないの

だけれど、とっても親密な感じがする。『ブエノスアイレス』でもトニー

演じるファイがバイト先の中国レストランで水餃子を作るシーンがあっ

たけれど、それもほんとにおいしそうでした。

私はこれを観た後しばらく中国料理が頭を離れず、つい先日、南青

山の葵飯店に行きました。ここ、壁が赤で、まさに『花様年華』を追憶

しながら食事をするにはいいかも。そしてその次の日はネットで『水

餃子の作り方』と検索して、レシピどおり作ってみたけど、おいしかっ

た! しかし、この映画の中で風邪をひいて寝込んだチャウが食べた

がった『胡麻の飴煮』とはどんな食べ物なんだろう?

知ってる方、どうかコメントください!!

| | コメント (0)

2005年4月 3日 (日)

ブエノスアイレス摂氏零度

Bazerodegree_3   

「いつもこの前を通りかかると、去りがたい気持ちになるの」

映画『ブエノスアイレス』撮影当時、オフィスでセクレタリーとして働い

ていた女性はそう言って懐かしそうに立ち止まる。

『摂氏零度』と名づけられたこのドキュメンタリー・ドラマは、そうして、

当時、スタッフとして映画制作に関わった2人の女性によって、かつ

てのロケ地を案内されるという形で進められる。

実際の撮影風景と、映画にならずにカットされた膨大なフィルムの一

部、リハーサル風景やオフショット、それにトニー・レオン、ウォン・カ

ーウァイ監督のインタヴューをさしはさみながら、このフィルムにおけ

る現在の時間、つまり過去と現在、虚構と実像が交錯する。

これを見ると、『ブエノスアイレス』という映画が完成するまで、いかに

大変だったかがわかる。そして完成した映画の陰で、映画にならな

かった全く別のストーリーが幾つも存在し、影さえ見せることのなかっ

た登場人物の存在に驚かされる。

『ブエノスアイレス』のビデオの巻末インタヴューの中で、たしかトニ

ー・レオンは、「僕とレスリーと監督の3人は、それぞれ7通りくらいの

ストーリーを考えていた。初めて映画が上映されて全てのストーリー

を見たとき、自分が想像したものとあまりに違うので、僕もレスリーも

混乱してしまった。でも後になって落ち着いて監督の視点になって考

えると、完成したものが1番いいと思えるようになった」というようなこ

とを語っていたけれど、まさにそんな感じだ。

このフィルムを見ると、トニー・レオンとからむ役で2人の女性が出て

きて、その役者自体はなかなか魅力的な女性なのだけれど、でも結

果的には女性を全く排除したことで、あの『ブエノスアイレス』の完成

型があるといえる。よりソリッドで濃密な形で。

見ていて複雑な気持ちになるのは、『時間差』の感覚によるものだろ

う。通訳の案内によって映画の中でウィンとファイが住んでいた部屋

が映し出され、そこに映画の映像が重ね合わされるとき、その空間

はまるでかつて実在した人物が暮らしていたかのように、体温や匂

いまでしてきそうなほどにリアルで生々しい。

同時に今は空っぽなその部屋は、どうしようもなく不在を感じさせる。

特にレスリー・チャン亡き今となってはよけいに。

このフィルムの最後の方で、セクレタリーの女性は「撮影が終わった

後どうしようもない喪失感を感じた」と言った。

映画を作るということは、監督や俳優のみならず、制作に関わった全

ての人が、共に映画的なその一瞬を生きるということに他ならないの

だと思う。関わった人の心をいっとき強く拘束し、また侵食するだけの

強いエネルギーが映画には確かにある。

どんな経緯でこのドキュメンタリー・ドラマが作られることになったのか

は知らないけれど、カットされたフィルム、スクリーンに映し出されるこ

となく終わった役者達、そして映画に携わった全ての人達への思い

と映画への愛情によって作られたのではないかと私は思う。

本当は4月1日に書くつもりが、もう3日になってしまいました。

時間というのは本当に瞬く間に過ぎる。

2003年4月1日、午後6時に香港のマンダリンオリエンタルホテル

の24階からレスリー・チャンが飛び降りた時、私は何をしていただろ

う? たぶんその日も私はこの東京のどこかにいたはずだけど。

そして、あなたは?

願わくは来年のそのとき、あなたが映画の永遠の時間(とき)の中に

いますように。

| | コメント (0)

2005年4月 1日 (金)

ブエノスアイレス

Happy_together_2 

ハイティーンだった頃、私にはアイドル系のちょっと甘いマスクをした

ボーイフレンドがいた。

彼はそんなルックスにもかかわらず心身ともに生粋の九州男児で、

これまた生粋の江戸前の(つまり生意気な)私とは根本的に合わな

かったから、私達はよく喧嘩をした。私達をとりまくちょっと年上の友

人達は、私達がいつもお互いを試してばかりで、傷つけあってばかり

いると評していた。そんなやんちゃな彼がある日ひどい風邪をひいて

いつになく弱々しく私に頼りきっていたとき、私はいつも彼がこんな風

だったらいいのに、なんて思ったりしたものだ。

なんで今さらそんな古い話をするかというと、この映画の中のトニー・

レオン演じるファイが、まさにそんな感情を持て余す、やるせない男だ

からです。

レスリー・チャン演じるウィンと、前述ファイは恋人同士。

冒頭、始まってすぐにこの男2人のベッド・シーンが繰り広げられる。

2人は2匹の獣みたいですごくリアルなのに、それをそれほどいやら

しいとも奇異とも思わずに自然に見ていられるのは何故だろう? 

彼らが白人ではなく東洋人であるからなのか、美しいからなのか。

2人のSEXは2匹の野生の獣が咬み合いをしているようで、むしろ清

潔であっさりと淡白にさえ見える。

そしてこのときの女役はレスリーである。

けれど彼ら2人にとって性別と役割とは大して意味がないことらしく、

それはしばしば入れ替わり、また時に超越している。

レスリー演じるウィンは、いわゆる憎みきれないろくでなしである。

真面目に働くということとは無縁な、放蕩的な暮らししかできない男。

さんざん勝手なことをしたあげく、いつもウィンの方から「別れよう」と

切り出し、目の前から消えたと思ったら、またすぐに現れて、いつも

「やり直そう」の一言でファイの心を意のままにしてしまう。そんなウ

ィンにいささかうんざりし、今度こそ別れようと思いながら、愛してい

るがゆえにそれができないファイ。恋愛関係においてよく言われる

ように、より深く愛した方がいつだって負けなのだ。

目の前から消えたと思ったウィンが、喧嘩をしたのか両手を血まみ

れにしてズタズタなって自分の前に現れ、いつもの台詞を吐くと、思

わず抱きしめずにはいられないファイ。そして再び、両手を包帯でぐ

るぐる巻きにして何もできないウィンの面倒をみる生活が始まる。

ひとりで風呂にも入れないウィンの身体をタオルで拭いてやり、まる

で幼児にするように食事を食べさせてやり、女以上に健気に面倒を

みるファイは見ていて涙ぐましいほどだ。

そしてだいぶ回復したウィンはといえば、さっそく退屈しだして気まぐ

れに雨のなか散歩に行こうと言い出す。つきあったファイは風邪をひ

いて39度の熱を出して寝込むが、その枕もとでさえ、「腹が減って死

にそうだ。何か作ってくれ」と子供みたいに懇願するウィン。

さすがのファイも「俺を殺す気か?」と凄むけれど、結局は厨房に行

ってご飯を作ってやるのである。

こんなのを見てると、「アンタはウィンのお母さんか」と言いたくなるけ

れど、そうやってウィンの面倒を見ながら、ファイはそれを面倒と思う

どころか、むしろこの状態(ウィンがどこにも行かずに大人しく自分の

そばにいてくれること)が続くことを強く願うのだ。少なくともウィンの

両手が使えない間は、彼が自分から離れてゆくことはないから。

でも、そう思いながらもファイは不安で仕事中も何度もウィンに電話を

かけずにはいられない。彼が退屈しのぎに外に煙草を買いに行くの

すら心配して、買いに行かなくてもいいように大量の煙草をウィンの

枕元に積み上げたりする。こういうところ、もう可愛いとしか言いよう

がない。そして、もともと人に束縛されることが大嫌いなウィンは、勝

手なことにそんなファイにしだいに苛立ち始め、再び彼のもとから消

えるのである。

この充分に愛されながら、そして本当は自分も相手を愛していながら

いつもその場に留まっていられない哀しい堕天使のようなウィンの役

はレスリー・チャンにしかできないと思う。

男でありながらいつも『小悪魔的』とか『魔性』とか『愛らしい』などと

言われるレスリー・チャンは、ここでもその魅力を存分に発揮してい

る。レスリーならファイの行動も、さもありなんと思えるのだ。

ブエノスアイレスの重苦しいウェットな空気。昼の熱い陽射し。

そしてアストル・ピアソラの音楽。

ピアソラの音楽に合わせてウィンがファイを抱いて踊るシーンは、奇

妙などころか秀逸である。

それは長くあなたの胸に焼き付いて離れないだろう。

この映画を観終わったあと、いちばんに感じたのは、「人を好きになる

って、なんて厄介で手に負えない感情なんだろう」 ってことだ。

それを見事に表現したというだけでも、この映画は成功している。

私にとってはウォン・カーウァイの映画のなかで最も愛しい映画です。

| | コメント (0)

« 2005年3月 | トップページ | 2005年5月 »